白山ろく民俗資料館
石川県石川郡白峰村字白峰リ30番地

旧小倉家住宅 国指定重要文化財 (昭和38年7月1日指定)
旧所在地・石川県石川郡白峰村字桑島象ヶ崎
建築年代/江戸時代(19世紀前半)
用途区分/農家(庄屋)
移築年月/昭和52年
当家は「あぜち」と称され、嶋村の庄屋を務めた「あぜち五郎右衛門」の子孫と考えられる旧家で、現在の移転地から北へ2kmほどの桑島に所在していた。残念ながら当集落は昭和52年の手取川ダム建設に伴い湖底に沈んでしまった。19世紀前半の建築と推定されており、栗材を用いた小羽板葺に石置した切妻屋根と妻入りの建前は白山麓に典型的なものである。建物正面には1間半ほどの庇が附属するが、これは積雪により大戸口が塞がれることのないように工夫されたものである。また土蔵造の本屋に対し側壁の下側部分を下見板張としており、恐らく融雪による被害から逃れるための配慮であろう。共に日本でも有数の豪雪地帯ならではの造作だと云える。内部については土間が極端に狭く山間部ならではの特徴を持つ。更に馬屋や唐臼場のみならず、便所までもが屋内に取り込まれている様子は冬の季節には屋内に閉じ込められる生活を余儀なくされる当地方ならではのものである。
旧杉原家住宅 石川県指定有形文化財 (昭和59年1月31日指定)
旧所在地・石川県石川郡白峰村桑島
建築年代/元治元年(1864)
用途区分/商家・庄屋・組頭
移築年月/昭和53年
「古くから信仰の山として人々から崇められた白山は、その余りにも深い懐ゆえに自らの袂に特異な社会を形成した。」
山間僻地と形容しても憚ることのないほどに深く厳しい地理にある白峰村一帯のその実際を知らぬ者は、恐らくこの巨大な民家の存在を訝しく思うに違いない。藩政期において白峰村民は雪の頃になると加賀・越前の平野部に出て物乞いをせざるを得ない程に困窮し、「白山乞食」とまで蔑称された土地柄である。それゆえ誰しもがそこにある家々の貧弱な姿を想像するに違いないはずである。しかしそのようなステレオタイプ的な既成観念をあっさりと覆す程に、当家の威容は山間部にあって際立つものである。白山麓天領18ケ村の庄屋・組頭を務めたと伝えられる当家は嶋村(桑島)において酒造業や養蚕、米・衣類等の生活用品を幅広く扱う商家でもあり、地元では「おやっさま」と称される上層階級に属した。住宅は元治元年(1864)に越前永平寺の宮大工によって建てられ、延床面積が335坪にも及ぶ3階建ての巨大な建物である。恐らく民家建築の分野で1棟の建物としては日本最大級のものではないだろうか。
「一体何故このような民家がここにあるのか?」−その不思議に思いを馳せることが、民家探訪の最大の楽しさであると私は常々考えているが、当家の前に立つとその感を一層強く持つことである。
旧織田家住宅 石川県指定有形文化財 (昭和59年1月31日指定)
旧所在地・石川県石川郡白峰村字白峰
建築年代/明治初年
用途区分/商家
移築年月/昭和55年
今も昔も白峰村を訪れるには加賀方面から手取川をずっと遡る方法、あるいは越前勝山から峠を越えて入る方法の二通りをとる。そしてこの各々のルートがちょうど出会う辺りに白峰集落は営まれており、白峰村の中心となっている。以前には当集落は牛首と称し、今でも伝統工芸品として名高い牛首織にその名を残している。地域の要となる牛首集落には、内外各地からの物資が集散し、自ずと商業が発展することとなる。天領18ケ村の大庄屋を務めた山岸家などもここに拠点を置き、当集落には今でも数棟の巨大な「おやっさま」の住宅遺構を見ることができる。
さて当家も、その牛首の集落で商業を大々的に営んだ「おやっさま」の一軒である。隣接する杉原家住宅と比較して小振りな建物に感じられるが、延床面積215坪の堂々たる大民家である。明治初年頃に別の場所に建てられた農家を明治38年に牛首に移転して商家に改造、昭和54年まで店舗として使用されてきたとの由縁をもつ。妻入りの建前が多い当地域にあって、街道に面して平入りとし、表側に板敷きの店舗や居間を配置する間取りは商家ならではのものである。また妻側に架けられた階段は直接2階に資材を運び込むための工夫である。当地域における商家の様子がよく判る興味深い民家である。
旧尾田家住宅 国指定重要有形民俗文化財 (昭和53年8月5日指定)
旧所在地・石川県石川郡白峰村大道谷五十谷
建築年代/
用途区分/出作農家
移築年月/昭和52年
その昔、白峰集落から越前勝山へ抜けるには谷峠を越えていかねばならなかった。大道谷は、その谷峠手前の集落で五十谷は更に北西方向に伸びる谷筋の字名である。尾田と書いて「ビタ」と読む当家の住宅は、五十谷の標高820mの山中に所在していた永久出作り小屋で親子2代に亘って建てられたとのことである。永久出作りとは1年中そこに居住する薙畑農耕の一形態で、5月〜11月の農耕期のみをそこで過ごす季節出作りとは対極にある言葉であるが、深い山奥にあって冬の間は完全に雪に閉ざされてしまう厳しい自然環境下の生活を甘受せざるを得なかった現実に胸が痛む思いである。出作り小屋との呼称から簡単で粗末な建物が想起されるが、技術的に素朴なところはあるにしても本格的な住居建築である。当住宅の最大の特徴は、片側の屋根を地面まで葺き下ろした「ナバイ小屋」と呼ばれる根葺形式で、風雪に対して強く、原初的な形態を留めていると云われている。恐らく軒下に風が孕むことで屋根が吹き飛ばされることを避ける工夫だと考えられる。また内部においては、現在板張りの床も当初は茅を敷き、筵を置いた土間であったとのことである。寒さを凌ぐには床張りよりも土間の方が勝っていることから、あくまで実用に徹していたためであろう。
旧表家住宅 石川県指定有形民俗文化財 (昭和59年1月31日指定)
旧所在地・石川県石川郡尾口村字東二口
建築年代/
用途区分/庄屋役・寺家
移築年月/昭和58年
室町時代末期において「百姓ノ持タル国」と謳われ、一向一揆が頻発した越前・加賀の国は仏教への帰依がそもそも深いところ。蓮如上人が国境に近い吉崎の地で浄土真宗を布教して以来、白山麓も熱心な信者を抱える地域となった。そうした地域にあって当家は500年余りにわたって小松本賞寺の門徒道場役を世襲してきた家柄で、寺号こそ持たないものの自宅で講を開き、真宗の教えを世に広める寺家としての役割を担った。また、当家の所在していた尾口村東二口は白峰集落より12kmほど下流にある小集落であるが、当地区の草分けとして庄屋役を務めたという旧家でもあった。さて当住宅の外観は一般の民家と殆ど区別はつかないものの、内部においては家の最奥に設けられた仏間を中心に、大勢の村人たちが集えるように広間(衆生の間)が設けられ、更に仏間脇には役僧の間などという特殊な部屋などもあり、内陣・外陣と区別される寺院本堂のような間取りとなっている。柱や鴨居などの構造材も太くしっかりとした材が用いられ、品格が漂うものとなっている。山村における表家の住居という側面と真宗門徒の家道場という寺院的側面を併せ持つ特殊な建物として興味深いものである。
旧長坂家住宅 白峰村指定有形文化財 (昭和59年10月27日指定)
石川県指定有形民俗文化財(平成16年1月30日指定)
旧所在地・石川県石川郡白峰村字河内谷苛原
建築年代/明治6年(1873)
用途区分/山村農家(永久出作り小屋)
移築年月/昭和62年
河内谷苛原は白峰集落より更に手取川を東へ8kmほど遡った場所にあり、当家は標高780mの山間に建てられた永久出作り小屋。通称「ヨジの山」と呼ばれるその場所は、当家の屋号「与次」に由来するものと考えられるが、白山麓の焼畑耕作地域では人名や屋号に山を組み合わせる「屋号山」を称する習慣があったそうである。「出作り」については、先項「尾田家住宅」でも記したとおり、夏の間だけ深山に入って農作業を行う「季節出作り」と1年中そこに居住する「永久出作り」とがある。いずれも一度山に入れば、殆ど自給自足に近い生活を送ることとなるが、昭和初期の調査では白峰村には262戸の出作り農家があり、うち209戸が永住出作りであったとのことである。ちなみに現在では永久出作り農家は完全に消滅してしまっている。当住宅は明治6年(1873)に白峰村の大工・加藤八右衛門によって建てられたもので、一般的には簡素な建物が多い永久出作り小屋としては珍しく太い柱を使った大型の建築となっている。主屋の両側面から出ている支え棒は、建物が傾いだために施されたものではなく、山間の強い風に耐えうるように当初から施されたもので「ツカセ」と云うらしい。当資料館では建物の周囲を農地として整備し、出作り小屋における薙畑耕作の風景を演出しているようです。とても雰囲気が出ており、素敵なところです。
    
【参考文献】  石川県立白山ろく民俗資料館(資料館作成リーフレット) 平成3年4月発行
越前石徹白民俗誌・その他(宮本常一著作集36)   未来社刊
加賀・能登の住まい                    北國新聞社刊 1993年11月30日第一刷
石川県の民家 民家緊急調査報告書         石川県教育委員会
 

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