大名墓

富山藩前田家

富山藩 100000石 (外様)
大法寺 (富山県富山市梅沢町)

本当の話かどうかは定かでないが、以前に富山県出身の知人に「富山県人は東西で非常に仲が悪い」と聞いたことがある。概してこの手の話は江戸時代の異なる藩統治による気質の差を源とすることが多い様であるが、県の東半分にあたる婦負郡、新川郡を領有する富山藩主は前田家、西半分の射水郡、砺波郡、新川郡の一部を領有する金沢藩主も前田家であり、何故なんだろうかと不思議に思ったことがある。
さて本題。富山藩の前田家は金沢藩の支藩であり、金沢藩主3代・利常公の次男・利次公が寛永16年(1639)に本藩の一部を分与されて立藩したものである。大きすぎる本藩を分割することで幕府からの嫌疑を逸らすための処置と云われているが、同時に3男・利治公にも大聖寺藩7万石を立藩させたうえ、利常公も22万石の隠居料を譲り受け小松城に入ったものだから、金沢本藩の所領は120万石から80万石にまで減じてしまった程の大分割となった。本藩の4代目を継いだ利常の長子・光高公は、さぞ複雑な思いをしたに違いない。さらに光高公の治世においては、隠居したはずの父・利常公が後見役として権勢を振るい続けたうえ、光高公自身は31歳の若さでこの世を去っている。利常公による毒殺説さえもある突然の死であったらしく、富山藩立藩の前後の時代には何やらドロドロとしたモノを感ぜずにはおれない。
しかしともかく支藩とはいえ、10万石の大名としてスタートを切った富山藩であったが、当初は所領が散在していたため統治に不便を強いられたばかりでなく、居城さえも幕府の築城許可がなかなか得られず、やむなく富山城を本藩から借り受ける始末であった。(のちに所領替えが認められ、富山城周辺の地も富山藩のものとなった。) さらに本藩から大勢の家臣を押し付けられ、10万石の所帯に対して家臣の知行だけで9万石程もあり、立藩当初から何やら雲行きの怪しい有様であった。
実際、富山藩政は江戸時代を通じて借金と倹約に常に追われ、本藩からの援助や領内外の富商から融資を度々仰がざるを得ない状況であった。また幕府からの日光東照宮の御手伝普請や度々発生する富山城下の火災などの影響も響き、結局、幕末に近い10代利保公の治世には、全く首が回らない状態にまで陥り、本藩から世子を迎えるばかりでなく、家老の派遣までを受け、実質本藩の管理下に置かれる有様であった。現代の「豊かさ日本一」の称号を持つ富山県の姿からは想像できないことである。ひょっとすると、こうした本藩に対する鬱屈した思いが、冒頭に述べたような複雑な東西関係の底流にあるのかも知れない。
ところで富山藩主の菩提寺は、市内の光厳寺や大法寺とされているが、墓所は郊外の長岡御廟に営まれている。大きな石鳥居から一直線に伸びる参道の両脇に数多くの石灯籠が林立し、奥正面には薬医門が構えられている。門の内が藩主墓域となっており、杉の木立の中に歴代の藩主墓が横一線に並んでいる。初代から11代まで歴代が祀られているとされているが、正面の墓所には初代・利次公、4代・利隆公、9代・利幹公、10代・利保公、11代利友公の5人の藩主墓から構成され、その他の藩主は北側の別区域の墓所に葬られている。墓形式は円形の土饅頭の頂に笠塔婆型の背の高い墓塔が立てたものである。円墳と塔婆を併せると仰ぎ見るような相当な高さで、雪の多い冬にあっても塔婆が隠れないようにする工夫かなと思ったりするが、定かでない。墓碑の正面には戒名ではなく「贈正四位侍従兼淡路守菅原朝臣利次之墓」という様に生前の官職・名前が刻まれている。神式と仏式が混在するような祀られ方である。また藩主墓の背後には一族の墓碑が横一列に林立しているが、こちらは墳墓はなく、墓塔のみが立てられている。  (2009.12.27記)
          【藩主の墓碑名は明治末〜大正期に仏式の戒名から神式の官職名に改刻されたらしいことが判明】