大名墓

蓮池藩鍋島家

蓮池藩(佐賀藩支藩) 52625石 (外様)
宗眼寺(佐賀県佐賀市蓮池町)
蓮池藩は佐賀藩の3支藩の1つで、藩政初期の1639年に佐賀藩主初代・勝茂公が鍋島家の権力基盤強化を目的として3男・直澄公を分家独立させたことに歴史は始まる。当時、佐賀藩では諫早家・多久家・武雄家といった旧竜造寺家系の家臣団が藩政の枢要を占めており、鍋島家にとっては竜造寺本家から政権を禅譲された立場にあるとはいえ、これらの存在はあまりに大きく、かつ疎ましいものであった。そこで勝茂公は、これら家臣団に領地を割譲させ、支藩を創設して自らの子息達を独立させることで鍋島家の安泰を図ろうとしたのである。しかし皮肉なことに、時代が推移すると各支藩は独立大名としての待遇を志向するようになり、一方の佐賀本藩側は内分支藩としてあくまでも家臣扱いに終始したため、感情的に捻じれた複雑な関係へと変化していくこととなる。全く愚かな話である。
さて蓮池藩の支配地は家臣団から取り上げた領地をそのまま分け与えられたこともあり、神埼郡、佐賀郡、杵島郡、藤津郡、松浦郡の5郡に分散している。ゆえに藩庁のあった蓮池は城下町として発展することもなく現在に至り、藩政時代の名残といえば、わずか陣屋跡と藩主菩提寺ぐらいのものである。あまりにも寂しい顛末である。
その菩提寺・宗眼寺は蓮池陣屋跡から北西方向に500mほどの田園の真っ只中にある。参道の左脇に古い墓塔群が林立しているが、これは家臣達の墓所で、藩主墓所は本堂の裏手の東北隅にある。9代に亘る歴代藩主のうち、最後の藩主・直紀公のみは東京に葬られているが、その他の方々はこの墓地に眠っておられる。
歴代の墓塔の形・規模は統一されており、五輪塔を主体とし玉垣で周りを囲っている。正室を迎えられた藩主については夫婦の墓塔が2つ並んで対を成している。
また墓所内に唯一残る木造の霊廟は初代・直澄公のもので、規模こそ大きくはないが唐破風の向拝を備えた優美な姿の建築物である。この霊廟の正面向拝に架かる虹梁の束には河童の彫像が屋根を支えるような姿で坐しており、この部分のみが町の文化財に指定されている。霊廟という厳かな建物に可笑しな彫刻を据えていることもであるが、この部分だけを文化財に指定する町も変わっていると私は思う。ともあれ規模こそ大きくは無いが感じ良い墓所である。 (07.4.17記)