「荒らし場」という訳が絶対ではないというのは、子供の頃、グワは「荒らし場」という日本語から、スマちゃんは時々外に出て、そこら辺を引き続きメチャクチャにして遊んでいるのだと思っていたからだ。

ゴォー!!ってやったり、ドッカーーンってやったり。楽しそうではないか。
イメージとしては、ウルトラマンに出てくる怪獣だ。そこへ地球防衛軍の戦闘機が飛んでくる。
ビューン、ババババババ!!プヒュン、プヒュン、ドドドドド!!!ますますそこら辺は荒れ放題に。
そしてそこへ正義の味方が現れるのだ。(^o^) いいぞ、いいぞ!!(←ちがう)


「荒らし場」となると、「荒らしてる場」って感じで、現在進行形のようなイメージでいた。
荒らし中ですので、近寄らないでください、みたいな。
荒らしてる場、ではなく、荒らした場、と読めばよかったんだけど、進行形のイメージしかなかった。

トールキンの地図は外に竜がいるから、余計にそう思う。荒らしてるところだから、荒らし場なのだ。
あの竜の絵、楽しそうなんだもん。らららん♪とお散歩してる感じ。

で、スマちゃんは、ひとしきり運動したら、おうち(はなれ山)に帰って寝るのだ。その運動場が荒らし場。


でも、どうも、違った。

面白いところだけちゃんと読んで、あとは斜め読み、っていうことをしてて、運動場=荒らし場、と勝手に解釈してたのが、少し大人になって斜め読み率が減って、よく読むと、ほんとは違うらしい。


エスガロスの人たちは、ずーーっと、竜の姿は見ていない。


ビルボたちが行ってしばらくして、山が光るのが見える。そういうことも、それまではなかったらしい。

運動場になってるのなら、遠くからでも何かは見える。光は見える距離なのだ。
富士山で何かドンパチやっていれば、東京からは見える。ちょっと高いビルからで、東京中の灯りを消してもらえれば、富士山でスマちゃんがゴオオオ!ってしてれば、わかる。
たとえが下手ですいません。(^^;)
ま、そんな感じ。
とにかく、ずっと、エスガロスからは何かが見えることはなかったらしい。


エスガロスでは若者たちは、山に竜はいないと思っていた、とある。
飛んでいるのを見たことがあるというお年寄りのことをバカにしていたと。


つまり、少なくとも数十年は、スマウグは人間の目にとまることはしていないのだ。


たまに外へ出て、山を一回りするくらいなら、エスガロスからは見えない。
その程度の動きしかしていなかったということになる。


なんだ、運動場じゃないんだ、と気づいたときは、結構カルチャーショックだった。
もっと後になって、馳夫さんの原語がストライダーだと知ったときは、天地を揺るがすようなショックだったけど、その60%くらいのショックだった。


昔、荒らされて、そのまんまなのだ。

荒らしてる場じゃないんだ〜 そうなんだ〜・・・

でもなんで、そのまんまなんだろう・・・  それが、昔、ふしぎだった。


そりゃ、山に竜がいるから、山の周辺は危険だからなのですが。

でも、結構離れたところもそのまんま。
災害があっても、すぐ復興作業が始まる日本とは違う。子供心に、その差がふしぎだったのだ。

その差は、次のページに書いた、語の意味がわかればわかることだった。やはり、荒らし場ではなかった。


「荒らし場」は、いい訳ではあるけれど、絶対的なものじゃない。
訳本の刷り込みは、ある意味おそろしい。一度それで慣れると、他の訳語を受け付けなくなる人が多い。

まぁ、本は、「荒し場」なんだけど。うちにあるのはそう。今売ってるのはどうかわからない。荒し、っていうのも間違いじゃないみたいだけど、今は一般には送り仮名に「ら」もつけるのが普通。 でも、荒いの場合は「ら」はつけない。日本語はむずかしい。
児童書なら、普通の送り仮名にしておいた方がいい。


送り仮名は置いといて話を戻すと、「荒らし場」は、desolation の深すぎる語意とは、何かこう、違うのだ。
グワは、昔から、ずっとこれが引っかかっていた。あー、ちがうんだー、って思ったことは、忘れられない。

児童文学として、子供が読んだとき、荒らしてるところ、という印象になる可能性があるなら、それは避けた方がいい。

そりゃ、昔、荒らしてるときに、荒らし場という名前になって、それがそのまま・・・ってことなのかもしれないけど。
でもDesolationは、破壊中って意味なわけじゃない。




desolationの意味とは