大名墓

加賀藩前田家

加賀藩  1025020石 (外様)
野田山墓地 (石川県金沢市)
瑞龍寺 (富山県高岡市)
加賀100万石と称された当家は、全国300諸侯のうち、云わずと知れた最大の大名家である。
江戸時代を通じて加賀・能登・越中の三国に跨る広大な所領を維持した当家は、外様ながら幕藩体制の中でも常に最高の格式を持って遇された一方、大藩ゆえに常に幕府からの視線を意識しなければならない存在でもあった。
そもそも藩祖前田利家公は織田信長の与力として活躍した人物で、織田・豊臣政権の天下統一の過程にあって立身出世を成し遂げた経歴の持ち主である。信長の下では能登一国の領主という中途半端な存在でしかなかった利家公ではあるが、秀吉のおかげで破格の待遇を与えられ、五大老の1人にまで上り詰めるまでになった。
しかしながら世の有為転変は激しく、豊臣恩顧大名の代表格のような存在である前田家が、徳川家に政権が移行していく混迷の時期にあっては舵の取り方次第では存続さえも覚束ない状況に遭遇したことは、止むを得ないこととはいえ運命の非情さを感じてしまう。その存在を迷惑にさえ思う徳川家からの無理難題に近い要求の数々に対し、家名の存続を図ることの一念で如何なる苦労や屈辱に耐え偲ぶ藩公の決定には、相当に忸怩たる思いがあったに違いない。いずれにせよ、金沢藩成立期に2代利長公、3代利常公といった名君が続いたことも、前田家が幕府の外様大名取り潰し政策の荒波をも潜り抜ける原動力となったことに違いない。
ところで歴代の藩主の菩提寺は金沢市内の宝円寺、天徳院となっているが、墓地は金沢市南西郊外の野田山に営まれている。大半の歴代藩主の墓地は最初から野田山に営まれていたが、天徳院に営まれていた4代光高公、9代重靖公の墓所も昭和20年代に当地に改葬されたため、全ての歴代藩主が集まることになった。
加賀100万石の墓地ゆえに数多くの石灯籠が並び、巨大な墓石が建ち並ぶ壮麗なイメージを持っていると、少々肩透かしを食らわされる。標高175mの野田山の北側斜面に造営された墓地は、7.6haのかなり広大な面積を有し、玉垣で囲まれた歴代藩主の墓所がゆったりと山内各所に点在し、規模のうえでは相当なモノではある。しかし神式で祀られているため、巨大な墓塔は設けられず、墳墓形式の土饅頭があるだけの実に簡素な印象である。玉垣と鳥居さえなければ、古代の群集墳のような雰囲気でさえある。墳墓の規模は初代利家公は19m四方、その他の歴代藩主は16m四方で深さ1m程度の周溝を持ち、墳丘は三段に亘って築造されている。もちろん奥方・子女の墳墓も同形式ながら規模は少し小さくなる。
また利家の墓所の近くには、幼少の頃から付き従ってきた家臣である村井又兵衛等の墓が建てられている。追腹を切った訳ではなく、利家亡き後も夫人の芳春院に従って徳川家の人質になるなどしたのち、天寿を全うした人物だ。あの世でもお供をする意であろうが、苦労を共にして加賀100万石の基礎を築いた戦友の労に報いるための特別な計らいであることは間違いなく、泣かせる話である。
ところで2代利長公の墓所については、野田山墓地内に営まれた一方、富山県高岡市にも巨大な墓所が存在している。これは利長公が3代利常公に藩主の座を譲ったのち隠居生活を高岡の地で過ごしたためであり、国宝の寺院建築に指定されている瑞龍寺は3代利常公が彼のために造営した菩提寺である。境内の東に少し離れた場所に営まれた墓所は、濠に囲まれた全国最大級と称される壮大なものであり、こちらの方が断然見応えがある。    (2009.12.20記)