大名墓
北陸地方編
福井県
越前松平家 | 福井藩 680000石→320000石 (親藩) 大安寺(福井市田ノ谷) 瑞源寺(福井市足羽) 福井県の過半を占める福井藩は徳川家康公の次男である結城秀康を祖とする北陸の雄藩である。地理的には外様の大大名であった金沢藩前田家の押さえとして、徳川家に最も近い親藩たる当家を配置することを意図したものであろう。しかしながら当藩の運命はまさに流転の如く江戸時代初期の68万石の所領から一時期には25万石にまで削られ、最終的に幕末の段階では32万石と乱高下している。 そもそもの始まりは藩祖・秀康公の存在自体が象徴している。秀康公は徳川家康の次男に生まれながら小牧・長久手の戦いによる豊臣家と徳川家の和睦の証として豊臣家の養子として差し出され、のちには更に結城家の養子に出された。その結果、秀康公は徳川家の跡目を継ぐ資格を失い、弟・秀忠に将軍職を譲る結果となってしまっている。「本来であれば天下の仕置きは当家のモノであった」という意識は少なからずあったはずである。 更に悲惨なのは、秀康公の嫡男・忠直公である。大坂の陣に一番乗りを果たすなど徳川家一門にあって随一の武勇を誇った輝かしい経歴を持ちながら、酒色に溺れた廉で豊後国に配流されてしまう。徳川家にとって最も近い存在ゆえに幕藩体制を維持していく上でのケジメの論理を非情にも背負わされた観がある。 極めつけは1674年の4代藩主・光通公の自刃による後継問題である。光通公の遺言により、支藩である吉江藩主となっていた弟・昌親公が5代藩主となったものの、昌親公には兄・昌勝公がおり、同じく支藩・松岡藩主となっていた。長幼を無視した形で藩主の座に就いた昌親公は兄・昌勝公の嫡子・綱昌公を養子に迎え、在職2年で藩主の座を譲り、自らは後見役となることで、儒教的精神を絵に描いたような素晴らしい展開を演出した。しかし美しい話はここまで。以後の2人の折り合いは悪く、最終的には幕府の裁定により6代藩主となった綱昌公は改易され、後見役であった昌親公が新たに半知25万石を与えられる形で決着を見ることとなった。一体この昌親という男は何をしたかったのだろうかという感じである。 さて肝心の藩主の菩提寺については、藩内の各所に分かれており、初代秀康公、8代吉邦公、10代宗矩公、14代斉承公、15代斉善公は福井市内にあった運正寺、3代忠昌公は永平寺、4代光通公は大安寺、5代昌親公は瑞源寺となっている。(その他の藩主は江戸・天徳寺等を菩提寺とする) しかし現在、運正寺は戦災や昭和23年の福井大地震により菩提寺としての遺構を完全に失っており、足羽山麓にあった霊廟も各所に散逸してしまっている。(初代秀康公霊屋は福井市堀ノ宮町の西藤観音堂、14代斉承公霊屋は福井市天菅生町の大安寺観音堂、15代斉善公霊屋は三国町の称名寺観音堂として移築・活用されている。)また福井市足羽の瑞源寺には5代昌親公の墓塔とともに彼の母親である高照院の墓塔が残されている。ちなみに高照院の霊屋は近年まで墓塔を覆う形で残っていたが、老朽化により解体され墓塔の傍らに保管されている。 一方、大安寺は福井市田ノ谷に所在する曹洞宗の禅寺で、本堂裏手の山中に整然とした藩主の墓所が営まれている。地元の足羽山で産出する笏谷石を全面に敷き詰め「千畳敷」の名で知られる観光名所となっている墓所であるが、そもそもは4代光通公が祖先と両親を偲ぶために造営した墓所である。ゆえに造営当初は初代・秀康公、3代・忠昌公夫妻、4代光通公夫妻までの墓塔があることは理解できるものの、他にも5代、8〜11代も含めた計10基の藩主夫妻の墓塔が建ち並ぶ。恐らく後世において大々的に整備したものであろうが、何故他の藩主たちは祀られなかったのか、5代藩主の瑞源寺と重複する墓塔の存在など様々な疑問が涌いてくる。寺の解説にはこの辺りの事情については詳らかにされておらず、いずれ調べてみたいと思っている。 (2009.12.20記) |
写真解説 @大安寺廟所。4代光通公の霊屋であった建築。 A大安寺墓所。「千畳敷」と称され、整然と歴代の墓塔が並ぶ B大安寺墓所。墓塔や敷石は地元産の笏谷石を使用。淡い青石が美しい。 C大安寺墓所 D大安寺墓所 E大安寺墓所・3代忠昌公墓塔。背後にあるのは追い腹を切った家臣の陪塚 F瑞源寺・5代昌親公墓塔。当寺を菩提寺とするのは昌親公のみ。 G瑞源寺・5代昌親公の母堂・高照院の墓塔。当寺は母のために昌親公が創建。 |
前田家 | 加賀藩 1025020石 (外様) 野田山墓地 (石川県金沢市) 瑞龍寺 (富山県高岡市) 加賀100万石と称された当家は、全国300諸侯のうち、云わずと知れた最大の大名家である。 江戸時代を通じて加賀・能登・越中の三国に跨る広大な所領を維持した当家は、外様ながら幕藩体制の中でも常に最高の格式を持って遇された一方、大藩ゆえに常に幕府からの視線を意識しなければならない存在でもあった。 そもそも藩祖前田利家公は織田信長の与力として活躍した人物で、織田・豊臣政権の天下統一の過程にあって立身出世を成し遂げた経歴の持ち主である。信長の下では能登一国の領主という中途半端な存在でしかなかった利家公ではあるが、秀吉のおかげで破格の待遇を与えられ、五大老の1人にまで上り詰めるまでになった。 しかしながら世の有為転変は激しく、豊臣恩顧大名の代表格のような存在である前田家が、徳川家に政権が移行していく混迷の時期にあっては舵の取り方次第では存続さえも覚束ない状況に遭遇したことは、止むを得ないこととはいえ運命の非情さを感じてしまう。その存在を迷惑にさえ思う徳川家からの無理難題に近い要求の数々に対し、家名の存続を図ることの一念で如何なる苦労や屈辱に耐え偲ぶ藩公の決定には、相当に忸怩たる思いがあったに違いない。いずれにせよ、金沢藩成立期に2代利長公、3代利常公といった名君が続いたことも、前田家が幕府の外様大名取り潰し政策の荒波をも潜り抜ける原動力となったことに違いない。 ところで歴代の藩主の菩提寺は金沢市内の宝円寺、天徳院となっているが、墓地は金沢市南西郊外の野田山に営まれている。大半の歴代藩主の墓地は最初から野田山に営まれていたが、天徳院に営まれていた4代光高公、9代重靖公の墓所も昭和20年代に当地に改葬されたため、全ての歴代藩主が集まることになった。 加賀100万石の墓地ゆえに数多くの石灯籠が並び、巨大な墓石が建ち並ぶ壮麗なイメージを持っていると、少々肩透かしを食らわされる。標高175mの野田山の北側斜面に造営された墓地は、7.6haのかなり広大な面積を有し、玉垣で囲まれた歴代藩主の墓所がゆったりと山内各所に点在し、規模のうえでは相当なモノではある。しかし神式で祀られているため、巨大な墓塔は設けられず、墳墓形式の土饅頭があるだけの実に簡素な印象である。玉垣と鳥居さえなければ、古代の群集墳のような雰囲気でさえある。墳墓の規模は初代利家公は19m四方、その他の歴代藩主は16m四方で深さ1m程度の周溝を持ち、墳丘は三段に亘って築造されている。もちろん奥方・子女の墳墓も同形式ながら規模は少し小さくなる。 また利家の墓所の近くには、幼少の頃から付き従ってきた家臣である村井又兵衛等の墓が建てられている。追腹を切った訳ではなく、利家亡き後も夫人の芳春院に従って徳川家の人質になるなどしたのち、天寿を全うした人物だ。あの世でもお供をする意であろうが、苦労を共にして加賀100万石の基礎を築いた戦友の労に報いるための特別な計らいであることは間違いなく、泣かせる話である。 ところで2代利長公の墓所については、野田山墓地内に営まれた一方、富山県高岡市にも巨大な墓所が存在している。これは利長公が3代利常公に藩主の座を譲ったのち隠居生活を高岡の地で過ごしたためであり、国宝の寺院建築に指定されている瑞龍寺は3代利常公が彼のために造営した菩提寺である。境内の東に少し離れた場所に営まれた墓所は、濠に囲まれた全国最大級と称される壮大なものであり、こちらの方が断然見応えがある。 (2009.12.20記) |
写真解説 @初代利家公墳墓・他の歴代藩主よりも一回り大きいらしいが、視覚的にはよく判らない。 A初代室・芳春院墳墓・利家公と苦楽を共にし、加賀百万石の基礎を築いた。松の方として有名。 B6代吉徳公 C13代斉泰公 D2代利長公 E子女の墳墓 |
富山県
前田家 | 富山藩 100000石 (外様) 大法寺 (富山県富山市梅沢町) 本当の話かどうかは定かでないが、以前に富山県出身の知人に「富山県人は東西で非常に仲が悪い」と聞いたことがある。概してこの手の話は江戸時代の異なる藩統治による気質の差を源とすることが多い様であるが、県の東半分にあたる婦負郡、新川郡を領有する富山藩主は前田家、西半分の射水郡、砺波郡、新川郡の一部を領有する金沢藩主も前田家であり、何故なんだろうかと不思議に思ったことがある。 さて本題。富山藩の前田家は金沢藩の支藩であり、金沢藩主3代・利常公の次男・利次公が寛永16年(1639)に本藩の一部を分与されて立藩したものである。大きすぎる本藩を分割することで幕府からの嫌疑を逸らすための処置と云われているが、同時に3男・利治公にも大聖寺藩7万石を立藩させたうえ、利常公も22万石の隠居料を譲り受け小松城に入ったものだから、金沢本藩の所領は120万石から80万石にまで減じてしまった程の大分割となった。本藩の4代目を継いだ利常の長子・光高公は、さぞ複雑な思いをしたに違いない。さらに光高公の治世においては、隠居したはずの父・利常公が後見役として権勢を振るい続けたうえ、光高公自身は31歳の若さでこの世を去っている。利常公による毒殺説さえもある突然の死であったらしく、富山藩立藩の前後の時代には何やらドロドロとしたモノを感ぜずにはおれない。 しかしともかく支藩とはいえ、10万石の大名としてスタートを切った富山藩であったが、当初は所領が散在していたため統治に不便を強いられたばかりでなく、居城さえも幕府の築城許可がなかなか得られず、やむなく富山城を本藩から借り受ける始末であった。(のちに所領替えが認められ、富山城周辺の地も富山藩のものとなった。) さらに本藩から大勢の家臣を押し付けられ、10万石の所帯に対して家臣の知行だけで9万石程もあり、立藩当初から何やら雲行きの怪しい有様であった。 実際、富山藩政は江戸時代を通じて借金と倹約に常に追われ、本藩からの援助や領内外の富商から融資を度々仰がざるを得ない状況であった。また幕府からの日光東照宮の御手伝普請や度々発生する富山城下の火災などの影響も響き、結局、幕末に近い10代利保公の治世には、全く首が回らない状態にまで陥り、本藩から世子を迎えるばかりでなく、家老の派遣までを受け、実質本藩の管理下に置かれる有様であった。現代の「豊かさ日本一」の称号を持つ富山県の姿からは想像できないことである。ひょっとすると、こうした本藩に対する鬱屈した思いが、冒頭に述べたような複雑な東西関係の底流にあるのかも知れない。 ところで富山藩主の菩提寺は、市内の光厳寺や大法寺とされているが、墓所は郊外の長岡御廟に営まれている。大きな石鳥居から一直線に伸びる参道の両脇に数多くの石灯籠が林立し、奥正面には薬医門が構えられている。門の内が藩主墓域となっており、杉の木立の中に歴代の藩主墓が横一線に並んでいる。初代から11代まで歴代が祀られているとされているが、正面の墓所には初代・利次公、4代・利隆公、9代・利幹公、10代・利保公、11代利友公の5人の藩主墓から構成され、その他の藩主は北側の別区域の墓所に葬られている。墓形式は円形の土饅頭の頂に笠塔婆型の背の高い墓塔が立てたものである。円墳と塔婆を併せると仰ぎ見るような相当な高さで、雪の多い冬にあっても塔婆が隠れないようにする工夫かなと思ったりするが、定かでない。墓碑の正面には戒名ではなく「贈正四位侍従兼淡路守菅原朝臣利次之墓」という様に生前の官職・名前が刻まれている。神式と仏式が混在するような祀られ方である。また藩主墓の背後には一族の墓碑が横一列に林立しているが、こちらは墳墓はなく、墓塔のみが立てられている。 (2009.12.27記) 【藩主の墓碑名は明治末〜大正期に仏式の戒名から神式の官職名に改刻されたらしいことが判明】 |
写真解説 @長岡御廟・墓所表門。 A長岡御廟・4代藩主利隆公墓塔。墓面には従四位下行出雲守菅原朝臣利幸之墓と刻まれる。 B長岡御廟・5代藩主利幸公墓塔。 |