ホビットの最後で語られること
英語の教え方学び方



ホビットのお話の最後は、とても素敵な終わり方をする。大好きさ。

でも、原書を読めるようになるまでは、よくわからなかった。
みんなは、わかっているのかなぁ、って思う。
わかってない人、多いだろうな。

っていうのは、岩波版は、最後の部分がちゃんと訳せてないというか、おかしなことになってるからだ。
だから、グワも原書を読めるようになるまで、わからなかった。


さて、その部分について、少し解説している本がある。

「英語の教え方学び方」という本は、表紙に斎藤兆史とあり、山本史郎とは書いていない。この本にトールキンに関係ある内容があるようには全く見えないから、気がついてない人も多いと思う。
本をひっくり返すと、後ろのバーコードの横に、中の項目が書いてあるんだけどね。

この本は、東大の先生たちが中心になって書いていて、いろいろな視点から、さまざまな方法での英語教育を論じる、というもので、各章ごとに著者が違う。なかなか面白い。

で、その第1章が、ホビットなのさ。 すごい。1章ってのがいいな。ねぇ?

原書房版の訳者、山本史郎さんが、ホビットの最後のシーンについていろいろと解説している。

タイトルは、

 1時限目 文章理解
 テクストの産婆術
 ─ 物語J.R.R.Tolkien, The Hobbit

何が産婆術なのかというと、ソクラテスの産婆術のことで、ソクラテスは、相手に一方通行で教えるんじゃなくて、相手と対話をしながら、対話の中から相手が答えを取り出せるようし向けるのを産婆術と言った。
この方式は、難しい専門用語で解説したものだと全く意味がわからないけど、簡単に言えば、相手が既に持っているはずの答えを引き出す手伝いをする、ってことかな。早い話が誘導尋問ですな。ソクラテスのママはお産婆さんだったんだって。それで、そういう表現をしたらしい。

ということで、そういうタイトルがついているこの解説は、生徒に教える際に、よくわかっていない生徒をちょいちょいとつついて考えさせ、文章の語っている意味を生徒自身が見つける手助けをする、というスタイルの授業を提示している。

で、そのスタイルで、ホビットの最後を掘り下げる模擬授業を紙面で展開している。


その解説は、イマイチ賛成出来ない内容もあるけど、大体はごもっともなことだ。そのごもっともなところは、物語において肝心な部分だから、もっとトールキンファンに知られるといいなとは思うのだけれど、知られれば知られるほど、また何だかロクなことにならないような気もする。

というのは、山本先生は、岩波版「ホビットの冒険」の間違いの部分を引き合いに出し、原文の本来の意味と比較することにより、尚一層、本当の意味がわかるように、という形で書いてある。

ま、そりゃ、あまりよくないものと目指すものとを並べると、その目指す状態へ向かう道筋がハッキリと見える。よくないものと比較しない場合よりも、よりよく進むことが出来る、というのは、翻訳でなくても、何においても同じことだろう。

ほれ、こうだよ、こう!! って教えるより、ほれ、こうすると良くないだろ? こうするのがいいだろ?っていう方が、わかりやすい。

ここで問題となるのは、瀬田訳を引き合いに出したということだ。
それでなくても瀬田ファンは山本訳がキライなのだ。その山本先生が、瀬田訳をよくない例として出したというのは、歓迎されるわけがない。

よくない訳例を山本先生自身が作り、それと本来の意味を比較する、という形であれば、一番平和だったのにな。

でも、一番読まれていて、その結果誤解が広まっている岩波版、その中でも一番問題の部分を正したい、という気持ちはわかる。たしかに。

だから瀬田ファンの皆さん、眉間にしわを寄せないでください。しわが深くなったら大変ですから。男も女も、やっぱ、美しくないと!

この「英語の教え方学び方」の第1章では、ホビットの終わりのところ、エスガロスの元統領のその後の話からバーリン、ビルボ、ガンダルフのセリフを経て、最後までが解説されている。
一番問題の部分は、ガンダルフのセリフだ。


じゃあ、この本で解説されていることをチラチラと覗きながら、もっと掘り下げて、ホビットがどういうお話だったのかを考えてみよう。

ここでは、山本先生の解説に文句をつけたりしながら、進めます。全部が文句じゃないけどね。ちょびっとね。と言いつつ結構書いてたり・・・(^^;;)
反論を入れると、ほんとに理解が深まるなぁ、と自分でも思う。


では以下、グワの話がごちゃごちゃしてわかりづらいでしょうが、どうぞ。





湖の町の統領さんは、たくさん宝物を貰ったのにその後悲惨なことになり、のたれ死にしちゃいました、っていうところで、この統領さんはミダス王の運命と関連がある、との説明がある。

ミダス王とは、触る物全てが黄金に変わって、それは素晴らしいけど、食べ物まで金になっちゃうから食べることが出来なくなる。飢え死にしちゃった統領の話は、それとつながるのだろう、って話。

これは、どうかなぁ。そこまで考える必要があるのかどうかわからない。トールキンがどういうつもりだったかは知らないけど。

ギリシャ神話に出てくるミダス王は、遊び人だったそうな。遊び人の金さん?かな。(←違う)
ある日、神さまのディオニュソスの先生だったシーレーノスという爺さんが、ミダス王のバラ園に迷い込み、その爺さんは王のもとへ引っ立てられたけど、そこは年の功で、いろんな珍しい話を王に聞かせて楽しませ、その中にはアトランティスの話もあり、ミダス王は喜んで聴き、何日かしてから王は爺さんをディオニュソスのところへ送り届けてやった。

ディオニュソスは事の次第を知って喜び、親切にしてくれたお礼に、何でも望むことをかなえてあげよう、とミダス王に言う。遊び人の金さんは、それじゃあ私が触るものは全部金に変わるようにしてください、と頼んだ。欲の皮、つっぱってますねぇ。

ディオニュソスは、こいつは頭が悪いなと思っただろうけど、顔には出さず、そうかそうかと、その通りにしてあげた。ちょっと、いぢわる、って感じ。(^^;)
ミダス王は、何でもかんでも触れば黄金になるもんで、こりゃすごい♪と初めは喜んだ。

しかし、だ。何にも触らないで生きていくわけにもいかない。黄金は、使うだけありゃそれでいいわけで、全部が金になっても暮らしていけない。食べ物も飲み物も金になってしまって、おなかはすくし、音を上げたミダス王は、元に戻してくださいとディオニュソスに頼み、ディオニュソスは面白がって、しょーがないな、じゃあ川で体を洗いなさい、そうすれば元に戻るよ、と言った。
おかげで王は元に戻り、そしてその川では砂金が採れるようになった。
そして王は、ようやくご飯にありついた。よかったねぇ。

さて、神話というのは、いろいろとバージョンがあり、絶対こうこうで、こうなるんです、とは言えない。
ミダス王のその後も、いろいろある。
王は黄金も富も、そういう贅沢なものは大キライになったらしい。

ある日、パンとアポロンの2神が、どちらの音楽が優れているか競争することになった。周りの神々の判定は、アポロンの勝ち!パチパチパチ!さすがはアポロンさま!!ヽ(^o^)/ みんなは褒め讃える。

ところがそこに居合わせたミダス王は、パンの奏でた調べの方が好みで、黙ってればいいものを、「私はパン神の方が上と思います」と口を出した。こういうのを、要領が悪い、という。

アポロンは怒って、ミダスの耳をロバの耳にしてしまう。それもひどい。どうして神さまたちは自分勝手なんだろう。言論の自由はないらしい。
パンは牧神で、アポロンは太陽神だ。どっちが派手かは、それだけで大体推測がつく。素朴な音を奏でるパンの方が好きだったミダスは、やはり黄金事件の後、性格が変わっていたらしい。

ロバの耳になっちゃうのは、どのバージョンでもでてくる。そして、王は、ロバの耳なんてみっともないから隠して、内緒にしてたんだけど、床屋だけは知っていた。
床屋さんは、喋ったらただではおかんぞ、と言い渡されていて、でも言いたくてうずうずする。どうしても口にせずにはいられなくて、地面の穴に向かって「王さまの耳はロバの耳ぃ〜」と言ってすっきりした。これは井戸の中に向かって言ったというバージョンもある。何にしても、声に出すことが出来て、気が済んだのだ。

で、どうなったかというと、その穴から葦が生えて、葦が「王さまの耳はロバの耳」と言いまくったとか、町中の井戸から「王さまの耳はロバの耳」と聞こえてきたとかいう事態となり、王さまは「お前が喋ったんだろう!」ということで床屋を殺してしまう。というバージョンもある。
そうかと思えば、王は床屋のことは許してやって、それを見たアポロンも、ミダス王を許してやり、元の耳に戻してやった、という話もある。この平和な終わり方をしてるバージョンが多い。
それに従えば、ミダス王は、寛容さを身につけた、ということになる。元々の欲の皮はすっかり剥がれたらしい。ピーリングでもしたんだろう。

このミダス王の話は、ギリシャ神話に留まらず、イソップ寓話にも入っている。

エスガロスのおじさんとミダス王がつながるとすると、ディオニュソスがバルドと似た立場となり、ディオニュソスの先生のシーレーノスは、町に立ち寄ったドワーフたちになるかもしれない。アトランティスの話を知っていたということは、アトランティスはヌメノールにつながるから、シーレーノスはエレンディルの子孫で・・・あ、ロバの耳って、もしかしてエルフみたいにとんがってるってこと?じゃあスランドゥイルがミダス王で・・・とかいう、わけのわからない連想になったりする。 え、しない?

んで、何が言いたいかというと、湖の統領さんが飢え死にしたのはミダス王の話から、というのは、山本先生が仰る通りなのかもしれないけど、グワはあんまり賛成しない。ミダス王は飢え死にしてないし。

そういえば、トーリンが意地を張って山に立てこもって、交渉に来たのをつっぱねたとき、そんなら好きなだけそこにいれば?ということになり「食べたきゃ、黄金を食べればいい」と使者から言われる。
エスガロスのおじさんがミダス王の話とつながりがあるなら、トーリンもそういうことになる。

ちなみに、R・シュトラウスのオペラ「ダナエの愛」にも、このミダス王が出てくる。話はずいぶん違うけどね。ダナエの彼氏のミダス王は、触れば何でも金になるんだけど、ごはんが食べれなくなって死にそうだって話じゃないし、その力を授けたのもディオニュソスではなくてユピテル(最高神のゼウス)になっている。


はい、じゃあミダス王はここまでにして、次は、バーリンのセリフ。





バーリンは、再建された谷間の町をバルドが治め、あの一帯は繁栄し、素晴らしい状態だと話す。

で、「he gets most of the credit for the present prosperity.」と言う。he ってのは、new Master のこと。

今の繁栄をもたらしたことで賞賛されている、ってことになる。

「英語の教え方学び方」の1時限目に拠れば、creditは手柄というニュアンスが強く、新しい町長は、現在の繁栄に到ったのは、他の者たちの功績も大きいのに、そのあらかたを自分の手柄ということにしてしまった、ということになるんだそうだ。

ふむ。

あのバルドはそーゆーヤツだったのだろうか。

しかし、カラスのロアークは、バルドはいい人だって言ってたよな〜
湖の町の統領は信じてはならんが、バルドは信じなさい、って。

ロアークじいさんのセリフ。
瀬田訳「まことにきびしき男ではありますが、正しき者じゃ」
山本訳「顔は怖いが、心は純じゃ」 ←なんか可笑しい。楽しいリズムになってて歌ってしまいます。かおぉはぁこわぁいぃがぁ、こころぉはぁ、じゅんじゃあぁ♪

原文は、he is a grim man but true. で、その true で純なバルドくんは、全部自分の手柄にするような、そーゆーヤツなのだろうか。

スマウグが墜落して、みんながバルドも死んでしまったと思ったとき、湖から這い上がって、「私は生きているぞ!スマウグを射たのは私だ!」と叫ぶバルドは、そりゃ自分をアピールするのは上手なんだろう。
でも、手柄を独り占め、というようなヤツとしては描かれていない。

ま、ナンタルチアな山本先生の言うことだからね。

・・・・・という感想が出てくる人もいるんじゃないかな。


ではそれについて、考えてみる。

問題は、バルドくんがそーゆーヤツだったかどうかではなく、New Master とは誰なのか、だ。

再建されたのは、谷間の町の他に、湖の町もある。

バルドは谷間の町を再建し、そこのトップになり、その後も代々そこを治めることになる。

一方、エスガロスは壊滅したけれど、また別のところに再建される。そこのトップは誰なのか。

どちらも人間の住むところだし、昔、谷間の町が壊滅してからは、その生き残りの子孫はエスガロスにいたりもして、バルドもそのひとりだった。そして谷が復興され、エスガロスにいた人たちも移り住む。
つながりは深いから、両方とも同じMasterでもよさそうにも見える。

だけど地理的には結構離れている。

バルドは、昔、谷を治めていたギリオンの子孫だ。
スマウグが墜ちた後、みんなはバルドを王に!と叫ぶけれど、エスガロスのMasterは、谷の領主とエスガロスの王は別だと言う。それでもみんなはバルドを王に!と言う。しかしバルドはそんなことより谷の復興を考え始める。
バルドは戦いの後、エレボールにあったお宝の14分の1を貰い、その一部を湖の町のためにと渡している。災害復興助成金ですな。自らエスガロスの統治に乗り出したわけではないけれど、バルドはずっとエスガロスで暮らしていたんだから、ほっとくわけにはいかないのだ。

スマウグが死んでから、谷の国でバルドが王となるまで3年かかっている。その間は、エスガロスを含めた周辺の復興作業でバルドは大忙しだったに違いない。

で、前のMaster はそのせっかくの助成金を持ち逃げして死んじゃって、その後は誰が引き継いだのだろう。


さて、今度のMaster が手柄を独り占めするようなヤツだったとなると、バルドはそーゆーヤツだったのか?という間違った疑問が湧くのは、ホビットの最後の部分の話の流れに拠る。

バルドは谷を再建し、周辺は花は咲き畑も豊かに実り人が集まり素晴らしいことになっている。
湖の町も建て直されて、前より良くなった。
そして前のMasterは死に、今度のMasterは、前のよりずっと賢い人で人気があってね・・・とバーリンは言う。

さぁ、今度のMasterは、バルドなのか?

よくよく読むと、違うんだけど、なんとなく読むと、バルドのようにも見える。


そして、読者の多い岩波版では、もろにバルドのように書かれている。これが問題なんだな。


昔、グワは、何せ岩波版が染みついてるから、バルドが新しい統領になったんだ!よかったねぇ!と思いこんでいた。新しい統領は、人気があるのも当たり前。きゃ〜きゃ〜♪

しかし、ちゃんと考えると、バルドがエスガロスを治めているわけがないじゃないか・・・・となり、??で、わからなくなった。

指輪では、フロドが裂け谷に着いて、グローインと話すところで、グローインは、Bardings、つまりバルドの子孫たち及び谷間の町の人々はよい人たちだという。エレボールのドワーフたちは、彼らと仲がいい。
そして、そのバルドの孫が治める谷の王国は、エスガロスの近くにまで達していると。
his realm now reaches far south and east of Esgaroth. 遥か南の方、エスガロスの東の辺りにまで広がっている。
ってことは、エスガロスはエスガロス、谷の国は谷の国。

だから、どう考えてもやっぱり、谷の町と湖の町は、行政区画が別なのだ。

バルドはエスガロスのMaster にはなっていない。あり得ない。

だから、この部分も岩波版は訳がおかしくなっている。瀬田訳では、
「新しい統領は、ずっとかしこい人だよ。」とバーリンがいいました。「それに人気がある。なにしろこの人のおかげで、いまの繁栄にいたったのだからね。湖の人たちは、この人のみ代に、川は黄金となって流れるという歌を作ったくらいなんだ。」
これを読むと、鷲でなくても、誰でも、エスガロスの新しい統領はバルドだと思ってしまう・・・んじゃないかな。直前にバルドの話が出てくるし。

「何しろ、この人のおかげで、今の繁栄に至ったのだからね!」とくれば、文脈として、知ってる人の話に違いないわけで、繁栄に寄与した人間でトップになりそうな人はバルドしかいない。他に詳しく描かれてる人間は、前のMasterくらいしかいないんだから。

仮に、バーリンが、谷の町のトップを new Master だと表現したとすると、「湖の人たちは、・・・・歌を作った」っていう訳がまたおかしくなる。
それに大体、エスガロスの old Master の次に new Master の話をしてるんだから、エスガロスからいきなり谷に話が飛ぶわけもない。

本当は、読者にもビルボにも、new Master が誰だかわからない。
そして、バーリンはあの時のドタバタの渦中にいたのだから、そのエスガロスのnew Master が現在の繁栄の大きな功労者であるはずがないのをよくよく知っている。だって、話に出てこないような人だもん。

それなのに、「この人のおかげで、今の繁栄に至ったのだからね!」なーんて言うわけはない。

ドワーフの一行が苦労してあそこまで行き、ビルボがスマウグのチョッキの穴を見つけ、バルドが竜を射て、その後はドワーフと人間の間でケンカになりかかり、五軍の戦いでは危ないところを鷲とビヨルンの活躍で勝つことが出来、いろいろあったけれど、繁栄に至った功労者は、かなりの数になる。もちろん、鷲も入れていただきましょう。(^^)

だから、そのnew Master が most of the credit for the present prosperity をゲットしているのは、バーリンにすれば、面白くない。なんで?って感じ。

get the credit for っていうのは、褒められるってことで、クレジットをゲットできないはずなのに自ら率先してゲットする!っていうよりも、周りの賞賛によってゲットすることになる、って感じでもある。必ずしも賞賛をもぎ取るわけじゃない。

だから、今度のMasterは実はとんでもない奴だ!っていうより、バーリンとしては、何だか納得いかないよな、って感じかもしれない。なんとなくそういうことになっちまってるんだよな、って。

ということで、ここは、山本先生の書いてるように、そのnew Masterの持つ賢さというのは、繁栄を自分の手柄にしてしまうような狡猾さである、とまではいかないかもしれない。

でも、「なんかねぇ、ほんとは違うのにねぇ、そういうことになってんだよねぇ」っていうセリフであることは間違いない。

上が操作しなくても、民衆が英雄を作り出し、あれよあれよと人気が上がり、そういうことになってしまうこともある。ヒーローがいてくれると、その人を称えることでみんなの意識がひとつになる。悪役がいると、その人を叩くことでみんなの意識がひとつになる。民衆としては、そういうのが楽だから。

でも、自分はたいした功労者じゃないのに持ち上げられてしまったら、trueな心正しき者であれば「いや、違いますよ〜」と言うだろう。しかしこのnew Master は、否定してないらしい。じゃ、やっぱり、そーゆーヤツなのかな。

この部分は、岩波版はそういう諸々のことが、バルドの立場とか、あの辺の行政のこととかを含めて描けていない。「この人のおかげで、今の繁栄に至ったのだからね!」の一言で、全てが違って見えてしまう。
ここは、原書房版ではちゃんとなっている。


しかし、原書房版でも、何か変なことはある。
山本先生が解説しているように、new Masterが、
『うまく人心を操作することによって名声を得、地位を安泰なものにしているという、きわめて皮肉な意味での賢さ ─ すなわち「狡猾さ」、「抜け目なさ」を意味している』
というような人であるならば、山本訳ホビットで「新しい町長は聡い人で」となっているのはおかしい。

「聡い」にそういう意味はない。「聡」って字は、すてきな字で、だから人名にもよく使われる。聡美ちゃんや聡くんは、抜け目なく狡猾になるようにって名付けられたわけではない。

聡には、耳がついている。よく聴く、という字だ。よっく聞いて、よくわかり、さとくなるのだな。
聡とは、暖かい字だと思う。

原書房版のバーリンは、「聡い人で」って言ったのに、そのあとで何やら悪く言う。だからあの部分の山本訳は、何だか意味が通じないように感じる。みんなはどうかわかんないけど、グワはねぇ、なんか違和感がある。

なんか変で、「なぜって、いまこのような繁栄をむかえているのも、ひとえにこの町長のおかげということにしてしまったのさ」っていうバーリンのセリフの、「してしまった」のは誰だかわからなくなる。

町長自身がしてしまったのなら、聡という字と何だか合わない。

じゃあ、次の文、「連中は、町長の御世には川に黄金が流れ、なんて唄までつくっている」という、連中が「してしまった」のか?とか思って何回も読み返したりする。え〜、わかんないよ〜

ここは原文を読めば、「he gets most of the credit」となっているから、new Masterが主語だとわかるのだけど、原書房版だけ読むと、なんだか意味がわかりにくい。



  

さて、次。 ガンダルフのセリフ。これですよ、これ。

ガンダルフの部分に関しては、グワは山本先生の解説にそんなに異論はない。仰る通り、ごもっとも、です。

そして、ここから、問題の岩波版の引用が出てくる。岩波版は、ここが大層よろしくない事態になっている。でも瀬田ファンは、あー、これは違うんですね、ほんとはこうなんですね、ということで、あまり怒らないようにしてください。

岩波のがおかしくなってるのは、予言がどうこういう部分と欲の皮の周辺です。ガンダルフが何を言いたいのかがわからない。

原書房の山本訳は、このガンダルフのセリフは、かなり意訳してあるところもあるけど、意味は原文通りで、ズレてはいない。
山本訳はキライだっ!って人は、ま、そりゃ読みづらいにしろ、最後のところはそんなに頭に来る書き方にはなってないから、真実を知るためと思って読んでください。

原書を持ってる人は、原文も見てよくよく考えよう。

それでもよくわからないという人は、この「英語の教え方学び方」をどうぞ。

それでもわかんない!って人は、以下読んで参考にしてください。


簡単に言うと、予言というものは、そうなると定められているもので、ビルボはその中のひとつの役割を演じていたに過ぎない、ってことだ。
ビルボの活躍で全部がうまくいって、それがたまたま予言で語られてたようになったわけじゃない。
単にビルボの活躍でうまくいったということではない。
たまたまラッキーだったから、助かったわけでもない。
お前さんの活躍で全てうまくいったように見えるが、大きな広い世界の動きの中では、誰しも小さい小さいものなのじゃ、わしはお前さんが好きじゃがね、ビルボよ、大活躍をしたお前も同じなのじゃよ、お前さんは頑張ったかもしれんが、予言を実現させるような、世界の大きな力があったから、助かって、うまくいって、帰ってこれたんじゃろ、って話をガンダルフはしている。

その大きなうねりの中で、小さな我々は小さいなりに、精一杯頑張りましょーね、ってことだ。

ホビットの最後って、そういう会話なのだ。





あの岩波版ホビットの最後は、昔読んだときもよくわからなかったし、大人になってから、じゃなくて成鳥になってから読んだときもよくわからなかった。

岩波版のことをドカドカ挙げて悪いんだけど、あの本は読者が多くて、ということは、ここの点はわからないままの人が多いだろうから、やっぱり書いておく。

まず、わかりやすいとこから行こう。
岩波のホビットの冒険の最後、ガンダルフのセリフに、改訂前は「わが身かわいさのあまりとか」、改訂後は「欲の皮をつっぱらせただけで」というのがある。これはどっちも誤訳なんです。どっちも意味不明。
ビルボは欲の皮、つっぱってないからね。話がわかってれば間違えようのないとこなのにな。

エレボールでだって、宝物はちょっとしか受け取らなかったし。
森の館で食べ物を失敬してたのも、バレてないのに気になって気になって、お返しをしないと気が済まなくて、スランドゥイルに首飾りを渡したりもする。
トロルのお宝も自分は要らないって言うしね。
皮は全然つっぱってませんよ〜

これの原文は、「just for your sole benefit」
これは「君ひとりのためだけに」ってこと。わかんなきゃ、辞書ひけば載ってる。

「for 誰かの benefit」 は、「誰かのために」っていうことですよ、ってのは、辞書ひけば普通に書いてあるのに、どーして変な訳になってるんだろ。

海外生活が長くてペラペラ喋れる人じゃなくても、ちょっと調べればわかるんだし、仕事としてやってるならてきとーにしないでほしい

気に入らないのは、瀬田さんが間違えたのはおいといて、それを瀬田さん亡き後、直したというのに、元の文に輪を掛けてわけのわからないことになっているってことだ。

「君ひとりのためだけに」と「わが身かわいさのあまり」は、まぁ似てると言えば似てなくもない。瀬田さんはちゃんと意味がわかっててこれを書いたのかもしれない。表現の仕方がちょっと違う方向だっただけかもしれない。

しかし、改版で、「欲の皮」がつっぱっちゃったのは、どうにも理解出来ない。勝手に創作する前に、辞書ひいてほしい。
何のための改版だかわからないじゃないか。

山本先生は、この本の中で、この部分について、「ニュートラルな表現に対して、過剰に意味を解釈する場合が」云々とお優しいことを書いてらっしゃるけど、これがあの別宮先生に見つかったら、何を言われるかわかったもんじゃない。見つかりませんように。(^^;;)

グワは、この「欲の皮」は、ドワーフたちとか、もしかして湖の町の統領とか、他の人のことを言ってるのかと思ったんだけど、それにしても意味がわからなかった。
ガンダルフは何を言ってるのだろう・・・・???どういう会話なのかわかんない。原書を読めるようになってから原文を見ると、ここはyour になっている。ビルボの欲の皮?うーん。ますますわからない。for your benefit が欲の皮になるのもわからない。
この「欲の皮がつっぱった」っていう言い回しは、第1章でスマウグの形容に使われている。スマウグと一緒にされちゃビルボがかわいそう。





岩波版の、あのガンダルフのセリフは、欲の皮だけでなくて、その前もずいぶんおかしい。
予言のところが変なんだよね。原文とは全然意味が違う。

原文もわかりにくいのかもしれないけど、でもちゃんと読めばそんなに難しい書き方なわけじゃない。割とわかりやすい。だってトールキンは児童文学として書いたんだから、そんなにわかんないような書き方をするわけがないもん。
予言に関しての山本先生の解説はごもっとも。でも、ちょっとややこしい。

じゃあ、この本読んでもまだよくわかんない人もいるかもだから、グワも少し解説をしてみよう。
これが問題の部分↓
Surely you don't disbelieve the prophecies, because you had a hand in bringing them about yourself?
Surely, you don't 〜〜〜 っていうのは、まさか〜〜じゃないだろうね?ってことで、疑問文の形になってなくても、疑問文なのだ。だから、don't you 〜になってないんだけど、終わりに「?」がつくこともある。
ホビットの最後のこれにも「?」がついている。

で、この形は、「こらこら、おいおい」って感じの言い方だ。
ガンダルフは、ビルボが、「予言で言われてたみたいになったんだね〜」、って言うのに対して、こらこら、と言ってるのだ。
岩波版では、そのニュアンスがなくなっているし、疑問形のニュアンスも出ていない。

ほんとは、ガンダルフは、
「これ、ビルボよ、お前さんは、自分が手伝ってそうなったからって、予言を信じないって言うんじゃなかろうな?」
って言ったのさ。これはほぼ直訳。
直訳でもわかりやすいよね。グワ訳出すときはこのまんまでもいいくらい。あ、ビルボよ、は原文には入ってないけど。
原書房版では、この意味を基盤に意訳されている。

バーリンの話を聞いて、へぇ、じゃあ、予言で言われてたみたいになったんだね〜、って言うビルボは、やっぱり事の次第がわかってない。それに対して、ガンダルフは、「これこれ」と言う。

予言は、乱暴な言い方をすれば、ほっといても実現するものだ。
ビルボは、歌の通りになったのは、たまたま、一応、そうなっただけだ、みたいな言い方をする。
自分の働きが大きかったんだし、ほっといても実現する予言とは違う、って意識が見える。
歌の通りになったのは、あくまでたまたま。

それに対しガンダルフは「こりゃ、それは違うぞ」と言ってるのだ。

歌の通りになったのは、予言そのものだ、予言が実現したのじゃ、ってね。 あったりまえじゃろうが!って感じ。

お前、自分の働きでああなったんだから予言が実現したわけじゃないって言うのかね?アホなこと言うんじゃありません、大きな世界の中では、お前さんはちっぽけな者なんじゃ、って言われたビルボは、Thank goodness!で降参(?)するんだよ。

少しは、わかってもらえた?

この予言云々のとこがちゃんと読めてれば、それに続くところで欲の皮がつっぱるわけがないのは明白なのだ。

それも、あれは、この Surely, you don't 〜〜〜 の形がまだ続いてるところだ。
Surely, you don't 〜〜〜 で、またSurely, you don't 〜〜〜 となるんだけど、2度目は Surely はカットで、You don't で始まっている。
岩波版は、それがわかってなくて、別々なものと捉えて、無理矢理「ところであんたは」でつないでいる。

この2文は誰が読もうがセットのはずなのに、岩波版はセットになってない。

岩波版は、あれ読んで、みんなが意味をちゃんと理解出来てるとは思えない。ホビットのお話って、むずかしい終わり方だと思ってる人もいるんじゃないかな。

最後のビルボの「おかげさまで」もよくわからなかった。これは誤訳ではないんだけど、でもよくわからない。それは、その前が変なことになってるからなのだな。
原文で読めないと、いつまで経ってもわからない。

ホビットは、一応児童文学ということになってて、日本の子供たちの大半は、原書では読めないだろう。この部分は、すんなりわかるように訳すのは難しい。でも、できるだけ原文の意図に沿ったものにしなきゃあね。





ホビットの最後で語られることは、指輪の大きな流れにも通じる。

この世界は、我々は、大きな力に動かされている。

ビルボは指輪を見つけるよう定められていた。フロドはそれを受け継ぐよう定められていた。こんな時代に生まれついたのを嘆いても仕方がない。自分のすべきことを、力の限り、せよ。

・・・っていう、指輪に出てくるガンダルフのセリフ。
映画の字幕も吹き替えも、あの部分は違う意味になっていた。
ガンダルフは、とても深いことを言っている。

後年、そういう物語に続いていくことになるホビットは、書かれた時点では楽しい児童文学だったわけだけど、でもやっぱりそういう流れは元々持っているのだ。

ホビットの最後で、ガンダルフは、指輪でも語られるのと、同じ思想を語っている。
世界は、大きな力に動かされている。小さな個人の力ではどうにもならない大きなものが、この世にはある。その中で、自分の出来る限りのことをしよう。
大きな世界の中では、誰もが小さき者ではあるけれど、その小さき者には皆、役割があり、皆がそれぞれ必要な者なのだ。
これは、トールキン自身の思想でもあったんだろう。

みんな、この世界で、何か役割がある。そのために生きている。これは、児童文学という位置づけのこの本にふさわしいテーマだな、と思う。

ビルボは旅の途中で散々大変な目に遭い、何度死にそうになったかわからないけれど、その都度切り抜けて、ドワーフたちを助け、旅はまずまずの成功に終わった。
それは初めから決まっていたのかもしれない。ビルボはそういう役をするようになっていたのだ。いろいろ切り抜けられたのは、そういう大きな力のおかげ。

予言があれば、それは予言が実現してくれるから頑張らなくてもいいというわけではない。
ビルボは、その役割の中で、とても頑張って、うまくやり遂げることが出来た。
そして、ガンダルフから、そういうことで、歌は本当のことになったのじゃ、と言われる。

読者は、あーそういう捉え方があるのだと、「へえ」と思う。

そして、ビルボと同じく、「Thank goodness!」と言って、本を閉じる。っていう仕掛けになってるのがホビットの本なのだ。・・・とグワは思う。

その最後のために、読者はずっと読んできたのだ。

トールキンは、そういう仕掛けをしてあるのだ。トールキンって、ほんとにすごい。


そう言って読み終えることが出来るって、なんて楽しいことだろう。
ビルボと一緒にハラハラドキドキして旅をして、最後にガンダルフに大いなる世界の話をされて、あー、そうなんだねぇ、ありがたいな、って、ビルボと同じ気持ちになって、ビルボと一緒にThank goodness!って言えたら、最高の読書になる。あー、面白かった!って心から思える。

そんなホビットの本は、ほんとにほんとに素晴らしい物語なんだなぁ、って思う。





Thank goodness!はねぇ、訳すの、困るんだよねぇ。

瀬田訳では「おかげさまで!」
山本訳では「そうだったのですか!」
絵物語版の山本訳は「なあんだ!」
山本訳新版では「おお、くわばらくわばら!」

なーんだ、は、どうもイマイチだな。あ〜、そういうことだったんですね、なぁんだ!っていう意味のつもりなのはわかるんだけど、ちょっと軽すぎるし、「なあんだ!」では、初めてあれを読んだ人にThank goodness!のニュアンスが伝わるとは思えない。

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で、新版出たので追記。
「くわばらくわばら」に到っては、ぜんぜん違うと思う。あれは元々、雷除けのおまじないで、災難が降りかからないよう唱えるものだ。道真公由来の言葉。 道真の領地桑原だけは雷が落ちなかったからなんだって。道真さんは雷神になったから、ってことらしい。自分のとこには落とさない。
まぁ元々そういう話があって、転じて、雷でなくても、おーこわ、こわ、って時に言う。

このビルボが言ってるのとは、方向が逆だ。
くわばらは、これから災難が来るかもで、来ませんように、お願いします、ってこと。

ビルボのセリフは、うまくいってよかった、助かったよー、どうもありがと♪ ってことだ。ここでくわばらが出るのは、日本語がわかっていない。

くわばらを使うのは、やっぱり災難に関してだな・・・と思うけど。
困難とか、いろんなことがうまくいったとかいうときには、ピタっとこない。困難と災難は違うわな。
どっちにしても、くわばらとThank goodness!は、その難しい事態がこれからなのか、もう終わったことなのか、が違う。


この本で山本先生はThank goodness!については大して書いてないし、訳本では「そうだったのですか!」と「なあんだ!」ってことになってるし、結局「くわばら」になってしまってるから、以下のことはあんまり考えてないのかもしれないけれど、グワは、やっぱり、「なあんだ!」でも「くわばら」でも、どっちにしてもおかしいと思う。

追記ここまで--------------

goodness は、good の名詞で、善良とか徳とか親切とか、良い状態を表すのは誰でもわかるんだけど、この語は、神を表すこともある。Godね。

God という語は、畏れ多いから、やたらと口にするべきもんじゃない。
不敬にならぬよう、代わりに goodness と言う。

Thank goodness!は、ありがたい、あぁよかった、ってことで、goodness を使った表現は他にもいろいろあるけれど、God と入れ替えても意味が通るというか、God とした方が意味が通る場合って多いのだ。

例えば、Goodness knows〜、は、誰にも分からない、ってことだけど、これも普通に考えると、どうしてそうなるのか、さっぱりわからない。
どうして、「いいことが知ってる」というのが、誰も分からないになるんだろ。
これを God に読み替えると、神は知っている→人は知らない→誰にもわからない、となる。

Thank goodness!の場合はどうだろう。

これもやっぱり Thank God と同じなの。神さま、ありがとう!とすると、すんなり意味が通る。

だから、やれやれありがたい、あぁ助かった、よかった、しめしめ、とかいう辞書に載ってるような意味になるのだ。そしてそのニュアンスも、神さま、私を助けてくれてありがとう、って感じだから、何か思いもよらずにうまくいったとき、うまくいかないように見えたのに何かが助けてくれたかのようにうまくいったとき、周りの状況がなぜかうまく回って自分がまずい立場にならなくて済んだとき・・・に思わず口に出る、という言葉。
「やれ、ありがたや」と「しめしめ」は結構違うようだけど、そういう視点に立つと、同じなんだよね。


さて、ビルボの場合は、どうだったのか。

まず、つい、うっかりしたことを言ったもんだから、ガンダルフからいつものように、やいやいと言われる。
うっかりしたことを言わなくてもガンダルフはすぐやいやい言うな。物語の出だしのところでもそうだよね。グッドモーニングの意味がどうのこうのとうるさい。なんてうるさいジジイだろう。

で、ここでもビシバシと説教される。
あのガンダルフのセリフは、ゆったり優しくではないな。ビシバシ、だ。


じゃあ、わかりやすくしてみようか。硬派より軟派な方がわかりやすいだろうから、ちょっとチャラチャラとした感じでどうぞ。

ビルボ へー、じゃあ、予言にあったみたいになったんじゃん。
ガンダルフ あったりまえじゃろが!なーにを言っとるんじゃ!
予言にあったみたいになったんではないわ!予言が実現するのは、当然のことじゃ。
お前、自分の働きでうまくいったんだから、予言なんてそんなものないなんて言うんじゃあるまいな?
全部切り抜けて帰ってきたのはラッキーだっただけで、あーよかったよかったなぞというつもりになっておるんじゃあるまいな?
じょーだんではないぞ、アホなこと言うでない。
ビルボよ、お前さんはなかなかよい奴じゃ。わしはお前さんが好きじゃがね、た!だ!し!じゃ!このひろーい世界では、お前さんはちっぽけな者にすぎんのじゃぞ!
大いなる力をバカにするでない、予言というもんは実現するようになっとるんじゃ、わかったか!
ビルボ ひぇ〜、そのおかげで帰ってこれたんですね〜、ありがたや!
  そして、ビルボは笑って、ガンダルフにタバコを渡しました。 ま、ま、一服どうぞ。(^^)

・・・ってこと。ちょっと追加しましたが。

〜あるまいな?の2文がセットで、そのセットの部分を否定しているのがガンダルフのセリフだ。


で、予言は実現するものだとか、大きな世界と小さな自分とか、そういう話に続いて、Thank goodness!つまりはThank God!という言葉がくれば、これは本当にピッタリの流れになる。
トールキンは全部計算して書いている。

God は、英語ではキリスト教の神を指すのが普通で、ミドルアースの世界とはまた違う。ただその大いなる存在みたいなものが、goodness の中にちょっと隠れている、って感じなんだと思う。
ここでは別に宗教的にどうこうと考える必要はない。
何か、そういう存在に対する言い替えの言葉がgoodness ってこと。

だから、ここではやはり、ビルボの締めの言葉は、Thank goodness!しかあり得ない。
他の言い方だと、前とつながらなくなる。


Thank goodness、グワ訳ではどうしようかな。
ひと言でキメて、読み手も一緒に「Thank goodness!」って思える言葉にするのは難しい。
おまけに、しみじみしてしまってはいけない。笑わなきゃならないんだから。むずかしい。
ま、ゆっくり考えよう。





そして、Thank goodness な気持ちになれたなら、ビルボがガンダルフにタバコを渡すのも、自分のこととして納得できる。タバコは嫌いなんだけどさ。吸ってもいいですか、って訊きもしないで吸うヤツなんか、ギロギロっと思いっきり睨んでしまう。タバコを吸ってもいいのは、トールキン先生と、ミドルアースの登場人物たちと、シャーロック・ホームズだけだ。
いや、そういう話じゃなくて、えーと、そう、自分のこととして納得できるのだ。ビルボと同じ気持ちにならないと、ホビットを読み終えることは出来ないもんね。

ただ、ビルボがタバコ入れを渡すのは、山本先生は、インディアンを例にしてるけど、そりゃちょっと方向が違うと思う。仰りたいことはわかるんだけど、何もインディアンでなくてもいいし、頭に羽をつけずとも、こういうのはアジアでも欧州でも変わらないからだ。
山本先生が書いているインディアンの和睦の申し出っていうのは、やっぱり何かズレてると思う。


日本のドラマでもこういうのが昔はよくあった。今は、タバコはいけません、って風潮になって、それはまことに素晴らしく、タバコ嫌いの鷲としては、あんなもの法律で全面禁止にすればいいのに、とまで思ったりするけど、ドラマの小道具としても使われなくなってきたことは、時代が変わって、ひとつの文化が終わったのだなという寂しい気もしなくもない。

タバコを渡すのは、上の者から下の者へであっても、その逆であっても、対等な者同士であっても、ねぎらいであったり、敬意であったり、親しみであったり、そのちょっとしたことで、つながりが強化される行為だ。

それは、お金で買える関係ではなく、お金が絡んだ関係でもなく、心と心がさりげなく交差する。
がっちり濃厚に「仲良し!」って叫ぶのとは違って、さりげなく、だ。
だからそれは、よく知ってる人でも、あまり知らない人でも、「あり」な状況となる。

ビルボにとっては、ガンダルフは上の立場で、かつ、この時点ではよく知ってる相手だから、「ま、どうぞどうぞ、そっか、そうなんだ! そういうおかげなんですね、いやぁ、ありがたいことです、教えてくれてありがとう、僕ぁ、自分がちっちゃくて可笑しくなっちゃいますよ、これからもどうぞよろしく」っていうのがあって、でもくどくど言わない。タバコを渡せばそれで全部伝わるから。そして二人の間は、さりげなくつながりが強化される。

魔法使いに、これこれとたしなめられて、ニコニコと、アハハと笑いながら、あー、そんなんだねぇ、そりゃすごい、ありがたいねぇ!って言って、ま、どうぞ、とタバコを渡す。

カラリと明るいこの最後は、ほんとにほんとに素敵だな。

そしてこれは、物語の初めで、ガンダルフがビルボの前に現れたときの会話の終着点ともなっている。

ビルボがGood morning と言って、Good morning について話があって、その後、即座にタバコに話は移る。
ビルボはガンダルフにタバコをどうぞと言うけれど、ガンダルフはそんな時間はないと言う。

タバコとは、イライラしてストレス解消に吸うこともあるらしいけど、ほんとはやっぱり、余裕があるときに、楽しみのために吸うんだろう。
物語のスタート時点では、そんなヒマはなかった。
物語の終わりでは、ゆっくり吸える。

トーリンたちが押しかけてバタバタした日にもガンダルフはビルボの家でパイプを吹かしてはいたけれど、「どうぞ、わたしのをお吸いください」なんて状況じゃなかった。ビルボは駆け回ってたんだし。

そして、あれだけ大変なことの後で、やっと最後に、初めの「どうぞ、わたしのをお吸いなさい」っていうビルボのセリフが実現して、物語は終わることが出来る。これがないと終われない。

ビルボとガンダルフの会話は、タバコで始まって、タバコで終わるのだ。トールキンはパイプが好きだったからね。

ホビットは、細かいところを見ても、大きな枠組みを見ても、ほんとに上手に組み上げられたお話だ。





さて、大きな世界と、小さな自分。

自分の小ささや、その自分がこの世界にいる素晴らしさは、それを感じると可笑しくなっちゃうくらい楽しくて、まさにThank goodness!なのだ。

それも、しみじみするんじゃなくて、ビルボみたいにカラっと笑えるのって、健康的で気持ちがいい。

最近は、世の中、自分の周りのことにしか目がいかなくて、世界の壮大さとか、人生の不思議さとかいう感覚に鈍感になってるのかもしれない。

でも、ホビットを読んだときくらい、Thank goodness!って、笑いながら、空に向かって言えるような、そんな心の余裕があると、人生はもっと楽しいと思う。

グワの場合は、鷲生ね。はい。



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