岩波書店 「ホビットの冒険」事情


瀬田訳は多くの人に愛されている。
瀬田さん独特の表現で、ビルボの大冒険が語られる。それはとても懐かしいような、暖かい世界だ。

この本は、ほんとに楽しい。読みやすいし、ほのぼのとする。読み始めるとついつい時間を忘れる。

しかし、瀬田訳ホビットは間違いが多い。
ま、そりゃね、全部のページに間違いがあるわけじゃないよ。

大半はちゃんとしている。
だから、とりあえず通して読んで、ホビットの世界を楽しむことは出来る。ぜひどうぞ。(^^)


指輪も瀬田さんの訳でみんな読んでいる。指輪の邦訳は、あの評論社のしかない。
瀬田さんのファンは多いけれど、みんながみんな、瀬田さんの訳が好きなわけではない。人それぞれ、好みがあるからね。ですます調は指輪には合わない!という意見も多い。それはたしかにそう思う。ちょっとまったりとしていて、スピード感がないのもトールキンの文とはだいぶ違う。
両方読むと、空気が違うというか、何かまるで別の世界に感じる。あの雰囲気はキライ、という人もいる。

グワイヒアはどうかと言うと、キライではない。
初めて読んだのが瀬田訳で、指輪も原書がヨタヨタとでも読めるようになるまでは瀬田訳オンリーで、今更キライになるもんじゃないし。
ただ、熱烈な瀬田信奉者じゃあないな。じゃなくて信奉鷲じゃあない。ま、普通に好き。って感じ。(^^) 

瀬田訳は、トールキンの文を知ってしまうと、空気が違いすぎる。
何の本でも、言語が違えば空気が変わるのも当たり前で、訳者によっても別世界となるのは当たり前の話だ。言葉によって、世界の捉え方は違うし、元と全く同じものは伝えられない。

トールキンは言語の大家だったから、そういうことは全部承知の上で、この固有名詞は訳してね、とか、これは訳さないでね、ってことを書いてたんだろう。

共通語は訳せ、というのは、その訳した先の言語がどういう雰囲気のものであるにせよ、読み手がそれを母語で受け取ってほしいということなわけで、ということは、その言語の性格を前面に出してよいわけだ。

日本語と英語は全く世界が違う。誰が訳しても、トールキンの書いた雰囲気そのままになるわけがない。
ただその日本語というものは、ですます調があり、である調があり、漢字ひらがなカタカナの書き分けがあり、私だの俺だのと人称代名詞が多数あり、擬音語擬態語が異様なほどに豊富で、終助詞によってまた雰囲気を変えることも出来る。ヨーロッパ系の言葉と比べると、かなり複雑で、バリエーションがありすぎる。

だから訳すにあたっては、どういう感じの文体で行こーかな?っていうのをまず決定しなきゃならない。
それは、原文を読んで、どんな感じなのかを受け取り、なるべくそれに近い路線にするのがいいんだよね。

瀬田訳の場合は、瀬田節とも言われるあの独特な調子で貫かれ、原文の感じがどうとかより、瀬田調100パーセント!になっている。

でも、瀬田訳のスタイルは、他の誰にも真似の出来ない、素晴らしいものだと思う。

ちょっと古風な日本的世界が出現する。
共通語は母語で!ってうるさく言ってたトールキンが、読み手それぞれの土地の、古来から蓄積された文化に基づいた訳にしてほしかったとすれば、あれは正しいのだろう。というか、あれが正しいのかもしれない。
あれはあれで、「あり」なのだな。

瀬田訳はキライ、っていう皆さんは、そんなことを考えて、ジャパニーズ的ミドルアースを楽しめばいいんだと思うよ。

で、瀬田版が素敵だというのは、もうどこでも言い尽くされていて、みんな知ってることだから、ここでは、ホビットにおける問題点の話をしたい。

そういう面もあると知っておくのも必要だろうからね。





問題点とは、誤訳だ。

訳すときには、原語もわからなければならないし、日本語もよくわかっていなければならない。
言語上の正確さと、物語としての魅力の両方が要る。
瀬田さんの文は、日本語として、柔らかく、自然であり、気持ちがいい。物語として面白い。

しかし、言語上の正確さという点では、手放しでは褒められない。ここがバッチリだったなら、どんなによかっただろう。

出だしからもう違う。初めの段落がおかしい。
途中もいろいろ違う。いろいろ、いろいろ・・・例えば、鷲が登場するところのガンダルフも何か違うし、ビルボが夢で探しものをするところも違うし、秘密の鍵穴が見つかった時の音のところも違うし、スマウグの胸にはつぎあてなんかついてないしさ。いろいろありすぎて、いちいち挙げるのは大変だ。ポイントポイントで変なことになっていると、全体の印象まで違ってしまう。
スマウグ墜落、エスガロス崩壊の情景も、見え方が違う。好きなシーンだから、これが個人的には(個鷲的には)一番気に入らない。
最後もよくわからない。違う。

岩波のホビットは、出だしも違うし、最後も違う。本当のものとは、違う内容で始まり、違う内容で終わっている。それで挟まれた中身がどうなっているのか、推して知るべし、である。

違う、というのは、些細な間違いではなくて、その誤訳によって大きな影響がある、ということだ。

原書を知らずに過ごせば、あれはあれで感動的ではあるのだけど、原書を読んでしまうと、「あれ?」「あれ?」っていうことになり、そうだったっけ?ということになり、見比べて、えー、違うじゃん!というショックの連続になってしまう。

ちょっとしたことはともかく、重要なシーンで誤訳があるのは困る。


瀬田さんは、懸命に訳してくれたのだと思う。それはわかる。あの古風で、かつ児童文学向けの文体は、誰にでも書けるものではない。
たくさんの人に親しまれている瀬田さんの文。何ともいえない味わいがある。とても素敵な個性だと思う。

ただし、原文に何が書いてあるのか、読めていないところがある。何が書いてあるのか、まずそれがわからなければ、訳は出来ない。


で、岩波版ホビットの冒険は、瀬田さんの没後に改訂になっている。

グワイヒアは、むかーし、指輪を読んでから、ホビットの冒険を読んだ。ホビットは借りて読んだから、その時読んだのは一度だけで、正直、よくわからなかった。指輪は初めから自分で買ったし、即座にのめり込んだけど、ホビットはそれほどでもなかった。子供向けだからだよな、やっぱ指輪の方が上なんだ!とか思って、自分で買ったのは、かなり後だった。

今考えると、初めて読んだのは改訂前だったはずで、自分で買ったのは改訂後だった。買って読み返したら、前に読んだ時より面白かった。大人になると違うねぇ、と思った。その時買ったのは、友だちに貸したらそのまま戻って来ず、まぁいいかと思って、また買って、だから今手元にあるのはかなり新しく、29刷というやつだ。

初めて読んだとき、のめり込まなかったのは、つじつまの合わないところがいろいろあったからだったのかもしれない。あの頃はまだ、訳者によって文体が違うとか訳し方がどうとかいうことなんて、なぁんにも知らなかったし、ど田舎の鷲の子供としては洋書なんて見たこともなかったしね。
それに、今みたいに、個人でも日常的にキレイなフォントでプリントアウトが出来る時代じゃなかったから、活字というものの重みが全然違った。印刷物の中身は全て正しいと思っていて、内容を疑うなんてことは思いつきもしなかったけれど、やっぱり無意識に「?」「?」と感じたのかな。今、初版を読み返してみると、そう思う。
後で改版を読んで前より面白かったのは、やはりあちこち直っているからだったのかもしれない。

しかし、改版になっているとはずっと知らなかった。

以前、クイズをやったとき、答えを計算するのに、ビルボが緑竜館まで何キロ走ったかがわからなきゃいけなくて、1.5キロか3キロかによって、2つ答えが出てきた。えれんしらさんの持ってる本では、3キロになっていた。

あ、違うんだ、と、そこで気がついた。(←おそい)

昔、子供の頃に読んだ中身はほとんど忘れてて、何か変わってるとはわかんなかった。 なんか絵が違う・・・ってのはわかってたんだけど、そんなに文の中身まで変わっているのは知らなかった。

大体、表紙にもどこにも「改訂版」とも「改訳版」とも「新版」とも書いてない。
本のデザインもそのまんまで、区別できない。

アマゾンに行ってみると、ふとーい字で、「ホビットの冒険 改版」っ!!となっている。上の画像から飛べるから行ってみてね。
しかし本そのものには、表紙にもケースにも、何も書いてない。

たしかに、よく見ると改訂後のホビットの冒険には、あとがきの後ろに、「若干の訂正を加えました」、と小さな字でつつましく書いてある。しかし、みんながみんな、そこを見るわけではない。
そして奥付には、1983年9月30日、第10刷改版発行、とある。そんなとこに気がつく人はあまりいない。

改版なのか改版じゃないのかなんて、大抵の読者は知らないで読んでいる。

今、売ってるのは、改訂されたものなわけだけど、もし図書館や友だちから借りたなら、改訂前のやつかもしれない。

ハッキリ大きく書いといてくれないと、わからないではないか。

昔読んだ時は何度も読み込んでなかったから、細かいとこまで覚えていない。昔のって、どうだったんだろう? えれんしらさんが持ってる本は、水の辺村までの距離以外にも違うところがあるのだろうか?
気になる。
そして、その後、あちこち探して、初版を手に入れた。やった!(^^)v 初版ですよ、初版。大昔のやつ。

さて、これがだ。

むちゃくちゃ直してある。「若干の訂正を加えました」どころじゃない。もうなんか、変更がないページがないくらい。いや、あることはあるけど、ほとんどのページには何らかの変更がある。些細な書き換えも結構ある。「見たくはない」が「見たくはないな」になってたりとか。(爆) そのままでもいいじゃん!と思ったり・・・

で、些細な変更ではないところもいろいろある。
初版は、あり得ないくらい間違いが多い。それも、高校生くらいならちゃんと意味を把握出来る程度のところでも間違えている。

これは、編集側にも相当責任がある。どうしてこの訳文を通してしまったんだろう。
真ん中辺にちょっと間違いがあるくらいなら気づかなくても仕方ないけど、初めの方にも、わらわらとたくさんあって、これでは出版社側も気づきませんでした、とは言えないはずだ。翻訳本を扱ってる会社なら、そのくらいのチェックは出来るのが当たり前だ。
おかしなところは訳者に言って、直してもらうのが普通だと思うけどな。

で、ますます問題なのは、改訂後のものだ。

直したはずなのに、直ってない。 あら〜〜〜

いや、正しい意味になってるところもたくさんあるよ。
でも、そのまま放置されてるところもあれば、いじってみたはいいけど前よりおかしくなってるところもある。いじった人も、わかってないらしい。
ひどいのになると、元々の瀬田さんの訳が合ってるのに、それを書き換えて誤訳になってるところまである。

いじらなくてもいいところをいじって、肝心なところはそのまんま。

もう、ほんと、どうしてそこをいじるのさ?ってところがある。

そして、訳者は瀬田貞二、としか書いていない。これも問題だと思う。

手を加えたんなら、書き換えた人の名前も書いておくべきだ。複数いるんなら、全部書いておくべきだ。

改訂版を出したのに、誤訳は多数残り、却っておかしくなったところもあり、読者の心の中にはトールキンの描いたものとは違う光景が展開され、そしてその責任は全て瀬田さん? そりゃないでしょう。

改訂後の誤訳は、改訂した人の責任でもある。見逃したんだから。瀬田さんの間違いを見逃しただけじゃなく、新たに間違いを加えてもいるんだから。
名前は出すべきだと思う。

瀬田さんは、素敵な人だったという。今でも慕っている人がたくさんいる。だから、その改訂は、瀬田さんが間違えちゃったところは彼の文と違和感のないように直して、より素晴らしい本にしようという意図だったのだと思う。

岩波もどうかしている。
瀬田訳ホビットの冒険は、誤訳が多いというのは初めから噂になっていたらしい。それが耳に届いていないわけはない。抗議もあったんじゃないだろうか。だから改訂版を出すことにもなったんだろう。

それなら、なぜ、ちゃんとわかる人にチェックして貰わなかったのか。

原書がきちんと読める翻訳者は、たくさんいるはずだ。岩波は大手なんだし、翻訳者の選定に困ることなんてないはずだ。
チェックする人と、瀬田さんの文に合うように書き直す人を別にするにしても、がっちりチェックする作業をなぜ飛ばしたのだろう。

そのおかげで、今でも、瀬田訳には誤訳が、と言われ続ける。改訂から20年以上経っている。あの本の読者は、中身を誤解し続ける。





ホビットの冒険は、もちろん間違いがないページが続くこともあるけれど、何故かこの本では、初めの方がすごいことになっている。
ハードカバー版(このページの一番上の画像のやつ。愛蔵版っていうのかな)の初めのページ、9ページには、2ヶ所、なかなか立派な誤訳がある。

じゃ、その1ページ目だけ、説明しようか。

「すわりこんでもよし(改変前は、ねそべってもよし)、ごはんも食べられるところです」は、間違いです。ここはそんなに難しい文じゃないのに、編集側も気づいてなければ、改版を手がけた人もわかっていない。
「ねそべって」を「すわりこんで」に書き直しただけで、スルー。
  
追記============================

「ねそべって」が「すわりこんで」になったのは、改版第10刷のときではないことが判明。
えれんしらさんからの情報に拠りますと、既に第6刷で「すわりこんで」になってるそうです。
だから、それ以前に瀬田さん自身が直した・・・ということなんでしょう。

結構あちこち直してたのかも・・・だね。

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それで、ですよ、どっちにしても、改訂のときに、どうしてこれがスルーなのかわかんない。
原書持ってる人は見てね。eat までが nor の範囲だもん。
ほんとは、「虫だらけのジメジメして臭い穴でもないし、すわるところも食べるものもないようなカラカラザラザラの穴でもありません」ってこと。地べたにすわるんじゃないんだよ。座るためのもの、要するに椅子がない穴じゃありません、って言ってるのだ。

「すわってもよくて、ごはんも食べられるところ」と「座るとこもなければ食べるものもないところではない」は、論理的にはイコールなのかもしれない。あぁ、ややこしい。
だからいいじゃないか、と言われるかもしれないけれど、しかし、よくない。

ここは、wet な穴と sandy な穴を対比して、同じ感じで2種類を並べて、まるで歌のように書いてある。

で、そのどっちでもないってことは、気持ちがいいとこなわけですよん♪、って書いてあるのがホビットの出だしだ。そりゃ、♪は書いてないけどさ。でもそんな感じなの。

こうじゃないんだよ、こうでもないんだよ、ってのが続いて、ってことは comfort なんだよ!って最後に一言でキメるのが楽しいのさ。
だから、すわっても食べてもよし、とかって文が挟まると、そのリズムが崩れてしまう。

それから、「そのお山のここかしこに、たくさん小さな丸いドアがあいています」も違う。
これは原書を読まずとも、おかしいのはわかる。絶対おかしい。だって、ビルボの家がある丘は、他にたくさんホビットが住んでるわけじゃない。少し下の方にはギャムジー家とかあるけどさ。でもそんなにドアだらけになってる山じゃない。ビルボの家は大邸宅で、窓はたくさんあっても、外に出るドアはたくさんはない。

そして、そういう事情を知らなくても、というか指輪で出てくる詳しい設定はこれが書かれた頃は完成していなかったにしても、ここがおかしいのは原文を見ればわかる。

ここは、廊下の話をしてるのさ。ビルボの家の廊下は、左右にたくさんドアがありますよ、ってこと。だからたくさん部屋があるってことだ。それをこの本では、「お山のここかしこ」ってフレーズを挿入して、意味を変えてしまっている。挿入してっていうより、「first on one side and then on another」を「ここかしこ」にしちゃったのかな。

first on one side and then on another は、まずこっち側、そして反対側。かわりばんこ、ってことでしょーに。
山のこっち側、そして向こう側、そしてまたこっち側?
意味が通じない。文の途中にthe Hill の説明が挟まってるから、それに引きずられて間違えたんだろう。
これでは、山の見た目が変わってしまう。

ここは、ビルボの家の中がどうなってるかを説明している部分で、それなのにいきなり話が外に飛んでいる。トールキンはそんな散漫な話の運びはしない。
ここは改版後も変わっていない。

次の10ページには、立派なのが1つ、なんか意味が原文とは変わってしまってるのが1つ、訳抜けが1つ。で、そのうち立派な誤訳は、改版では直っている。
次の11ページには、結構大きなのが2ヶ所。ちょっとしたのが1つ。そのちょっとしたのは改版で直ってる。大きい2つはそのまんま。
そして次の12ページでは・・・
って感じで、初めの方は、各ページに数カ所ずつ誤訳が混ざっている。改訂後も直っていない。

世の中、出版されている本は、ハンパな数ではない。岩波さんからも毎月新しいのが出るし、お忙しいのはわかる。だからって、変なところは、まぁ少しは直してみました、程度の改訂ならしない方がいい。いや、した方がいいけどさ。一応は直ってるところも多いから。

だけどさぁ、どーせ直すなら、もう少し何とかならなかったのかな。





そして、瀬田さんにはファンが多い。瀬田訳は誤訳が、とか言うと、即座に睨まれるらしい。こわ。

でも、違うよな〜、って思っている人はたくさんいるはずだ。だけど、ちょっとそういうことを言うと、あの素晴らしい仕事にケチをつけるとは何事だ、みたいな感情的な反発が出る。

これもおかしいな、と思う。
違うよな、って言う人の中にも、瀬田訳が好きって人はたくさんいるだろう。
違うもんは違うんだから仕方ないじゃん。それと好き嫌いは別だしさ。

今までグワイヒアは、誤訳もありますよ、とは、たまに書くことはあっても、わざわざページを新設してまでは書かなかった。でもいろいろ見ていくと、やっぱりこの件に関しては、書いておくべきだな、と思ってカタカタ打っている。

トールキンサイトをやってる以上、鷲はこう思います、ってのはハッキリ言っておくべきだろうから。


原書は本当に面白い。もう、わくわくする。サイコーだ。指輪より面白いんだよ。ほんとに。

ホビットは面白くて、しかも指輪の前の段階のお話だ。みんなに読んでもらいたい。でも和訳は岩波と原書房の2種類で、国内では大抵は原書じゃなくてそのどっちかを読むことになり、どっちを選ぶかとなると、どうしても岩波版になる。読みやすいし、心地いい訳だからね。

読もーね!!面白いよ〜〜♪ って勧めて、中身がどういうことになってるのか知らないならそれでいいだろうけど、わかってるのにちゃんと説明しないのは無責任だ。

だから、鷲が日頃感じていることは、ここに書いておくことにした。

あのミドルアースの風のグワイヒアとかいう奴はけしからん、となるかもしれない。

でも本当のことだから仕方がない。それに、岩波の編集側も悪い。改訂したのは一体誰なんだ?


あの緑の表紙のハードカバーは、装丁も好きで、気に入っている。いじってるうちに色が剥げてくるけど、ま、それも味わい深くて気に入っている。
花ぎれの色もきれいな薄い黄色で、とても気持ちがいい。花ぎれの色って、大事だからね。
そしてそこへ、しおり紐の深い赤がアクセントになって、なかなか可愛い、ホビットの世界らしい色合いになっている。

原書房のホビットは、その点、色がイマイチかな。花ぎれは青で、しおりは水色で、やっぱりホビットは、土とか木とか炎を連想させる色の方が合う。ま、そりゃ、川だの湖だのも出てくるし、空も青いからいいのですが。

で、だから、岩波のホビットの冒険は、ぐだぐだと文句を言いつつも、グワにとって大切な本であることに変わりはない。


とはいえ、瀬田訳は、トールキンの書いたホビットとは、雰囲気がかなり違う。これは指輪もそうなんだけど、ホビットの場合、指輪とはまた意味が違う。
トールキンのホビットは、子供向けに書いたという独特の面白さがあり、子供が読むより大人が読んだ方が面白いという面もあり、その書き方は、もう何だか、面白くて面白くて、こんな面白くていいのかというシーンの連続だ。
割とマジメなテイストの指輪とは全然違う。ホビットには、ふざけたような、お笑い系みたい(ちょっと違うけど)な面もある。命にかかわる事態が次々起こってハラハラドキドキし、展開する光景に息をのみ、ガーっと引き込まれ、でもなんか、面白くなってしまう。

一方、瀬田訳は、しみじみする面が強い。原文のそういう種類の面白さも伝わってはいるけれど、しみじみさの分、そういう面は減っている。

とかいうことをうっかり書くと、熱烈な瀬田ファンに怒られるのだろうけど、でもグワは、上でも言ったように、瀬田訳がキライなわけではない。ああいう味わいの文は貴重だし、ああいう感じの物語として描くのは、日本人には合うのだと思う。だからファンが多い。

自国の国民性に合うように訳すのも大切なのかもしれない。その点では、瀬田さんは成功している。

そして、文脈が合っているのなら、雰囲気が原書と違っても、それはそういう訳として構わないのだろう。しかし本当の話と違うところがあるのは、あまりよろしくない。

瀬田さんのおかげで日本人はトールキンを知ることが出来た。グワイヒアは瀬田訳で育った。それはとても感謝している。

だけどさ。
瀬田ファンが、瀬田訳を批判する人を悪く言うのはおかしいと思う。

ネット上をうろうろしていると、たまにそういうところにぶつかる。うわ、と思って引き返す。

瀬田訳には誤訳が、と言われても、それを貶されていると捉えて反撃するのはやめた方がいい。
あぁ、そうですね、違うんですね、と穏やかに、おさまらないものだろうか。

いいじゃないか。
あー、ここ違うよね、瀬田さん読めてなかったんだねぇ、って言ってもさ。
だって違うんだもん。それもかなり。

きっと瀬田さんは天国で、いやぁ、ちゃんと読めてなかったな、って言いつつ、見てくれていると思うよ。トールキンの世界が原文通りに理解されるようになった方が、瀬田さんだって喜ぶだろう。

ここでグワの言いたい一番の問題は、岩波の「ホビットの冒険」が「改版」後も、ああいう事態になっているのはどういうことか、ということだ。
ちょっとこみ入った文になると、もうお手上げらしい。ちょっとこみ入ったと言っても、このくらいは読めないと大学入試は突破出来ない、という程度のところでおかしくなっている。
あれは、改版ではあるかもしれないけど、改良版ではない。いや、直ってるとこもあるから、「まぁまぁ改良版、ところによっては改悪版」って感じ。

書き直した訳者、改訂の責任者は名前を出すべきだ。





あと、ついでだから文句を言えば、スロールの地図のルーン文字がわかりにくい。あれは、オリジナルのをそのままじゃなくて、挿絵担当の寺島さんがトレースした、と、あとがきに書いてある。でも、原書についてるのをそのまま使って、英文のところだけ日本語にすればよかったのにと思う。全部書き写したのはいいけど、の区別があいまいになっている。全然別の字なのにな。

そして、月光文字の部分も白抜きの書き方じゃなくて普通に書いてあるから、「月光文字は見え方が違うんですよ〜〜」っていうのが、伝わらない。

あとがきには、「月光文字は、はぶかせていただきました」とある。これは、どういう意味なのかよくわからない。月光文字は、書いてある。それも、ビルボの家で、ガンダルフが地図を出したところで、既にもう書いてある。エルロンドに読んでもらうまでもない。普通に書いてあるじゃん。

既にもう書いてあるってのは、HarperCollinsのペーパーバックでも、初めのところにどどんと月光文字入りのが載ってるから、いいんだけど。

ほんとはね、挿絵は、ビルボの家のところでは月文字のないのにして、裂け谷では月文字が入ってるやつにすると一番いいんだよね。

岩波版の「はぶかせて」っていうのは、月に照らさないと見えない、っていう仕掛けはしてないですよん♪ってことかな。
でないと、意味が通じないし。

月光文字、って青いとこ↓


オリジナルの地図を細かいとこまでよーく見たい人は、原書をどうぞ。山の向きも少し違うしね。あと、木がちらちら描いてあるのも、ちょっと違うかな。

そして、本物のでは、ルーン文字がどうなってるのか、よっく見よう。

地図は、ホビットを読む楽しみの重要ポイントなのだ。これを楽しまない手はないよ。(^_-)  そして、ルーンの読み方はこちら


ってことで、味わい深く、読者も多く、すてきな岩波版にも、問題点は多々ある、というお話でした。



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