大名墓

盛岡藩南部家




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鎌倉御家人の系譜を引く東北の名門・南部家である。戦国時代末期の豊臣秀吉による天下統一事業が関東以西では着実に進捗していた頃、東北地方は乱立する戦国大名家により騒乱の最中にあった。秀吉により奥州仕置軍が派遣され、津軽地方における大浦家(津軽家)との間の所領争いが津軽東部は南部家、西部は大浦家(津軽家)の所領と按分され、天正18年(1590)に豊臣秀吉の朱印状により南部内七郡の所領が南部家領として確定・安堵されたことにより、ようやく南部家は近世大名としての存在となった。しかし秀吉の奥州仕置軍が撤兵すると、今度は一族の九戸政実による反乱が勃発し、三戸城に拠た南部信直は再度、秀吉軍の派兵を願い出ることになる。天正19年(1591)9
月に至り、ようやく反乱軍の鎮圧に成功した信直は、岩手郡仁王郡不来方の地に拠点を移し、新城下を建設することとした。これが現在に残る盛岡城の始まりである。その後、南部家は慶長5年(1600)にも徳川家康によりそのまま本領安堵され盛岡藩が正式に成立、以後、明治維新の廃藩置県に至るまで国替えもなく経過した。石高は10万石、寛文4年(1664)に藩主・重直公が嗣子を定めず病死したため、盛岡藩8万石と七戸藩2万石に分割されることとなったが、天和3年(1683)には新田開発により10万石に復している。また文化5年(1808)には東蝦夷地の警衛により領域はそのままで20万石格に格上げされている。歴代藩主墓所は聖寿寺と東禅寺に分かれており、共に境内地裏手の低山を曲輪状に造成し、墓塔は脈絡なく点在する形で造営されている。

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