目黒家住宅
Meguro



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国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定・平成5年4月20日追加指定)
新潟県指定文化財 (昭和30年2月9日指定/主屋)
新潟県魚沼市須原890
建築年代/寛政9年(1797)
用途区分/農家(山村大地主)
指定範囲/主屋・中蔵・新蔵・新座敷(橡亭)・石動社
公開状況/公開
JR上越線の小出駅から分岐する只見線に列車を乗り換え、破間川沿いに少しばかり遡ると間もなく越後須原駅に到達する。この先の六十里越の峠の向こうは、人家とは無縁の険しい奥只見の山間部である。駅を降りると国道を挟んだ正面に長大な石塁を築いて只ならぬ風情を醸す屋敷が目に飛び込んでくる。それが糸魚川藩魚沼領で代々割元庄屋を務め、耕地面積150町歩を誇る魚沼地方第2位の大地主として近在に名を馳せた目黒家住宅である。
目黒家は近世以降、会津から此の地に住み着き、代々庄屋を世襲してきた農家である。戦国大名の蘆名氏に仕えていたが、室町末期に奥州の覇者・伊達政宗との摺上原合戦で主家が敗れると、天正18年(1590)に北魚沼広瀬谷に帰農・土着したという。寛永18年(1641)に没した初代・善右衛門は慶長年間(1600年頃)に上条郷15ヶ村の肝煎役を務めたと伝え、魚沼地方が天領であった元禄年間(1688-1703)には堀之内組のうち上条郷25ヶ村の中庄屋となっている。また江戸中期の寛保3年(1743)に魚沼領3000石が天領から糸魚川藩に村替えとなった際には須原村庄屋を務めるに過ぎなかったが、宝暦5年(1755)の8代・五郎助の代に至って糸魚川藩の飛び地であった魚沼領の割元庄屋役を命ぜられている。以後は代々割元庄屋役を世襲し、苗字帯刀を許され、糸魚川藩から扶持を受けたとのこと。割元庄屋職は他藩でいうところの大庄屋職であり、魚沼領近郷23ヶ村を統括し、明治初年まで当役を務めたという。(魚沼領には2名の割元が配された) 地域においては西野名、東野名(目黒家住宅の北東方向・入広瀬付近)などの名田開発に貢献したと伝えられ、目黒家の記録によれば安永年間(1770年頃)の身代は140余石、造酒200石、奉公人20名を数え、明治20年には蔵米1500俵を売ったと記録、150町歩の耕地を所有し、北魚沼郡内では小千谷の西脇家に次ぐ存在であったという。明治15年頃には須原村に広瀬銀行を設立し、養蚕・機業の振興にも尽力している。15代・目黒徳松は明治13年(1880)には草創期の新潟県議会の議員に選ばれ、隣村・並柳の関矢孫左衛門と共に魚沼改進党を結成し政界で活躍、明治25年(1892)には帝国議会の衆議院議員に選出されている。16代・孝平も明治45年(1912)に衆議院議員に選出されている。大正9年(1920)には最盛期を迎え、165町歩、小作人総数325名に及ぶ豪農に伸長したとのことである。
屋敷地は北側の背後に緩やかな斜面地の山林を控え、東側には屋敷祠として石動社を祀る小高い丘が座敷庭園の借景の役を果たしている。屋敷地全体が南に向かう傾斜地で、石垣を築いて緩やかな雛壇状に土地を造成、地籍上の宅地面積は約2000坪弱としているが、境界を垣根や塀で囲っている訳ではなく周囲の原野と一体化しているため、正直どこからどこまでが敷地なのか判らない程に開放的である。ただ屋敷の表側のみは奥会津街道(小出栃尾道)に接して石塁を築くとともに、その西寄りの位置に冠木門を構えて単に道行く人々との結界とする。敷地入口から一直線に主屋まで続く通路に従って歩を進めると、遠目にも威風堂々たる主屋建物が徐々に圧倒的な存在となって眼前に迫ってくる。その視覚的な効果は抜群で、訪れる者の高揚感は最高潮に達するはず。正に仰ぎ見るような巨大民家の登場である。
さて、当家に残る棟札や家作用材買入帳の存在から主屋は寛政9年(1797)に11代・目黒五郎助が建てたことが明らかになっている。また主屋の上手背面には離れ座敷となる「橡亭」が付属するが、この部分のみは目黒家最盛期の明治34年(1901)に建てられたもので、大床を備えた座敷の脇に茶室を併設する瀟洒な造作となっている。
主屋は屋敷地中央に建ち、その周囲には融雪池が設けられ、少し離れた背後の微高地に中蔵と新蔵が建つ。嘗ては両土蔵の他に籾蔵・米蔵・味噌蔵・酒蔵・醤油蔵等の建物があったというから、更に壮観な屋敷構えであったに違いない。主屋の周囲は基壇状に少し高く上がり、雪国特有の湿気対策としているようであるが、背後の土蔵は共に鞘に収められており、融雪池の存在と共に、この地が生半可な雪国ではなく、超が付く豪雪地帯であることを教えてくれる。主屋は桁行16間、梁間6間に及ぶ巨大な建物で茅葺寄棟造の平入とするが、正面西寄りに同じく茅葺入母屋造の前中門を突き出し、背面東側にも寄棟造の裏中門が付属する。建築学的な分類では中門造と称される建前である。中門を潜り大戸口から主屋内に足を踏み入れると広大な土間空間が拡がっている。下手奥寄りには大きな囲炉裏を切った板床の台所が設えられているため決して空虚な雰囲気ではなく、思わず囲炉裏端で焚火に当たりたくなる、人の集いを感じられる空間である。山間部の民家の土間空間は底冷えするため、恐らく秋・冬・春の1年の大半は火を焼べ続けているに違いない。上手は土間に沿って17畳半の広間と21畳の茶ノ間が前後に並ぶ。茶の間は主屋内で最大の空間を有する一画で、中央部には囲炉裏が切られている。板床の台所とは土間の通りニワを挟んで向かい合う位置にあるので、多くの使用人たちと家人が一緒に夜鍋をすることもあったと想像する。この二間の上手は入側付の鍵座敷と寝間、仏間となり、広間に並ぶ前列には順に槍の間、中ノ間と続き、槍の間の表側に式台を構え、奥側には仏間を設える。中ノ間の奥側には奥の座敷があり、この室を床と違い棚を備えた正座敷とする。書院窓は設けず8畳敷の至って簡素な設えとするが、これが封建制の建築制限に拠るものか、あるいは単に質素な家風を顕したものかは判らない。いずれにせよ、明治34年(1901)に建て増しされた主屋裏手の橡亭が、座敷周りに土縁を矩手に廻し、要所に銘木を使って洒落た書院造としていることと比較すると、近世と近代では随分と家作に対する考え方に落差があると感じられる。実際、先年の大雪の際には橡亭は雪の重みで押し潰されたものの、主屋は何事もなく無事であったとの話を伺った。こうした事実を前にすると、やはり雪国には雪国の建前があるということを思い知る。主屋の柱は太く、座敷回りでも15cmを超える材が使用されており、小屋組には二重梁が多用されている。一言でいえば武骨な田舎建築である。一方で橡亭は、その名称が増築前のこの場所に大きな栃の木が立っていたことに由来するという逸話からも窺えるように、文化の香りが漂う雅な建築である。建築の真価が125年後に問われる結果になるとは、往時の人達は更々想わなかったに違いない。
ところで、主屋の建築様式を顕す中門造という形態についても触れておきたい。木造建築用語辞典を紐解けば、中門造とは、「東北地方に見る茅葺の民家形式の一つ。平面はL字型で曲屋造と同じだが、突出部は主屋への通路、厩、便所からなり、積雪時の便を考えている」と解説されている。当住宅が所在する越後地方においても東北地方と同様に中門造民家が多く見られるが、その形態は様々である。主屋の表側に中門を付属させれば前中門、裏側に付属させれば裏中門、後中門と呼称される。主屋前に中門を突き出す前中門の形式を採る場合は、厩中門、玄関中門、座敷中門など、中門が設えられる位置と用途によって更に細分化できるが、当住宅の場合は大戸口の前にあるため厩中門に該当すると思いきや、厩や厠の機能は無く、番頭部屋と供待ち部屋が通路脇に配されるのみとなっている。どうやら当住宅の中門は単に厳しい気候条件下における内外の緩衝帯の役割を担っているだけに過ぎないようである。厩には別に専用の出入口があり、土間への出入も別に扉口がある。むしろ玄関的な機能に近い存在であるが、上手には槍の間前に式台が別に設けられている。周辺の限られた地域の有り様を見てみると、当住宅から徒歩で20分ばかりの山手に国重文指定の佐藤家住宅が残されており中門造の様式を採っているが、こちらは大戸口前に突き出す形で厠と馬屋を備えた厩中門となっている。昭和49年に実施された民家緊急調査によれば、北魚沼郡一帯では佐藤家住宅と同様に厩中門の形態を採る例が大半であったようである。これらと比較すると当住宅の場合は、根本的に異なる思想で中門を構えたということになるが、ここまで豪快な中門を設えた意図は何だったのか、訝しく思うところである。当住宅を初めて訪れる者は、この中門の存在によって、恐らくここが玄関だと思うのではないだろうか。棟を前に突き出し、入母屋の破風に独特の刈り込みを入れる格式表現は、主屋の正面を飾るうえで非常に印象深いものである。おおよそ建築的表現の在り方としては、大戸口と式台玄関を構える上層農家建築において破風屋根を付加する位置は式台玄関前とするのが半ば常識である。重文指定民家で中門造とする例は限られてはいるが、青森県の五所川原市に明和6年(1769)の建築で大庄屋を務めた平山家住宅(国指定重文)の例でも中門を突き出す位置は玄関前である。目黒家が何故に大戸口前に中門を出すことを意図したのか、灰色の脳細胞を駆使して想像するに、あくまで私見ではあるが、恐らく並外れた豪雪が絡んでいるのではないかと見立てている。
魚沼地方は例年2〜3mは当たり前に積雪する土地柄である。当住宅の管理人さんによれば、主屋の周囲に配される融雪池では大雪の際は全く間に合わない程とのことである。主屋の大屋根の軒下を船竄ノして建ちを高くするのも積雪時の採光を確保するための知恵である。除雪の苦労を考えたときに、表門から主屋への通路確保は、できれば最小限の単路としたいはずである。そして主屋の半分以上が雪に埋もれた状態で吹雪かれたとき、来訪者に進むべき方向を示すためには、出入口は中門部分にあるということほど判り易いものはない。なので当家の場合、表門から主屋へと続く石畳は、大戸口へ真っ直ぐに向かうのみである。同じ越後の平野部に所在する味方村の笹川家住宅が、表門から本玄関と大戸口の2筋に石畳を敷く様子とは事情が異なっている。恐らく圧倒的な自然の脅威に接しながら生きる者にとって、遠く離れた糸魚川藩の陣屋からやってくる役人達に構ってなんかいられないのである。増してや藩主・松平候は1万石程度の定府大名である。領内巡視や鷹狩りでやって来ることなんて殆ど想定できなかったはずである。その意味で当家は大庄屋としての格式を理由に座敷を整え、賓客を迎える様を装いながら、本当はそのような時が来ることなど全く期待もしていなかったのではないだろうか。わざわざその為に式台玄関に向って通路を作り除雪をすることなど、微塵も考えないのである。恐らく今に残る主屋の有り様は、自分たちに都合を最優先に家作を考えただけの結果に違いない。
私は、この屋敷を幾度も訪れているが、その度に垣根のない広大な屋敷地の開放感と、主屋の民家建築としては桁違いの巨大さが醸す圧倒的な存在感に身震いさせられる。そして前面に張り出す豪壮な中門を構えた主屋の美しさを見るとき、厳しい自然環境に立ち向かって藩を頼みとせず、自助の精神で魚沼地方をひたすら切り拓いてきた者たちのたくましさを想像するのである。(2025.11.20記)

【参考文献】
解説版新指定重要文化財12 建造物編 毎日新聞社刊 昭和57年2月発行/越後豪農めぐり 新潟日報事業社刊 1990年6月改訂第1刷/INAX ALBUM36 北陸の住まい 日塔和彦著1996年9月第1刷/
 

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