大名墓

小倉藩小笠原家

小倉藩 150000石 (譜代)
福聚寺(福岡県北九州市小倉北区寿山町)
江戸時代初頭に小倉藩30万石の領主として豊前一国および、豊後国の国東郡、速見郡を治めた細川家が肥後熊本藩54万石の大々名として転封となった後に、新たに小倉藩主として入部したのが播磨国明石藩主であった小笠原家である。
そもそも小倉藩領は九州と本州を結ぶ交通の要衝ともいうべき位置にあり、徳川幕府としても外様大藩が数多く存在する九州地方において譜代の家臣を配することによって目付的な役割を期待しての措置であった。
しかし30万石もの譜代大藩を作ることは政治的に無理があった為であろうか、苦肉の策として旧細川藩領を四分割し、小倉藩15万石、中津藩8万石、龍王藩3万7000石、杵築藩4万石の各藩を創設し、それぞれに小笠原一族四家を配するという離れ業をやってのけたのであった。さて豊前国企救郡、田川郡、京都郡、仲津郡、築城郡を支配することとなった(新)小倉藩主・小笠原忠真公は、1665年に黄檗宗の開祖・隠元の高弟である即非を開山とする福聚寺を創建、菩提寺とした。足立山を背後に広大な敷地に、ゆったりとした伽藍配置の境内は黄檗寺院らしからぬ風情であるが、但し寺の中心的な建物である仏殿は1717年の再建ではあるものの黄檗様式による独特な建築である。全体としては落ち着いた風情の大寺で、特に山門から不二門に至る参道の雰囲気などはとても素晴らしいものである。
ところで藩主墓所は寺の境内から南方の少し外れた森の中に所在している。現在は周囲の山林を含めて公園化されており、墓域の真ん中を車道が通るなど往時の風情が多少損なわれてはいるものの、緑あふれる中に墓塔群が点在する様は気品さえ感じられる。
墓所には初代・忠真公と室・永貞院、2代・忠雄公、8代・忠嘉公、9代・忠幹公が祀られており、いずれも笠塔婆様式の墓塔である。特に初代・忠真公の墓塔は墓所最奥の高台にあり、非常にモダンな形の笠を持ち、全面にその治績が刻まれた非常に美しいものである。歴代の墓塔の中で唯一、宝形屋根の覆屋が架けられており藩祖として特別な位置付けであったことが判る。
小倉藩小笠原家は幕末、尊攘を唱える長州藩による侵略を受け、藩庁を田川郡香春、仲津郡豊津への移転を余儀なくされるなど数奇な運命をたどることとなるが、この藩主墓所だけは永遠の時を刻んでいるかのようである。 (07.4.19記)