まとめ


原作ではオスギリアスはほとんど描かれない。PJの映画ではオスギリアスのシーンがたくさんたくさんあった。遥か昔の、数千年も前の都の廃墟が正にそこにあった。その街を、そしてゴンドールの兵がそこで活動しているのを見ることが出来たことは、世界中のトールキンファンに大きな影響を与えたことだろう。

映画は凄かった。アイゼンガルドの全景も、ミナス・ティリスを登るのも、ヘルム峡谷も、実写で見れるなんてちょっと前の時代では想像も出来なかった。
そして何かと頭にくる原作の改変。この場合はオスギリアスの徹底的活用。でもこれは、話の流れはちょっと変ではあったけれど、街をとことん映す、という方針のおかげで、ゴンドールの昔の都の跡をじっくり眺めることが出来た。
これは原作通りにするのとどっちがよかったのかはわからない。

アイゼンガルドやミナス・ティリスの構造は、どうなっていてどういう建物なのかがある程度決定している。
その一方、オスギリアスはあまり描かれていない分、読む側の想像に任されている。あまり話に出てこない分、具体的イメージも曖昧だった人が大半だと思う。ここにも約1名。

映画を観てしまうと、オスギリアスはああいう街並みで、ああいう程度の崩れ具合で、まだ建物は使う気になれば結構使えて、河幅はあの程度で、って感じでイメージが固定される。
でも映画を観ることで、オスギリアスをより鮮烈に思い描くきっかけになった。自分がイメージする廃墟が何となくああいう感じじゃなかった、という人は、これを機に、自分自身のオスギリアスを心の中にしっかりと構築すればいい。

だからあの映画でオスギリアスがかなりの時間映っていたことは、とてもよかったと思う。PJその他スタッフに感謝。あれだけセット作るのは大変だ。いや、セットじゃなくて本物だけどさ。


大昔の廃墟というのは、意味もなくそこにあるのではない。建物が残っているにしても崩れ果てているにしても、トロイもポンペイもモヘンジョ・ダロも、人々の気配や昔の生活のエネルギーが残っているのだと思う。そして遥か後の時代になって、人は(鷲も)それをどこかで感じるのだと思う。無意識にだとしても。

そして、その場所が生きていた時と、自分のいる今の時の、時と時の隔たりのあまりの遠さに足が止まってしまう。
そして人は(鷲も)考古学に惹かれたり、古代を想うと不思議な懐かしさを感じたりするのだろう。

オスギリアスには大昔の剣のかけらが残っているかもしれない。甲冑の留め具が落ちているかもしれない。武具でなくて、日常の生活のものもたくさんあるはずだ。食器や櫛のかけら、絵の一部、書物の切れ端。
ゴンドールの民は、そのオスギリアスで何を感じていたのだろう。
何千年も前の王たちのこと、人々のさざめき、木々や花々、雨や風、長い歴史と戦いと、名前も残っていない兵たちのこと、兵たちの家族や恋人のこと。そんなもろもろの時の流れのずっと先で、自分が今その場所にいる。

時の流れというのは不思議なものだ。同じ場所でも遠いところになる。

そしてそこは、指輪戦争時、時の彼方の遠いところではなく、正に戦いの要だったのだ。

星々の砦は廃墟となっても星々の砦であり続け、ゴンドールの紋章の7つの星を見つめているような気がする。


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