國萬歳酒造
Kunibanzai brewery



 
登録有形文化財 (平成17年11月10日登録)
秋田県秋田市新屋元町23-9
建築年代/大正4年(1915)
用途区分/酒造業
登録範囲/主屋・洋館・室・?場・作業場・北仕込蔵・南仕込蔵
公開状況/店舗として営業中
当住宅は秋田市の南郊、雄物川左岸の河口近くに形成された新屋町に所在する酒造屋敷である。新屋町はそもそも羽州浜街道(酒田街道)の旧宿場町で、雄物川を渡って久保田城下に入るための船着場が繁栄の礎としてあり、藩政期には船頭が多く住まいし、川岸には船見番所も置かれたという土地柄である。一方、河川交通の要衝として藩内各所から酒米の入手が容易であったこと、また集落の西側には日本海を隔てるように広大な砂丘が拡がっており、この「新屋砂丘」に降った雨水が濾過され、湧水となって現れるため、この清水を利用して古くから酒造が栄えたとのことである。宝暦年間には、既に6軒の酒造株が秋田藩より認可されていたとのことで、明治期の最盛期には12軒もの酒造家が存在していた程であったという。
しかし実際に現在の新屋町を訪れたとしても、嘗ての酒造屋敷が林立したであろう風情は微塵も感じることはできない。昭和の終わり頃までには新屋町内における酒造家は既に5軒に減じており、令和の世に至っては当家のみが酒造を続けているという有り様である。日本酒受難の時代とはよくぞ言い得たものである。秋田県は地酒の盛んな土地柄と何気に思い込んでいたが、この減り様は尋常ではない。そうした中で命脈を保ち続ける当家の経営努力には頭の下がる思いであるが、その酒造家としての歴史を紐解くと、変わりゆく時代の変化に漫然と時を過ごしてきた訳ではない事が判る。
当家は明治41年(1908)に初代・川口新助が本家の生業であった網元として蓄えた資産を投じて屋号「丸丁三」を称して酒造を分家創業したことに始まるらしい。当初は「萬歳」銘柄であったが、日露戦争の勝利を祝して「國萬歳」と改めたとのことである。昭和44年(1969)には同じ新屋地区の酒造家として「宝生」銘柄で醸造していた高橋家(黄金井酒造・明治43年創業)と、同じく「英雄」を醸していた森川家(明治11年創業)の三家の合同により瓶詰・販売会社として秋田酒造(株)を設立、共同銘柄として「秋田晴」を売り出し、生産規模の拡大を図ることで生き残りの道を探ったようである。しかしその後、森川家が再独立するとともに、高橋家は廃業したため、平成24年(2012)に秋田酒造と國萬歳酒造が合併し、秋田酒造(株)として再出発することになった。現在は「秋田晴」と「酔楽天」の銘柄で品評会で幾度も受賞するなどしている。さて肝心の住宅についてであるが、通りに東面して建つ主屋は屋敷の最奥部に建つ洋館と同じ大正4年(1915)の建築で、寄棟造2階建、間口3間半の小振りな建前である。屋敷面積が広大であるが故に酒造屋敷と知れるが、主屋の建前だけを見た限りでは小商売人の住宅と勘違いしてもおかしくない程の簡素な表構えである。建物の間口に応じて税を賦課されていた時代の建築ならばいざ知らず、そうした縛りも無い大正年間において何故なのか不思議である。ただ当住宅に限らず、県内の酒造屋敷には総じて通りに面する主屋を仰々しい建前にしない傾向が見て取れる。これが秋田県人ならではの奥床しさなのかと勝手に思っているが、しかし一方で主屋背後に連なる仕込蔵は創業年である明治41年(1908)に建てられた重厚感に充ちた白漆喰の土蔵造である。県内の民家では、総じて「蔵座敷」と称する建物に最も贅を尽くす傾向があることからも推察されるとおり、主屋よりも土蔵の建前を誇る傾向があるように見受けられる。当住宅においてもこうした独特の気質が屋敷全体に反映されている様である。
ところで県外者の私にとっては、新屋の町並を歩いていてどうも腑に落ちないことがあった。旧市街の町場に河湊として発展した痕跡が全く感じられない点である。往時の町家は旧羽州浜街道沿いに軒を連ねるだけで、湊町特有の面的な拡がりが感じられる町場が見当たらないのである。雄物川は秋田県を縦貫して流れ、県南の大穀倉地帯である横手盆地と日本海を結ぶ物流の大動脈として古くから重きを成した存在であったはずである。久保田城下の外港として立地条件的に申し分のない新屋地区において何故に湊町として発展した痕跡が窺えないのか、県外者にとっては素朴な疑問であった。しかし県内の方には当たり前の話であったのかもしれない。帰宅していろいろ調べていくうちに事は判明した。藩政期における久保田城下の外港は秋田市北郊の土崎にあったのである。現在の雄物川は秋田市南郊の新屋で日本海と接続する河口が開かれているが、嘗ての雄物川は新屋の先まで北上し、秋田市北郊の土崎から日本海へと流れ込んでいたのである。これは昭和13年(1938)に久保田城下を水害から守り、土崎湊への土砂流入を防ぐため、流路の付け替え工事が行われたことによるもので、土崎湊を守るために新屋の町は新雄物川の開削によって南北に分断されたのである。そういえば、某HPには新屋は土崎をライバル視していると書かれている。ひょっとしてこの大規模な流路変更工事が、新屋町から嘗ての湊町としての機能を消し去り、町場としての発展も損なわれる結果を招いたのだとすれば、新屋地区における酒造家の尋常でない衰退振りも合点がいく。もし私の見立てどおりだとすれば、秋田市民はその償いとして「酔楽天」の酒をもっと愛飲しなければならない、と思う。(2022.7.13記述)

 

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