大和民俗公園
奈良県大和郡山市矢田町545番地
旧臼井家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和49年5月21日指定) 旧所在地・奈良県高市郡高取町上土佐 (昭和51年移築) 奈良盆地の南端に位置する旧高取藩25000石の城下町から移築された当住宅は、主に油・酒・醤油の販売を営み、「伊勢屋」と号した町家である。屋敷地は旧高取城の大手筋に面する一等地にあり、藩の公用伝馬役や大年寄役をも務めた伝えられることから相当な名家であったことが推察される。 当住宅の建築年代は、当家が居を構えた元禄年間(17世紀末)とする見方や構造手法から18世紀前期とする考えもあるが、いずれにせよ、木割が細く、納戸の出入口が帳台構となっている点や間仕切り溝が突き止め形式となっていることなどに古式が偲ばれる造作である。 町家ながら奥座敷表側の格子構え以外においては、全く農家風の造りであることなども特徴として挙げられ、半農半商的な遺風を残した発展途上の町家であると云えるだろう。 |
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旧岩本家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和54年5月21日指定) 旧所在地・奈良県宇陀郡室生村黒岩 (昭和54年移築) 室生村は奈良県東部の山深い寒村ながら平安時代初期建立の国宝にも指定される五重塔を持つ室生寺があることで全国的にその名が知られる。当家の所在していた黒岩集落は、室生寺から更に奥まった場所にあり、当家は農業と林業を営む傍ら藩政期には庄屋職を務めたとのことである。 宇陀地方の民家の特徴として茅葺の屋根は庇を設けず葺き下ろされているため、大屋根がどっしりと落ち着いた風情を醸している。更に当家の場合は桁行7間、梁間5間半と一般の民家と比較して特に大きな平面を持つため、屋根の巨大さは印象的である。 また、西面する主屋の表側を船竭「とし、縁側上部の庇小壁には桃型の明り窓が設けられるなど上層農家としての造作が随所に散りばめられ建物全体を上品なものにしてくれている。 内部の造作もすっきりしており、素晴らしい民家建築である。 |
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旧吉川家住宅 | 奈良県指定文化財 (昭和52年3月22日指定) 旧所在地・奈良県橿原市中町 当家は国中(クンナカ)地域の典型的な農家建築として公開される住宅であるが、国中というのは奈良盆地周辺を指す言葉らしく、いわゆる古代において奈良の都が営まれた平野部の事と云えば判り易いだろうか。 当家は庄屋を務めた上層農家で、建築年代は当家の過去帳から大和三山で名高い耳成山の麓にある山ノ坊村から分家した元禄16年(1703)頃と推定されおり、民家建築としては比較的古いものである。 しかしながら、さすがに国中地域は早くから拓けた土地柄だけあって、四周に本瓦葺の庇を廻らせ、開放的な間仕切りとなっている点など、随所に先進的な造作が見て取れる。ゆえに全体の印象からはもう少し新しい時代の建物のように感じられるが、細部に目を向けると古式も窺われる。この辺りが地域性を色濃く反映する民家建築の面白いところである。 |
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旧萩原家住宅 | 奈良県指定文化財 (昭和52年5月20日指定) 旧所在地・奈良県桜井市下 当家も国中地域の民家として分類される住宅ではあるが、実際には桜井市の中心部から談山神社へ向う街道沿いの山間集落に所在していたため、全くの平野部に所在していた前項の旧吉川家住宅とは建築年代も18世紀初頭の殆ど変わらない時期のものであるにも関わらず、外観的に大きく隔たりがある。 当家は組頭を務めた上層農家であり、座敷には床の間を持つなど相応の造作でありながら、開口部が少なく古式を色濃く残していることも大きな特徴である。 同じ国中地域にあり、建築年代や階層、規模なども近似するにも関わらず異なる風情を持つ民家を並べて一度に比較できるのは民家園ならではである。欲を云えば、若干時代が下るかもしれないが、奈良の国中地域を代表する高塀造りの民家があれば、更に嬉しいところである。 |
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旧木村家住宅 | 奈良県指定文化財 (昭和50年3月31日指定) 旧所在地・奈良県吉野郡十津川村大字旭字迫 私は未だ十津川村という場所を訪れたことはないが、奈良県の南端に位置し、幕末維新の際に活躍した十津川郷士の名とともに知られるこの村が、手元にある山岳地図を見ただけで、そこが如何に山深い場所であるかはすぐに判る。 更に村内でも当家が所在していた「迫」という地名はセと読み、「迫と背中は見ずに死ぬ」と云われた程の極めつけの秘境であった。また、この地域は全国でも最多降雨地帯であり、極めて自然条件の厳しい土地柄でもあるらしい。 さて、屋敷構ごと移築された当住宅は主屋と納屋、棟門の3棟から成り、いずれも屋根を杉皮で葺き石を載せ、妻側のケラバ下部には「ウチオロシ」と呼ばれる雨除けが附属する。 内部についても壁や床、間仕切に至る殆どの箇所には板材が用いられており、ドマと呼ばれる空間も実際には土間ではなく一段低い板敷きとなっている。更に土間がないゆえに竃もなく、代わって各部屋に囲炉裏が設けられている。 このように当家は明らかに県内平野部の民家とはかなり異なる様子を示しており、見ていて飽きぬ民家である。 |
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旧鹿沼家住宅 | 奈良県指定文化財 (昭和55年3月28日指定) 旧所在地・奈良県大和高田市永和町 (昭和54年移築) 当家が所在していた大和高田市永和町周辺は、江戸時代初期に正行寺(現在の専立寺)の寺内町として発展した商業都市である。同様の歴史的経緯を持ち、今日においても町並がそのまま残ることで著名な今井町の西方4kmほどの地理となる。 当地は伊勢街道と下街道が交差する要衝の地であり、当家は伊勢街道に南面して代々米穀を販売した商家であった。 建築年代は「請取普請状」が現存しており、文化9年(1812)と判明している。奈良県の町家建築は本瓦葺との印象が強いが比較的時代が新しいためか当家は桟瓦葺となっている。ゆえに今井町で重要文化財に指定される町家と比較すると軽快な印象がある。 内部は町家だけあって、きちんと製材された梁や桁が上品さ保ちつつ重厚な雰囲気を演出してくれている。また二階表側の出格子は県下でも最も古い例とされている。一階表側にも全面に亘り格子が嵌められているが、二階出格子の繊細なものとは異なり、太い材を用いた重厚なものである。これこそ奈良の町家らしい。 |
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八重川家住宅 | 無指定・公開 旧所在地・奈良県山辺郡都祁村大字針2786 当家の所在した都祁村は現在では奈良市に編入されてしまったものの、それまでは人口7000人程の山間の小村であった。ちょうど天理市の中心部から約11kmほど東に位置し、1965年に村を横断するように名阪国道が開通したため、交通の便は現代になって飛躍的に向上した地域である。 針集落はちょうど都祁村の役場が置かれた場所であり、当家は村の中心に近い場所に建っていたことになる。 寄棟の茅葺屋根を葺き下ろす当住宅は19世紀初頭の建築と推定されており、規模こそ園内の他の民家と比較して遜色はないものの、一般農民層の家としてニ間取の平面構成となっている。 しかし部屋数こそ少ないものの、両室とも畳敷・棹縁天井と整った造作となっており、表側のザシキには床の間までも設けらるなど他地域の一般農家と比較すると格段に進歩したものである。 標準的な民家でありながら大和国の先進性を示す好例と云えるだろう。 |
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旧松井家住宅 | 無指定・公開 旧所在地・奈良県宇陀郡室生村上笠間 当家の所在した室生村上笠間の集落は、奈良県の東部に位置する山間であるが、往時には伊勢街道が集落内を横断し、笠間峠を越えるとそこは名張藩藤堂家領であった。現在でも地理的には県内の主要都市よりも三重県名張市が近い。 室生村の民家については、昭和41年度に行われた民家緊急調査においては地理的条件から平面構成に三重県側の影響があるのではないかと期待されたが、結果としては大きな相違はなかったようである。 さて当家は桁行5間半、梁間4間の中規模な家作であるが、その昔、代官を務めた子孫との口伝が残されている。しかしながら奥の間に床を備えてはいるものの特に格式高い造作はなされておらず、全体的には標準的な農家建築の典型と云える。 むしろ当家の見所は厩に隣接する内風呂や縁側西端に設けられた便所、居室裏手の簀の子床など庶民的な造作ヶ残されている点にあるのではないかと思っている。 |
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旧前坊家住宅 | 無指定・公開 旧所在地・奈良県吉野郡吉野町吉野山 吉野千本桜の名で全国的に知られる吉野山は山岳信仰の霊地でもあり、その中腹に山下伽藍と別称される金峯山寺がある。その門前には吉野山の尾根に沿う形で細長く門前町が営まれ、その中程に当家は所在していた。代々にわたって吉野水分神社の神官を勤めたと伝えられるが、金峯山寺から2kmほども奥まった場所にある水分神社の神官が何故この地に屋敷を構えていたのかは判らない。 ともかく山間の平地が乏しい場所柄ゆえに自然の地形を生かしながら懸造りの主屋と離座敷を渡廊下で繋ぐ、いわゆる「吉野建」と呼ばれる独特の建前となっており、変化に富む内部平面は訪れるものを楽しませてくれる。 各々の建物は杉皮葺きで山間部の民家らしい風情を持つ一方、主屋は間口が狭く奥行きを深く取るなどむしろ平野部の町家的な色彩が濃い間取りとなっている。また主屋表側を格子構えとする様子から神官の家というよりも商家と呼ぶが相応な印象である。 |
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旧赤土家離座敷 | 無指定・公開 旧所在地・奈良県香芝市狐井 当家の所在する狐井の集落は万葉集でも有名な二上山の南麓に位置する。奈良盆地の南西端にあり国中地域に分類されるため、ここ民家園では先項の旧萩原家住宅の主屋前に移築復原されている。。 赤土と書いて「シャクド」と読む変わった姓であるが、楠木氏を祖とする旧家で藩政期には庄屋役を務めたと伝えられる。 建物は8畳一間の三方に板縁を廻らしただけの小規模なものであるが、床・違棚・書院を備えた本格的な書院建築となっている。建築年代は18世紀初頭以前とされているが、入母屋屋根や本瓦庇は後世の改変と推測されている。 国中地域の農家では座敷を別棟で整えることが一般的であったとされているが、これだけの建物を持つことはやはり相応の階層・財力が無いことには難しかったのではないだろうか。 将来、隠居生活を送る時が来たならば、こんな建物に住まいたいと思わせる良い建物である。 |
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旧西川家土蔵 | 無指定・公開 旧所在地・奈良県天理市二階堂北菅田町 当家の所在した二階堂の地は、古代遺跡として有名な唐古・鍵遺跡の北方3kmほどの場所に位置する平野部にあり、国中地域に分類されるため、当公園では旧吉川家住宅の裏手に移築されている。藩政期には「庄屋彦兵衛」と呼ばれ、当地で庄屋を務めた上層農家であったそうだ。 当家ではこの土蔵を「高蔵」と呼称し、衣類や食器などを主に収納していたらしい。湿潤な気候から収納品を守るためであろう床は地面よりも70cmほども高く上げられて造作されており、このことが名称の由来となったに違いない。 建物は間口2間、奥行1間半の小規模なもので、内部は二階建となっている。外観は軒下から礎石上までを白漆喰で塗り込めた大壁造となっており、装飾も最小限に抑えられ、無味乾燥な印象は拭えない。しかし、これだけ大きな壁面を漆喰白壁仕上げとすることは、実際には大変な技量を必要とする左官工事で、家の社会的地位を表わす象徴的な建物との解説も満更でもないことである。 |
【参考文献】 | 奈良県の文化財 奈良県教育委員会編(昭和62年3月31日増補改訂版) 民家村の旅 大野敏著 INAX ALBUM17 総覧 日本の建築6-U 新建築社 (2002年7月31日第1版) 奈良県文化財調査報告書 第13集民家緊急調査報告書 奈良県教育委員会 昭和45年3月31日刊 日本の美術 「民家と町並 近畿」 宮本長ニ郎著 至文堂 解説版 新指定重要文化財12 建造物U 毎日新聞社 |