草彅家住宅
Kusanagi



 
国指定重要文化財 (昭和50年6月23日指定)
秋田県仙北市田沢湖町生保内下堂田18
建築年代江戸時代(19世紀中頃)
用途区分/農家
指定範囲/主屋・土間
公開状況/非公開


湖沼としては日本一の水深423mを記録する田沢湖は秋田県を代表する観光地である。旅を誘うガイドブックにも群青色の水面が美しい田沢湖畔の石上に佇む金色の辰子姫像の写真は必ずと云う程に掲載されており、どちらに魅了されたかは知らぬれど旅心を刺激された方も多いはずである。現在、鉄路で田沢湖を訪れるには、その玄関口は秋田新幹線開通後はそのものズバリの「田沢湖駅」となるが、嘗て在来線のみが通じていた頃には田沢湖線の「生保内駅」と称する駅であった。当住宅はこの生保内駅から生保内川を渡って南へ3kmばかりの河岸段丘上に所在する農家建築である。生保内は田沢湖の外輪山と秋田駒ヶ岳の山裾に挟まれた地形で、玉川によって削られた谷間地は意外な程に緩やかな傾斜地で水田も広く拓けた場所であるが、何故か殺伐とした空気が感じられる。


生保内は、奥羽山脈の国見峠を越えて南部藩領(盛岡藩領)へと繋がる街道筋の宿場町で、口番所が置かれた。

当住宅は平成5年10月から27ヶ月もの期間を要して保存修理工事が実施されているが、その報告書中には当家の屋号は「甚九郎」を名乗り、同姓の「甚内」家と両本家であったと記述されているが、昭和46年度に実施された秋田県緊急調査の段階では村役については伝承が無く、分家の家筋と報告されている。ただ田10町歩を保有していたといわれ、それが藩政期のことだとすれば、豪農と称しても差し支えない経営規模の上層農家であったということになる。前九年の役において源頼義、義家親子を道案内して国見峠を開き奇襲に成功、勝利に導いた功により具足・長刀を拝領のうえ、草彅の姓を賜ったと伝えられる。ということは前九年の役は平安時代後期の武家が台頭してくる時期には当地に住していたことになるが、真偽の程は判らない。ともかく、現地を訪れて感じるのは、当住宅の屋敷地は緩やかな舌状の傾斜地の南端にあり、周囲の嵩上げにより道路よりも当住宅の敷地が低くなり、昭和期に入って玉川の氾濫により水害に悩まされることもあったという。


そもそも田沢村は年貢米に代えて御薪木を納めることになっており、米は換金作物として扱われたのかもしれない。事実、藩政期末に財政難に悩まされた久保田藩は、角館以北の北浦地区に対して余剰米を市場よりも格安な価格で供出させようとしたぐらいであるから、意外に豊かな生活を送っていたのかもしれない。つまり田10町歩の所有は、税として収公されなければ、久保田藩は7公3民が原則であったから約30町歩の土地を所有していたことと同じことになる。
また稲作に代わる産業として鉄山の経営のほか馬産の改良が行われ、東北でも有数の良馬を産する地となっていった。当家でも戦後までは馬の生産に従事していたとのことである。

 

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