浦和くらしの博物館民家園
埼玉県さいたま市緑区下山口新田1179-1

蓮見家住宅  さいたま市指定文化財 (昭和49年5月31日指定)
旧所在地・埼玉県さいたま市緑区井沼方513
建築年代/江戸中期
用途区分/農家
移築建物/主屋 (平成5年移築)
さいたま市内で最古とされる農家建築である。桁行13.32m×梁間6.6mの中規模な住宅で、右勝手の大戸口を潜ると土間があり、下手に馬屋、上手には板敷きの居間がある。居間の更なる上手には座敷と納戸を設けられており、典型的な広間型三間取様式である。柱には曲がった材が多用され、大黒柱も他柱よりも若干太いながら素材は同じ杉材が用いられる点は大黒柱に権威付の意味合いがなされる以前の造作と解されている。
野口家住宅 さいたま市指定文化財 (平成10年3月10日指定)
旧所在地・埼玉県さいたま市南区大谷口
建築年代/安政5年(1858)
用途区分/寺院庫裏(明治初年廃寺)
移築建物/主屋 (平成10年移築)
当住宅は、そもそも旧大谷口村の安楽寺の庫裏として用いられた建物であった。野口家は安楽寺の住職を務めた家柄で、明治初年の廃寺に伴い庫裏を移築。以降は一般住宅として用いられてきたようである。桁行13.64m×梁間8.1mの中規模な建物ではあるが、背が高く、軒裏を船竭「とする点は寺院建築ならではの格式の高さである。内部は田の字型四間取平面で、四部屋のうち台所以外の3部屋を畳敷きとする点も一般の農家建築とは異なる造作と理解される。
綿貫家住宅 さいたま市指定文化財 (平成12年3月28日指定)
旧所在地・埼玉県さいたま市浦和区常盤2-9-13
建築年代/江戸末期〜明治初期
用途区分/商家(肥料商)
移築建物/主屋(店蔵)
綿貫家は明治初期に荒物商を営む本家から分家し、肥料・砂糖・小麦などの仲卸を生業とした商家で、屋号を菱屋、商標は「ヤマセン」を使用した。移築前の住宅は中山道の宿場町・浦和宿上町に在り、明治21年に町の2/3を焼いたという浦和大火に焼け残った貴重な建物である。規模としては一般的な町家で間口4間、短冊状の細長い敷地に店蔵、裏座敷、倉庫等が縦に配置されていたが、当地には店蔵のみが移築された。地元では塗屋造と称される、いわゆる土蔵造の重厚な建物である。
高野家住宅 さいたま市指定文化財 (平成13年2月27日指定)
旧所在地・埼玉県さいたま市浦和区岸町7丁目
建築年代/江戸末期(安政2年1855頃)
用途区分/商家(煎餅製造販売)
移築建物/主屋
中山道の宿場町・浦和宿に所在した町家建築である。高野家は江戸初期から当地に住したとのことであるが、煎餅店を創業したのは明治初期のこと。当初は調神社近くで営業していたが、明治中頃に傘製造業を営んでいた池田氏から当住宅を購入したらしい。明治40年頃に茅葺の屋根だったものを瓦葺に改めていたが、当地に移築される際に当初の茅葺に復された。ちなみに当家は平成12年まで当住宅で煎餅店を営業していたが、現在は東浦和駅前に移転している。
武笠家表門 さいたま市指定文化財 (平成6年4月28日指定)
旧所在地・埼玉県さいたま市緑区三室
建築年代/天明3年(1783)
用途区分/農家
移築建物/長屋門
板東平野においては名主や組頭等を務める富農の住宅には比較的長屋門を構えた屋敷が多いように見受けられる。地域的に旗本領が多く領地が細分化されていた故に、采地に根を張る上層農家の支配力が強く、相対的に格式付与の許認可が甘かったのかもしれない。規模は桁行13.76m×梁間4.55mの長屋門としては規模の大きなもので、門扉が引き分け戸とする点を特徴とする。農家の長屋門故に内部は大半が土間の作業場となっており、実用的な側面を併せ持つ建物となっている。
中島家穀櫃 無指定
旧所在地・埼玉県さいたま市緑区三室
建築年代/江戸後期
移築建物/穀櫃 (平成6年移築)
なかなか他の民家園でも目にすることができない地方色の濃い民俗建築である。用途は穀類を保存するためのもので、間口2.94m×奥行1.16mの小規模な建物である。間口を三等分に仕切り、落し板を6枚重ね、その上から天井の蓋板を差込み、錠をかける仕組みとなっている。土蔵を作る程の富農でなければ、こうした穀櫃を設けることが一般的であったのかもしれない。木造であることが内部の湿度調整の役割を担ったと解説にはあるが、他の地域で同様の建物を見ることが殆ど無いのは、降水量が少なく、風が強く乾燥した風土であることが前提としてあるに違いない。
 

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