両関酒造
Ryouzeki brewery



 
登録有形文化財 (平成8年12月20日登録)
秋田県湯沢市前森4-3-18
建築年代/大正12年(1923)
用途区分/商家(酒醸造業)
登録範囲/本館・1号蔵・2号蔵・3号蔵・4号蔵
公開状況/店舗として営業中
当住宅は県南の大穀倉地帯として知られる横手盆地の南端に位置する旧湯沢町に有り、町を南北に縦貫する旧羽州街道に西面して建つ明治7年(1874)創業の酒造屋敷である。 横手盆地は南北60km、東西15kmの縦長の地形で、面積は694平方キロにも及ぶ日本一の盆地である。丁度、滋賀県の琵琶湖が南北63km、東西22km、面積670平方キロなので、ほぼ同じような規模感となる。四方を山に囲まれた地形から、嘗ては満々と水を湛えた「鳥の海」と称する湖であったとの伝説が残されているが、盆地周縁部の彼方此方から渾々と清水が湧き出し、更に県を代表する一級河川・雄物川やその支流群が網の目の様に盆地を縦横に覆い尽くす様子から、あながち伝説が絵空事とは思えぬ程に水資源に恵まれた土地柄である。また、現在では銘柄米「あきたこまち」の一大産地として全国的な知名度を誇ることからも窺えるように、盆地内では藩政初期から新田開発が連綿と続けられ、表高20万石に対して実高34万石と喧伝された久保田藩の台所を大いに支えた大米作地帯であることも知られるところであろう。故に良質な水と米に恵まれた土地柄となれば、当然の成り行きとして酒造が盛んになることは必然の理であり、旧湯沢町は「東北の灘」と称される程に酒造業が盛んな地域へと発展を遂げることになるのである。ただ意外なことに、当家創業の明治初期における秋田酒全般に対する世間の評価は決して高いものではなかったようである。当家の会社案内にも「酒造技術は幼稚で品質的には当時の一流と呼ばれる、灘、伏見の酒には遠く及びませんでした」と記す程の惨状にあったようである。こうした状況に真っ向から挑んだのが、両関酒造の創業者である当家7代・伊藤仁右衛門と、それに続く歴代の仁右衛門達であった。
そもそも当家は江戸初期の寛文年間(1661-1673)に加賀国より来住し、「加賀仁」の屋号で当初は油屋を営み、後には味噌醤油の醸造をも手掛けたという。佐竹南家の御用商人となり、地主化して庄屋を務めたこともあるらしいが、詳しくは判らない。当家が移住する少し以前の湯沢は、中世から続いた在地豪族の小野寺氏の支配に代わって、慶長7年(1602)に常陸国大宮から国替えを命じられた佐竹本家に先行する形で佐竹南家3代・義種公が湯沢城に入城、高8900石の湯沢領主として当地の支配が始まった時代である。その後の元和6年(1620)には徳川幕府から発せられた元和一国一城令により湯沢城は破却、以後は「所預」として湯沢館を構え、佐竹本家の直臣と共に現在に至る町場が整えられることとなるのである。ところで近年の研究では、佐竹氏が入部した頃の久保田藩領には未開墾地が広く取り残されていたようで、百姓や商人、職人に至るまでのあらゆる階層において、何かを夢見た他国からの移住者が意外な程に多かったことが判明している。特に旧湯沢町の南西20kmの位置には、石見や生野といった幕府直轄鉱山に匹敵する産出量を誇った院内銀山が佐竹氏の手により開坑したこともあり、伊勢、備前、加賀、出雲など全国各地から浪人達が数千人の単位で相当数流入していたことが記録されている。ちょうど関ケ原合戦後に取り潰された西軍方の大名家から多くの浪人達が溢れ出た時代である。ただ、佐竹氏の入部直後の慶長12年(1610)に採掘が始まったとされる院内銀山の最盛期は意外な程に短く、年号が慶長から元和に移る頃には既にピークを過ぎていたようである。以後、銀山の衰退に伴って時計の針を巻き戻すかのように徐々に人口の流出が進んでいくことになる。ちなみに「近世鉱山社会史の研究」の記述によれば慶長15年(1613)の頃に約8000人を数えた銀山町の人口は、享保2年(1717)には僅か294人にまで減じている。このような時代背景にあっては、様々な可能性が考えられるだろうが、当家が加賀国を出て、何故に湯沢の地を選んだのか、その訳を想像したとき、あくまで推測の話ではあるが、院内銀山から人口流出が続く時期に、銀山からそう遠くない湯沢の地で、坑道の灯火用に必要不可欠な油の商いを直ちに始めることができたという事実を積み重ねたとき、ひょっとして当家には湯沢定住以前に流浪の時代があったとは考えられないだろうか。家の歴史に「節目」というものがあるとすれば、当家にとっては、まさにこの時代がその時であり、後世において当家が被る幾多の試練を乗り越え、躍進を続けた強靭な精神力と旺盛な生命力の源泉は、この時代に培われたものではないだろうか。
さて先述のとおり、当家の酒造業への進出は明治7年(1874)のことである。当初は「千歳川」、「庭の井」という銘柄を使用していたらしいが、8代・仁右衛門の頃に「東西の大関を兼ねるように」との想いを込めて「両関」を主力銘柄として採用している。ちなみに社名を以前の合名会社伊藤仁右衛門商店から両関酒造株式会社と改めたのは昭和61年のことで、ごく最近の話である。しかし当家の酒造の歴史は決して順風満帆な時代ばかりでは無かったようである。創業以来、県内における地歩を着実に固めつつあった中で、明治38年に奥羽本線の鉄道路線が開通すると、状況は一変することになる。兵庫の灘酒を擁する大資本が県内にも流入することとなり、品質的に劣る秋田県内の中小醸造元は市場から駆逐される恐れを抱かざるを得ない状況になったのである。この窮状を打開すべく、当家では東京に開設されたばかりの醸造試験場で研鑽を積み、雪国の寒冷な気候を逆手に取り、独自の「低温長期醸造法」や麹室の「伊藤式天窓」の開発に成功、その結果として大正2年の第四回全国酒類品評会で優等賞を獲得するまでに至るのである。地方の美味なる地酒が市場に溢れる今の世においては意外なことであるが、当時においては後進地方の酒蔵の受賞は驚きを持って迎えられたようである。こうして「両関」は、奥羽本線の鉄道交通をも逆手に取り、秋田県を代表する銘酒として全国展開を図るとともに、広く「低温長期醸造法」を公開して秋田県酒造業界の盟主たる地位を築くことになっていくのである。
ところで本題の住宅のことである。 現在の建物は大正10年(1921)の8代・仁右衛門の時に茅葺の前身建物を改築したもので、平成8年10月に国による文化財登録制度が発足したとき、第1回登録の対象となったことから、その存在は全国的に広く知られるようになった。しかし、それまでは秋田を代表する酒造蔵であるため県人には夙に知られた存在であったに違いないが、県外者にとっては、少なくとも私の様な民家好きにとってさえも初めて知る存在であった。恐らく大正期の建築で比較的歴史が浅く、当時としては古民家の範疇に属さなかったため、数多の民家本にも取り上げられた例が殆ど無かったからではないかと勝手に想像している。しかし、その報道記事中に掲載された当住宅の写真を最初に見た時は、恐らく誰しもが同じ思いを抱くのではないかと推察するが、衝撃的な美しさに暫しの間、呆けの如く見惚れてしまった程である。総二階建の大規模で豪壮な建前に加え、正面妻壁の化粧小屋梁が幾重にも重ねられる外観は掛値無く美しい。まさに記念すべき第一回の文化財登録に相応しい建築である。また当住宅は昭和46年に実施された秋田県民家緊急調査で、伊藤仁右衛門氏宅として第三次調査の対象となっており、昭和48年刊の調査報告書に詳細が記述されている。それによると江戸時代から続く町家の建築様式が大正期まで続き、一層の開花と意匠の充実を見せたことを示す好例と評価されている。建物は妻入二階建の主体部と、その左側面に前方と後方の各々に二階建の角屋を張り出し、坪庭を囲むようにコの字形の平面となる。主屋の右側を下手とし、大戸口を入ると裏手の一号蔵前まで一直線に通り土間が続く。その土間に沿って上手にはミセや売り場、帳場などの事務所機能が配置され、その上手に家族の生活の場が整形に配置される。主屋左側面に附属する角屋部分1階に玄関を開き、来客は玄関脇の階段から2階の座敷へと進むが、そこには接客用となる大小の続座敷が3組も配置されている。鉄道の開通により遠国からやってくるようになった大勢の来客を接遇するための空間を、まるで旅館建築の様に備えている。きっと「出羽にうまい酒がある」と期待に胸を膨らませてやってきた買い付け業者達にとって当住宅の存在は心安いものであったに違いない。私はこの類稀なる美しさを誇る住宅が銘酒「両関」の全国展開に果たした役割も少なからずあったのではないかと考えている。


【参考文献】秋田県教育委員会刊「秋田県の民家 秋田県民家緊急調査報告書」/吉川弘文館「街道の日本史16 雄物川と羽州街道」/荻慎一郎著「近世鉱山社会史の研究」

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