さて、ジブリの映画。 ここからは長いぞ!(^^) 長くて読むのがめんどくさい人は、まとめに飛んでも構わない。

ジブリ版ゲド、ひどいひどいと聞いていて、おすぎさんなんかもうボロクソ言ってて、周囲の人も「ん〜〜〜・・・」って感じで良く言う人はあまりいず、「やめといた方がいいと思う」とか言われるし、朝日新聞では「ゲド苦戦記」とかって叩かれたとかで、あぁこりゃきっと、相当ひどいんだろうな〜、と思って行ったのが良かったらしく、あ、そんなにひどくもないじゃん、というのが第一の感想。もっとすごいことになってるかと思った。いえ、充分すごかったのですが。

監督が駿監督の息子、ってことで、お父さんと比べれば敵わないのは当たり前で、作風が変わるのも当然で、作りとしては、ま、そんなに最低でもない。かな。0点ではない。でも赤点かも。あれえ?

アップでなくて遠景が多かったから、アースシーの広さを伝えるのはまぁよかった。

しかし、米国TVと比べて決定的にイカンのは、島だ!島だ!って眺めがない。島島島島島・・・っていうのがアースシーじゃないか! わかってるのかね、ジブリさんよ。延々と陸地が続いていくのなんか、別に要らないんですけど。

でも、一応、きれいだった。さすがはジブリだ。日本のアニメは何だかんだ言って、やはりすごい。
これはこれで労作だよな〜、って思う。しかし、あ〜外注に出したな!というのは、エンドロールを見るまでもなく、わかった。今までのジブリの絵とはちょっとレベルが違う。
でも、いいな、って思うところもたくさんあった。
グワだって100%ダメだって言ってるんじゃない。

しかし、だ。
それにしても、話の内容はちょっと問題だと思うわけさ。
これなら米国TV版の方が余程マトモだ。あっちは、事件つき推理サスペンス、お手軽学園ドラマにはなってるけど、ゲドも、テナーも、カラスノエンドウも、オジオンも、ゲドの父さんも、人間がおかしくはなっていない。
脚本も、撮影も、衣装も、セットも、特撮も、それなりに精一杯やっていて、彼らなりに手は抜いていない。あれは、原作者が受け入れなかったとはいえ、一応はアースシーの光景を、一部は伝えてくれていると思う。


ここから先は、グワイヒアの意見であって、違う感想の人も多々いると思う。
いいなと言ってるところも、いや私はよくなかった、という人もいるだろう。

一方、文句言ってある点に、いや私は感動したよ、という人もいるだろう。
それは、どっかの鷲みたいにやたらとあちこち突つきまわしてブチブチ言うなんぞという性格の悪い人、いや鷲じゃなく、素直に、アレンは元気になってよかった、と受け取れる優しい人たちなんだと思う。

だからグワイヒアとしては、この映画はよかったな、っていう人がおかしいとは言わない。受け取り方が違うだけだから。

でもまぁ、こう思う人、いや鷲もいるんだな、ってことでお読みください。


監督はこれが初めての作品で、アニメ作ったこともないのに、いきなりジブリの大作。
お父さんがすごい人で、誰が監督したって比べられて叩かれるのが見え見えで、それでも引き受けざるを得なかったらしいのは、気の毒といえば気の毒だ。
でも任されて、きっと一生懸命張り切って取り組んだんだろうな、とか思ってた。
駿監督の息子さんだもの、芯の通った、妥協などしない、自分の信念を貫く、そういう人なんだろうと。

んで、どうも話がわかりづらいのは、とても深遠なことを言っているのかもしれない。とも思った。鷲の頭程度ではわかんないような難しいことなのだ、とかさ。

だからぶつくさ言うのはやめるか、とも思った。
アレンがおかしくなってるのは、何かとても大変な事情があって、父さまを刺して飛び出してきたのはゲドだって大賢人なんだからわかってるだろうに、暖か〜く見守って、最後は立派に立ち直ってハッピーエンド・・・なのかなぁ・・・とか。うーん。

これが何となくフラっと観に行って、アースシーじゃなくて、知らない他の話だったなら、即、「わからん!何だあれは!」ってことになったと思う。でもゲドだから、あれはすごい世界だから、これは何を言おうとしてたのかと、わからないのは自分のせいかと思ってしまう。

しかし、どうもそうでもないらしい。

↓こんなのがあった。いつまでネット上にあるかわかんないけど、伝えたかったことなども喋ってる(喋らされている)からどうぞ。
こちら
監督は、そんな気なかったのに、いつの間にか何となく監督にさせられちゃったみたいな雰囲気。

ネットから消えたときのために、初めと終わりのとこだけ書いておく。

ゲド戦記完成、おめでとうございます。
ありがとうございます。
監督初作品となるわけですけれども、映画の出来と、監督を初めてやってみた感想を聞かせてください。
ぐふふ・・・感想ですかぁ?
やっぱやんなきゃよかった。

監督、しょっぱなからそんなこと言ってインタビューのお姉さんを困らせないでください。あぁ。
正直なのは大変結構ですが、内心そう思ってても、カメラの前では堂々としててください。お願いします。中学生くらいでも、もっときちんと受け答え出来る子はたくさんいるんですから。
自信なさげで、「うーん・・・何だろう・・・・・」の連発で、口の中でもごもご喋ってちゃ、映画のアレンみたいじゃん。
でもこの人、きっと裏表ないんだろうな、と思った。いつもこのまんまなんだろう。

で、この映画で伝えたかったこと。

宮崎さんがこの作品を通じて皆さんに伝えたかったメッセージは?
うーん・・・なんだろ・・・・・・
大変な時代かもしれないし、なんかその、生きにくい世の中になってるかもしれないけど、
うーん、それでも、この世はっていうんですかね、世間は捨てたもんじゃないっていうか。
だから周りに目を向ければ、も少し元気になれるはず?

ふーーん。 え、そんだけですか? 肝心の話してるのときに、語尾上げしないでいただきたい。
これによれば、そんなに深遠なることを言いたかったわけでもないらしい。
ゲドを選んだのは別に自分じゃないし、何もかも、周りから指示されて、歌詞を書いたのも、これを元にせよ、とのお達しがあっただけで、自分で朔太郎の詩を選んだわけじゃなかったらしい。

やんなきゃよかったなんて言う奴なんか、大嫌いだっ!! とか思ったり・・・

アースシーの物話って、世間は捨てたもんじゃないから、周りに目をむければ元気になれますよ、って話だったのだろうか。グワイヒアはそういう風には思っていなかった。そんなら、寅さんでも見てた方がよっぽど元気になれる。渥美さんはすごい。

世間は捨てたもんじゃないから、周りに目をむければ元気になれますよ、って話をやりたかったのなら、ゲドをやるより、別の話にした方がよかったのに。


この映画は、なんと言ってもジブリブランドだし、公開が終わっても、そのうち何度も、何年経っても、テレビで流れるだろう。DVDを借りる人も多いだろう。その度に、?となる人が多数出て、誤解する人も多数出て、おかしな影響を受ける人もいるかもしれない。
だからやっぱり言わせてもらう。


ここからのページでグワイヒアが言うことは、ひとつの意見でしかないけれど、鷲の目には、そういう風にしか映らない。
これを読んで、どう思うかは人それぞれだ。反対意見を言われても、グワは自分の意見を曲げる気はない。
それはおかしいと言うより、褒める方がいいのはわかってる。でも、違うものは違うと言って、読んだ人が何か考えてくれればそれでいいと思う。

原作のゲドは、人として生きる尊い何かを語っている。しかし映画は、人として間違ったことを見せているとしか思えない。
話題取って、どかどか宣伝して、お金さえ入りゃそれでいいのか? そりゃお金は大事なものだ。しかしそれは、自分の誠意を込めて、仕事を一生懸命にして、それでいただくお金のことだ。
まぁそりゃね、儲からないより儲かった方がいいけどさ。いいな〜

宣伝はさすがに素晴らしかった。大手スポンサーを駆使、すごい。テレビでもガンガン流れるし、行きたくなる、行きたくなる、そ〜れ、あなたは映画館に行きたくな〜る・・・・って感じ。あれだけ魅力的なプロモーションをされると、これはきっと素晴らしいに違いないと思いこんでしまう。しかし、CMだの何だので見せられたものと、本編の印象はずいぶん違った。

グワは、ジブリの内情も知らないし、いろいろあるんだろうし、わかっててもどうしようもなかったのかもしれないし、文句言うのも何なんだけどねぇ。

原作と話の流れが違うのは、構わない。映画化の時は仕方ないんだろうから。
テルーだって、原作通りの姿では、アニメにするには無理がある。だからあの程度でもいい。テルーはほんとはちゃんと声が出ないんだけど、映画じゃみんなにわかるようにセリフが言えないと不便だから、元気に喋って歌まで歌っちゃっても別に構わない。
文句を言いたいのはそういうことではなくて、話の根幹というか、人の心の根幹をおかしくしないでほしいということだ。


ってことで、どうぞ。↓ その、人の心の根幹がどうこういうのは、次のページです。
他は別にどーでもいいと言えばどーでもいいことだ。もっと大したことない作りのアニメは世の中にたくさんある。でも、ジブリという名前がついてる以上、もう少し何とかならなかったかなとも思う。




えーと、どんどん長くなって、話があちこち飛んでわかりづらいと思いますが、すいません。
それから、何だかんだいって、他の作品にも話が飛びます。別監督の作品とは関係ないかというと、そうでもないです。
では、まず、そういう話。


ジブリは原作を変えるのは得意中の得意で、初期の宮崎さんオリジナルのナウシカでさえ、元のコミックから見ればもうメチャクチャな改変だったから、映画化の際はそういう路線という方針なのはわかってたけど、そんならゲドには手出ししないでほしかった。精神性を語るアースシーの世界は、あんまりいじくり回すとわけが分からなくなってしまう。

ナウシカの原作知らない人は、読むと結構ショックかも。これ ね。グワが持ってんのと同じだと思うけど。アマゾンに書いてあるトルメキアバージョンってのは、ケースの絵のことらしい。中身はバージョンなんか関係ない。うちにはケースはない。いいなぁ。

あれは昔、ガーーーーっ!!と読んで、その後、3日くらい、どーーーーー・・・・・ん・・・と落ち込んでいた。火垂るの墓を観た時よりひどかった。もう何だか救いようがなく、逆に救いようがあるともとれるけれど、どっちにしろ、なかなかショッキングではあった。
我々の21世紀は、あんな方向には決して進みはしない。人類はもっと素晴らしいはずだ。世界はこんなにキラキラしているのだから、何千年も後には我々は輝かしい未来を進んでいるに違いない。
・・・とか思うのは甘ちゃんなのだろうか。でもこの星は、あのコミックで描かれているような存在じゃないように思う。

しかし、あれは、荒廃しつくしている世界ではあっても、希望が見える。
あの荒廃の度合いは、アースシーの均衡が崩れているどころの騒ぎではない。あれと比べれば、アースシーの不均衡なんて、別に大してどうってことないように見える。
そんな凄いことになってる中でも、ナウシカもミトもアスベルもクシャナもクロトワもチククも蟲使いたちも、皆、あんなに生き生きしているではないか。

彼らの、世界を見る目の、何と強かったことか。クイの卵が孵ったとき、あのちびっこの走る姿のなんと輝いていたことか。そして、あの巨神兵の生き様は、なんという悲しいものだったろう。でもあの子はきっと精一杯命を走り抜けて、幸せだったのだろう。
死んじゃったカイはどこへ行ったんだろ。巨神兵に魂はあったのだろうか。とすれば、彼はどこへ行ったんだろう。ユパさまはどこへ行っても大丈夫そうだけど。

この原作コミックは、宮崎駿って凄すぎる、というのをショックと共に認識させてくれる。こんなの書ける人って、そうそういるもんじゃない。ナウシカは英語版もあって、持ってるけど、世界の、少なくとも英語圏の人たちが原作の物凄さに触れられるのは、素晴らしいと思う。
文字の関係から絵が左右反転になっていて、和書と比べると面白い。

あれだけムチャクチャになってる世界のキャラが、あれだけ生き生きしてるというのに、ジブリのアースシーの皆さんからは、そういうものが伝わってこない。イマイチどよんとしている。おいっ!しっかりせんかい!!
原作のアースシーの皆さんは、一見地味ながら、中身の強靱さはすごいのにな。


ゲドというと、そしてジブリとなると、どうしてもナウシカ絡みの話になるな。

はい、ジブリのゲドに話戻します。

よくあそこまで全編を分解して混ぜて撹拌して1つにまとめたもんだ。っていうか、まとまってないんだけど。(^^;;)
とりあえず、形を変えてちょっとずつ入っている。

はてみ丸のお目目の睫毛が可愛かった。しかし、あんなとこに置きっぱなしで流されないのか心配になる。あれは呼べば来るからいいんだけどさ。
満潮になったらどーするの、大潮がきたらどうするの、もうちょっと引き上げといてぇ! ゲドぉ!! あー行っちゃった。呼んでも戻ってきてあげないわよ。マスカラ買ってくれたら許してあげるわ。うふ。
グワが監督なら、あのお目目の睫毛はビューラーで巻いて、そして一瞬ウインクをさせる。見逃した人は、噂を聞いて再度映画館に足を運ぶに違いない。


1作目だけをそのまま映画化するのも手だったと思う。空を飛ぶのも竜も舟も旅も描けるし、スクリーン上の見せ場には困らない。学院のところも面白かったかもしれない。あの一冊を追求した方が深い内容になったような気もする。
ただし、女っ気はないわな。女っ気がないと映画にならんのだろうし。 そんなら、ノコギリソウを少しいじって、もう少し前面に出せば何とかなる。米国TV版は女っ気に関してはやり過ぎだから、もう少し控えめにして。


映画ナウシカは2作目を作ろうという動きが少しあったらしい。でも1作目がああいう終わり方になってたから、次につなげるのは難しかったんだろう。
ジブリのゲドは、テナー中心の2冊目は飛ばしてもいいから、1冊目と3冊目で、2作にしてもよかったんじゃないだろうか。それか、1、3、5で3作にするとか。
ま、こういう形にしちゃったんだから今さら言っても仕方がない。


以前テレビで、マンガ雑誌の連載もののことをやってて、へ〜〜!!と驚いたことがある。ジャンプとかさ。ああいうやつね。
読者投票で点数が低いとすぐ連載が打ち切りになるから、読者受けするバトルシーンをバシバシ入れるって。
だから話の傾向が連載当初と変わっていって、作者が描きたい世界がなかなか描けないって。 作者の意志を通すと打ち切りになってしまう。
読者受け、って、要は大衆受け。上っ面がドキドキハラハラでビシバシ戦いがあって、とりあえずその場限りで面白きゃそこそこヒットして商売になる。その挙げ句、バトルものばっかになり、低俗な笑いが増え、世の中こんなんでいいのか?という趣旨の番組だった。

今回のジブリ版ゲドは、そういう意味では大衆に媚びていない。その点は、えらいと思う。そういう方針を通すのは、難しいことだ。
笑いをとるシーンもなく、面白くしよう!って意識はなかったみたい。

PJの指輪はといえば、PJは映画としての見せ場を心得ていて、原作ではちょっとの部分をやたらと派手に拡大している。やり過ぎのところもあったけど。
アースシーは、原作の展開は一見地味なようで、実はかなり衝撃的に荒々しく、派手なはずだ。
吾朗監督は、せっかくのアースシーの数ある見せ場を全くといっていい程、生かさなかった。もったいない気もする。でもそういう方針だったのかもしれない。ってことにしとこう。

それはそれで、ひとつの作り方だよなとも思う。
最近のアニメは、とにかく派手すぎて、グワは見ていられない。ディズニーのは大好きな人もたくさんいるだろうけど、グワは苦手で、超キラキラなのが飛び回っているのを見てると目が回る。色合いもキレイすぎて疲れる。
だから今回のジブリ版ゲドは、そういう意味では目は回らなかった。落ち着きすぎててつまんないくらい。まぁいいか。
超キラキラが飛び回るより、色合いが渋くて、時代が感じられるからよかったと思う。


エンドロール、原作にル=グウィンの名前があった。当たり前だ。
そして、原案「シュナの旅 」とあった。
シュナの旅は、お父さんの駿監督の作品で、マンガというか、絵本というか、絵のついた小説というか、そういう本だ。しみじみ、落ち着いて読める。ちょっと字が見づらいとこがあるけど。

原作はゲド戦記、原案はシュナの旅。

アースシーとシュナの旅は全く別の物語だと思うのだが・・・。ジブリは、ゲドをアニメにしたんじゃなかったのかな。
ジブリ版ゲドには、確かにシュナの旅のシーンがちょっとずつ混ざってる。陸上にある船もそう。あと、捨てられた村、ここに住んでいた人はどこへ行ったのだろう、とか。
原作のゲドがアレンを助けるのは奴隷船からで、映画は車からだった。海にした方がよかったのにと思ってたけど、奴隷を地上の車から助けるのはシュナの旅にある。

まぁ、アニメは、海に出てるヒマがなかったという事情もあって、船に出来なかったのかもしれない。
しかしそれなら、クモの城を島かどっかにすれば、海に出られるのにな。あれじゃ、テナーの家のご近所だ。なんで今まで近所づきあいがなかったのか不思議なくらい。
もしかして同じ町内会とか。回覧板、回しちゃったりとか。


シュナの旅は、駿監督の完全なオリジナルじゃなくて、チベットの民話「犬になった王子」が元だという。飢えた民衆のため、麦を手に入れようと苦難の旅をする王子さまの話。
この本は、ゲドの映画公開で興味を持って探してる人がいるかもしれない。シュナの旅の解説に書いてあるからね。でも「犬になった王子」で探しても見つからないの。
絶版だと思って諦めてる人、いないかな。岩波の「白いりゅう 黒いりゅう 」に載ってるよ。普通はこういう短編集は、中に入ってる話のタイトルで検索してもヒットするけど、これはどこで探しても、「犬になった王子」では見つからない。(^^;;) なんでだろ。
これはね、いい本だよ。マイナーな本の方が、面白いのってあるのかもね。絵もすてきだし、竜の話も載ってるし、東洋でも西洋でも、やっぱ竜はいいなぁ!とか思う。今でも売ってるし、図書館にもあると思うよ。表紙の絵がまた、素敵。

言っとくけど、そのチベットの王子さまは、映画のアレンみたいにイカれてなどいない。
これを読むと、シュナの旅は、これを基に出来ました、というのはその通りだとわかる。
そういう作り方がいいのかどうかは別として、あまり知られていない昔話が、そういう本をあまり手にとらないであろう層にも形を変えて伝わるというのは、いいことだと思う。
昔話っていうのは、伝えられていくうちにどんどん中身が変化するものだから、こういう形になるのも1つの伝承になるんだろう。
あのシンプルな昔話の中に出てくる王子と娘の心の強さに惹きつけられ、それを汲み取った宮崎駿という人物は、やはりすごいと思う。

ジブリ版ゲドの、シュナの旅との関係は、吾朗監督のブログにちょっと書いてあった。こちら
それを読むと、アレンは王子さまは王子さまでも、アースシーに出てくるアレンではなく、そしてテルーもアースシーのテルーではなく、シュナが途中で会う少女に近い存在なのか?という感がある。
ブログには、「実は、『シュナの旅』も『ゲド戦記』から大きな影響を受けていました」とあるけれど、駿監督が説明しているのは、犬になった王子のことだ。
シュナの旅は、ゲドではなく、このチベット民話が基になっているのは、本を読めば誰でもわかる。でも、奴隷を助けるというのは、ゲドからなのかもしれない。

王子が民衆のため、苦難の旅をし、元々の自分ではなくなってしまうけれど、途中で会った少女の愛で救われる、という基本的流れは、ゲドにあるものではなく、犬になった王子とシュナの旅のものだ。
ジブリ版ゲドのアレンは、旅に出る前から自分というものを失い、目的があったわけでもなく勝手に飛び出しただけで、テルーに会ってちょっとは変わるかな。って感じ。
チベットのアチョ王子や、駿さんのシュナは、麦を手に入れようとして頑張った結果、自分でなくなってしまったとはいっても、心の根っこの部分が変わってしまったわけではない。だから元の自分に戻ることが出来た。ジブリのアレンとは全然違う。

あれを世界配給して、チベットの人が観て、原案はシュナの旅で、それは犬になった王子が基の話だと知ったら、「ぜんぜんちがうっ!」と叫ぶに違いない。

それとも、シュナの旅をエンドロールに載せたのは、宮崎駿という名前をどこかに入れたかったということもあるのかもしれない。ジブリ=宮崎駿、という先入観がどうしてもあるから、名前が載ってればスポンサーも納得するし。

ジブリ版ゲド、あれは、シュナの旅なのか? アースシーなのか?
そのどちらでもない、というのがグワの結論だ。

まぁねぇ、これは絶対こうでなければいけないのだ!!ってことはないから、どういう表現にしようが、人それぞれの自由で、いいんだけどさ。鷲が口出すことじゃないから。

でも、どういう表現にしようが、よくないこともある。

じゃ、その、メインの文句