大名墓

平戸藩松浦家

平戸藩 61700石 (外様)
最教寺(長崎県平戸市岩の上町)・正宗寺(長崎県平戸市鏡川町)
雄香寺(長崎県平戸市大久保町)・普門寺(長崎県平戸市)
九州の北東隅に所在している平戸の町には独特の雰囲気がある。最初の内こそ、それが何であるのか判らなかったが、対馬や壱岐の諸島部を訪れた際に同じような雰囲気を感じてハタと気が付いた。「平戸は島だったのだ」と。「何を当たり前のことを」と云う方もおられるかも知れないが、橋が架かり陸続きのような感覚で車で簡単に往来ができてしまう現在の平戸島に対して、私のような余所者はどうしても島を訪れたという感覚になれないでいたのである。
さて前置きが長くなったが、肥前国北松浦郡と壱岐国を領有した平戸藩の歴史は、中世より当地方を支配した松浦党の系譜を引く平戸松浦家が豊臣秀吉の九州征伐の後に旧領を安堵され近世大名家としての地位を確立したことに始まる。
平戸藩主としての松浦家は初代・鎮信公に始まり、12代・詮公に至るまでの約280年間一度の国替え等に遭うこともなく、この地に安堵され続け、明治維新を迎えた。しかし藩政初期の段階においては、日本国における海外貿易の中心地として平戸に置かれていたオランダ商館、イギリス商館が廃止され、長崎に移転されたことや、古い歴史を持つ家柄ゆえに抱える中世的な支配機構からの脱却など幾多の困難に直面することも少なくなかったようである。
ところで藩主・松浦家の墓所・菩提寺は領内各所に分散して所在している。どのような理由により異なる寺に葬られることとなったのかは不明であるが、藩政初期の初代・鎮信公、2代・久信公は最教寺、3代・隆信公は正宗寺、中期以降の5代・棟公、6代・篤信公、7代・有信公、8代・誠信公、11代・曜公は雄香寺、10代・熈公は普門寺にそれぞれ祀られている。また、その他の藩主については江戸の菩提寺に葬られているらしい。
最教寺については境内の主要な建造物は建て変えられおり往時の雰囲気を留めていない。しかし山門に至る参道はなかなか良い雰囲気が保たれている。墓所は境内裏手の林の中に点在しているが、適当な空き地に自然石の基壇を築き、その上に墓塔を立てたという感じである。台石の上に鏡のような形状の丸石を置いた余り類を見ない墓塔である。
雄香寺は城下より北方にあり、参道の石段が見事な非常に風情の良い寺である。山門を潜り右へ折れると朱色の艶やかな開山堂が緑の中に在る。寺名にもなっている5代松浦棟(雄香院殿)の廟である。国の重文にも指定されている均整のとれた美しい建物である。この開山堂の裏手に土塀に囲まれた一画がその他の藩主墓所となっている。
最後に普門寺については、ここに葬られている熈公が中世期の当主・義公を偲び造立した寺院で自然石の墓塔が境内最奥にひっそりと立っている。手前の景粛堂は恐らく廟所だったのではないかと思われるが非常に美しい建物である。 (07.4.28記)