大名墓
岸和田藩岡部家

岸和田藩 53000石 (譜代)
泉光寺(大阪府岸和田市土生町)
大阪府には天守閣を持つ近世城郭が2つある。1つは云わずと知れた大阪城。もう一つは大阪南郊の中堅都市・岸和田市の中心にある岸和田城である。天下を代表する名城・大阪城の陰に隠れ、岸和田城の存在は何故かしらぱっとしない。戦後になって再建された3層のコンクリート製天守閣では今ひとつ衆生の歓心を呼び起こすに不足なのかもしれない。しかし実は藩政期における本来の岸和田城は現在の姿とは異なり、5層の大天守閣を持つ堂々たる城郭であった。これは各大名家の城郭建設に厳しい制限を加えた徳川幕藩体制にとって例外的な扱いと云ってよいものであった。
こうした特例の背景には、地政学的な問題が絡んでいると云われており、岸和田の地が大阪と紀州を結ぶ中間地点にあることに起因している。すなわち、大阪は天下の台所で当時においても最重要地である一方、紀州を支配する紀伊徳川家には、御三家でありながらも不穏な噂が立つことがあり、万が一の備えとして、こうした配慮がなされたというわけである。
こうした戦略上の重要拠点である岸和田藩に小出家、松井松平家に続いて寛永17年(1640)配置された岡部宣勝公は、美濃国大垣藩を父・長盛公から受け継いだ後、播磨国龍野藩、摂津国高槻藩に転々と国替えさせられ、最終的に岸和田藩に落ち着いた経歴の持ち主である。岡部家は今川氏の家臣の出自ながら、宣勝公が家康公の妹を生母に持つ関係から、特に選ばれてのことであったらしいが、恐らく度重なる転封は能吏的な資質の持ち主であったからではないかと推測される。
さて岸和田藩の藩領である和泉国南郡及び日根郡は、現在の地名では岸和田市、貝塚市、泉佐野市、熊取町といった辺りに該当するわけであるが、この地域は早くから拓けた先進地ゆえに物成りが豊かである一方、宣勝公入部当時においても中世の土豪を系譜に持つ大庄屋層が隠然たる影響力を保つ難しい場所でもあった。先の領主であった松井松平氏も、この中世土豪家を代官庄屋として遇したが、年貢増高を原因として両者の関係が拗れるなど難しい藩政を強いられることもあったようである。宣勝公も入部当初から、こうした事情に十分に配慮し、年貢減免や大庄屋七人衆を選び郡政に関与させるなどしている。こうした大庄屋のうち中家や降井家といった旧家の佇まいは、現在でも国の重要文化財に指定されるなどして残されており、藩政期当初よりも大幅に屋敷は縮小されているとはいえ、彼らの威勢は今でも十分に窺い知ることが出来る。(民家ページ参照)
ところで藩主の墓所については、岸和田市郊外に営まれる菩提寺・泉光寺の境内に所在している。この泉光寺は宣勝公の隠居屋敷が前身であり、寛文元年(1661)に2代・行隆公に藩主の座を譲った宣勝公が寛文8年(1668)に逝去されるまで、ここで過ごされたとのことである。寺号も初代藩主の戒名「泉光院殿鉄外可堅大居士」に因むものである。
隠居屋敷を前身としていることに依るものなのか、寺は至って簡素な佇まいで見る者を圧倒するような厳めしいものでは決してない。この地域の民家に特有の屋根型である大和棟の本堂は、まるで庄屋屋敷の様でさえあり、良い具合に鄙びた風情を醸している。また岡部家の墓所は本堂の脇奥に所在しており、境内の半分程度の広大な敷地が割かれている。まさに藩主のための寺という雰囲気である。墓所は歴代藩主の墓域と一族墓域に区分され、歴代藩主の墓は玉垣で囲まれた基壇上に二段の台石を置き、その上に五輪塔形式の墓塔を立てる形式に統一されている。各藩主の墓所はそれぞれが独立しており、決して規模の大きなものではないが、整然と居並ぶ様は実に壮観である。  (2010.1.5記)