大名墓

唐津藩寺沢家

 
唐津藩 123000石 (外様)
鏡神社(佐賀県唐津市鏡)
近松寺(佐賀県唐津市西寺町)
肥前国松浦郡を領土とする唐津藩は歴代藩主の入れ替わりが激しかったところで、外様の寺沢家に始まり、譜代の大久保家、大給松平家、土井家、水野家、小笠原家と続いた。九州地方において大名家がこれほどまでに変わった藩は他にはない。
さて唐津を最初に領した寺沢家は代々織田家に仕えた家柄で、初代藩主・広高公は本能寺の変の後、豊臣秀吉の側近として活躍した人物である。1593年に唐津の旧領主であった波多氏が秀吉により所領を没収された後、豊臣家の蔵入地となったこの地に当初、広高公は代官として赴任、1597年にはそのまま藩主の地位を確保することとなった。
その後関ヶ原合戦で東軍に属した功により肥後国天草を所領に加えた広高公は、唐津城下の建設とともに松浦川の治水や虹の松原に代表される防風植林事業により現在の唐津の基礎を築いたのであった。
しかし世の中、何が起こるか判らないものである。2代・堅高公の治世には、キリシタン一揆として名高い天草・島原の乱が勃発する。天草領主としての責任を問われることとなった堅広公には天草領4万石没収・蟄居を申し渡されることとなったのである。
乱の発端は島原藩主・松倉重次の悪政によるところが大きく、とばっちりもよいところであったが、堅広公は減封の責任から自ら命を絶ち、寺沢家は無嗣断絶となってしまったのである。
ところで寺沢家2代の墓所は虹の松原を見下ろす鏡山の麓に所在する鏡神社の境内、および唐津市内の寺町にある近松寺に分かれている。初代・広高公が鏡山神社、2代・堅広公は近松寺にそれぞれ葬られている。しかし家が断絶したため止むを得ないことかもしれないが、両者が祀られる墓所の様子は、同じ唐津藩主のものとは思えないほどに著しい落差がある。
初代・広高公の墓所は約400坪ほどの敷地を持ち、桜並木の最奥に高さ7.05m、幅1.4mの巨大な墓塔が屹立している。「前志州太守休甫宗可居士」と刻まれた笠塔婆形式で九州の大名の中で最大規模の墓塔である。123000石の大名として寺沢家が一番輝いていた時代を象徴するような墓所である。
一方、2代・堅広公の墓所は近松寺の本堂西脇にひっそりと残されている。高さ2.6mほどの花崗岩の自然石を墓塔としたもので前面に「孤峰院殿白室宗不居士」と刻まれる。法号にまで無念が溢れているようで落涙を禁じ得ない。    (07.4.21記)