大名墓

伯太藩渡部家

伯太藩 13500石 (譜代)
南溟寺 (大阪府泉大津市神明町)
伯太藩は享保12年(1727)に成立し、現在の大阪府和泉市伯太町に陣屋を構え、明治維新まで続いた譜代の極小藩である。但し伯太藩としての成立は江戸中期と歴史は浅いものの、渡辺家の大名としての歩みは初代藩主・基綱公の2代前の吉綱公による武蔵国野本藩の成立にまで遡ることができる。
武蔵野本は現在の地名では埼玉県東松山市の辺りとなり、吉綱公はこの地で3000石余りを知行する幕府直参の旗本であった。そもそも吉綱公の祖父に当たる守綱公は徳川家康の下で三方ケ原の戦、長篠の戦、小牧長久手の戦に参加し、幕府成立の礎を築いた功労者である。その活躍は徳川十六神将の一人に挙げられるほどであったが、のちに家康公から尾張藩祖となる9男・義直卿の付家老になることを懇願され、最終的には14000石の大名並の知行を得たものの、尾張藩の家臣という立場で人生を締めくくることとなった人物である。こうした由縁により拝領した尾張藩家老職を守綱公から譲り受けた嫡男・重綱公は、徳川家康の江戸入部に際して守綱公が最初に与えられた野本の地こそが当家にとって父祖伝来の地であるとして、この所領を守るため、自らの3男・忠綱公により別家を立てることを幕府に願い出て許され、3000石の直参旗本として伯太藩渡辺家の源流を成立せしめたのである。(ゆえに尾張藩家老を世襲した渡辺家が伯太藩渡辺家にとって本家となる)
しかし世の中、何がどう展開するか判らない。旗本家として別家を許された忠綱公ではあったが、元来、病弱であったこともあり早々に世を去ってしまう。ゆえに父・重綱公は跡目を5男・吉綱公に継がせることとするわけであるが、この吉綱公の実直な活躍により当家は大名への昇格を果たすこととなるのである。吉綱公は将軍家4代・家綱公の御小姓組番頭を務めたのち、寛文元年(1661)、その官吏としての能力が評価され、大阪定番に抜擢、同時に新恩として1万石の加増を受けることとなる。ここで当家は従来の知行と新田開発分と併せて13520石の大名への昇格を果たし、伯太藩の前身となる野本藩がようやく成立することとなるのである。
さて野本藩の2代目は吉綱公の嫡男・方綱公であるが、彼には嫡子が無かったため尾張藩家老職の本家筋から養子を迎えいれ、自らの娘と結婚させ跡目を継がせることとする。この人物が野本藩3代目藩主となり、のちに伯太藩初代藩主となる基綱公である。この基綱公も大阪定番に任ぜられるなど能吏として評価された人物であるが、野本藩は彼の御代である元禄11年(1698)に武蔵国内の領地を近江国に移されたことをきっかけに、先の1万石加増時に拝領し飛地支配領であった和泉国大庭寺に拠所を移し、大庭寺藩を称することとなる。そして更に30年後の享保12年(1727)に同じ和泉国伯太に陣屋を移したため伯太藩と呼ばれることとなった。ちなみに大庭寺から伯太は僅か1里(4km)ほどの距離であり、わざわざ陣屋を移した理由は定かでなく、地の利を優先させた結果と推測されるが詳細は不明である。いずれにせよ伯太藩は藩祖・基綱公以後、9代にわたり転封・除封されることなく明治維新まで続くこととなる。
ところで伯太藩主渡辺家の墓所は陣屋所在地であった和泉市伯太町の西方にある泉大津市神明町の南溟寺の境内にある。町中にある菩提寺ゆえ、さほどに規模は大きくはないが、妙な商売気もなく清潔な雰囲気に満ちた良い寺院である。しかし本堂の東方の一画に残される藩主墓地は、教えられなければ、これが大名の墓所かと思われるほどの実に簡素なもので、ブロック塀で囲まれたわずかばかりの敷地に、背後には集合住宅が迫っており、少しばかり虚しい気持ちにさせられる。
縦長の敷地にコの字型に配された墓塔は全部で25基ほどである。北面する側に一列に並ぶ歴代藩主の墓石は、時代に関わらず高さ30cm程の自然石そのままのモノで、表面に戒名が陰刻されている。近世初期の墓塔ならいざ知らず、江戸期の大名家の墓塔として、これほど小振りなモノは記憶にないというぐらいに質素なものである。一方、これに対して南面する側の墓石群は戒名から奥方達が祀られたものと思われるが、柱状形式の墓塔となっており、立派というほどの規模ではないが、相応の体裁を保つものと云える。恐らく、こうした質素な墓所を営む理由は経済的な理由というよりも、何かしらの由縁があってのことだと考えられるが、いずれ調べてみたいと考えている。     (2010.1.22記)