トールキンの描いた世界は壮大である。
ファンタジー文学というジャンルは、現在考えると不思議なことだが、トールキン以前には存在しなかったと言われる。
それまでファンタジーといえば、子供の読むおとぎ話の範疇に収まる程度のものばかりで、空想の世界、妖精の出てくる他愛もない小品にしかすぎなかった。

ところがトールキンはとんでもない世界を創り出した。

そしてそれはおとぎ話ではなかった。

よくある妖精物語に出てくるエルフは、小さな妖精である。でもトールキンのエルフは人間と変わらない大きさで、すらりとして力強く、美しく、悲しみを秘め、武術だけではなく芸術にも長けた種族だ。妖精ではない。
話の運びにも甘さはない。旅を重ね、各種族の隆盛と衰退があり、希望と絶望が繰り返される。
地理、言語、歴史、全て事細かに設定され、風景描写はこれでもかというほど描きこまれ、登場人物の内面の深さは計り知れない。

20世紀の文学で、これほど壮大なものはない。これは、英米国内の投票によって20世紀最高の本として何度も選ばれている通り、多くの人々が認める事実だ。そして、歴史上として見ても、ジャンルが違うということもあるけれど、ここまで大がかりで深遠な世界が描かれているものはなかなかない。

ギリシャ・ローマ神話もこれほどではない。オデッセイの旅もこれほどではない。ギルガメシュの物語もなかなか凄いけれどこれほどではない。シェークスピアだって、全体の作品群は膨大だが、ひとつひとつはこれほどではない。トルストイもデュマもこんな世界は描いていない。源氏物語だって、あれも相当大規模で、とてつもなく優れた日本語で、世界的に見ても最高峰の文学ではあるけれど、こういった壮大な世界ではない。
あえて言えば、トールキン世界に太刀打ちできるのは、トールキン世界を凌駕できるのは、聖書くらいなものだろう。膨大な歴史と系図、さまざまな人たちの物語が詰まった聖書だけだ。でもあれは文学っていうわけではないし。

さて、これほど凄い世界を創ると、当然その後の文学界に影響がある。ファンタジーというジャンルが認められ、たくさんの人たちがファンタジーを書く。でも誰もトールキンの影響から脱することは出来ず、トールキンを超えられない。

文学のみならず、ゲームや映画の世界も影響されている。ファンタジー系のものは大抵、トールキンの二番煎じにすぎない。
ドラクエも、トールキンの真似。スターウォーズもトールキンの真似。今流行りのネット上のゲームもみんな元を正せばトールキンの真似。
龍がいて、剣士がいて、魔法使いがいて、宝があって・・・なんだ、同じじゃないか! でも中身が全くなかったりする。一見違うように見えるものでも、状況設定を変えてあるだけで、根っこの部分は変わらない。いちいち数え上げるとキリがない。
そして、あまりに影響が大きすぎて、元がトールキンだったことがわからなくなっていたりもする。ゲームを作ったり、本を書いている人たちの中には、トールキンの真似をしていると自覚していない人もいるだろう。
それくらい影響は大きい。
トールキンのお陰で仕事をして、トールキンのお陰で生活が出来ている人口はかなりのものになるに違いない。

そして、そのもろもろのトールキンの影響アリの作品群は、もちろんそれなりにすごいのもあるけれど、たいてい安っぽい。中身がない。指輪やシルマリルの真似をして、でも安っぽくなるのは何故なのか。


指輪の世界は、一度読んだだけではわからない。
子供の頃、夢中になって読む。凄い!凄い!これは凄い! と思っても、大人になって読むと、10代の頃凄いと思っていたのは、実は大してわかっていなくて、上っ面のところしか読めていなかったとわかる。
そうか、こんなに素晴らしかったのだなぁ、と感嘆し、しばらくしてシルマリルも読み、指輪もホビットも何度も読み返す。すると、その凄いとわかったつもりになっていた1年前にわかったと思っていたのは、まだまだわかっていなかったということのがわかる。

これはじいさんばあさんになってからまた読み返すと、味わいはもっと増すのだろうか。たぶんそうなのだろう。

トールキンだけでなく他の古典もたくさん読んでいる人と、普段読書はあまりしない人では、また読み方も違うだろう。読書量の多い人の方が深く読めるに決まっている。

文学だけでなく、他の芸術にも造詣が深い人の方が、もっと深く感じられるはずだ。

要するに、読む側の深さによって、どこまで感じられるかがかなり違うのだと思う。

これは何もトールキンに限ったことではなくて、何を読んでも同じなのだけれど。

もともと薄っぺらな作品なら、誰が読んでも全部わかる。でもつまらない。
トールキンの困ったところは、そして嬉しいことには、トールキンの描く世界は薄っぺらでなさすぎるのだ。

だから、読みきれない、感じきれない、という現象が起きる。
感じきれていない人が真似をしても、安っぽいものしか出来ない。人間というのは、自分のいるレベルでしかものを作れないから、これは仕方がない。
まぁ、こういう世界が好きか苦手か、ということもあるから一概には言えないけれど、一般論としてはそうなると思う。例外はあるにしても。 好みの問題は別だから。

絵画であれ、音楽であれ、文学であれ、最高レベルの作品というのは、大衆向けではなかったりする。わかってもらえない、というのがある。わかる人にはわかる。こんなに凄い世界があるのか、という驚きがある。
でも自分のレベルによって、この傑作がどうのこうのと言われても何が凄いのかわからないときもある。わからないときの方が多いかもしれない。世の中、偉大な人はたくさんいるのだ。

自分のいる位置以上のものを理解するのは大変なことだ。

ところがここでトールキンの凄いのは、それぞれのレベルでこの物語を楽しめるところだ。よほどファンタジーが苦手な人でない限り、何が傑作なのかわからない、ということがない。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟レベルでも、ひょっこりひょうたん島レベルでも、それぞれ楽しめてしまう。こういう本はなかなかないと思う。

上っ面だけでも充分凄い。面白いことこの上ない。そして、ちょっとずつ大人になる過程で、その面白さは深みを増し、高いレベルまで見えてくる。その時にはそこが最高点かと思うのだが、そうではない。指輪の中にはさらに上の世界がある。その繰り返しだ。


指輪物語、第3部「王の帰還」第8章、メリーとピピンの会話。

ピピン 「僕たちは高尚なものばかりでは暮らせないねぇ」
メリー 「うん、まだ暮らせないな。でも僕らは今はそういったことがわかるようになったし、尊ぶことも出来る。もっと深くもっと高いものがあるんだ。うれしいんだよ、そういうものがわかるようになったんだから。少しだけれどね

この2人はホビット庄を出たときにはまだ無邪気な若者で、メリーの方はしっかりしているとはいえ、まだ2人とも保護者が必要な存在で、高い存在とは縁遠い、というか、そういった世界を必要としない生活をしていたわけだが、苦しい旅と戦いと、そして偉大な人物たちに囲まれているうちに、そういう世界を理解するようになる。

There are things deeper and higher.  I am glad that I know about them, a little.

メリーのこの言葉は、指輪を読む人々の言葉にもなると思う。
a litte、a litte、の繰り返しで、だんだんと共感と感動と驚きが深まる。
そして、メリーが言ってるように、喜びも高まる。

少しでもそういう世界がわかるようになっていく力というのは、人生の宝だと思う。どんなにお金があっても、買えるわけではない。
上の会話が出来るということは、メリーとピピンはもうずいぶんと高いところまで行けたのだ。薄っぺらな人からこんな言葉は出てこない。

a little。少しだけどね。メリーが謙虚に付け加えているこの一言はとても大事だと思う。

指輪の旅は終わるけれど、でも終わらない。
いつまでも多くの人が読み続ける本だと思う。


・・・ってことで・・・
グワイヒアの旅も終わらないよ・・・ いつ読んでも発見があるもんね。まだ全然わかってないのかもなー、と思うときあるよ。えらそうなこと言ってもさぁ、読みやすいとこだけ読んでたりもするし。いかんなぁ。

それにしても、トールキンは何者だったんだろうね。



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