◆ 琴 線 ◆
月夜に音色が響いていた。
音楽というのは鳴らすその者の心を映しだすという。
弾く者の心の端に触れる事の出来る芸術だと言って良い。
レティシアはたまたまその音を聞き止め、その純な旋律に興味を引かれた。
花の香りに誘われ惑う蝶のように、レティシアは音を求める。
廊下を抜け、塔を登り、窓から顔を出すがまだ辿り着かない。
一体誰がこんな切なくて優しい音を弾くのか。
レティシアは一目会いたかった。
会ってどうしようという気もなかったが、ただ会いたかったのである。
「…上だ。」
レティシアはついに屋根に手をかけ、軽やかな身のこなしで屋根の上に立った。
そこに見つけたのは茜色の羽根を持つ隆々と逞しい肉体を持つ男。
信じられない思いでレティシアは呆然とその背を見つめる。
その気配を感じたカノープスは指を止めて振り向いてバツの悪い顔をした。
「…ちっ、変な所を見つかっちまったな。」
「……マジ?」
「俺に何か用があったか?」
「いや違う。誰が楽を弾くのか知りたくて来たんだ…が、ちょっと…予想外も良い所だな。」
「俺が弾いてちゃ変か?」
「変だ。」
きっぱりと言ったレティシアの言葉に、カノープスはにやっと笑って
「昔はオルフェの再来とも呼ばれたんだぜ。」
と言うと、再び音色を奏で始めた。
オルフェとは、神々の中でもぬきんでて素晴らしい音楽の才能を持った見目麗しい少年神と言われている。
そしてカノープスは言われるのも納得がいく程の腕前だった。
彼の妹である歌姫と名高いユーリアの事もある。優れた音楽が傍にあったのだから、彼にも同様に音楽の才能があって、それが目覚めていたとしても不思議ではない。
…不思議ではないのだが、あの無骨で太い指が弦を爪弾くなど思いもしていなかった。
レティシアはカノープスの横に座る。
「今までもたまに弾いていたりしていた?」
「いや…かなり久しぶりだな。最後に弾いたのがいつかなんて忘れちまった。」
「ふぅん。」
少し歯切れの悪い言葉に、レティシアはそれが自分の領分でない事に気付いてそれっきり喋るのを止めてしまった。
思い出したくない事だって、人に喋りたくない事だって、誰もが皆あって当然だとレティシアは思っている。
流れていく音が心地よい。
カノープスは曲を弾いていたわけではない。 ただ、心赴くまま弦を弾き、その音を聴くだけ。
誰かに聴かせる為ではなく自分が聴く為だけの音だ。
だがレティシアはひどくその音に惹かれていた。
彼が奏でる快い音が心を満たしていくものは、カノープスの傍にいる時に感じる優しい気持ちと同じ。
いつまでも聴いていたい音だ。
だがしばらくして指が疲れたのか、カノープスは爪弾く事を辞めてしまう。
レティシアは夜闇に溶けていく音色を惜しみながら、閉じていた瞳を開いた。
「これからもたまには弾いてよ。」
「お前な。」
苦笑してカノープスが言う。
「さっき変だって言った口でそう言うか。」
「変だけど、好きだよ。」
好き、という言葉にカノープスの心臓が勢い良く跳ねた事に、レティシアは気付くはずもない。
もしも弾くのを止めていなかったら気付かれたかも知れないが…。
「ま、まぁ、たまには弾くのも良いかもな…。」
「その時には是非私を呼んでくれ。」
「考えておく。」
「ふん、意地悪め。」
素直にOKと言わないカノープスにべっと舌を突き出すと、レティシアはひらりと屋根から降りてしまった。
レティシアが去った後も、痺れるような甘い痛みを抱えてカノープスはずっとそこに座っていた。
恋の熱など、月の冷たい光だって冷ましてくれないと知りながら。
「好き、か。」
彼女には心に決めた騎士が一人居る。
決して自分には向けられない感情だと知っているのに、身体だけが彼女に反応してしまう。
全く、人の心とは難しい。
カノープスはただそう苦るのであった。
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カノープス片想い推奨。←ヒデェ
そしてあれほどの絶対音感を持つ妹がいるのだから、カノープスも音楽の才能があるのではないかと。
カノープスって、不器用そうに見えて実はとても器用そう。
…と、思うのですが。