ゲドは、好きだが、同時に苦手でもある。

1作目を読み切るのにずいぶんかかった。グワは本を読むと中に入り込んでしまうので、ゲドはつらい。1作目では、語られる内容の重みに耐えきれず、おまけにゲドを追う影に怖れをなし、何度も途中撤退。 ヘグが死んじゃったときは本気で泣いて、なかなか立ち直れず、撤退してはちょっと戻って読み直し、また撤退。最後まで読むのに一体何ヶ月かかったかわからない。

2作目はまだよかった。テナーが心配で読み進み、でもやっぱり暗闇に耐えきれずに途中撤退。それでもル=グウィンの独特の世界に1作目で少しは慣れたのか、割と短期間で読めた。

3作目は竜が素晴らしくて、それはよかったけれど、死の世界はまたつらくて途中撤退。やれやれ。しかし竜は素晴らしかった。わくわくした。

で、時は流れ、そうこうするうち、ジブリが映画化ということで、えーそれはヤだな、とは思ったものの、やっぱり気になって予告編など見て、そしたら「命を大切にしないヤツなんか大嫌いだっ!」とかいう女の子・・・誰だ? と思ったら、4作目に出てくる子だって聞いて、やれやれ、また読まなきゃダメかい・・・
仕方がないので4作目を読んだ。今度は何とか途中撤退せずに読み通し、ミーハーな鷲としては前作でテナーとゲドがくっつかなかったのがどうにも納得がいかなかったのが、この巻では解決し、その点ではホッとした。カレシンも相変わらず素晴らしい。
しかし、テルーの描写は強烈だった。ああいう問題が提起されたのは意外で、3巻までのゲドの世界とは、こりゃずいぶん変わったな、という印象だった。
桃の木が育つのを楽しみにしているテルーと、それを見つめるテナーの描写が、この一冊の世界を代表しているように感じる。

ゲドのシリーズは児童文学ということになっているけれど、あれは児童文学と呼ぶには、なかなか重い。
高校生くらいにならないと消化できないんじゃないのかな。それとも子供の方がいいのだろうか。

ミドルアースもモルドールなんて暗くて大変だけど、でもトールキンの世界では、いい側にいても、ワルい側にいても、いくらでも気持ちよく遊んでいられる。

アースシーの話は、とてもとても味わい深く、生きてゆくにおいて貴重な教えで素晴らしい。でも、それを背負って日常を過ごすにはやはり重い。
だから、次のページに書いた米国TV版は、重すぎないように、観やすいように、かる〜く現代風にらんらんらん♪と仕上げて、結果、ゲドではないという判定を原作者から受けてしまった。あーあ。

ちなみに、グワはずっと、ゲドは初めの3作しか知らなくて、アースシーの風などというタイトルの5巻目があるのは最近知った。(^^;;) ありゃ、どっかで聞いたような名前・・・
だから何が言いたいのかと言うと、ミドルアースの風は、アースシーの風のパクリではない、ということだ。調べたら、アースシーの風の原題は、The Other Wind であって、The Wind of Earthsea ではない。よかった。
よく見ると、日本版が出たのは2003年になっている。ぐわサイトが始まったのは2002年。あーよかった。

で、その5作目は、今度はすらすら読めた。あーよかった。それとも前4作で余程慣らされたのだろうか。でも、初めの3作とは、やっぱり色が違う。書かれた年代が違うからね。そして4作目とも違う。5作目は、街のシーンが多いこともあって、安心出来るのかもしれない。しかし、4巻目までと違って、登場人物が多く、なかなかにぎやかだ。混沌としている。
そして後半は一体どうなってしまうのか、不安になる。どこまでが現実なのか、読んでいてどこを見つめればいいのかわからなくなった。3巻目みたいに果ての果ての島まで行ったんじゃなくて、今度はロークだし、尚更だった。

しかし、あの3頭の竜の飛ぶさまの、なんと美しかったことか。

レバンネンは、イライラしたり食ってかかったり、それが逆に好青年の印象を与える。
テハヌーが向こうへ行ってしまうであろうことは、前巻でわかっていた。元はひとつだったのが種族が分かれてしまい、未だ両方に属する者たちがいるという設定は、他の物語ではなかなか見られない。そしてそれはテハヌーで最後になるだろうというカレシンの言葉、これは、もう人間がエルフに会えないというのと似ているのだろうか。テハヌーが行くべきところへ行けたのは良かったのだけれど、いろいろな感情が湧いてくる。憧れや、寂寥や、古代への畏敬の念。
ゲドとテナーが一緒にいられる、2人で一緒にテルーを想うことが出来ることが何よりの幸せであって、あの1巻目から読ませてもらったゲドの生涯の終盤が、穏やかに流れていることを教えてもらえて、よかった。

6巻の外伝は、原書では5巻目の前に出版されたそうで、たしかに5巻の前に読んだ方がわかりやすくもある。最後に載ってるトンボは、アースシーの風の前に入る物語になっている。トンボだけでも読んでから5巻へ行った方が、途中で意味不明にならなくて済む。でもあとから読んで、へぇそうなんだ、と納得出来るのもいい。順番はどっちでもいい。


4巻以降は、書かれたのがだいぶ後ということもあり、やはり初めの3巻とは世界が違う。3巻だけで終わった方が、却ってアースシーの世界は広大で深かったのかもしれない。ゲドとテナー、アレンのその後をはっきり示してもらったのはよかったけれど、1〜3と、4〜6は、やはりどこか分離している感がある。
1〜3は、アースシーの核だ。そのものだ。
4〜6は、何か違うような、たくさんいろいろなことを見せてもらって、かえってわからなくなったような気がする。

そして、読むのが大変だった1〜3の方がグワイヒアは好きなのさ。真の、芯の、アースシーは、1〜3巻だ。今後も、読み返すのは、主に1〜3になると思う。

4巻で、ゲドとテナーのその後がわかるけれど、3までしか読んでいないときは、あの2人は別々の道を歩みつつ、深い深いところで、いつもつながっているように感じていた。本人たちは意識していなくても、ひとつ、って。グワイヒアは、これで結構ロマンチックなのだ。知ってた?
で、4で、くっついて、よかったんだけどさ。でも3まででも、それなりにいい完結だったとも思う。

アースシーは、まぎれもなく、世界のファンタジー界の中で、最高のものの1つだ。広く、深く、何度も覗いてみたくなり、いくつになっても読める。年齢によっても受け取るものが変わっていく。そういう点では、トールキンの世界と似ている。
そして、読めば、ゲドやテナーやその他いろいろな人や竜たちが、心のどこかにいてくれるようになる。それは、読んだ者だけが得ることのできる、アースシーからの大いなる贈りものだ。


4巻目以降を読んだのは、ジブリの予告編のおかげだった。それには感謝しよう。
しかし、ジブリの制作スタッフは、外伝の前書きを読んだのだろうか。物語を紡ぐということが、どういうことなのか、読んで、もう一度原点に立ち返ってほしい。


さて、実写のドラマ、知ってます?