さぁ、メインイベント。これですよ、これ。

さて、皆さん、ちょっと考えてみてください。
映画ロード・オブ・ザ・リング、もしフロドが序盤でビルボを刺し殺し、つらぬき丸を奪って逃げ、途中もずっと、どよ〜ん・・・としたままブツブツつぶやくアブナイお兄さんで、そして滅びの罅裂では「ちょっと待ちな」とか言って、怖がって逃げようとするゴラムをつかまえて、意気揚々と焔の中へ突き落とし、そして緑竜館でみんなで乾杯!わはははは!で終わったとしたら、みんなはどう思うだろう。
ネット上は、一体どういう騒ぎになるか、正に「想像するだに恐ろしい」。

今回のジブリ版ゲドは、何だかそういう感じだった。

アレンはすっかりイカれてしまって、現代社会のアブナイ事件を起こすタイプの少年にされてしまい、精神鑑定の結果、医療少年院へ・・・・って感じ。 病気だよねぇ。あの表現の仕方はちょっと行き過ぎ。
上目遣いで顔に皺寄せて不気味に笑うのはやめてほしかった。不快でしかない。
それで、セリフは会話してるというより、ぶつぶつとつぶやく。アレンは完全にアブナイお兄さん。

アレンに1作目のゲドの描写を混ぜようとしたのであろうことは、わかる。しかしよくわからない。あれは、ゲドが傷を負ったのとはまた意味が違う。
原作一冊目のゲドは、若者らしい間違いをしつつも、懸命に進み、自分のしでかしたことに必死で向き合っている。ビョーキではない。
映画のアレンは、精神不安定、現実逃避で、人生に何の意味があろう、とか言ってるうちに本格的におかしくなった、変なアブナイお兄さん。

それで影に追われてるのは、これも原作のゲドが追われていたのとは違ってて、アレンの場合は人格分裂?

父王を刺しちゃったのもよくわからない。あれは話の展開上、必要だったとは思えない。
おかしな空気に影響されて刺しちゃったんだから仕方ないみたいにもとれる。そんなの、全然仕方なくない。昨今のいろんな事件がある中、そういう見せ方はよくないと思う。

ああいう展開にしたかったのなら、ナイフ持って、刺しそうになっている自分に気がついて、あ、いけない!となってナイフを取り落とし、そして城を飛び出す・・・ってことでもよかったんじゃないのかねぇ。
それなら後の話の進み方も、筋が通ったんじゃないのかな。
僕は父を殺してしまったんだ、じゃなくて、僕は父を殺しそうになったんだ、って言われたんなら、テルーがアレンの辛さを理解するのもわからなくもない。それでもわかんないけどさ。
大体、テルーは命を大切にしないヤツが嫌いなのに、アレンから、僕は父親を殺してきた、って聞いて、ますます仲良くなるのは何故なのかわからない。

命を大切にしないヤツなんか大嫌いだ!!を散々CMで聞かされたのに、じゃあ父親を刺してもいいのだろうか。キャッチフレーズとストーリーが逆なんですけど。
それにしてもテルーは何であんなにつんけんするんだろ。わからん。

アレンは父さまに迫害されたわけでも殺されそうになったわけでもない。父さまは仕事に一心に取り組んでいる。それを一方的に刺したというのに、若くてフラフラしてて、悩みが多くて、暗い力に影響されたのなら、別に仕方ないのだろうか。

父王が忙しくて構ってもらえなくてグレてたのなら、そんなの幼稚園児だ。甘ったれるにも程がある。
父王が素晴らしすぎて、自分は自信が持てず、偉大な親に押しつぶされそうになったのかな。立派な親だと子供は大変なのか。だからってそんなの、刺す理由になんかならない。
立派な親だと子供は大変なのは吾朗監督も一緒なのかな。駿さんは凄いから。

お妃さまは子供に厳しそうだった。アレンに関しては、父親と母親の話し合いは出来てなさそうだった。王さまは子供のことはお妃に任せきりのようでもあった。現実社会でもよくある状況設定だ。

暖かくしてくれる人がいない。誰も自分のこと分かってくれない。
じょーだんじゃない。そんな、自分に都合よく、わかってなんかもらえるもんか。わかってほしけりゃ、自分が相手をわかろうとするのが先だ。甘ったれてるから、わかってもらえないんじゃないか。
だからって、なんで刺さなきゃならないのかわからない。

あの父さまと母さまの描写は、親の子供の扱い方の問題を言ってるんだろう。父親は忙しい。子供のことは母親に任せきり。母親は父親に相談もしない。父と母で子供のことを語らない。そして双方共に、社会的に高い立場にいる。そして子供はだんだん精神不安定に・・・

で、フロイトの理論では、人間というものは、親の抑圧だの何だの、要するに幼児期の扱われ方によって歪められ、それが無意識の底辺に根ざすことになり、自分の行動も思考も制御出来なくなり、でも自分ではそれに気づかない・・・のだという。

ふーん。トラウマだから、それに無意識に操られたってことで、何かやらかしても自分のせいじゃないのかね?
じょーだんじゃない。ひとのせいにするのかね?、理想の形で接してくれなかったって言って、親のせいにするのかね?何かあって、それがトラウマになったから?だからしょうがないのだろうか。
いくら、お偉いフロイトさんがそう言い出して、その理論が今も延々一般的に出回っていても、それが絶対正しいわけじゃない。何世紀か経ったら、ああいうものは、ひっくり返るかもしれないんだから。

世の中、イヤなことなんて、たくさんある。トラウマなんてものは、トラウマという言葉があるから存在する。そんなものに負けていて、世の中生きてなんかいけるものか。そんなものに負けているのは、甘えて、逃げているだけのことだ。

そういえばどうしてあの剣が欲しかったんだろう。あれではよくわからない。
原作では、剣は父王がアレンに渡してくれた。そして、人の命を救うためにだけ抜くことが出来るのだという。

じゃあウサギからテルーを助けるときに鞘に入ったままだったのはどうしてなんだろう。アレンがマトモじゃなかったからか。そうか。
でも抜けないやつを持って歩くより、抜けるやつを持って歩く方が何かと便利なんじゃないんだろうか。父さん刺してまで奪っても、あまり意味がない。


それで、だ。ここまでも問題だけど、もっと問題なのはここからだ。

中身がマトモになったようで剣も抜けて、だからってみんなでアハアハと談笑しつつご飯など食べてていいのだろうか?

とーさん刺しちゃったというのに。命のために抜けてくれ、って、じゃあ父さんの命はどうなるんだろう。
また会いに来ていい?なーんて訊いちゃって、国に帰って、無罪放免されて、またテルーに会いにくるつもりなのだろうか。
それともまさか、王子さまだから、跡を継いで王さまにでもなるつもりなのだろうか。
一応、償いに帰るとか言ってたけど、あの態度ではとても重大事件を起こしたのがわかっているとは思えない。

影に追われてたのは、実は光の側の自分を恐れていた、みたいな感じだった。光と闇がちゃんと合体して自分を取り戻し、だからそれで、前にやったことはチャラなのだろうか。

いや、自分のしたことに押しつぶされそうになりつつも、それに耐えて笑って、テナーが作ってくれたご飯をいただいているのか?
もう会いになんて来られないと思っても、口ではああ言っておきたかったのか?
もう会えないとわかってて、テルーはイエスと答えたのか?
お互いわかっていても、口では違う風に言うこともある。辛ければ辛いほど。
何て悲しいシーンなんだろう・・・っていう風に解釈するべきなのか?
しかし監督の喋ってるのを聞くと、そういうわけでもないな。

アレンは、僕は父を殺してしまったんだ、と言ってた。あれで父さまがほんとに死んじゃったのか、それとも一命を取り留めて何とか復活しているのかはわからないけど、生きているにしても、殺しちゃったと思ってるなら、アハアハと笑ってられないのが普通の神経だと思うけど。やっぱ普通じゃないのかな。イカレちゃってるまんまだろうか。

何にせよ、償いをすると言ってる割には、笑顔で国に帰って行くなんて、あれは絶対、おかしくなったのが治ってない。

よくないなぁ。あんなの観たら、そういうもんだと知らず知らずに刷り込まれる。世の中、無意識に刷り込まれるのが一番怖い。何かイヤなことがあってトラウマになるのより怖い。

最近は子供を虐待したり殺したりする親もよくいる。危ないのなら逃げればいい。パソコンいじってられる子なら殺されそうな状況じゃないだろうけれど、もし危ないのなら、学校の先生に言ってもダメなら、役所に行きなさい。役所に逃げ込めば、児童福祉の部署があって、助けてくれるはずだ。

嫌いだろうが頭にこようが、ケンカになろうが何だろうが、殺してはいけない。親でも兄弟でも家族以外でも同じだ。いくらアレンがカッチョいい岡田くんの声でも、それは変わらない。
大体、親を殺してはいけないなんぞという言い方が存在するのがおかしい。当たり前すぎることをわざわざ言わなきゃならない世の中はおかしい。
普通はそんな、刺しちゃうなんて、思いつきもしないはずだ。なのに最近は困った事件が多すぎる。
自殺もいけない。ごたごた理屈をこねずとも、そーゆーもんなのだ、当たり前だ、ということがこの世にはある。自分で死んではいけない。あったり前だ。

なーんて言うのも、甘っちょろいのだろうか。もっと深く悩んで、映画のアレンのように病的におっかなく顔が歪むほどになるべきなのだろうか。
グワイヒアはそうは思わない。甘っちょろかろうが、青臭かろうが、単純だろうが、当たり前にお日さまの下にいるのが一番正しい。
トールキンの指輪原作のサムを見よ。田舎者で難しいことなんてわからず、字だってビルボが教えてくれたおかげでやっとこ読めるくらいだけど、サムは立派に生きている。指輪の話の中で一番立派でカッコいいかもしれない。

悩んだからって、斜めにひねくれるのは、ちっともカッコよくなんかない。
自己中心的になって屈折してんのが若者らしいわけじゃない。勘違いしてはいけない。
父さん刺して、映画のアレンのように、のほほんと農作業なんぞしてるなんざ、冗談ではない。

父さん刺しといて、最後はハッピーエンドになるのは、どう考えてもおかしい。父さんが生きていて、再会して解り合えた、って展開ならまだしも、あの終わり方でめでたしめでたし、は、変。

何か面白くなかった、あんなのゲドじゃない、って文句言ってる人たちは、そういう部分に反発してるって面もあるんだと思う。自分で意識してなくてもね。
それが普通の感覚だ。

ジブリ版は、ゲドもゲドだ。大賢人ならアレンがやったこともお見通しのはずで、それに立ち向かわせて、アレン自身すごい葛藤があって、それにゲドも付き合ってすごい展開になって解決に向かうという筋ならば、グワだってこんなにぐだぐだ文句は言わない。しかし、あの平和な最後は一体何だろう。
だからやっぱりあのゲドもゲドではない。

言っとくけど、グワは、鬱の人や、神経症の人を差別してこういうことを言ってるのではない。鬱は薬で治る。マジメな人ほど鬱になるってのは、知り合いでも何人かいるから、わかる。今、多いんだよね。そういう人がこのページを読んでたら、余計に落ち込んだりしないでね。マジメに考えすぎてそうなったのなら、何も恥ずかしいことはない。病院行けば治るよ。元気になってね。





そして、メインイベント第2弾。 これもどうも気になる。

クモはテルーが変身した竜に焼かれてしまった。命を大切にしないヤツなんか大嫌いなはずなのに、テルーは悪い奴なら焼いてしまって平気なのだろうか。
そりゃさぁ、クモは生きてて、あの後でまた力を取り戻したら、それはそれで危ないけどさ。ま、今後の平和のために、ってことで。なのかな。

でも、ヘロヘロになっちゃって、どっかネジが外れて狂っちゃって、死ぬのが怖いって言ってるだけの人を、ゴォぉぉぉぉぉ!!ってするのはいかがなものか。料理番組のフランベのファイアぁぁぁ〜〜〜!!!みたいに軽い扱いになってしまう。

テルーは竜になっても、別に自分で驚いた感じでもなかった。元に戻っても当たり前みたいな顔してた。変身はそんなに大したことではないように見える。では、自分で竜だと知っていたのだろうか。原作のテルーと違って、ジブリのテルーは自分が何者なのか、どういう進路を取ることになるのか、察していた雰囲気はない。でも当たり前みたいだったから、わかってたんだろう。ってことにしよう。

じゃあ、竜に変われるんなら、どうしてテナーがさらわれたときに変わらなかったんだろう。あそこでウサギたちをファイア〜〜!!しといてくれれば、クモさまは少数(!)精鋭(?)部隊がいなくなって困って、いや困らなくても少しは不便になって、その後の展開はゲドに有利になったのに。
そして、城に忍び込んで、アレンを呼びに行って、ゲドが殺されそうなところへ駆けつけたときも、さっさと竜になってくれれば、あんな面倒な追っかけっこもいらないし、あちこち崩さなくても済んだのに。
あれじゃ、みんなを助けたかったっていうより、自分が首しめられて頭にきたから竜になったみたいじゃん。
それとも首しめられたから、竜になる力を得たのだろうか。それなら、自分がどういう存在かに気づく表現がほしい。

大体、テハヌーが竜へ、というのを、あんなシーンのために使わないでほしかった。
かなりショック。
原作のテハヌーは、あんなことのために竜に還るのではない。冗談じゃない。そしてテハヌーは、あんな程度の竜じゃない。もっともっと美しいのに。

原作の息をのむような美しい光景を、全く意味を変えてあんなことにしてしまって、もう、悲しいを通り越して、気が遠くなる。


じゃあ、このシーンと原作との関連をちょっと見てみよう。

 
竜がクモを倒す、という点では、原作のオーム・エンバーのシーンになる。

原作のオーム・エンバーは、ゲドとアレンのために死んだ。自分の命諸共、クモを倒してくれたのはオーム・エンバーだった。あの光景は、凄まじく、そして意味深い。あのシーンで心を動かされない人はいないだろう。
あの竜は、力を失ったクモを殺したんじゃない。ゲドとアレンはあと何秒かでクモにやられるところだった。

あのシーンは、アースシーの初めの3作中、非常に重要な部分と思う。
そして、グワは読んだ後、エンバーはゲドとアレンの命を救おうとしたのか、それとも助けることになったのはたまたまで、クモを倒すことしか頭になかったのか、しばらく考えたりもした。
でもそんなの、本人(本竜?)にしかわからない。作者のル=グウィンさんにだってわからないに違いない。人と竜は感じ方が違うんだろうから。
ただ、エンバーがいなければ、ゲドとアレンは死んでしまい、扉を閉めることは出来ず、クモは元気に勢力を保ち続けただろう。
しかしやっぱり竜の死のことは、心のどっかに引っかかっていた。

そして、5作目を読んだとき、アレンが「オーム・エンバーはわたしたちのために死んでくれたのです。あの竜は死んで、わたしたちのために暗い黄泉の国への道を開いてくれたのです」と言うのを聞いて、いろいろなものがすっきりと流れて行くような気がした。

アレンが言ってる通りでいいのだ。
意図したのであろうが、たまたまだったのであろうが、どっちでもいい。エンバーがいてくれたことで、全ては救われたのだから。っていうか、全面解決はまだまだ先のことなんだけど、とりあえずはさ。
そしてまたアレンは5作目終盤で言う。「オーム・エンバーは、わたしのために命を落としました」
アレンは、そう思っていた。だからそれでいい。
竜があの場にいてくれた、そして自らの命を失ってでもああいう行動をとってくれたことで、アースシーは助かる方向へと進むことが出来た。
あぁ、人間たちが危ない!とオーム・エンバーは思いました、そしてクモへと飛びかかっていきました、世界の均衡を取り戻す糸口になるのなら自分は死んでもいいのだと竜は感じました、なーんて書いてあったとしたら、何と薄っぺらになることだろう。

あの竜は、アースシーのために生まれ、そして死んでいった。それだけでいい。
ゲドが扉を閉じることが出来たのは、ゲドだけの力ではなく、全てがリンクしてつながっていたからなのだ。
ジブリ版のファイアぁぁ〜〜!とは次元が違う。なんでああなっちゃったんだろ。



ゲドとテナーを助けるという点では、4巻目でテルーがカレシンを呼ぶシーンに近い。

あの時は、カレシンはえらい勢いで吹っ飛んできて、いきなりゴォォォォ!!!とやってくれた。悪者どもは、避難するヒマもなかった。
竜のすることだから、知ってる人は避けてなんていちいち考えてないらしい。ゲドもテナーも伏せなければ、悪者と一緒に巻き込まれるとこだった。
一見するとそんな感じでもあるけど、テナーと目が合った(であろう)カレシンは、2人が伏せるタイミングに合わせてゴォォォォ!!としたのかもしれない。阿吽の呼吸というやつだ。

あそこで初めて、テルーと竜のつながりがわかるようになっている。テハヌーの名前も明らかになる。カレシンはやっぱり素晴らしい。

あのシーンは、ジブリの映画と状況としては似ている。
しかし原作のカレシンは、ビューンと飛んできて、ゲドもテナーもとりあえずは安全なのを見て、そうかそうかとひょいと横を向いたら、ネジが何本か抜けちゃってヨロヨロしてる悪い魔法使いが去っていくとこで、あぁこいつは生かしておいてはいかんな、ってことで、「待ちなさい」とか言って、とどめを刺したわけじゃない。
ゲドはあのとき既に魔法の力は失っていて何も出来ず、ゲドもテナーも魔力で操られ、あとちょっとのところで崖下に転落で、殺されるところで、そこへ稲妻のように竜が現れる。
やっぱりジブリ版と原作は意味が全然違う。



女の子が竜になったところで誰かが倒れる、という点では、外伝の「トンボ」に似ている。制作側ではそのつもりだったのかもしれない。

ロークの丘の上で、アイリアンが竜となり、トリオンは骨になる。
トリオンは黄泉の国から戻ってきて、ほんとは死んじゃったのに魔法で生きてる状況で、目指せ大賢人!おー! 世論調査でも支持率トップ、もう間違いなし!って感じ。

しかし、丘の上では全てがありのままの姿に還る。そういうもんなのだ。
だからトリオンは骨になり、アイリアンは竜になる。
しかし、トリオンがいなくなってしまうこのシーンは、悪い奴を滅ぼしたぞ、ひひひひ・・・!っていうことではない。

長たちは2つの勢力に分かれてはいるものの、崩れおちたトリオンのところへ真っ先に駆け寄ったのは、反対派閥にいた薬草の長だった。そしてトリオンを友と呼んで、涙を流し、これでよかったのですよ、と言う。そう、トリオンは死んでいたのだから、無理に生にしがみついて、大賢人になぞなっちゃいけなかった。あるべき姿に戻って、トリオンはあれでよかったのだ。
トリオンは力のある魔法使いで、頑張っていて、ゲドとも仲良しだった。結果的にはクモの後釜みたいなことになっちゃったけど、あれ以上間違った方向に行かなくてよかった。

あのシーンは、山に登ったからトリオンは倒れたのか、何だったのか、考えてしまう。
アイリアンとトリオンの間には炎がありました、とある。竜になったアイリアンがゴォォォォ!!!として、トリオンを焼いてしまったのなら、服も燃えてしまう。でもトリオンのマントも服もそのままだった。炎が消え、立っていたトリオンは崩れ落ち、骨だけが、本来あるべき姿になって、そこにあった。

続きの話の、アースシーの風で、アイリアンは、わたしがトリオンを倒した、と言う。あれは、山に登る気なんてなかったトリオンを登らせたことを言っているのか、それともゴォォォ!のことなのか。竜の炎は衣類は焼かないのか?でも山だの畑だの町だのは普通に燃えてしまう。

だからやはり、アイリアンは、トリオンにファイアぁぁぁっっ!!したわけではないのだと思う。
あの一件は、トリオンはアイリアンを追っ払いたがっていて、両者は敵対関係にはあったけれど、焼き殺してしまうようなそんな殺伐とした話ではない。
トリオンは、あの時はもう死んでいた。だからあるべき姿に戻った。あれでよかったのだ。派閥が分かれた長たちも、トリオンがいなくなったからって、「やりやがったな!」「やーい、ざまーみろ!」「そんならお前らもこうしてやる!」とかいうアホな展開にはならない。アイリアンは本来の己の姿を得て飛び去り、長たちはまたひとつになって進んで行く。

ジブリ版のクモは、あの時点では魔法が切れて老人になってしまったものの、生きている。死んじゃってるわけじゃない。クモはヘロヘロになって、死ぬのがこわいと言っている。
外伝のトンボのトリオンとは全然違う。



で、だからその、ジブリのファイアぁぁっっっ!!は、上の1、2、3のどれとも意味が違う。何かその、存在のレベルが違う。って感じ。話の筋は変えても、意味合いは変えないでほしかった。

あのテルーの「待ちなさい」はこわかったなぁ。ふらりと立ち上がってあんな風に言われたら、グワなら、はだしで逃げ出す。あ、そりゃ、はだしだけど。


ナウシカには、あの力を失ったクモと似たような場面がある。ムチャクチャ悪い皇帝の魂が迷って為す術もなく闇に飲まれようとするとき、ナウシカは、それまで彼のにごった魂におびやかされていたにもかかわらず、迷うことなく彼を助け、一緒においでと言う。
かつての権力など失った魂はナウシカにすがりつく。そして、生きてたときにはとんでもない奴だったその魂は、光の中で悪意というものから解放され、無邪気な存在へと還って、笑うことが出来るようになる。
あれを読むと、仕返しなんか、なんの意味もないことを思い知らされる。
そういう無償の慈悲がナウシカの話を貫くものであり、それをどこかで受け継いでいるはずのジブリが、問答無用でファイアぁぁっっ〜〜!!とやってしまったのには、何と言っていいのかわからない。


こうした命関係の点は、ジブリは間違えたと思う。夏休み公開で、子供たちが大挙して押し寄せるのはわかってたはずだ。それを狙って夏休み公開にするわけだから。
アレンと同年代で自信のない子たちの中には、おかしくなっている映画のアレンに共感する人もいるかもしれない。おまけに声が人気のV6だし。あんな役させられて、岡田くんは気の毒かも。原作のようなアレンだったらよかったのにな。

悩みがあって、迷いがあって、でもあれを見て、がんばろう、って、単純に、純粋に、希望を持てたんならいいけどさ。これ読んでてそういう子、いるかな。そういう人はきっと、素直で優しいのだ。
そういう優しい人は、変な風にキレたりしないし、映画のアレンとは状態が違うから大丈夫。


しかし、やはり映像っていうのは影響が大きい。製作側は観客に考えさせるつもりでああしたのかもしれない。
現代社会の問題を取り上げ、それを観て考える・・・としても、世の中ちゃんと考える人ばかりではない。家族に刃を向けてもハッピーエンド、なんとなくそーゆーもんだ、と上っ面だけで、そのうちそれが染み込んで、ほんとにそーゆーもんになってしまう。


くどいようですが、実際くどいんですが、それでも言わしてもらう。
若者が悩んで不安定なら、破裂して、キレて、人に危害を加えてもいいわけではない。
そして、いくら自分と敵対する相手であっても、弱って抵抗出来ない者を攻撃するのは間違いだ。それが物理的なものであれ、精神的なものであれ、同じことだ。攻撃にかかっても踏み止まれる者は強い。ファイアぁぁ〜〜!!してしまったテルーは、あれは強いのとは違う。

最近は、殺人の刑がやたら軽くなっている。数年で出てきてしまうことさえある。まして少年犯罪なら更正のためということで、大した重い罪にもならない。本人たちも償いの意識があるのかないのかわからない。
製作側は未成年の犯罪を容認するようなつもりじゃなかったとしても、あの脚本ではそう解釈されても仕方がない。

社会的に認められているメジャーな組織が、こういう話の展開を平気でして、製作中に軌道修正がなされなかった、ってことはスタッフ中で反対意見が出たとしてもそれに同調する人は多数派ではなかったのか、反対意見など言いたくても言えない状況だったのだろう、というのは、それこそ世界の均衡が崩れかかっているという1つの側面かもしれない。


そんなに言わなくても、僕らはだぁいじょうぶだってば!!(^o^) っていう子たちは心配ない。
しかしフラフラしてて病的な層が増えている最近の世の中で、それを助長するようなものをわざわざ見せるべきじゃない。
そしておまけに、そういうことをしでかした子を肯定するような描き方をするのは、どう考えても間違いだ。


アレンは地元じゃ指名手配になってるのかな。そりゃなってるだろうな。国王刺したんだもん。
王さまがあのまますぐ死んじゃって、誰がやったかわからなくても、アレンが消えてたら容疑者だしねぇ。
王さまが生きていて、息子をかばって言わなかったとしても、アレンがいないんじゃやっぱり容疑者だ。
重要参考人、ってやつ。当局では、アレン王子が何らかの事情を知っているものとみて、行方を追っています。って感じ。

国に帰った後、どういうことになったのか、非常に気になる。
「終」の文字が最後に出たけど、終わってる場合じゃないと思う。
そこからが山でしょうが!!ジブリさん!続編あるんですか?

それとも「続」の字と間違えたんだろうか。 同じ糸偏だからねぇ。
帰る途中で捜索隊とカチ合うかもしれない。さぁ、ゲドよ、どうする? あ、魔法で別の人間に見せかけてやり過ごすという手もあるな。
ジブリさん!続編あるんですか?


シュナの旅のシュナは、他者のために苦しい旅に向かい、自分をなげうってでも他者を助けようとする。自分をなげうって、というのは、命を大切にしていないのとは意味が違う。もっと大切な何かがあるからだ。
ジブリ版ゲドのアレンは、自分のために、というか自分もフラフラで自分でなくなってて、そして父を刺したというのに、楽しくなってるあのラストシーン。

ジブリの公式サイトに拠れば、「均衡が崩れつつある世界のなかで、"影"に追いつめられていく主人公アレン。彼の姿は、現代社会に生きる我々の写し鏡なのです」 だそうです。
我々はみんなあんなにイカれてしまってるのでしょうか、ジブリさん。勝手に写し鏡と断定しないでください。
昔からみれば揺らいでいるのだろうけれど、まだほとんどの人々は、当たり前の生き方をしていると思うんですが。

映画のアレンは、ゲドとテナーが殺されちゃうよ、ってテルーに言われても動く気配を見せず、ぶつぶつ言ってるだけで、いくらクモに変なもん飲まされたからって、あれはないと思う。
そしてテルーは、死んじゃったら会えないんだよ!いなくなっちゃうんだよ!もう会えなくなっちゃうんだよ!とかってセリフを言う。細かいところは忘れたけど、そういう意味のセリフだった。そう言われたアレンは、やっとこ動き出す。

そりゃ、死んじゃったら、もう会えない。会いたくてもどこにもいない、というのは、悲しいの一言では片づけられない辛さがある。
でも、あぶない状況にいる人を助けるのは、自分がその人にもう会えなくなるのは悲しいから、ではないと思う。
いなくなったら悲しいから寂しいから、っていうのは自分の都合であって、それだから助けるわけじゃない。
あのセリフは、何か違うと思う。

何にしても、他の生き物が困っていたら、何も考えずに力になるというのが、この星の生命体の特質だと思う。

他の生き物が困っていたら助ける、というのは、アレンも一応は、やっている。ゲドが危ないときにはなかなか動かなかったけど、ウサギたちにさらわれそうになったテルーのときには俊敏に動いた。テルーは助けられたのに凄い形相で行ってしまう。こわ。
アレンの精神不安定は、あれでまた増長されたのかもしれないじゃないか。こわすぎる。
アレンは、命なんかいるもんか、とか言ってた。そりゃあんまり感心しない物言いだけど、でも一応助けてくれた相手に、あの態度はないと思う。


映画のアレンもテルーも、どこもかしこも、根本のところがおかしくなっている。均衡が崩れている。
原作にないものを入れるときには、入れて意味のあることにしてほしい。

こうなっちゃいけません、っていう意味では、「命を大切に」というのは伝わったのかもしれない。

命を大切に、ってねぇ、やっぱりこれをスローガンにするのは難しい。命を大切に、は当たり前だけど、でも、蚊がブーンと飛んで来たら、うりゃあ!って、ひっぱたくしねぇ。


とにかく、原作のレバンネンとテハヌーは、あんなんじゃない。映画から入った人たちは、変な先入観は捨てて、本に向かってほしい。

この映画のおかげで、原作の強さ、輝きが尚一層増したのかもしれない。どれだけル=グウィンの話の運びが素晴らしいのか、よくわかる。



やれやれ。