大名墓

杵築藩能見松平家

杵築藩 32000石 (譜代)
養徳寺(大分県杵築市南杵築)
国東半島の南側、大分空港の近くに所在する杵築の町は東西の谷筋に沿って町家が並び、これに対峙する南北の小高い丘陵上に武家屋敷を配するという独特の風情を持つ城下町として著名である。町の一画には家老級の武家屋敷や老舗の味噌屋が残り、今でも藩政時代の名残を留めた良い町である。
杵築藩主・能見松平家は徳川将軍家が松平氏を称していた頃に分家した親類筋の家柄である。松平宗家3代の信光公の8男・光親公が三河国能見城に入ったことから能見松平氏を名乗り、代々宗家に仕えて三河武士団の一角を形成した。
家康公(松平宗家9代目に該当)が幕府を開くに至った頃には当主・重勝公は家康の6男・忠輝公の家老にも抜擢されたが、忠輝公失脚後の能見松平家は、下総国関宿藩、武蔵国横須賀藩、摂津国三田藩、豊後国竜王藩、豊後国高田藩と各地を転々とし、1645年に豊後国杵築藩に封地されてようやく明治維新まで国替えもなく落ち着くこととなった。
ところで能見松平家の菩提寺・養徳寺は、杵築城下の町筋より南側の丘(南台という)の寺町に所在する。広大な境内を有しており大寺の雰囲気を今に伝えてはいるものの、残念ながらかなり荒廃が進んでいる。本堂・庫裏など主要な建造物はかろうじて残ってはいるが位牌堂は半壊状態である。いずれもがセンスの良い素晴らしい建築だけに文化財として後世に残す必要があるのではないかと思う。町中に残る武家屋敷は行政の手により修復・公開されているが、菩提寺は観光化とは無縁を貫き、じっと時の経過とともに朽ち果てるのをただ待っているかのようだ。実にもったいない話である。
ちなみに養徳寺に隣接する長昌寺には藩主の正室方の菩提寺となっている。何故に菩提寺を分けたのかは定かでないが、こちらの寺の方が観光地としての整備は進んでいるようだ。
さて養徳寺の境内には参道を突き当たると正面に妻入りの庫裏が建ち、その南側に藩主専用の唐破風屋根の式台玄関を持つ本堂がある。さらに本堂前の南側の一画に白壁の練塀で囲まれた藩主墓所がひっそりと設けられている。
墓所には歴代藩主のうち6代・親貞公と7代・親賢公の2名のみが祀られており、その他の藩主は江戸や京都に葬られている。
高く積まれた台石の上に笠塔婆が東を向いて2基並んいるが、なかなか規模の大きな立派な墓塔である。個人的には変に観光地化するよりも多少荒廃が進んでいたとしても往時の風情がそのまま残されていた方が好ましく思える。その意味では当寺は私好みといえよう。     (07.4.24記)