奈良家住宅
Nara



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国指定重要文化財 (昭和40年5月29日指定)
登録有形文化財 (平成18年3月2日登録)
秋田県秋田市金足小泉上前8
建築年代/江戸時代(宝暦年間1751-64)
用途区分/農家(幕末には在郷士分に取立)
指定範囲(国指定)/主屋
登録範囲(国登録)/味噌蔵・座敷蔵・南米蔵・北米蔵・文庫蔵・和風住宅・明治天皇北野小休所
公開状況/公開
東北地方で最も早く昭和40年(1965)に国から重要文化財の指定を受けた当住宅は、多くの民家関係の書物にも取り上げられ、近世の住宅としては秋田県のみならず日本を代表する建築として、民家世界において確固たる立ち位置を占める存在である。当住宅は秋田市の北郊の旧秋田郡金足村小泉に所在する農家建築で、主屋は奥羽地方における大型民家の典型となる両中門造の形態を採り、桁行12間、梁間7間の母屋両脇から上手中門、下手中門を前方に突き出す大規模な建前。豪雪地帯における雪害対策の故であろうか、一般農家と比較して異様なまでに立ちが高く、厚葺された茅屋根は重厚感に満ち溢れ、「巨大民家」と呼ぶに相応しい風情を醸している。
旧金足村小泉は日本海から3Kmばかり内陸に位置し、江戸前期に当家が草分けとなって拓いた純農村集落である。集落の西方には海からの猛烈な季節風により形成された砂丘が拡がっており、防風林の役割を兼ねた屋敷を取り囲む松林を隔てて、屋敷背後には男潟と女潟から成る小泉潟という湖沼がある。僅か20戸程の民家が集まる集落一帯は砂丘の東端に位置し、地面の白砂が、その上に建つ建築群にそこはかとない品位をもたらしている。そういえば、随分以前に大阪府羽曳野市の吉村家住宅を訪れた際に、御当主から「代官などの賓客が来駕される際は、前庭に白砂を撒いた」という話を聞いたことがある。恐らく白砂には清めの意味合いがあるのだろう。だとすれば砂丘はまさに天然自然の、これ以上にない清浄な土地ということになるが、果たして当家が屋敷地を選定するにあたって、そのようなことを意図したか否かは判らない。ただ春先まで積雪が残る土地柄では砂地の水捌けの良さは大いに実用的であったことは間違いない。また砂地に家を建てるという行為は不安定な地盤を想起し忌避すべきと考えがちであるが、実は砂の流出を抑えるように枠囲いしてきちんと土留めさえしてやれば、意外に強固な地盤となるのである。当住宅の場合も基礎土台を切石積の石垣でしっかりと枠囲いしている。建築後250年以上も経過する当住宅が、未だ本格的な解体修理が必要がない程に堅固な状態を保っているのは、その証左と云えるのではないだろうか。民家本のバイブル的な存在である相模書房刊の「民家巡礼」の中に1935年5月にドイツの建築家・ブルーノタウトが当家を訪れた際に記した紀行文が紹介されている。「徒歩で金足村小泉に向う。見事な松並木のある大きな街道を過ぎると、やがて砂と松とが現れた。」今も昔も変わらない小泉集落の風景である。
ところで家伝によれば、、当家の歴史は中世末の弘治年間(1555-1558)に大和国生駒山麓の法隆寺の東方に位置する旧添下郡小泉村から秋田市北方の旧昭和町豊川字上虻川に移り住んだことに始まる、という。上虻川は現在、当住宅が所在する金足村小泉から直線で北東方向に6km程の位置にあり、昭和期の大干拓事業により埋め立てられる以前においては国内第2位の湖沼面積規模を誇った八郎潟の東に位置する谷間の農村集落である。金足村小泉と同様、この上虻川にも小泉という字名が残っているので、恐らく当家が草分けとして開拓した土地には出身地である小泉の地名をそのまま付けて回ったものと思われる。ちなみに当家の苗字についても出身地である古都・奈良から拝借したとのことで、「故郷は遠くにありて想うもの」とは、上手く云ったものである。しかしながらこの上虻川という場所は低湿地の耕作には余り適していない土地柄であったらしく、当家はその後の慶長年間(1596-1615)には現在の金足村小泉に再移住したとされてきた。ただ近年の研究では、慶長から慶安年間(1596-1652)の段階では、本家は上虻川に拠点を置きつつ、分家を先行して金足村に移住させ、耕作地としての適否を探ったのではないかと推察されている。そして上虻川への移住から約100年以上の時を経た寛文年間(1661-1673)に至り、ようやく本家6代目・喜兵衛は金足村に拠点を移している。ちなみに当時の検地帳の記録によれば、この段階で当家は僅か2町歩程の名請高を有する中規模農家に過ぎず、後に久保田藩屈指の豪農として名を馳せることになるなど夢々想う様な状況にはなかったようである。けれども再移住は、その経緯からして恐らく相応の目算が立ったが故の事だったに違いない。端的に云うと新田開発である。実際、金足村移住後における当家の所有地増加の勢いは凄まじく、8代目・喜兵衛の時には43町歩、9代目・喜兵衛善政に至っては100町歩の大地主へと成長を遂げている。8・9代目が活躍した江戸中期という時代性を考えたとき、これほどまでの短期間に所有地を増やす術は新田開発以外には在り得ないことで、恐らく屋敷の眼前に拡がる広大な田地は、当住宅の裏手に控える小泉潟がもたらす豊富な水資源を独占的に利用する形で、開発が進められたのではないかと思われる。
さて本題の住宅の事である。秋田は云わずと知れた豪雪地域であるが、当住宅の主屋もそれに負けず劣らず重い風情を醸している。冒頭で勝手ながらに「巨大民家」と呼称したが、延床面積128.5坪という規模も然ることながら内部の造作についても非常に洗練された趣のある建前で、一般の農家間の相互扶助による手伝普請とは明らかに異なり、堂宮大工の関与がなければ到底建築不可能なレベルのものである。実際、100町歩地主にまで成長した9代目・喜兵衛善政が宝暦年間(1751-1764)に3年の歳月と銀70貫を費やし、久保田藩の外港であった土崎湊の大工・間杉五郎八の手により建てられたことが判明している。この間杉五郎八は「名だたる人にして秋田無二の名工」と謳われた人物で、当屋敷裏手の小泉潟に藩侯が鴨猟に訪れた際には当家に必ず休みに寄ったとの逸話が残されており、藩侯の命により奈良家の寄附で久保田城下・天王町に所在する北野天満宮の社殿造営にも関わっている。藩侯と間杉五郎八、奈良喜兵衛の三者を結ぶ関係性は詳しくは判らないが、いずれにせよ藩侯からの特別な許可の得て名工の手により当住宅は建てられたと解しても決して不自然ではないだろう。
現在、参観者の入口にもなっている正面に向って右側にある下手中門から内部に足を踏み入れると、通り土間の右手に3間四方の馬屋が配置されている。中門造という出羽地方特有の民家様式において下手中門が厩中門とも別称されるのは、それ故である。更に歩を進めると、正面には広大な土間が拡がっている。土間右手には竈とは別に長大な囲炉裏が配置されている。暖を取るために設えられる囲炉裏が床上部だけではなく、土間にも配置されているのは、床上に上ることが許されない大勢の雇い人の存在があったからのことであろう。また土間の中央部に胴回り1.5mの八角形の独立柱が立つ点については当住宅における最大の特徴であり、多くの民家本でも取り上げられている話題である。嘗ては他に類を見ない八角柱が醸す古式な風情と陸奥(みちのく)という地方性が相俟って、大黒柱という存在の原初的な形態を今に伝えるものだという情緒的な記述もあったが、現在では時代性とは関係なく、専ら意匠的なものという見解に落ち着きつつある。ただ、やはりこの囲炉裏の煙に燻され黒光りする八角柱に間近で接すると、何らの物語性を求めたくなるのも無理ないことのように今でも思う。そして土間の右手奥に設えられる唐臼場の存在も珍しい。土間隅に唐臼を置く例は枚挙に暇無いが、床を張って正式な場として設える例は余り無いのではなかろうか。余程の高持で、大勢の雇い人のために恒常的に精米が必要であったことが、こうした造作からも良く判る。一方、床上部については、前座敷三間取の側面に座敷二室を奥行き方向に並べたうえ、更に前方に上手中門を付加した間取りとなっている。この形式は南秋田郡、河辺郡にかけての主流形式であるらしい。座敷部は上座敷と中座敷の2室から成り、表庭に面する北・西面に土縁を廻らせている。土縁は雪国特有の造作ではあるが、当住宅においては土縁の天井を化粧軒裏としており、座敷部の長押・欄間、棹縁天井と共に全体に書院造を基調としている。ただ上座敷には面皮付きの長押を用いて数寄屋風の要素も絡ませ、非常に品の良い、落ち着いた風情の演出に成功している。村大工の手による見様見真似ではなく、堂宮大工による藩侯の御成を意識した造作であることが伝わってくる。当住宅が最上層農家の住居であったという点は考慮しなければならないが、宝暦年間という建築年代を加味した時、東北地方の民家が、これほどまでに発達していたことに正直驚かされる。家伝記において「神社仏閣は格別、俗家の家には六郡にも余計はこれ有るまじく沙汰致候云々」と誇るのも尤もなことと頷ける建築である。
最後に当家の近代のことについても少し触れておきたい。当家は江戸中期以降の度重なる藩への献金が評価されたのであろう、藩政期を通じて意外にも主な村役には就いてこなかったにも関わらず、江戸後期の天保年間(1830-1844)には士分に列し、異国船からの領内沿岸警備のため海防衛士に任ぜられるなどしている。(秋田藩ではこうした献金による士族階級を「新家」と称し、日本海沿岸に築いた台場の警備役を命じた)また、明治期に入ると土地集積の度合いは一層増し、明治30年代の第14代・茂の頃には400町歩を超える大地主となり、次の第15代・磐松の頃には直接国税8500余円を納めて仙北郡の池田家に次ぐ県内第2位の多額納税者に名を連ねている。また磐松は秋田県町村会会長、秋田信託株式会社社長、秋田銀行頭取などの要職に就く傍ら、美術収集家としても知られ、江戸期の書画だけでなく佐竹曙山、小田野直武といった秋田蘭画の蒐集にも携わり、郷土文化の発展に尽力したことでも有名である。昭和36年に彼が81歳の生涯を閉じた後は、その遺志により蒐集されたコレクションは秋田市美術館に寄贈されるとともに、その住まいは40年に国重文に指定された後、45年には秋田県立博物館分館として公開されることとなった。旧家としての歴史と共に、県内屈指の財力に裏付けられて文化の道をも極めたにも関わらず、戦後の農地解放を経て、大きく価値観が揺らいだ時代に、私はこの一事を以て彼が最後に至った境地は、屋敷を取巻く青松白砂のように清浄な心持であったような気がしてならない。(2022.8.21記述)

【参考文献】朝日新聞社刊「街道をゆく 秋田県散歩・飛騨紀行」司馬遼太郎著/毎日新聞社刊「新指定重要文化財12 建造物Ⅱ」/秋田県教育委員会「秋田県の民家  秋田県文化財調査報告書第27集」/民俗建築学会「民俗建築第25・26合併号所収 秋田の奈良家の建物」石原憲治著/INAX出版「INAX ALBUM38 北の住まい」/伊藤ていじ著「民家は生きてきた」/秋田県教育委委員会刊「重要文化財奈良家住宅修理工事報告書」/未来社刊 宮本常一著作集33「村の旧家と村落組織Ⅱ」

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