まとめ。


トールキンの物語では、皆が自分を超えていく。ガンダルフもアラゴルンも、ずっと長い長い年月を進み続けて、そしてあの旅で彼らは大きく変わる。ガンダルフは白へ、アラゴルンは王へ。
ホビットたちも自分を超える。フロドは全てを負って進み、サムはフロドのために力を尽くし、この2人はホビットという限界を、とんでもなく大きく超えて、使命を成し遂げる。メリーもピピンも自分を超えていく。
エントも自分たちを超える。アイゼンガルドへの突進だ。
エオウィンも自分を超えて行動したことで、魔王を滅ぼし、ファラミアという新たな世界を見つける。

自分を超えるとは、今の自分の、何というかその、縁取りを超えるということだ。うまく言えないけど。境界線というか、枠というか、自分で目に見えない線を周りに引いて、自分はここまで、って無意識にその中に閉じこもっているもの。
そこを超えねば、何も変わらない。でもその中に閉じこもっているのが一番楽。線の向こうは見えない。踏み出せばどうなるのか、わからない。

原作のアースシーの物語でも、ゲドもテナーもアレンもテルーも自分を超えてゆく。ゲドとテナーの進み方は突出してすごい。あの2人の生き方は、それぞれ尋常ではない。自分で自分を変えてゆくことの凄さを示してくれる。自分ひとりで出来るわけじゃないけれど、誰かが必ず助けてくれて、そのおかげで出来るのだけれど、でも最終的には自分なのだから。

いろいろあった後、ゲドとテナーは質素な家で畑を耕す。その豊かさは、拝金主義と言われる昨今の日本の状態と比べると、手が届かないほどの遥かな高みにある。


さて、ジブリ版のアースシーの皆さんは、自分を超えていかない。って感じ。個人的には(個鷲的には)そういうものが見えないし、感じられなかった。
アレンの持つ剣は抜けたけれど、テルーは竜になったけれど、だからどうしたのかわからなかった。
わからなかったのは、鷲の頭が悪いからなのかもしれないけど、しかしどうも、伝わってくるものが、微妙だった。
命は大切だと、声高に叫ばなくとも、それは皆が知っている。

ジブリ版は、どういう話だったのか、どういう話のつもりだったのか。
アレンは父王を刺し、自分は分裂してしまうくらい重症で、しかしそんな尋常じゃない事態を乗り越え、影と光が合体し、自分を取り戻し、生きてゆく決意をする。ってことかもしれない。
テルーは虐待され傷つき不安定だったのが、アレンに関わり、騒動に巻き込まれたことで、自分を見つめ直すこととなり、本来の竜という姿も得ることが出来た。
お互い、また会う日まで、大地を踏みしめ生きてゆこう・・・
ということだったのかな。
そんな風に素直に見れば、2人とも自分を超え、感動的な展開となっている。のかもしれない。
否定的に見るより、肯定的に見た方がいいに決まっている。
でもグワは、やはり、アレンの行動を肯定することは、どうしても出来ない。


普段の自分を超えて進めば、新しい何かが見え、何かが変わる、それを見て心揺すぶられるのが文学や映画というものだ。ストーリーは違っても、古代ものでも現代ものでもSFでも、語っていることは、どれでも同じだと思う。

ETの映画を観て子供たちが涙を流すのは、ETが可哀相だからとか、UFOに乗って帰っちゃうのがさびしいからとか、助かってよかったからとか、じゃない。地球人の家を見たくて母船から離れたET、取り残されても母船に連絡を取ることを諦めず通信機を作ったET、降って湧いたように現れた異星人を必死で守ろうとするエリオット、それを助ける兄と妹、政府機関の追っ手から異星人を救おうとする子供たち、皆が皆、日常の自分の枠を、境界を、大幅に破って懸命に進む。
心が通じた者と別れるのは辛い。でもエリオットは地球に残ることを自分で選ぶ。エリオットが進むステージは地球だから。ETの進むステージは宇宙だから。枠を破り方も、破った後の進む先も、自分が選ぶものなのだ。
見ていると、理屈抜きで、涙が出てくる。

命は大切だなぞと薄っぺらなセリフを言わなくても、我々の持っている、自らを超えてゆく大きな力の素晴らしさ、みたいなものは伝わる。
普段の自分に安住しがちな我々は、そういうものに触れると、心動かされる。そしていつまでも心のどこかに残る。


公開直後から評判がイマイチのジブリ版ゲド、足りなかったのは、そういう基本中の基本ではないのかと、鷲は感じる。


そう、生きるとはとか、命がどうこうとセリフで説教しなくても、自転車で走るだけで伝わるのだ。ETのあの自転車、日本製なんだってね。
走るだけで、っていうのは、ル=グウィンさんが観て宮崎駿のファンになったというトトロもそうだ。メイがトウキビ抱えて走るところ、あれも走ってるだけなのに涙が出てくる。


グワイヒアが、TVドラマ版の方がジブリのよりいいと感じるのは、あのドラマは、そういう基本は、一応は、あるからなんだと思う。愛のサスペンス劇場ではあるのだけれど、中心になるキャラは、自分の今ある状態を超えて、一生懸命進んでいる。


ル=グウィンさんとジブリには、縁があって、かつ、縁はなかったのだろう。すれ違い、感覚の違い、誤解、などなどがもくもくと広がり、そのもくもくは大きくなるばかりだ。
これは、文化の違いなのだろうか。でも日米間で何かするとき、毎度毎度こういうことになるわけではない。きっと、お互いが、相手の心のうちに想いを寄せるということが出来なかったのだと思う。だから取り決めもはっきりせず、不十分なままでスタートし、そのまま終わってしまった。
取り決め、契約を細かくガッチリする、ということは、機械的で血の通ってないもののような感じもするけれど、そうではなく、自分のみならず相手をも尊重するからこそ、出来ることなのだと思う。

昔なじみのおっちゃんやおばちゃんなら、細かいことなんかいちいち言わずともわかってくれてて、こっちが言わないことまで知らない間にやってくれてたりもする。しかし広い世の中では、そういう人はごくごく一部だ。
きちんと話をしないと通じない人かどうかは、本能的にわかるもんだ。そして母語が異なる人なら尚更、初めにとことん腹を割って話をつけておかねば、あとあと揉めることになるのは当たり前ではないか。
ジブリ版は、双方の気持ちの行き違いで、こういう事態になってしまった。


仕事というのは、ひとを幸せにすることだ。報酬を超えて、心をくだく。ギャラがいくらだから、ここまでにしとこう、っていうんじゃなくて、自分の出来うる限りのこと、そしてそれ以上を目指してするのが仕事。
そして、どんな仕事でも、自分ひとりでは出来ない。必ず誰か、関わる人がいる。
自分の姿勢と、他の人との関わり方は、結果に全て出てくる。そういうものだ。
ジブリ版ゲドの輝きがいまひとつなのは、原作者と制作側上層部とのゴタゴタが、知らず知らずに全体に影響しているんだと思う。

米国TV版は、この点でもジブリ版より上に感じる。キャストだけでなく、衣装さん、美術さん、大道具小道具さん、特撮さん、みんなが楽しんで仕事をしているのが伝わってくるように感じる。


PJの指輪が大成功したのは、そういう点がとてもうまく回っていたからだと思う。制作現場の映像を見ると、どの分野の関係者も、自分の出来うる限り、というよりそれ以上のことをするのが楽しくてたまらない様子だった。みんな仲良くて最高だった。仕事だから、じゃなくて、指輪だから♪って感じ。その結果、素晴らしい映像を観ることが出来た。やっぱりトールキンは素晴らしい。
トールキンの息子のクリストファさんは、映画化には反対だったそうで、あの内容はきっと納得していないのだろうけれど、しかし世界中のファンは熱狂した。あの映画は成功だった。でも鷲はもっと前面に出して、グワイヒアの名前も出してほしかった。(←まだ言ってる)


PJって、アースシーに興味ないのかな。特撮はWETAでやってくれたら、なかなかサイコーの竜が見れそうだけど。
そのうち誰か、作ってくれるだろう。気長に待つとしよう。
あー、それより先にホビット撮ってね、PJ!



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