大名墓

三田藩九鬼家

三田藩 36000石 (外様)
心月院 (兵庫県三田市)
そもそも九鬼家は幕藩体制成立以前には志摩国鳥羽(現在の三重県)を拠点とした豪族で、戦国期における織豊政権下では石山本願寺攻略の際に日本で最初の鉄甲船を用いて信長の勝利に大きく貢献するなど、その海軍力は「九鬼水軍」として畏怖される存在であった。
関ヶ原合戦では家名の存続を図るため、父子に分かれて戦うという苦渋の決断を強いられることもあったが、東軍に味方した子・守隆公は鳥羽56000石の大名として安堵されるに至っている。(西軍方となった父・嘉隆公は高野山で自害している。)
しかし守隆公没後の寛永9年(1632)、こうした祖先の苦労を省みないも何ともお粗末な出来事が発生する。3男・隆季公と4男・久隆公による家督争いである。そもそも守隆公には嫡子として長男・良隆公の存在があったが生来病弱な性質であったらしく、守隆公は自らの死に際して家督継承に腐心し、出家させていた4男・久隆公をわざわざ還俗させ、良隆公の養子という形にして跡目を継がせることとしたのである。一方、3男・隆季公は守隆公と折り合いが悪かったこともあり、伊勢飯野郷に1万石を分封され別家を立てることになったものの、本来であれば、自分が鳥羽藩の跡目を継ぐのが筋であるとして、父・守隆公の没後、幕府に訴えるという暴挙をしでかしたのである。
外様の大名家の取り潰しが相次いでいた当時の状況を考えると全く無謀な所業としか云い様が無い。最終的には幕府の裁定により守隆公の遺言に従い4男・久隆公が本家を相続することで決着をみることとなったが、家督争いによる混乱の責任を問われ、所領を志摩国鳥羽から摂津国三田に移されたうえ、知行は36000石に減じられてしまったのである。また3男・隆季公は身から出た錆とはいえ、飯野領は没収され一時期は浪人の身にまで陥ることになってしまい、散々な結果に終わることとなった。(のちに丹波国綾部において2万石を給せられ大名に復帰した。)
また、三田という内陸の地に転封となったことで、九鬼家の屋台骨であった水軍兵力は全く意味を成さないものになってしまい、まさに「陸に上がった河童」のような状態となってしまった。余談ではあるが、幕藩体制初期のこうした一連の処置は中世以来培われてきた日本の水軍の伝統をことごとく失わせる結果となり、幕末の黒船来航時には、外国からの開国要求に際して不利な条件を呑まざるを得ない結果につながるのである。皮肉なものである。
さて、三田転封後、明治維新まで大過なく続いた当家の菩提寺は、三田城下の北西部に所在する心月院である。鄙びた雰囲気の薬医門形式の山門を潜ると杉木立の短い参道がある。先には唐門形式の総門があり、正面に本堂が見えてくる。本堂裏手には九鬼家の位牌堂もあるが、本堂同様、軽やかな印象の建物である。藩主墓所は2箇所に分かれており、本堂の脇に土塀で囲まれた一画の旧墓所には歴代藩主が祀られており、経堂脇の小道を登った山上に新しく拓かれた新墓所には最後の藩主・14代隆義公と歴代藩主の奥方たちが祀られている。旧墓所は五輪塔や笠塔婆、柱状形式の墓塔が所狭しと林立しており、あまり計画的に祀られた感じではなく雑然とした印象である。また形も然ることながら大きさも様々で、一番立派な墓塔が先述した体の弱かった良隆公の五輪塔であるのは、藩祖という位置づけがなされているからであろうか。一方、新墓所は明らかに後世に整備された風情で、広く立派なものである。最奥には四段にも重ねた台石に置かれた柱状形式の隆義公の墓塔があり、その手前の参道両脇に歴代藩主の奥方たちの様々な墓塔が並んでいる。これらは江戸に葬られていたものを近年になって改葬したもので、旧墓所の藩主墓塔と比較して凝った造りのものが多いように見受けられる。新墓所の一番手前にある宝筐印塔などは芸術品のような出来栄えである。 (2010.1.9記)