実は凄かったりする
  原書房 「ホビット ゆきてかえりし物語」

旧版

新版



2012年、ホビット映画公開直前、山本訳の新版が出ました。前のものとはかなり変わっています。
下にずらずら書いてあるのは旧版の話です。
今まで読んでなくて、旧版も読んでみたい人は、前のはもう重刷しないだろうからさっさと買った方がいいかもよ。あ、古本が出回るかな?

誤訳の心配はほぼないし、トールキンが何を書いていたのか、ちゃんと読みたい人は、原書房版も読みましょう。注釈版なので、研究書的性格の本でもあります。児童文学についての大人用の本、かな?

グワイヒアは今(2012年末)、ちゃんと読み込んで旧版と比較していろいろ書く時間ないので、とりあえず上にリンクだけ置いておきます。

前のと比べるとすごく読みやすくなったと思います。よかった♪


では、なつかしき山本訳の旧版のおはなし↓

------------------------------------------------------------------


原書房の山本訳ホビットは、ナンタルチア版である。

初めて読んだとき、ちゃんと全部終わりまで読めなかった。もう、初めの方でギブアップ。

ドワーフたちがビルボの家に押しかけた辺りで、もうダメ。矮人、矮人と連呼されるのがどうにもガマンできなくて、何とかヨタヨタと読み進んだものの、ガンダルフの「ナンタルチア!」で、「は?」となり、ナンタルチアって聞いたことあるような気もするけど何だったっけ、と調べ、その結果、何だか力が抜けてしまい、その後はあちこち拾い読みで、「僕チン」では眩暈がし、「サーラバイバイ」というのも何のことだかわからず、後ろの方はペラペラめくっただけで、そのまま本棚に押しこんでしまった。さよーなら、である。

しかし、だ。

その後、ホビットの原書を読みこんだり、自分でヨチヨチと訳したりしてるうちに、グワイヒアは原書房版を見る目が変わってきた。
岩波版に間違いが多いのは知ってたけど、原書をきちんと読むと、岩波のは変なところがほんとにいろいろあって、話が何だかおかしくなっているのに気づきだし、おっかしいよな〜、とか思って、本棚の奥の方に突っ込んであった原書房版を引っぱり出した。
これは何せナンタルチア版だから、どうせロクなもんじゃない、きっともっとおかしいことになってるだろうと、岩波版で変になってる個所を覗いてみると、これがアナタ、素晴らしいじゃありませんか。


あれえ? である。


困った。(爆) 


隅々まで、トールキンの原文の情景が描かれている。 あれえ?である。

まったく、困るではないか。山本先生、ナンタルチアとは落差がありすぎますよ〜〜

細かい情景描写になると、山本訳はとてもわかりやすい。どういうシーンなのか、明快に語られる。瀬田訳がどっちかっていうと冗長になりやすく、柔らかい日本語で一見良さそうだけれど、なんだかもわもわとして、はっきりクリアに見えてこないのに対し、山本先生の文は本当に分かりやすい。

そして、そういうところになると、瀬田版よりも文章は上だと思う。


ただし、ですよ。 これが全部じゃないから困るんですよ。


たしかに、あのホビットが巷で轟々と非難されるのは仕方ない。ゴラムも何とかしてほしい。あのゴラムとのシーンとナンタルチアだけでも直してくれればなぁ。あ、それから、どうにもわからないサーラバイバイも。検索してもわからなかった。何かの歌らしいというのは調べがついたんだけどさ。誰か知ってたら教えてね。



  

・・・と書いたら、field.7さんが教えてくれました。どうもありがとう。(^o^)

サーラバイバイの正体は、NHKの「おかあさんといっしょ」のエンディングの歌!!

おかあさんといっしょか!! (驚)
思いも寄らない展開だ。そりゃ見てない人はわからない。

field.7さんの説明によると、

「さらば」と「バイバイ」が掛詞?
番組の最後に、着ぐるみのキャラクター、歌のおねえさん、体操のおにいさん、当日参加していたちびっ子たちがわらわらと出てきて、みんなで歌いながら、というか、エンディングにせねば!と笑顔で努力している大人のまわりで、ちびっ子たちはしたい放題しているわけですが、まあそんな感じの時の歌。

だそうです。そうか!サーラ、って、「さらば」のサラなのか!
グワは、これは別れのシーンで出てくるからバイバイはバイバイなのはわかるんだけど、サーラがわかんなかったの。
サラバ+バイバイで、バがひとつ消えるんだ! 勉強になりますねぇ。「さらば」かぁ。気がつかなかったなぁ。サーラじゃないんだ。サーラバなんだ。これはうかつだった。みんなはわかってたんだろうか。

うーん。奥が深いな。(←ちょっとちがう?)

そうか、おかあさんといっしょかぁ。
それだと、そのサーラバイバイをやってる頃におかあさんといっしょを見てた世代と、その親と、じいちゃんばあちゃんくらいにしかサーラバイバイは通じないじゃないか。

あのドワーフたちは、おかあさんといっしょに出てたのだろうか。バーリンもフィーリやキーリやボンブールもエンディングで踊ったことがあったのかな。うん、なんか可愛いかも。ドワーフ版おかあさんといっしょ。体操のお兄さんは誰にしよう。エルフに協力してもらうか?

これは、素直に、文句を言わず、おもしろいねー、って言って楽しめばいいのかもしれませんが、しかし、おかあさんといっしょを見ている人口は、日本国民の何パーセントかにすぎないはずです。そしてその何パーセントかは、どんどん年と共に入れ替わっていくわけです。番組のオープニングやエンディングや挿入歌というのは、どの局でも、いくら長寿番組であっても何十年も同じ曲を使うなんてことは滅多にない。大抵途中でどんどん変わる。
ずっと同じなのって、サザエさんの歌くらいじゃないかな。それだって、知らない人もいる。

どんなのでも、それををたまたま知ってる人でないと、おもしろいねー、とは言えない。
サーラバイバイを知ってる世代であっても、全ての子がおかあさんといっしょを観ているわけじゃない。

山本先生は、きっとこれを訳した頃、お子さんがおかあさんといっしょを見てたのだろうな。まさか本人がファンだったわけでは・・・・そうかもしれないけど。
そういうのをポンと入れてしまうのは、面白い人だと思う。山本史郎、おそるべし。なんか文句言う気力も失せてきますが・・・

これが通じないのは鷲だけじゃないはずです。
これを知ってる人は、ドラえもんやサザエさんの歌を知ってる人よりも、絶対少ないはずです。
原書房さん、サーラバイバイ、直してくださいっっ!!


いやぁ、でも、疑問が解けてすっきりした。世界には知らないことがたくさんある。ちょっと感動。

ついでだから、ナンタルチアも知らない人も多いだろうから説明すると、ナンタルチアは大昔に流行ったギャグで、サンタルチアをもじったものらしい。そういうのって、流行った頃にある程度大きくなってた人しかわからない。グワは聞き覚えはあるような気はしたけれど、でもよくわからなかった。覚えていない。すっかり廃れたあとに生まれた世代には全くわからないだろうな。
たぶんあのガンダルフのセリフは、「なんたることか!」って言いたいところをナンタルチアにしたんだろう・・・な。違うのかな。

自分で書いたエッセイとかでなら、効果的に使える場合もあるでしょうがね。でも、ひとの書いた文学作品を訳したものに入れたら変じゃん。関係ない世界のものなのに。
それに、正式に刊行されてる本にこういうのがあるのって、下手すると著作権問題にもなりかねない。まぁ、天下のNHKが、あまりみみっちいことを言うとは思えないけど。


昔、友だちが、歌のおねえさんに張り切って応募して、そしたら写真選考で落とされて(爆)、えらく怒ってたのを思い出しました。(^^;;) あの時採用になってたら、彼女はサーラバイバイを歌うことになってたのかも・・・





ほんとにいろいろ、どうしてああなっちゃったのかねぇ。ああなる方が難しいと思うけどねぇ。

ひどいひどいと言われるのは、読みやすいところが特に変だから、かな。たぶんね。
ざーーーっと読むとき、会話部分を拾って読んでたりしない? 詳しい情景や、こうなってこうなってこうなりました、っていうのは斜め読みだったりする。
山本訳は、その目が止まりやすい部分が「は?」になってて、「は?」ばかりが目立って、いろいろ言われるのだ。

誤訳の点でも、岩波版が間違えてるところも山本先生は誤訳はしていない。まぁ、誤訳もちょっとはあるけどね。あと、訳抜けもちょいちょいとあるな。でも量的には、そんなに目くじらを立てるほどのものではない。たまに気がつくと、あぁ珍しいな、と思う。

で、問題は日本語なのだ。あぁ。やっぱりおかしい。
良く言えば、個性がある。うん。かなり強烈に。
悪く言えば・・・・なんだろ。異星人的?
何か、違う文明の星から来た異星人の書いた物語のような・・・感じ。すごい違和感。

山本先生は感覚がズレてて、いちいちみんながカチンとなり、山本史郎と書いてあるだけで、拒絶反応が起こる。その反応たるや、凄まじい。

たしかに拒絶反応にはなるんだけどさ。ホビットだけじゃないもん。他のトールキン関連書もさぁ、なんか読みづらくて大変。トールキン関連書だけじゃないな。いろんな本、訳してて、山本史郎と書いてあるのを買うときは読みづらいのを覚悟の上でどうぞ、って感じ。

でもね。読みづらいのは確かではあるけれど、しかし内容は合っている。それも、相当なものだ。ちゃんと読み込むと、あ、この先生に習ってる子はいいな、とまで思う。ほんとだよ。

山本先生は、原文がちゃんと読めているから、隅々まで、そのシーンの状況が把握出来ている。たまに把握出来てないときもあるけど。しかし岩波版と比べると、その差は歴然としている。
頭の中にちゃんと光景が展開されていて、それを訳しているのがわかる。
読みづらい部分もあるけど、そうでもなくてきれいな日本語になってるところもある。
ちゃんとわかって訳しているから、出てくる日本語もクリアに明快で、こうなって、こうで、こうなんですよ、っていう光景が、読んでいてもつっかえることなくスルスルと眼前に展開される。

え゛〜〜、あれで? そんなこと言うなんて、グワイヒアはおかしいんじゃないか?って思う人も多いかもしれない。

でも、まともな文だってあるんだよ。とても素敵に訳してあるところがたくさんある。ほんとに。ちゃんと読むと、へー、すごいな、と思う。

たださぁ、一部の、いや、一部よりちょっと多めの二部か三部の(←こういう日本語はありません)、変な書き方してるとこが、あまりに凄すぎて、その印象があまりに強くて、まともなところが宇宙の彼方へ吹っ飛んでしまうのだ。そう、最大ワープで我らが銀河系を軽く突き抜け、アンドロメダ星雲より、もっと向こうへさ。地球へ帰ってこれなくなるではないか。

そして、矮人にドワーフとふりがなをつけ、妖精にエルフとふりがなをつけ、邪竜にドラゴンとふりがなをつけ、もう読みにくいったらありゃしない。

東洋の竜と、西洋の竜は、意味合いが違うから、わざわざ「邪」の字をつけたのかもしれないけど、読みにくくなるだけだ。「竜」だけでたくさんですよ!!

山本先生は、要領が悪いのだな。それもだいぶ。





じゃあ、ちょっと実験をしてみる。

次の文を読んで、それぞれどういう情景か、ビジュアル的に想像してみよう。一文ずつ、ちゃんと映像として考えるんだよ。

エレボールの山腹に鍵穴が出現し、鍵を開けた後。


今やドワーフたち全部が、力を合わせて岩戸を押しました。
 ↓
ゆっくりと、岩戸の一部が開きました。
 ↓
長いまっすぐのトンネルの口が現れて、広がりました。
 ↓
高さ5フィート、幅3フィートの入り口の輪郭が、くっきりと見えてきました。
 ↓
戸はゆっくりと、音もなく、内側に開いていました。
 ↓
山の表門が蒸気を噴き出していたように、この入口は、暗闇を噴き出しているように思われました。
 ↓
そのあくまで暗い暗闇を通して、誰の目にも一寸先も見えませんでしたが、
 ↓
ぽかりと大きく開けたその口は、奥へ下へと続いているのでした。


はい、もう一種類、頭の中で映像にしよう。


ドワーフたちは力を合わせて押しました。
 ↓
ゆっくりと、岩壁の一部が後退します。
 ↓
縦長の隙間が現れ、横に広がってゆきます。
 ↓
やがてその中に縦5フィート横3フィートの扉が姿を現し、
 ↓
音も立てずにゆっくりと、内側に開きました。
 ↓
その瞬間、まるで山腹のこの穴から暗闇そのものが、なにか水蒸気のように立ちのぼってきたかのような錯覚にとらわれました。
 ↓
目の前には、暗黒が深々と横たわっています。
 ↓
中のものは何ひとつ見えません。
 ↓
ただ黒い穴がぽっかりと口をあけ、下に伸びているばかりです。

よーくよーく考えました?

あなたは、どっちがいいと思いますか?どちらが自然に情景が見えてくるだろう?
自分が映画監督なら、どう撮るか?

はい、手抜きしてちゃんとイメージしてない人、スクロールする前にもう一度読みましょう↑



 ↓



 ↓



 ↓



 ↓



 ↓


これって、同じようで、結構違う。

この両者を元に映画を撮るとなると、このシーンはなかなか別物になるだろう。

ではまず、A。
今やドワーフたち全部が、力を合わせて岩戸を押しました。
ゆっくりと、岩戸の一部が開きました。
長いまっすぐのトンネルの口が現れて、広がりました。
高さ5フィート、幅3フィートの入り口の輪郭が、くっきりと見えてきました。
戸はゆっくりと、音もなく、内側に開いていました。
山の表門が蒸気を噴き出していたように、この入口は、暗闇を噴き出しているように思われました。
そのあくまで暗い暗闇を通して、誰の目にも一寸先も見えませんでしたが、ぽかりと大きく開けたその口は、奥へ下へと続いているのでした。
ドワーフたちが扉を押す。するとその一部が開く。
戸の一部がっていうのがよくわからないけど。とにかく開く。

トンネルは長くてまっすぐらしい。でもちょっと開けただけでどうしてわかるんだろう・・・あ、「長いまっすぐの」はトンネルじゃなくて口にかかるのかな、と気づく。

そして入り口の輪郭が見えてくる。っていうか、入り口の輪郭って、何だろう。扉の形?岩戸は初めからわかってたような書き方だけど。
それに、「トンネルの口が現れて広がった」あとに、「入り口の輪郭が見えてくる」、というのも順番がおかしい。

開いていました、っていうのも日本語としてよくわからない。開きました、じゃないのかな。

「山の表門が蒸気を噴き出していたように、この入口は、暗闇を噴き出しているように思われました」
これはなかなか尤もらしい。ちょっと前に、表門の様子が出てくるし。煙が上がってるんだよね。もくもくと。そこと同じように、もくもくしてる。
あんまり怖くはない。というか、「噴き出す」となっているから、暗闇がブォ〜〜っ!と出てくるのが見える感じ。
この噴き出すところは、構文を取り違えた誤訳だ。



こう↑見ると、「<山腹の穴から出てくる蒸気>のように」という区分けになる。

一方、真相は↓



ということで、暗闇が山の穴から出てくる。それが「蒸気のよう」だと書いてある。

でも1でもいいんじゃないか思う人もいるかもね。
flow は from が絶対つくわけじゃないけど、セットになることが多い。flow out ときたら、どこからかが明白でない限りは from が続いて、どこから flow out してるのか述べる。

それに、大体が、表門はholeとは呼ばれていない。gateだ。ここでいきなりholeになるわけでもない。それを表門と読み替えて、誤訳になってしまっている。表門のことは全く関係ない。
山腹の穴、っていうのは、表門なんかじゃなくて、今開いた目の前の穴のことだ。



ドワーフたちは力を合わせて押しました。
ゆっくりと、岩壁の一部が後退します。
縦長の隙間が現れ、横に広がってゆきます。
やがてその中に縦5フィート横3フィートの扉が姿を現し、音も立てずにゆっくりと、内側に開きました。
その瞬間、まるで山腹のこの穴から暗闇そのものが、なにか水蒸気のように立ちのぼってきたかのような錯覚にとらわれました。
目の前には、暗黒が深々と横たわっています。
中のものは何ひとつ見えません。
ただ黒い穴がぽっかりと口をあけ、下に伸びているばかりです。
ドワーフたちが岩を押すと、その一部が奥へと動き出す。岩の一部が奥に動く・・・・なんかどきどきする。

縦方向の亀裂が現れる。その裂け目はまっすぐで、隙間は段々広くなり、
初めはこんな感じだったのが、

押し続けると、こんな感じに横に広がっていく。

向こう側は真っ暗だ。

それまで扉なんてない、ただの岩の壁だったところに隙間が開いていって、扉になっていることがわかる。その大きさは、縦が5フィートで横が3フィートだった。
こういう感じかな?

隙間があいて、初めて扉だとわかるのだ。

で、もっと押して大きく開くと、そこは闇で、「この穴から暗闇そのものが、なにか水蒸気のように立ちのぼってきたかのような錯覚にとらわれました」という、何とも怖くなるよな状況となる。何か、闇がこちらへ、外へも出てくるような感じ。そして、「ただ黒い穴がぽっかりと口をあけ、下に伸びているばかりです」となる。
怖い。なかなか怖い。

ここは、トーリンの爺ちゃんとパパが逃げるときに使ったはずのトンネルで、今居合わせているドワーフたちも、もちろんビルボも、ここへ入っていくとどういう構造になってるのかは知らない。
知らないところへ入っていくというのは怖いものだ。それも真っ暗だし。

この山はもうドワーフの宮殿ではなくて、竜のものになってしまっている。
宝物は取り返したいけれど、入って行ったらスマウグと鉢合わせ、とかいう、あんまりうれしくない事態になる可能性が高い。
扉を見つけたくて散々探し、やっと開けることが出来たのだけれど、何だか足がすくむ。

その扉の開き方がまた、どきどきする。

何もなかったところが音もなく開いて、向こうは闇だ。

・・・という、扉のシーンでした。


上に並べたのは、Aが瀬田訳、Bが山本訳、です。見た目が同じ感じになるように、ひらがなは漢字にしましたし、山本訳の矮人はドワーフに、瀬田訳のメートル換算はフィートに戻してあります。

そして、見た目を平等にして読み比べると、Aがいかにわかりにくいかということが、よくわかると思います。

この実験は、ナンタルチア版が、ナンタルチア状態ばかりではないという例として挙げたのだけれど、どっちが瀬田訳か山本訳かを知らないで比べたら、瀬田ファンでもBの方がいいという人はかなりいるはずだ。それでもAがいいという人は、個人の自由ですから、それは構いません。

Aの初めの方がわかりにくいのは、瀬田さんは状況が見えないまま訳していたんだろう。何だか順番がよくわからない。途中の誤訳は、文の構造がわからないまま創作しちゃったんだろう。
終わりの文も山本訳の方が上手い。

岩波版の間違いばっか挙げてますが、原書房版が丸ごとナンタルチア状態ではない、ということを言いたいだけですので、ご了承ください。

トールキンの原文は、正にBの訳文そのままです。非常にわかりやすい展開で、わかりやすい英語で書かれている。高校生くらいになってれば、充分読めるから、原書持ってる人は見てみよう。通して読まなくても、ところどころ読むだけでも楽しいよ。ここはとてもドキドキするシーンなのだ。

こんな風に、岩波版より、原書房版の方が上という個所は、たくさんある。





次、ちょっとしたことで、意味合いが変わる例。

行きに埋めておいたトロルの宝を、帰り道でガンダルフと掘り返したシーン。

瀬田訳 山本訳
「あなたが、とった方がいい、ガンダルフ。あなたの方が、きっと使い道があるはずだ。」
「使い道はあるさ。」と魔法使いがいいました。「でも、きちんとわけようや! あんたにだって、思いがけない使い道ができるものじゃ。」
「ガンダルフ、あなたにさしあげます。あなたなら、有益なことにお使いいただけるでしょう」
「まさにおおせの通りじゃが」とガンダルフが答えます。「五分五分の分配が原則じゃ。それに君も、思ったより金が必要になるかも知れんよ」

さて、これは、まぁどっちでもいいといえば、いいかもしれない。

瀬田訳は、ガンダルフの「使い道はあるさ」はわかりにくい。ビルボにも使い道はあるさ、という風にも取れる。誰しも使い道はあるさ、って感じにね。
原文は、ガンダルフ自身が、「そりゃそうじゃ、わしはちゃんとした使い道がわかるぞ、I can find a use for it」と言っているわけで、それは山本訳の方が的確に伝わる。「まさにおおせの通りじゃが」は上手い。

「あんたにだって、思いがけない使い道ができるものじゃ」に関しては、これだと、ビルボは豪華客船で海外旅行に行くのかもしれず、よそ行きの服を新調するのかもしれず、なんかいろいろお金を使うことがあるんだろうな、って感じがする。「できるものじゃ」がいけないんだな。

山本訳の、「思ったより金が必要になるかも知れんよ」は、原文通りで、これは家具やら何やらが持っていかれてしまい、自分のものなのに買い戻さなきゃならないハメになることへの伏線となっている。
エレボールから持ち帰ったお宝でも充分間に合っただろうけど、でも予定外にお金を使うことになったんだから、やっぱりトロルのお宝も役に立ったのだ。





次、有名な(!)、ひんしゅくシーンの例。

よく文句を言われるガンダルフのセリフ。ビルボと一緒に村に帰ってきたとこね。ビルボが詩を口にする。ガンダルフは、おやおやと驚く。

瀬田訳 山本訳
ガンダルフは、まじまじとビルボをながめました。「なんと、ビルボ!」ガンダルフがいいました。「あんたは、どこかえらく変わったなあ!もうむかしのホビットじゃないわい!」 ガンダルフはビルボをつくづくと眺めました。「ビルボよ! 君どこかおかしいよ! 君、以前とはまったく別人になってしまったね!」

さて、これはどっちが本当なのか?

グワイヒアは瀬田訳が染みついていて、初めて山本訳のこの部分を読んだとき、「なんだこいつ?!」と思った。何考えてんだろ、って。
だから、瀬田ファンがこの山本訳に憤慨するのはよくわかる。

ところがだ。原書を読んでよくよく考えると、山本訳が本当なのさ。正に、おやおや、ですよ。

瀬田ファンの皆さん、残念ながら(?)、事実はそうなんです。

それでも瀬田訳の方がいい!っていう気持ちはわかる。
これは、日本人の感覚として、瀬田さんの訳の方が感動的である、という理由からだと思う。
そばにいて何かと助けてくれる爺ちゃんがいたとしたら、自分にはそんな風に言ってもらいたい。って願望がある。

しかしガンダルフは、そういう日本人好みの好々爺ではない。すぐカッカして怒るし。えらい勢いで喋るし。穏やかな爺さんじゃないのはみんな知ってるはずだ。そして、それがガンダルフの魅力のひとつなんだから。ねぇ?

それを思い起こして、そういうガンダルフが、こういう場合何と言うだろうと改めて想像すると、瀬田訳のようには言わないような気がする。うん、ガンダルフなら、そういう風には返さないな、って。
みんなも考えてみてよ。ガンダルフがそんな風に言うだろうか?

そしてやっぱり、原文のガンダルフは、そんな風には言わない。

この Something is the matter with you. は、「ありゃ、どうかしちまったな」ってことだ。
いい方に変わったんじゃなくて、どっか悪いとこがある、ってこと。人じゃなくても使う。機械が故障したとかさ。

ガンダルフは、ビルボが旅を通して成長したのを見て、それを褒めているんじゃない。そりゃ褒めてるんだけどね。直接そうは言ってないの。直接言わないところが、ガンダルフのいいとこなのだ。

「お前、なんか変だぞ」
「どっかネジが外れたんじゃないのか」
「おかしくなってしまったのう」

・・・みたいなことを言って、ビルボを茶化している。面白いよね。

なんだか前とは変わって、深遠なる高尚な世界に踏み込んだようなビルボにそう言って、ふたりでアハアハと笑うシーンだ。
アハアハと笑いました、とは書いてないけどね。ビルボはエヘヘって感じだったかもしれないけど。

みんなもそういうときってあるだろう。なんかいつもに似ず、シリアスにマジメなことを言って、友だちに「どーしたんだよ?おっかしいんじゃない?」って言われる。そう言った友だちは本気でキミが「おかしくなった」とは思ってなくて、それは言った方も言われた方も承知の上なのだ。

っていう、実際によくあるシーンと同じ状況と思っていい。

瀬田訳では、笑えない。しみじみしてしまう。

山本訳に、みんながカチンとなるのは、「君どこかおかしいよ!」っていう言い方が、いまひとつ血の通ったものとして受け取れない、というのがあるんだろう。
それに、ガンダルフのセリフとしては、ジジイが喋ってるように聞こえないから。
日本語は、性別も、年齢も、社会的地位も、話し相手との関係も、いちいち説明しなくても、話し方で、ある程度表現出来る。ここまでバリエーションが豊富な言葉はなかなかないんじゃないかな。その難しい日本語を軽々と話している日本人は、実は凄いんだよね。

「あなた、どうかなさったのかしら」
「おめぇ、どっか切れちまったんじゃねぇのか?」
「君は、どこか悪いところがあるようですね」

これは、あのセリフの訳としては全部正解だけど、言い回し的には全部不正解。

「君どこかおかしいよ!」ではなく、ジジイらしい言い方にすれば受け入れられたのかもしれない。
それでも、瀬田訳ファンは、ガンダルフがそんなこと言うのに反発するんだろうけど。

ここは、訳すのは難しい。

ホビットが映画化になったなら、指輪と同じにマッケランがガンダルフを演ってくれたなら、このシーンは、マッケランがどんな表情をするか、なんだか見えるような気がする。いたずらっぽい目がキラキラするだろうな。マッケランは本当にすごい俳優さんだ。
そして、そんなガンダルフに、ニッと笑い返すビルボの顔も見えてくる。
そして、ここの字幕や吹き替えがどうなるのか、今から心配だったりするな。(^^;;)

映画や朗読であれば、声や顔の表情で、茶化しているガンダルフの暖かみや面白さが出せる。
ニコニコと柔らかくいうんじゃなくて、早口で「お前、どこかおかしくなったな」と言ったとしても、そこはちょっとした表情で茶化しているのがわかるだろう。声というのはすごいもので、相手が機嫌がいいのか悪いのか、暖かいのか冷たいのか、言ってる言葉に関係なく、すぐにわかる。

本だとそうもいかない。
面白さを出して、ビルボとガンダルフが仲良しであることを出して、それで原文とずれないようにするのは難しい。

山本訳は、ここは原文の雰囲気を伝えようとして、でも何かがおかしくて、ひんしゅくを買った。





いちいちみんながカチンとなる主な原因は、やっぱり会話文かなぁ。

闇の森に入る前、ガンダルフが別行動になるところも、トーリンがガンダルフに言うセリフが、瀬田訳では「すみやかに行かれるがよい」なのに、山本訳では「とっとと立ち去ってください」だし。ひどい。
ビヨルンの喋り方も変に軽くて、深みのないこと甚だしい。

何とかなりませんかねぇ。しつこいけど、せめてあのナンタルチアだけでも直していただきたいですな。

品のない流行り言葉を翻訳本に入れてはいけない、ってのがどーしてわかんないんだろ。そんなもの、流行ってる間しか通じない。そういうのって、流行ってる最中でも知らない人もいるんだし、ちょっと世代が違うと、もう意味がわからなくなるのに。意味がわからないと検索するしかないではないか。それでわかったって、ナンタルチアなんて最悪。

それに、ゴラムに僕チンなんて言わせないでほしい。なんかやっぱり違う。ホビットの頃のゴラムは、なんかコミカルで、特にトールキンが書き直す前のゴラムは全然違って、なぞなぞ合戦に負けたからビルボに指輪をあげなくちゃとまで言う。そして指輪が見つからなくて、あげられなくなっちゃって、ごめんねごめんねと言う。指輪本編に出てくる、あの屈折した、暗い世界から逃れられないゴラムの姿はあまり感じられない。それにしても、だからって、僕チンはないだろーに!
山本先生は、どっか、いいおうちの、おぼっちゃまなのかな、とか思ってしまう。スネ夫みたいな。(爆) スネちゃま。(失礼なこと言ってすみません)

どういう一人称で喋るかで、その人物の家庭環境、生育状況が見えるではないか。あの洞窟にもぐり込んで、ずっと暗闇で暮らしているゴラムに僕チンが合うか合わないか、そんなもん、一目瞭然だ。

指輪本編で語られるゴラムの身の上は、ホビットの段階ではまだ確定していない。だけど、ゴラムが、どうしてあんなところにいるのかわからなくても、前はどこか外にいたとすれば、あまり恵まれた環境にいなかったであろうことは、考えなくてもわかる。だからあんなところに一人っきりでいるんじゃないか。
後に指輪を書き進める段階では、トールキンは、ゴラムのシーンはゴラムが可哀相で可哀相で、泣きながら書いたという。ホビットを書いてた頃は、そういう感じじゃなかったんだろうけど、でもねぇ、僕チンとは相容れないものがあるな。
ひとりで洞窟に棲み、ゴブリンを捕まえて食べ、暗い湖でぴちゃぴちゃしながら生きている。初期のゴラムがいくらコミカルであっても、そういう生き物に僕チンが似合うか?
日本語で育てば、誰しも普通にそういう感覚を持っている。だからみんなに文句を言われるのだ。

それにねぇ、この原書房版は、第四版を元としていて、トールキンがいろいろ書き直した後の最終版と言っていいのさ。
トールキンは、ホビット出版後に指輪を書き進めて、そしたら、いろいろ話が合わなくなっちゃって、ありゃりゃのりゃで、ホビットを指輪の話に合わせるために、あちこち直したの。
だから、第四版の時点でのゴラムは、指輪に通じるゴラムとしなければいけないんだよ。

どう考えても、僕チンは合わないぞ。
このページでは、グワは、世の中で踏んだり蹴ったりのことを言われている山本訳を擁護してみようと思って書いてるんだけど、この僕チンは、擁護しようがない。○には成り得ない。×!!って感じ。

あと、会話文の語尾を、登場人物によって一貫させてないから、不自然な感じになる。スランドゥイルはどういう雰囲気の王さまなのかとかも、なんかよくわからない。

それに、ゴクリとなっているけれど、ここまでちゃんと原文を把握してるのなら、ゴラムのまんまにして欲しかった。ゴクリとゴラムは喉の使い方が逆なのだ。ゴラムはゴクリではない。

あと、ミドルアースに関しての調べ物が足りなくて、間違ってる部分はあります。高地のエルフとかね。じゃあ低地のエルフってのもいるのか?
それに途中で太字が多くて、ますます読みづらくなってます。どうしていろんな単語をいちいち太字にするのかわからない。

文句はたくさんあるけれど、それでも、よくよく読み込むと、山本史郎訳のホビットは、なかなか素晴らしい労作だ。細かいニュアンスがわかって訳している。
ただし、それが本人の意図通りに受け取られない。これが最大の問題だ。

調べ物不十分による間違いは批判されて仕方がない。会話文の感覚がズレているのも、あれはちょっといただけない。しかしそれだけで全否定するのはもったいない内容だ。

会話文じゃなくて、地の文でも、なんだか物語っていう感じじゃなくて、論文でも読んでるように感じる部分も多い。
言語感覚、ってやつだよねぇ。物語を読んでる気がしない。

その論文調の中でも、山本さんは、英文の意味を正確に捉えて、補わなければわからないところは補い、的確な日本語にしようと努めているのがわかる。
岩波版よりも速く読めたりもする。まだるっこくないのだ。妙なところで「う゛。」と思ってストップしなければ、すいすいと進める。
コツは、「う゛。」と思わないことだ。

そして、「う゛。」っていう部分なしに、素敵な文になっているところもたくさんある。

訳において、原文ではその一言で充分伝わることでも、日本語にするとわからないこともある。山本先生は、そういうところは補って、説明をちょこちょこ入れてくれている。これは本当にわかりやすい。

東大の英語の先生だから、原文の解釈は出来て当たり前なんだろうし、「合ってます、誤訳はほとんどありません」なんて当たり前なことを言うのは却って失礼なんだろうけど、読みとったものを読者に伝えよう、少しでもわかりやすくしてあげよう、という姿勢が伝わってくる。

わかりやすくしてくれてるのは、わかるんだけど、しかしやっぱりトールキンの楽しい物語の調子は狂ってしまっている。

なんだか、褒めたり、文句言ったり、一貫しなくて、これを読んでるみんなは混乱するだろうな。でもねぇ、その両面の落差が激しすぎて、鷲としてはどうしてもこういう書き方になるな。





で、このホビットは、元としているのが、The Annotated Hobbit というやつで、これはたくさんたくさんいろんな資料がついている。各国のホビットの本のイラストや、トールキン自身による書き換えの推移や、細かい注釈がどっさりで、ホビットファンには必需品。
で、それを訳したのがこの原書房版で、でも本が小さいから、絵も小さくなっちゃってる。原書で読める人は、原書の方がいいよ。

岩波版のページの下の方で文句を言ったスロールの地図も、ビルボの家のところでは月文字が入ってない地図で、エルロンドのシーンでは月文字入りの地図になってるしね。
原書房版もそうなんだけど、地図がちっちゃくて、よくわからない。

あ、地図のことも文句を言っておこう。岩波版と平等にしないとね。(^^)
原書房版では、裏表紙にそのスロールの地図の月文字なしバージョンがあるんだけど、左の手のところのルーン文字が、日本語になっちゃってる。 おいおい。なんで訳しちゃったんだろ。雰囲気ぶちこわしになっちゃう。
高さが5フィートで、3人並んで通れます、っていうのは、本文中に説明があるんだから、それでいいのにな。しかも本文に「ルーン文字で記されておる」って書いてあるのに、地図を見に行くと、漢字とひらがなが書いてある。(爆) まぁ、それも面白くていいけど。

しかし、ルーン文字の読み方の説明が載ってる本なのに、あれでは読む楽しみがなくなるじゃないか。

そう言えば、絵つきホビットでは、地図は絵を描いた人が書き直してて、ルーン文字がどうもあやしい。(^^;;) それは、岩波版と似たようなことで、要するに、字がわかってない人が真似して書いても、やっぱりちゃんと書けないんだよな、ってことだ。
でもあの絵つきホビットの地図はいいよ。すごくかわいい。らぶり〜♪って感じ。月文字も月光を受けて光ってる雰囲気が出てるしね。


で、話を戻すと、The Annotated Hobbit は、この原書房版が出た後、2002年に改訂されていて、内容が増えている。

各国のホビットの訳本に関する一覧もあって、どこそこの国のホビットは、訳者が誰で、挿絵は誰で、出版社はどこで・・・と事細かに書いてある。日本は2種類しかないけど、もっともっとたくさんある国が多い。ロシアなんて、ありすぎる。訳が同じ人でも、挿絵が違うバージョンがいろいろあるらしい。ロシア版はここに行くと、表紙だけだけど楽しめるよ。

で、その日本版の紹介には、岩波のはもちろん、既に出版されていた原書房版のことも載っている。
岩波版は褒められている。よかった。(^^) 改訂後はもっとよくなっていて、挿絵も素晴らしい、って。うん、挿絵、いいよね。
一方、原書房のは、「poor translation」だって。あらら。日本版指輪と調和しない、って。 まぁ、そりゃ、たしかに調和はしない。
調和しないのは何故かと言えば、日本版の指輪は瀬田訳しかなくて、訳者が違えば、調和しないのは当たり前だ。
このpoor translationは、読み物として読みにくいってことを言いたいんだろうから、悪口として言われたことではなく、ひとつの意見なんでしょうが。

これは、Makoto Takahashi さんが書いた意見が載ってるの。国内事情を少しでも知ってると、日本国内でのゴタゴタが、The Annotated Hobbit に、どどーんと載っている・・・ような印象を受ける。
知らない人がこれを読めば、鵜呑みにするだろう。

原書房版は、物語として、読みづらい面があるのは確かだ。でも、poor translation ではないと思う。そう言うなら、いろんな間違いが山となっている岩波版だって poor と言われても仕方がない。

でも、グワは、どちらも poor ではないと思う。

とか言うと、どちらのことも悪く言わないで、ずるいみたいだけど、でもここまでのページで、どちらの問題点も散々挙げてきたんだし、別にグワは自分の人気取りのためにそう言ってるわけじゃない。

瀬田訳は、たしかに間違いが多い。だけど、ああいう日本語の本は、最近はあんまりない。物語として、心地よい。 poor ではない。

山本訳は、奇妙(!)なところはいろいろあるけれど、訳としては立派なものだ。なかなか出来ることではない。文句を言う人は、そんなに言うなら、自分で訳してみるといい。単語の意味だけ調べても、訳なんか出来ないんですよ〜

なぜ山本先生が、ここでこう書いているのか、あそこではどうしてそう書いているのか、英語がある程度出来る人なら、よくわかるだろう。
あー、そういうことだから、こういう書き方なんだねぇ、って。
ま、そりゃ、えーそうなのかなぁぁぁ、ってとこもあるんだけどさ。でも、原文が読めていないのがバレバレな、わけのわからない誤訳とはちょっと違う。誤訳にもレベルがある。わかってないのに創作しちゃったようなのと、ついうっかり、っていうののどっちなのかは、読めばわかる。

そういうのが読み取れない人は、そもそも原文がわからないんだから、瀬田訳が優れているとか、山本訳が劣っているとか、そんな判断など出来るわけがない。
いくら訳文が素敵でも、逆に何だかカチンときても、それが原書に沿った内容なのか、違うことになってるのかの判断も出来ないのであれば、賞賛も批判も出来ないではないか。

そりゃ、山本訳は、児童文学というジャンルで、あの書き方は子供向けではないのは確かだけどね。でも原書房版は、注釈本という性格のものだから、大人向けの文にしてもいいのかもしれない。でも大人向けとしても、むむむ、となる部分は多いんだけど。

グワは瀬田さんの書き方は決して嫌いではない。あの独特の雰囲気に惹かれる人は多い。
しかし、熱烈な瀬田ファンほど、その雰囲気に酔っていて、つじつまが合ってない部分が読めていないんじゃないのかな。そして、原文では実はこうなんだ、っていうのを知らない。それも何だか気の毒だ。あんなに面白いのに。

日本語の文の雰囲気だけで判断して、片方は褒め讃え、片方は悪しざまに言い、それが海外のメジャーな本に載ってしまっている。

他の国のは、ただ資料としていろんな訳者と挿絵画家の名前が並んでいるだけのものが多く、訳についての解説があるのは一部だ。きっと各国の訳本だって、いろいろ問題はあるだろうねぇ。あれだけ数があるんだから、はぁ?なんですかぁ?っていう連続になってるのだってあるはずだ。

で、日本のは、「岩波のは読みやすくて、原書房のは読みにくい」というのは、普通の日本語感覚がある人なら共通した意見なのはたしかだけれど、公平に言えば、

「岩波のは一見読みやすいけれど一部に間違いを含み、原書房のは読みにくい面はあれど大半は原作の意図を汲んでいる」

となる。とグワは思うな。
「原作の意図を汲んでいる」なーんて書くと、あれがか?!と言われそうだけど、だって、間違いが多ければ、それは原作の意図を汲んでいるとはいえないんだしさ。

原作の意図を汲んで、というのは、上でも言ったように、原文が言いたいことを読み取って、それを日本語で表そうとしているのがわかるから、グワはそう言ってるの。
ただ、それが、一般大衆から見ると、妙な表現になってるところがいろいろあって、原作を傷つけていると受け取られがちになる。

でも、みんな、もっと公平に見ればいいのにな。

あのThe Annotated Hobbit を見た人は、2種類ある日本の訳書は、片方は良くて片方は悪い、っていう単純な受け取り方しかしないだろう。

いいんだろうか。
あの本は、世界中のトールキンファンが読んでいるはずだ。

原書房のホビットは、なかなか独特な奇妙な面があるにしろ、決して poor translation 一色ではない。

そりゃ、自分も初めはナンタルチア版だと決めつけて、ちゃんと読まなかったから、大きなことは言えないのですが。(^^;;)

それに、今でも、ホビットを読んでみようかな、って人には、岩波のにしなさいよ、とは言うけどさ。でないと、途中で挫折するのが目に見えてるから。間違いがある云々は置いといて、話を何も知らない人には、まずは気に入ってもらわないとね。

でも、いろいろと読み込むと、原書房のは初めの印象とはかなり違う。

岩波しか読んだことない人は、原書房のも読んでみるといいよ。


そりゃ、ちょっとねぇ、ズレてるんだけどさ。 ちょっとじゃなくて、かなり。

それでナンタルチア版になってしまったのだ。

ま、でも、要領が悪くて、ひんしゅくを買う人って、悪い人ではなかろう。

ナンタルチア版は、いろんな意味で、貴重です。というのが結論かな?
こういう訳書は世界中探してもなかなかないよ。肯定的に見て、楽しみましょう。


しかし、やはりナンタルチアは直してほしい。(←しつこい)

あ、ついでに、サーラバイバイも。


戻る