田中家住宅 Tanaka |
国指定重要文化財 (昭和43年4月25日指定) 滋賀県長浜市西浅井町集福寺695 建築年代/明和5年(1768) 用途区分/農家(庄屋) 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 滋賀県の最北部、福井県との県境付近の集福寺集落に所在する農家建築である。琵琶湖に面する最北端の町・塩津から敦賀へ抜ける塩津街道を少し脇に入った位置にある。集落内を縦貫する道路よりも、一段高くなった谷間の平坦地に屋敷はあり、主屋の前方に小振りな土蔵が一棟配されているものの、門塀は立てず屋敷構えと云える程の様子ではない。庄屋役を務めた家柄と伝えるが、後代に建った集落内の他の民家が規模を大きくする傾向にあるため、決して役柄から想像されるような際立つ存在というわけではなく、また、本来茅葺であった屋根は、現在はトタン板で覆われていることもあり、国の重文指定民家だとは気付かずに通り過ぎる程に地味な風情になってしまっている。しかしながら、驚くほどに急勾配な屋根を眺めていると、茅葺職人の少なくなった今の時代、豪雪地帯にあって茅屋根の傷みが早い状況を勘案するとトタン葺に改めることも止むを得ないことなのかもしれないと、素直に思えてしまう。主屋の形式分類としては長浜以北の琵琶湖北東部の一部地域にのみ見られる余呉型に該当するもので、入母屋造、妻入の形式を採り、間取りは広間型として土間と床上部の間にニウジと呼ばれる土座が設えられている様子は、その典型である。㈱INAX発行の「近畿農村の住まい」(平山育男著)によれば、余呉型民家の分布地は中世の細川管領代奉書発給地域と合致することから、管領支配の名主層の身分表現として人為的に作られたものが後に一般にまで広まった、と記述されている。そうしてみると、中世的な家作が連綿と引き継がれているわけで、ある種の浪漫を感ぜずにはおれない。ただ、余呉型については、北陸地方の影響を大いに受けていることが早くから指摘されており、京・大阪に分布する前座敷型に対して北陸地方では広間型を主流とし、また畳割も京・大阪の6尺3寸に対して、北陸地方は6尺が基本となるが、余呉型は広間型、6尺の畳割を採り、いずれも北陸地方の民家形式と一致する。入口を妻側とする特殊性は、冬場の屋根に積もった大雪を平側に落とすため、自然と妻側に出入口を設けざるを得なかったという合理的な理由もある。実際、細川管領時代に建てられた中世民家が現地に残っているわけでなく、発掘調査による柱跡から想像を膨らませるしかないのだが、やはり限界がある。大きな手掛かりとして、17世紀中頃に建てられた推測され、国内屈指の古式を留める福井県丸岡町の重文・坪川家住宅の存在に注目し、その間取りや建前の類似性を勘案したとき、細川管領の建築制限の影響によるものか、あるいは単に気候・風土的な影響によるものなのか、答えに繋がるヒントが隠れているのではないかと思う。当住宅は建築年代も明確であり、余呉型民家の完成形として貴重とされているが、その形式に潜む様々な要因に思いを巡らせてみると、もっと楽しめる民家旅となるはずである。 【参考文献】 解説版 新指定重要文化財12 建造物Ⅱ (毎日新聞社発行) 日本の美術 No288 民家と町並 近畿 (宮本長二郎著・至文堂発行) 近畿農村の住まい(平山育男著・(株)INAX発行) |