大名墓

麻田藩青木家

麻田藩 10000石 (外様)
佛日寺(大阪府池田市畑)
麻田藩青木家は伊丹空港のターミナルが所在する町として有名な豊中市蛍池に陣屋を構えた外様小藩である。しかし残念ながら戦前から大阪近郊の住宅地として急激な都市化が進んだため、現在では陣屋町としての往時の面影は殆ど残されておらず、地元でも、江戸時代の当藩の存在について詳しく知る人はあまりいないように見受けられる。1万石程の小藩で、所領も分散していたため影が薄くとも已む無いことかもしれない。けれども麻田藩について詳らかに調べてみると、その成立の過程は奇跡に近いものがあり、更に明治維新まで改易・転封なく当地において存続したことはもっと評価されても良いのではないかと思われる。
さて徳川幕藩体制の成立期において、豊臣方に与した大名家がどのような運命を辿ったかは周知のことと思うが、この青木家は最後の最後まで、すなわち豊臣秀頼にまで仕え、大阪の陣を豊臣方として戦った筋金入りの豊臣恩顧大名であるにも関わらず、最終的には明治維新まで存続した非常に稀有な存在なのである。
麻田藩初代となる青木一重公は、美濃の国に生まれ、今川氏真に仕えたのち、徳川家康に従い姉川の戦いなどで戦功を挙げている。のちに父・重直の縁で豊臣秀吉に仕えることとなり、大阪七手組の隊長に抜擢、従五位下民部少輔にも叙せられるなど重用され、秀吉逝去後も秀頼に仕え続けた。そして大阪冬の陣には形勢不利を承知で豊臣方大名として参戦するも、徳川家との間に和議が成立したため、礼謝使として駿府に下向することとなる。しかし、ここからが運命の分れ道。駿府からの帰路、京都で徳川方に拘禁されてしまい、大阪夏の陣に参戦できないまま豊臣家は滅亡してしまうという事態に遭遇する。当然ながら一重公はこのことを大いに悔やみ、剃髪し出家することを望んだが、家康に慰諭されるばかりでなく、再び召し抱えられて豊島郡麻田の地を与えられ立藩することとなる。本人の気持ちはともかく、まさに首の皮一枚で繋がったような展開である。
おそらく当人が相当の人物であったばかりでなく、弟が三方ヶ原の戦いにおいて家康を守って討ち死にしたことなどの家歴が幸いしたのではないかと推測されている。
ところで菩提寺の佛日寺は陣屋所在地である豊中市蛍池から東北に少し離れた池田市畑の小高い丘の中腹に所在する。そもそもは陣屋近くの麻田村東方の天王山麓に2代重兼公が1630年に松隣寺として建立したものであるが、1654年に現在地に移転。5年後の1659年には佛日寺と改名している。余談ではあるが、菩提寺を建立した2代重兼公は深く仏教に帰依したことで知られ、生涯を寺院の建立に費やした人物である。武家の棟梁たる源家の宗廟として著名な多田院(兵庫県川西市)の再興に始まり、黄檗宗の本山として名高い京都・宇治の万福寺の建立奉行などを務め、最後には自ら仏門に入り兵庫県三田市末吉に方広寺を開基し、第2代住持となっている。黄檗宗を日本に伝えた隠元和尚との親交でも知られ、江戸初期の黄檗宗の流行に一役買った人物ということになる。領民の負担のことを考えなければ、現代に残る仏教文化遺産に大いに貢献した人物と云えるだろう。
さて現在の佛日寺は都市化の影響や先の神戸大震災の影響などもあり、境内の諸堂はすっかり近代的な建造物に建替えられている。昔日の面影など微塵も感じられない変貌振りに、最初に訪問した際は藩主墓所さえも消失したのではないかと心配になったほどであるが、境内から少しばかり離れた南方に何とか残されていた。小さな森の斜面を造成して造られた細長い土地に墓塔が2列に立ち並ぶ様は、小大名の墓所らしく非常に簡潔で律儀な印象である。
歴代の墓塔形式は統一されているが、あまり例を見ない形状である。重制無縫塔と解説されており禅宗様式で主に僧侶墓として用いられる形式であるが、通常で云うところの卵型をした無縫塔とは大いに異なる姿である。墓所には全部で16基の墓塔があり、現在では池田市の史跡第4号に指定されている。    (2010.1.11記)