大山家住宅 Ooyama |
国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定) 秋田県山本郡三種町鵜川飯塚62 建築年代/江戸時代(19世紀中頃) 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 秋田という土地は、物成りの豊かなところである。江戸の昔からそうであった。米も豊富で、瓜や西瓜などの畑作物も味良いものができたという。更には院内銀山や阿仁銅山に代表されるように藩内各所に鉱山があり、金・銀・銅の産出量も国内屈指を誇ったことから、久保田藩には相当な収入がもたらされたはずである。時々に冷夏が発生し、飢饉となることも無いではなかったが、基本的に豊かな土地柄であった。なのに、百姓は貧しかった。昭和期の民俗学者・宮本常一は、自らの著書で東北の温泉場には遊女が必ず居り、彼女たちは農家から売られてきたのだと書いている。現代に生きる我々は、こうした事は全国的に普遍に有ったように考えているが、実は上方の温泉場はあくまで湯治場であり、遊女は遊郭にいるもので自ら職業として選択した結果であったと述べている。つまり上方では親が子を売るなどということは殆ど有り得ない話であった。一方、東北の寒村というイメージは後世に作られたものであり、実際は十分に物成りは豊かであったにも関わらず、不思議なことに東北の農家は子供を売らねばならない程に貧しかったのである。 幕末の旅人に古川古松軒という人がいる。備中(岡山県)の生れで薬屋をしていたが江戸に出て地理学を学び、郷里に帰ったところで岡田藩に仕え、苗字帯刀を許されたという来歴の持ち主である。彼が恩師の推挙により幕府巡見使に従い、東北地方を歩いた際に、見聞したことを日記「東遊雑記」に書き留めている。その中で久保田藩領の山本郡豊岡周辺の様子として以下のとおり記述している。ちなみに豊岡は、当住宅が所在する旧鵜川村飯塚集落から東へ4km程にある街道沿いの集落で、古松軒が当地を訪れたのは天明8年(1787)の頃のことである。 「豊岡の南は、一面の原野が限りなく続く。所々に見掛ける百姓の家は乞食小屋同然である。詳しく聞くと、人が死んでも墓を建てず、野に葬って土を掻き寄せておくだけだという。富裕な家にも竈は無く、イキ井と称する囲炉裏を囲んで、それに自在を釣って煮焚きしている。」(筆者が現代読みに改変) 古松軒は備中の出身なので、あくまで民家先進地であった西国人の感覚で日記に綴っているのだが、それにしても遠慮のない酷い書き振りである。ただ、同時代人が書き残した他の紀行文にも同様の内容が窺えることから、あながち偏見に満ちたものではなさそうである。こうした往時の秋田の世相を念頭においたうえ、当住宅を目の当たりにしたとき、恐らく大きな違和感を感じるに違いない。当住宅の建築は19世紀中頃と推測されており約50年の年代差があるものの、それを差し引いたとしても当住宅は古松軒の記述が誤りであるかと思う程に、嘘のように立派な建前なのである。 大山家は藩政期に村役を務めた家柄と伝えるが、歴史・由緒については不明な点が多い。口伝では源氏の侍大将の家柄であったものが土着したともされる。屋敷は昭和初期の大干拓事業地として有名な八郎潟の北方、5km程内陸に入った位置にあり、周囲は低い丘陵地の間に水田が拡がる純農村地帯である。四周を防風林で囲んだ屋敷地のやや後方に片中門造の主屋を配している。主屋の西南の方角には嘗て土蔵が建っていたが、近年取り壊されたようである。主屋の主体部は桁行12間、梁間5間半の大規模なもので、下手に桁行4間、梁間4間の厩中門を前方に角屋として突き出す。形状的には岩手県の遠野地方で見掛ける曲り屋と同じであるが、入口と厩の位置により、いわゆる「南部の曲り屋」とは区別されるべきものである。外観的な特徴として、屋根は萱葺で中門部も含めて寄棟を基調とするが、主屋東側のみ入母屋とする。恐らくこれは屋敷地への出入口が東側にあるため、当家を訪れる者たちへの視覚効果を考えてのことに違いない。また屋根の棟には野芝を植えて芝棟としているが、県内の主流は箱棟、あるいは鞍木置棟で、県北の鹿角郡など旧南部藩領で用いられる手法が久保田藩領に属する山本郡で何故に見られるのかは不思議とされている。また軒下を船枻造として軒の位置を高く取っているため軽快な印象となっているが、これは雪深い土地柄ゆえの配慮であろうと思われる。この船枻造について当家のパンフレットの記述では「上層農家にのみ藩から許された形式」と解説しており、富の象徴であったようである。実際、周辺の集落において、この船枻造が確認されるのは当住宅のみとのことである。ちなみに、こうした家作制限が久保田藩によって出されていたかどうか調べた限りでは定かでないが、建築材料や屋根材に関しては領内の資源保護の観点から制限が出されていたようであったから、船枻造も同様のことであったのかもしれない。 一方、内部に関しては、まず厩中門に5房もの馬屋が並んでいることには驚かされるが、意外に秋田県下における上層農家では決して珍しいものではなかったようである。青森南部や岩手北部を領した南部藩領のように馬産地として著名ではないので専ら耕作用として飼っていたのかもしれないが、そうすると余程の耕作地を保有していた証のようなものかもしれない。また座敷廻りにおいても奥の間、中の間、小座敷の3室が連続し、各部屋の上手には1間幅の縁側が廻っている。これらの座敷のうち奥の間には床と違棚が設えられており、中の間、小座敷を含めて指物には長押が廻り、棹縁天井が張られている。上方の民家の座敷構えと比較しても何ら劣るところのない造作である。そして何よりも小屋組に関しては二重小屋梁の上部に束と貫を組んで扠首台を高い位置に持ち上げ、そこに短い扠首を架ける手法を採っており、先進的であるばかりでなく冬の積雪の重みにも耐え得る堅固な造作となっている。 以上の様に、とにかく当住宅の造作は非常に立派なもので、古松軒の記述から僅か50年程度の内にすっかり状況は様変わりした感がある。床を張らずに土間に籾殻を撒き、莚を敷いただけの土座住まいが当たり前という記述さえ見られる久保田藩領の百姓家において、この急激な変化は何故のものだったのであろうか。それとも、単に当住宅が稀なる存在だっただけのことなのであろうか。結局、この辺りの事は当家の詳しい歴史が判らない限りは評価が難しいと云わざるを得ない。文化財に指定される住宅は建築的な重要性も然ることながら、家の歴史も重要な意味を持つ。単に百姓家と一括りにするのは至極、乱暴なことなのである。 ところで冒頭の命題に戻りたい。前出の民俗学者・宮本常一は、東北の物成りの豊かさと百姓の貧しさの乖離について、「百姓の貧しいのは、(中略)やはり藩の吸収が大きかった」「一般民衆と支配者との間に、生活のかなりの開きがあったとみられる」と述べている。久保田藩の百姓からの収奪はかなり一方的なものであったようだ。藩主・佐竹候は清和源氏に連なる古代から続く名族なので、いろいろと冗費が嵩んだのかもしれない。また常陸国大宮から転封された余所者であった故に、従来からの在地勢力に対して遠慮がなかったのかもしれない。上方においては考えられないことであったが、「庄屋・肝煎階級の者であっても文盲だった割合が10人に2、3人程度はいた」と古松軒は書き残している。領民を無知に追いやり、それに付け込み重税を課す。そしてそれを冷徹に実行する。藩政期における秋田には、どうもそのような治世がまかり通っていたような気がしてならない。そんな状況の中、当住宅の存在は周囲の人々からどのような目で見られていたのだろうか。憧憬の念か、あるいは怨嗟の声か。当家の由緒が不詳であることと関係してはいないのだろうか。(2022.9.13記述) 【参考文献】重要文化財大山家住宅修理委員会発行「重要文化財 大山家住宅修理工事報告書」/秋田県教育委員会「秋田県の民家」/未来社刊 宮本常一著「旅人たちの歴史3 古川古松軒」/ |