「欠陥翻訳時評」が蒔いたもの、残したもの


別宮貞徳先生といえば、翻訳界の大御所だ。翻訳をかじったことのある人で、別宮先生の名前を知らない人はモグリである。

なにしろおっかない。直接師事したことはないから、ご本人がどんな方なのかはわからないけれど、文章を読むだけでおっかない。変な訳は一刀両断、ケチョンケチョンにされる。さぞお弟子さんたちは大変なことと思う。

でもそのくらい鍛えられないと、まともな翻訳なんか出来ないし、ビシバシしごかれる方が幸せなのだ。

さて、別宮先生の矛先が向くのは、お弟子さんばかりではない。おっかない。(爆)

昔、「翻訳の世界」という雑誌があって、今は「eとらんす」とか何とかいう、わけのわからん名前になってるんだけど、その翻訳の世界だった時代、グワはよくその雑誌を読んでいた。

別宮先生は、その中で、担当しているコーナーがあって、それは、「欠陥翻訳時評」というもので、販売されている本の誤訳を暴く!というものだった。長年続いた名物コーナーだった。今はもうないらしい。

とにかく、毎月何か本を一冊取り上げて、その中の誤訳を並べ、どのように間違えてるかを徹底的に叩き、これはひどすぎる、訳者はどういう了見なんだ!許せん!とお怒りだった。というより、お嘆きだったんだろう。

もうそれはそれは、キツイお言葉が並び、あーあー、そんなに言っちゃっていいのかな、そんなに言わなくてもいいのにな、と思ったりもしたけど、でも間違いは間違いだ。それもさぁ、なんでそーゆー間違いするかなぁ、って程度の間違いが並ぶから、叩かれるハメになるわけさ。

その「欠陥翻訳時評」は、主なものを選んで、つまり傑作選ということで単行本化されている。何冊も出ている。雑誌の段階で留まればまだしも、単行本にまで入れられると大変だ。

でも、いくらキツイこと言っても、あのPJの映画公開時の、なっちの字幕に怒ったネット上での騒ぎでの叩き方と比べれば、まだまだ柔らかい。あの時は凄かったからねぇ。

翻訳学校というところは、それはキビシク、提出する答案は、まっかっかになって返ってくる。誤訳だけじゃなくて、意味が合ってても、マトモな日本語になってなければ、そして全体の雰囲気が原文とずれていれば、やっぱりそれは間違いなのだ。

だから、別宮先生みたいな方のお弟子さんともなれば、門下の中でいくら出来ないと言ったって、仕事をさせれば、そういう誤訳のコーナーで取り上げられるような間違いはするはずもない。

しかし世の中の翻訳書の多くは、訳のレベルが低く、わけのわからない日本語が並んでいる。これは出版社も悪い。
文脈がおかしい以前に、日本語になってないものもあったりする。何度読んでも理解出来ない文が並んでいる翻訳書って多い。
翻訳の勉強なんかしたこともなくて、英語は少し出来るくらいの人が、何かコネがあったり、その本のテーマの専門家であったりしたがために、訳を任され、ハチャメチャな本が出来上がる。
どうしてそういう訳者を選ぶのかさっぱりわからない。世の中には、実力があってもコネがなくて仕事がない人がたくさんいる。

英語が少し出来るくらいの人がやると、構文がちゃんとわかってないから意味を取り違える。辞書をひいて、訳語を並べてみて、想像力を膨らませ、その訳語をパズルのように組み合わせて創作する人もいる。冗談じゃない。そんなもの出版しないでほしい。

しかし、英語が出来て、原文の意味がわかれば訳せるかというと、そうはいかない。日本語に変換するとき、どうすればいいのか、ある程度のトレーニングが必要となる。しごかれたことがなくて出来る人は、余程才能があり、言葉というものの奥深さを元々認識しているのだろうけれど、普通は何年も、10年も20年も修行しなければ、使えるレベルにはならない。

英語の場合は、出来る人が結構いるからまだいいけど、これが他の言語だと大変だ。元々出来る人口が少ないし、その中で翻訳というものがちゃんと出来る人なんて、ろくすっぽいないのだから、優れた訳書というのはますます少なくなる。

ま、とにかくその雑誌では、別宮先生は、怒りが炸裂し、その勢いにのってガガガとお書きになり、それはそれは凄まじいコーナーだった。

時々変なことも言うけどね。一度、何の本だったか、たしか音楽書の訳を吊し上げたときに、男の人のセリフで「〜〜かしら」とは何事か!というのがあった。(^^;;)
別宮先生は、そういう言い方はなさらないらしく、男がそんな言い方をするか!って言うのさ。あはは
でも、男の人でも使うんだよね。別にオカマでなくてもさ。
「〜〜かしら」っていうのは、ちょっと品のある、年輩のおじさんが使う言い回しだ。なぜ年輩の方たちかというと、今は若者はほとんど使わなくなっているからだ。
これは、「〜〜なのか知らぬ」ってことで、元々、女言葉ってわけではない。
かしらぬ、かしらん、かしら。となる。

グワイヒアは、男性が「〜〜かしら」、「〜〜かしらん」と言えば、上品な教養ある紳士、というイメージがある。男女問わず、使える言葉だと思う。
自分でもたまに使ってみたりもする。似合わなかったりもする。(←バカ)

「そうっすか?」って言うより、「そうなのかしら」の方がずっとグレードが高い。

最近の、「で」を抜く「そうっすね」だの「そうっすか」だのを連発するのは、自分がバカだと宣伝してるようなものだから、そればっかりやたらと使わない方がよい。
なーんてことを言うと、それはお前がトシなんだろと言われそうだけど、目上の人に対してまでそういう喋り方しか出来ないのは、やっぱりレベルが低いと見られても仕方がない。あと何十年かすれば、ニュースキャスターも「そうっすね」って言うようになるのかもしれないけど、まだ時代はそこまで進んでいないんだから、たまに崩した効果を狙って使う程度にした方がいい。

うちのサイトでは、読みやすくしたいから、なるべく口語で書いている。アホなことも書くし、崩して、いわゆる「ら抜き」や「い抜き」も普通に使ってる。ら抜きで打つと、いちいちパソコンに「それは、ら抜きです」と注意され、はいはいと答えつつ、無視する。パソ子ちゃんは、さぞイライラしていることだろう。
しかし、ちゃんと書かなければならないとき、ちゃんと話さなければならないときは、きちんと出来るのがいいね。

話を戻すと、「〜〜かしら」は、今は男性はほとんど使わないみたいだし、女性もあんまり言わないなぁ。
で、「かしら」とは絶対言わないらしい別宮先生は、勢い余って、そのことでも竜のように炎を吹き上げている。ごぉぉぉぉ!! あはは

あははなんて言うと、怒られるけどさ。(^^;;)

で、たまにはそういうこともある別宮先生は、学者さんでもあり、翻訳界の大御所と言われるだけのことはあって、仰ることの大部分は、やはり正しい。





そして、我らがホビットが、ベックの餌食になってしまった。あーあ


あの、原書房のホビットじゃないよ。瀬田さんの訳ね。

それも、雑誌に留まらず、単行本にまで入ってしまっている。「誤訳迷訳欠陥翻訳」って本。似たようなタイトルのが他にもあるけど、これは81年に出版されたやつ。もう絶版になってるけどね。古本なら手にはいるみたいだし、図書館にもあるんじゃないかな。興味がある人は読んでみてね。

雑誌で取り上げられたのは、だいぶ昔で、昭和53年と書いてある。グワはまだ子供の頃で、とか言うとトシがバレるけど、だからこの記事は雑誌上では見ていない。その後、単行本になったのは持っている。
そんな昔からあるコーナーだったんだな、というのが驚きだ。

あれが連載されてる当時は、「欠陥翻訳時評」に取り上げられたらどうしよう・・・と、翻訳者も出版社もヒヤヒヤものだったらしい。最近まで続いていたはずだから、長年、みんなヒヤヒヤしてたのだ。
そこへホビット登場!だったわけですよ。あー大変だ。

雑誌上ではページ数は限られているから、ほんの一部しか載っていない。初めの方ね。

ま、ほんの一部とは言っても、いろいろ載ってます。これが全文通してだったらさぞ大変なことになってたと思う。それほどに改訂前の瀬田訳は誤訳が多い。全文原書と突き合わせてチェックされて、ずらずら並べられて、それが本になってたら、きっと岩波はあのホビットの冒険を絶版にするしかなかっただろう。

この記事は、ホビットの冒険の改版が出る前のものだから、間違いを指摘されて載ってる訳文は、今売ってるホビットの冒険のとは結構違う。岩波版ホビットは、1983年の改訂で中身がだいぶ書き換えられている。両方並べて比べると、ほんとにね、いろいろ違うんだよ。改訂前のホビットの冒険、持ってる人はお宝ですよ!
ベックせんせに叩かれたのは昭和53年、ってことは、1978年。単行本に入ったのは1981年。改訂はその2年後になる。

これで叩かれて直したのかどうなのか、事情はわかんない。でも指摘されてるところは、全部は直っていない。指摘された通りに直ってるところもあるけれど、そのままの部分が何ヶ所もあるし、いじったけど直ってないところもあるから、「翻訳の世界」の記事は参考にしてないのかもしれない。

「翻訳の世界」は、翻訳書を手がけている出版社なら、知らないわけはない雑誌なのだ。そこで叩かれたのだから、改訂するんなら、もっと徹底的に洗い直すべきだった。


それから、岩波版ホビットの冒険は、底本にしている原書がトールキンの66年の改訂以前のものだから、そもそも原文が違うところもある。トールキンは、何度か、ホビットを書き直しているからね。

別宮先生が読んだ原書のHobbitは、トールキンの改訂後のもので、瀬田さんが訳したのは、改訂前の原書なのさ。
だからそれは訳が原書と合わなくて当たり前なのだ。別宮先生はその辺の事情はご存じなかったらしい。
その点は、別宮先生の調査不足だな。その調査不足を棚に上げて、お怒りになってる部分もある。あは。
おー、大御所もこういうことがあるのだな、と拍手したりもする。


それで、だ。この記事は、日本のトールキンファン、ということは、そのかなりの割合が瀬田ファンということになるんだろうけど、その瀬田ファンにとっては、さぞショックだったと思う。
誤訳があったということだけじゃなくて、その言われ方が、だ。
なかなか手厳しいからね。

グワは、あの「欠陥翻訳時評」というコーナーがどういうものか、よく知っていたし、別宮先生の論調が鬼のようなのは毎度のことなのも知っていたし、だから、単行本になったのを、ずいぶん後になって読んだときも、それほどショックではなかった。あの程度で済んだんだから、むしろラッキーと思った方がいい。

とんでもない訳本が横行している出版界に、あの別宮先生の「欠陥翻訳時評」はかなりの影響を及ぼした。それでも変な本はなかなか減らないけど、でもああやって長年叩き続けたことで、少しは出版側の意識も変わったと思う。それに、読者に、「読んで分からないのは読者の頭が悪いからではなく、翻訳が悪いからだ」ということを気づかせたというのも大きな意味がある。

権威ある立場の人や、学者先生方が、優れた訳者とは限らない、ということを、正に痛快に示してくださった。吊し上げられてる訳者さんが、偉い人ばかりとは限らないけど、何にしても、相手の地位がどうあろうと構わず、ズバズバ言えるというのはすごい。
敵が増えるに決まっているのに、それでも声を大にして言い続けて、その功績は大きいと思う。

で、その敵が増える、ってのは、トールキン業界にも当てはまる。普通は、訳者さんがお偉い人だった場合、敵に回すと何かと面倒だろうに、と思うんだけど、ホビットの場合は、瀬田さんに睨まれるとかじゃなくて、読者に睨まれることになった。あらら

こういうパターンも珍しいんじゃないかな。(^^;;)
それだけ、瀬田訳に思い入れが強い人が多いのだな。
他の本でこういう事態になることは、あんまりないだろうねぇ。

ベックなんとかって奴は実にけしからん!となる。

たしかに、別宮先生の書き方はすごくて、えー、そこまで言っちゃっていいのか?って思ったりもする。
そういう先生なんだと分かってれば、別に何でもないんだけど、そういう言われ方をしたことがない人、周りにそういうコワイおじさんおばさんがいない人は、いきなりそういうノリでガガガと言われると、どーんと凹んでしまうんだろうねぇ。

そして、瀬田さんがそういうとんでもないおっさんに叩かれて、瀬田ファンは怒ることになる。


関係ないけど、グワはピアノを弾く鷲で、音楽のレッスンというのは、ある一定以上のレベルになって専門的に習うとなると、先生にもよるけど、それこそ鬼のようにしごかれるものだ。趣味でやってる人なら「あら、上手、上手、すごいわね♪」なんて言ってもらえるけどさ。専門の道に進もうとしている者は甘やかしてなんかくれないのさ。ピアノでなくても、歌でも弦でも同じ。こわいこわい。
厳しい先生だと、もう生徒のプライドなんぞというものはズタズタにされ、ぶっ壊されて、徹底的に叩き直される。最近の若い子たちは弱くて、怒られ慣れてないし、先生というものはあまり尊敬されないものになってきてるみたいだから、音大あたりのレッスンも柔らかいらしい。でも一昔前は、そんなもんじゃなかった。メッタ斬りのコテンコテンである。
だけど、自分より出来る人が、何とかしてやろうとしてくれているのだから、いくらメチャクチャなことを言われようが、それについて行く根性のある子でないと伸びない。っていうか、いちいち凹んでしまう性格では世の中生きていけない。生徒は褒めて伸ばしましょう、なんて甘い。怒鳴って貰えるのは、ありがたいことなのだ。
そういう時代に育って、よかったと思う。

翻訳関係の世界でも、そういうのは同じ。
出来る人が、何かと文句をつけるのは、何の世界でも同じことだ。職人芸というのは特にそうだ。
技術と芸術とが絡み合っているものは、余程の天才でない限り、ある程度はビシビシ鍛えられないとモノにならない。音楽でも、翻訳でも、伝統工芸でも、能でも、バレエでも、そういう点では共通している。
別に師弟関係でなくても、直にでなくて公にであっても、批判されるのは悪いことではない。

コンサートの批評なんて、結構辛辣なのが新聞や専門誌に載る。演奏会翌日の新聞で扱き下ろされるのも珍しくない。いや〜、大変だよなと思うけど、それにいちいち負けてちゃいけないのさ。つよい子になろう!って感じ。(^^)v
翻訳だって同じだろう。

そう、翻訳とは、高い技術を要し、かつ芸術でもある。っていうより、なんの芸術でも技術が必要なのだ。なんとなく出来るもんじゃない。

ガガガと手厳しいこと言われても、ありがたく聞く。そりゃ、明らかにわかってない人が、わかったふりして偉そうなこと言うのは別問題ですよ。そんなのは構ってなんかいられない。

で、そういう世界に慣れている鷲としては、別宮先生のキツイ物言いくらいは、大して何とも思わない。もし自分が叩かれても、あの程度なら、「げ、怒られちったな〜」くらいのものである。あのくらいでいちいちビビっていたのでは、生きていけない。だって自分が間違えたんなら、言われても仕方ないっていうか、当たり前だもん。





では、別宮先生の姿勢はどういうものなのかを押さえてほしいので、「誤訳迷訳欠陥翻訳」からちょっと引用。
車のハンドルが抜ければいのちにかかわるし、パンツのゴムが伸びればかっこうが悪いし、被害はもろに消費者にかかってくるが、翻訳はかりに欠陥があったとしても消費者にせっぱつまった実害が及ぶわけではない。消費者は出てきたものをただ有難く受け取るだけである。つまりは目を光らすものがどこにもないわけでメーカー側はつくり放題の一方通行。たまには新聞雑誌が「これはひどい」「けしからん」と文句をつけることがあるが、知らぬ顔の半辺衛をきめこんでいればやがてほとぼりもさめる。ライバル商品はないのが普通だから、消費者は結局それを買うほかないのである。
もう少し。
たまたま身辺の翻訳作品でおか目八目的に欠陥に気づいたのを紹介して、わが身を含めて翻訳界の戒めにしたいだけである。誤訳指摘は読者の知的好奇心をひどく刺激するものらしく、その種の本が出るときまってよく売れる。読者としては、有名な学者翻訳家のはだか姿をのぞき見しているような気分になるのだろうか。しかし、ただののぞき見がりっぱな絵になったためしはない。建設的な意味がなければ、誤訳指摘はのぞき見と同じく悪趣味である。建設的な意味とはほかでもない、のぞかれるほうが、のぞかれても平気な装いを身につけること。欠陥翻訳時評はさしずめその姿見といったところだろうか。
ついでだから、もうちょっと。
欠陥商品の欠陥はハンドルが抜けるとかゴムが伸びるとか、誰にもわかる客観的な形で存在するのに、欠陥翻訳の欠陥はどうも正体がよくわからない。つまり、欠陥といっても、何をもって欠陥とするか、はっきりした規定がしにくいのである。〜中略〜 直訳が忠実、など言語道断。日本語としておかしければ、それも欠陥ということになる。これも以前書いたことだが、だいたい悪訳には二つのジャンルがある。一つは原語解釈上の悪訳、一つは日本語表現上の悪訳。このうち前者は一過性の悪だが後者は慢性で根が深い、と私は考えている。

Traduttore, traditore. とことわざにも言われるごとく、元来完全な翻訳は不可能であるからには、すべて翻訳は欠陥翻訳、五十歩百歩だと言えなくもないし、どんな翻訳もタタミと同じくたたけば必ずほこりが出るにはちがいない。しかし、五十歩より百歩はずっと先に進んでいるし、たたかないでもほこりだらけのタタミもある。五十歩はしょうがないが百歩はいかんと判断し、ほこりだらけのタタミは汚いと判断するのは、理屈よりもまず常識である。翻訳はどれもこれもまちがいがつきものだが、あまり多いのは困る。文章も人それぞれ味わいがあって結構だが、ことさらにわかりにくいのは困る ─ 私はこの常識をよりどころにする。
Traduttore, traditoreはイタリア語で、翻訳は裏切り、ってこと。なかなか原典そのままの意図は伝えられないから。

次は、ある本の変な部分を指摘したのに対し、その訳者の◎△さんが文句を言ったことに答えての文。
まず最初にいっておきたいが、私は◎△氏に何も含むところがあるわけではない。だいたいが皮肉な書き方をするたちだが、批評を「悪口」と受け取られるのは心外である。私も翻訳をわらじの一つにしているから、翻訳者に対して同病相憐れむ気持ちは強いのだが、自分が仁義につながれた集団に属しているなどと思ったことは、かつて一度もない。私信で伝えるのが「仁義」とは妙なことをおっしゃる。文学、音楽、演劇、何によらず批評者が作者、演奏者にまずこちょこちょと内緒話をしなければならないなら、批評というものの成り立つわけがないではないか。
はい、ごもっともです。

じゃ、執筆側がどういう考えなのか、少しわかったところで、「欠陥翻訳時評」で「ホビットの冒険」がどんなことを言われたのか、ちょっと見てみよう。


タイトルは、「おとなにもわからない児童文学 トールキン ホビットの冒険」となっている。
もうタイトルだけで、うわ、って感じ。(^^;;)

瀬田訳 ビルボは、・・・トック家の血がまじっているせいか、どこかしら少し変なところがありました。どこかに、とび出す時が来たら出ていくぞと待ちかまえているようなふしがあったのです。そうはいっても、今ではもう、五十歳くらいになっていて、それでもやっぱりとび出すはずみが来なかったのですから、みたところどうやら、この気持ちのいい住居にすっかり腰をおちつけてしまったようでした。
ベックせんせのお話 一見もっともらしい文章だが、前例の「家をとび出す」にひきずられた見事な誤訳で、ここで「出ていく」のは、実はビルボ当人ではなかった。原文は英語の試験に持ってこいの問題になりそうである。
原文 Bilbo, ・・・・・ got something a bit queer in his make-up from the Took side, something that only waited for a chance to come out. The chance never arrived, until Bilbo Baggins was grown up, being about fifty years old or so, ・・・・・ until he had in fact apparently settled down immovably.
ベックせんせの試訳 ビルボには・・・・・どこかしらへんなところがありました。それは折さえあればおもてに出てきたのでしょうが、その折というのが、ビルボが五十歳になって・・・・・見たところ・・・・住居にすっかり腰をおちつけたころになってようやくやって来たのです。

どっちでもよさそうに見えて、これが結構違う。

それまでは変なところが出てくるチャンスがなかったのであって、ビルボの変なところは目立って表に出てなかったのだ。それが、いいトシになって落ち着いた頃になって、その変なところが表に出るチャンスがやって来た、って文だ。

瀬田訳では、変なところは元々表に出ていて、ビルボは家を出ていくチャンスを狙っていたんだけど、そのチャンスが来なくて、家にすっかり落ち着いてしまいました、って意味になっている。

改版では、ちょっとはいじってあるものの、意味的には改変前と大して変わっていない。
ビルボの変なところは、「きっかけさえきたら表にでようと待ちうけているようなきみょうな性分」となっていて、これではビルボが表に出たいように読める。
で、五十くらいになって、その性分が表にでないまま、とあるから、あぁ性分が表に出ようとしてたのか、とわかるけど、どうも前文とはやっぱりつながらない。
そして、表に出るはずみが来ないまま、落ち着いてしまいました、となる。

別宮先生の訳を見ればわかる通り、原文は、そのビルボの変な性格は今までは出てこなかったけど、落ち着いた頃になって、さぁこれから出てくるんですよ、って文だ。
そして、次の段落から、変なとこが出てくる顛末が語られる。なかなか素敵な橋渡しをしているところだ。すんなりと次につながる。

ところが、岩波版は、改訂前も、改訂後もやっぱりわかってなかったらしく、その次の段落はどちらも「ところが」で始まっている。ビルボは腰を落ち着けてしまいました、とやったもんだから、次とつながらなくなって、無理矢理「ところが」でつないでいる。

接続詞がなくても補って訳すことはよくある。でも逆接の文脈じゃないところを勝手に作り変えてはいけない。

トールキンの意図した流れとは逆になってしまう。
こういうことが重なると、物語全体の流れがどんどん狂ってくる。


瀬田訳 このひとのうわさときたら、・・・・ほんの一部をお話しただけでも、みなさんは、二度と忘れないほどたまげるにちがいありません。
ベックせんせのお話 これはたまげた見当ちがい。
原文 If you had heard only a quarter of what I have heard about him, ・・・・・you would be prepared for any sort of remarkable tale.
ベックせんせの試訳 そのほんの一部でも聞けば、これから先どんな並はずれた話を耳にしても、もう驚くことはなくなるでしょう。

ここは、指摘されてる通り瀬田訳もおかしいのだけれど、別宮先生の試訳もあまりよくない。この一文だけなら、この試訳で構わないし、意味も合ってはいるんだけどね。でもこれだと、次の文とつながらなくなる。
岩波版の改訂後は、「このさきどんな話にもおどろかなくなるにちがいありません」となっていて、この試訳と同じ流れになっている。

any sort of remarkable taleは、ガンダルフの巻き起こすことに関しての tale のことで、「この先どんな話をしても」とやると、別にガンダルフに関係のない話でもびっくりしなくなるでしょう、みたいな感じに読めてしまう。

ここがちゃんと訳せているのは原書房版だけだ。
ここでトールキンが書いているのは、わかりやすく補足すると、
ガンダルフは、わくわくドキドキの魔法使いでしょう? だから、彼のことをほんのちょっとでも知っていたなら、ガンダルフが来た!というだけで、みなさんは「わぁ♪これから何か、すごいことになるんじゃないかな?!」って思うでしょうね!
・・・ってことだ。


瀬田訳 ガンダルフは、・・・・どこかへぷいといなくなったのです・・・・・。
原文 He had been away・・・・on businesses of his own・・・・
ベックせんせの試訳 ・・・ガンダルフは・・・・自分の仕事をしに出かけてしまったのです。
ベックせんせのお話 こういう何の変哲もないところをなぜいい加減にごまかしておくのか、私にはとんと理由がわからない。原文などそっちのけで好きなようにやっていいものなら、これほど楽な仕事はない。

ここは改版では直ってます。よかった。(^^)


瀬田訳 この朝、・・・・・ビルボが見たひとは、ただの年よりの小人でした。
原文 All that・・・・・Bilbo saw・・・・・was an old man with a staff.
ベックせんせのお話 「杖をついた」が抜けて「小人」がはいったのは、不注意だろうか。

この原文は、トールキンの66年の改訂後、第三版以降のもので、瀬田さんはその改訂前の第二版の原書を訳してるから、違って当然なの。

昔の原文は、a little old man with a tall pointed blue hat で、それをトールキンは 1966年に an old man with a staff. He had a tall pointed blue hat に書き換えた。

ガンダルフは、トールキンの頭の中では、初めは小さかったらしい。指輪の草稿でも初期の段階ではガンダルフは小さくて、それが設定が変わって、普通の(?)サイズになる。初めにホビットが書かれた頃、そしてその後しばらく、指輪の執筆中も初めのうちは、ガンダルフは小さかった。
これはHoME6巻、RSの20ページに出てくる。指輪の初まりの部分、パーティ前にビルボの家に来たガンダルフは、little old man になっている。もっと後になってガンダルフはlittleじゃなくなる。
そして出版された指輪と内容が合うように、ホビットの本の little はカットされた。

で、岩波の改版では、ここは「ただの年よりでした。」になっている。原書の第二版を元にしているけど、ここだけは little を削除したらしい。でも、「杖をついた」は入れてないから、ここだけ第三版にしたわけでもないらしい。
指輪の内容に合わせたってことかな。


瀬田訳 いえいえ、そんなことはありません。お年よりしゅう。
ベックせんせの言 相手はひとりなのに「しゅう」とは何ごとか。

まぁまぁ、おさえておさえて。(^^;;)

衆ねぇ。
ヤフーの辞書に拠りますと、「人を表す名詞に付いて、複数の人を尊敬や親愛の意を込めて言い表す。古くは単数の人にも用いた」だそうです。
紙の辞書を見ると、大抵、古くは、ってのはカットで、「複数の人」と書いてある。たしかに今では単数では使わない。

瀬田さんは、古っぽくしたくて、「しゅう」にしたのかもしれないね。
でも、現代的には単数では使わないから、しゅうじゃない方がいいと思うな。

っていうか、それよりここは、瀬田訳では「お年よりしゅう」に答えて「お若いしゅう」になってて、山本訳では、「ご老体」に答えて「ご主人よ」になっている。
原文はというと、どっちも同じ「 my dear sir 」で、何もわざわざ年寄りだのご老体だのと、ガンダルフがトシなのを強調して言う必要があるのか、疑問。
ビルボが my dear sir って言ったのに対して、ガンダルフが同じく my dear sir って返すのが面白いんだし。


次、ちょっと長いけど。

瀬田訳 「やあ、たいへんだ、・・・・おとなしい若者たちを、見知らぬ土地へ船出する船につれこんで、青海原にむかわせ、きちがいじみた冒険へとかりたてたのは、ガンダルフではなかったか。やれやれ、万事は静かでおちついていられたのに、あなたがひとたびこのあたりへやってくると、いつも物事をめちゃくちゃにするではありませんか。こんなことをいって、失礼しました。でも、あなたはもう、何かしでかさない方がいいと思いますね。」
「では、わしがどこへいけばいいと、いうのかね?」
ベックせんせのお話 まず、主人公ビルボの気持がよくつかめていないらしい。この前の部分を見ると、ビルボはこの年よりが魔法使ガンダルフであると知って、昔ガンダルフがトックじいさまに魔法のカフスぼたんをくれたり、面白い物語をしてくれたり、花火をあげてくれたりした思い出を、なつかしげに語っている。そのつづきの文章なのに、突然ガンダルフをはげしく責めるとはどういうわけか。しかし、そんなことよりも、英語の意味がわからなくてやむをえずでたらめな文章を書いたらしいことが、原文を見ると歴然としている。
原文 'Dear me!・・・・・Not the Gandalf who was responsible for so many quiet lads and lasses going off into the Blue for mad adventures? Anything from climbing trees to visiting elves - or sailing in ships, sailing to other shores! Bless me, life used to be quite inter- I mean, you used to upset things badly in these parts once upon a time. I beg your pardon, but I had no idea you were still in business.'
'Where else should I be!'
ベックせんせの試訳 「大ぜいのおとなしい若者たちをかりたてて、はげしい冒険を求めに青海原に乗り出させたあのガンダルフですね。いろんなことがありましたっけねえ、木にのぼったり、妖精のところへいったり、船に乗ってよその国へいったり。いやあ、ほんとうにあの頃は人生っておもし・・・つまりそのお、昔あなたがここへくるといつも上を下への大さわぎになったってことです。ごめんください。でも、まだ今でもそんなことをしておいでとは思いませんでしたね。」
「ほかに何をしろというのかね。」
ベックせんせのお話 文字通り面白いのは inter - で、これを interesting といいかけてやめたのだと推測できないようでは翻訳をする資格がないと思う。

ここはですね、またまたトールキンの1966年の改訂で変わっている部分です。木に登ったり、エルフのところに行ったり、っていうのが追加されてます。だから、それが入る前の原書を元としている瀬田訳には、その部分が入ってない。

interesting の部分、life used to be quite inter が、瀬田訳では「万事は静かでおちついていられた」となっている。「ほんとうにあの頃は人生っておもし・・・」とは、だいぶ違う。どうしてそういう訳が出てきたのかよくわからない。

この interesting は、改版では直ってます。

< ベック先生の結びの言 >
きりがないからこのへんでやめておく。ごらんのとおり、一ページに一つ以上の割合である。翻訳に誤訳はつきもので多少は目をつぶらなければいけないかもしれないが、これではあまりにも多すぎるのではないか。しかも、原文と照合するまでもなくおかしいとわかるのは、前にもいったように、編集者の目は節穴かということにもなる。一応子供向きのととのった文章で書かれているのは有り難いにしても、見てくれはいいが手抜きだらけの建売住宅のおもむきで、普通なら監督官庁の改善命令が出るところだろう。


って感じでした。解説した方がいいようなところを、少し抜粋させていただきました。

そして記事で取り上げられたのは、全体のほんの一部で、それもどっちかっていうと、大したことない部分なの。初めの方だけだしね。岩波版がどうなっているのかをいろいろ知ってると、どーせ載せるなら、もっと他のところを取り上げて言ってくれればよかったのに、と思う。

この程度言われただけでも、普通の柔らかい生活しか知らない平和な人だと、結構こたえるかもしれない。





幻想文学12号、インクリングズの特集号に、「回想の瀬田貞二」という記事がある。(インクリングズって何か知らない人は、こちらへ)
この記事は、斎藤惇夫さんと菅原啓州さんの対談で、その中にも「欠陥翻訳時評」は全くけしからん、という内容がある。

このお二人は、瀬田さんと親しかったそうで、お人柄の素晴らしかった瀬田さんの想い出話が語られるのだけれど、菅原さんが仰っているのを抜粋すると、
書いた人と一緒にその世界を所有する楽しさを、傍の人にふっと伝えようとするような感じでお訳しになったものを、そういう世界とはおよそ無縁の輩によって悪しざまに批難されたわけですからね。瀬田さんの翻訳は、そういう意味で傍目もふらずって感じですから、文章のどこどこの部分をおさえて完璧に正確に訳していくなんてことを考えるよりも、遮二無二その楽しさの中心に迫っていく。その点重箱の隅をつつくような粗捜しをすれば、いくらでも出てくるでしょうし、たしかに問題となる部分がいろいろあることも事実です。とはいえ、ある人がのめりこんでやっている仕事を批評するからには、少なくともそのやってる人と一緒に、その世界に向きあうことが最低限のモラルだと思うわけで、その点あの批評文は品性下劣というか、非常に不愉快なものでしたね。
・・・とのことだ。

しかし、これは、どんなもんかな〜と思う。細かいところまで読めてない人が、全体像を把握出来るとは思えない。一生懸命やったのなら、いろいろ違っててもいいわけではない。お人柄が素晴らしかったなら、そのお仕事がおかしくてもいいわけでもない。

トールキンは、決定稿になるまで何度も何度も書き直し、一言一句おろそかにはしなかった。ひとつも無駄なことは書いていない。文から文へ、段落から段落への流れも、よくよく計算されている。それを訳すのに、「文章のどこどこの部分をおさえて完璧に正確に訳していくなんてことを考えるよりも」ってのは違うと思う。

どこどこの部分っていうか、全部ちゃんとおさえてからでないと、訳文なんて出てこない。
全部おさえて英語ではわかっても、日本語がなかなか出てこなかったりもする。
英語で入力したのを日本語で出力するにおいて、入力が出来てもなかなか出てこないというのに、入力が出来てなければ、ちゃんと変換されて出てこないのは当たり前ではないか。

「ある人がのめりこんでやっている仕事を批評するからには、少なくともそのやってる人と一緒に、その世界に向きあうことが最低限のモラルだと」するならば、それこそ、トールキンがのめりこんで書き上げたものを、ちゃんと理解してから日本語にするのがモラルなのではないのだろうか。

菅原さんは、トールキンの伝記を訳していて、トールキンがどういう人だったのか理解が深いはずなのにな。大まかな訳し方でいいわけがないのに。

「欠陥翻訳時評」では、初めの部分のことを少し書いてあるだけで、その範囲にもまだ他にもあるし、その範囲外にも変なとこは多々ある。重箱の隅とか言っていられるような問題でもない。

お世話になった大好きな大切な人が批判されたのは、たしかに頭にくるだろう。でも、それを逆に攻撃するのでは、問題は終わらない。言われても仕方のない内容だから、言われたのだ。

この対談は、「そういう世界とはおよそ無縁の輩」である別宮先生とは違い、そういう世界の人のものらしい。そんなら、相手を「品性下劣」とか言わないでほしい。瀬田さんなら、そんな言い方はなさらなかっただろう。
それに、何とかの輩という言い回しは、よくない人たち、性質のワルそうな人たちを指す表現だ。うっかり使うもんじゃない。

でも、この対談の相手をしている斎藤惇夫さんはグリックやガンバの著者で、あの本は好きだから許してあげる。(^^) ガンバ、好きさ。グリックや、のんのんも。





別宮先生はお忙しいんだろうし、いちいち原書と全部付き合わせて調べて、「欠陥翻訳時評」を書いてたんじゃないらしい。訳文を読んで、わからないところは大抵間違いである、ということなのだ。
和訳でわからないところがたーくさんある本にぶつかると、原書と比べてみて、あーやっぱり、あっちもこっちもおかしいではないか!となる。
書いていて、文脈がおかしいのに、書いた本人は何とも思わず、そして編集側も何とも思わず、どーしてそのまんま本にするのかっ!!!と別宮先生はお怒りになる。たしかに。
訳した結果、文脈がおかしい部分、論理的におかしい部分があるということは、書いた本人が、話がわかってないということになるではないかっっ!ってことだ。

で、そういうのを並べて、「欠陥翻訳時評」が出来上がる。

そういう気づき方をして書いているから、この記事で取り上げている範囲には、他にも間違いはあるんだけど、別宮先生は記事に書いていない。気がつかなかったのかもしれない。瀬田さんの訳文が自然で、原文を見ない限り、誤訳とはわからないから。

前ページの岩波版の話の中で挙げた、1ページ目の誤訳も、別宮先生は書いていない。あれは、訳文だけでは気がつかないだろう。

しかし、原文と比べずとも、「?」と思うところもある。そういうところは、即座にベックの標的となる。

そして、「欠陥翻訳時評」に載ってしまった。

あれが原書房の山本訳ホビットなら、「欠陥翻訳時評」の対象にはならなかっただろうな。山本訳は、評判はすこぶる悪いし、僕チンとか何だとか、気に入らないところがたくさんあっても、誤訳はそんなにはないからね。あれま〜、ってときがたまにあるけど、そんなにそこら中にはない。
ただあれは、誤訳という点では記事にはならないにしても、やはり日本語としては感心しない部分がチラチラとある。ナンタルチアなんて、別宮先生は褒めはしないに決まっている。


瀬田ファンは、別宮貞徳はとんでもない奴だ、あの記事は、あの本は、悪意に満ち満ちている!と思いがちみたいだけど、でも別宮先生はそんなに言われるほど悪い人じゃないと思うよ。会ったことないけどさ。

ガンダルフだって、よく爆発して怒るじゃないか。あれとおんなじさ。

標的になったのは何もホビットだけじゃない。もっと激しく非難されてる本もたくさんある。ホビットの冒険はそのたくさんの的の1つであって、何も瀬田さんが憎くてあれを書いたわけじゃない。

別宮先生は、元々ああいう論調なんだよ。バシバシ言う人ってねぇ、裏表がないんだから、ほんとはいい人なんだと思うよ。大体、ああして公に出している本でああいう書き方してるってことは、自分がいい人に見られるようになんて、全く考えてないんだから。
それより、馬鹿丁寧で、すごく穏やかそうな人ほど、あぶない。丁寧な物言いをして、相手を持ち上げて自分はへりくだったことを言うくせに、実はとんでもなく性格悪かったりする。グワはそういう人の方がキライです。

上でも書いたけど、あの程度で済んだんだから、ラッキーと思った方がいい。
ほんとに、そう思う。ラッキーすぎるくらいだ。

別宮先生は、違うったら、違う!!って気持ちが強いだけさ。
自分の関わってる翻訳業界を少しでも良くしたいから、「欠陥翻訳時評」は続いたんだし、かつ、好評だったから、続いたわけだ。
それだけ、世の中、ひどい本は多くて、それで頭にきてる人が多いのさ。それを代弁してくれるのが別宮先生なのだ。

とやーっ!!と斬られたら、すいませんと謝って、自分で勉強し直すか、指導を請いに行けばいい。
ほれ、ここもここも違うでしょう、アンタ分かんないまま訳したでしょう、ってガミガミ言われてもさ、教えてくれてるんだから感謝しないとね。重刷が出るときに直せばいいんだもん。

ただし瀬田さんは、「欠陥翻訳時評」に取り上げられたときには既にご病気だったらしい。どうしようもなかったんだよね。あれを読んで、ひどく落ち込んでいたらしい。どっかの鷲みたいに性格が悪くなかったんだろう。優しい人だったんだろうね。だからファンが多いのだな。

ホビットの冒険は、もう瀬田さんはいないから、あれはあれで確定だ。仕方ない。没後に改訂版が出たにしろ、あの内容では、もし今後、また直しが入ることがあったとしてもあまり期待は出来ない。それにあまり直しても、それは瀬田訳ではなくなるし。っていうか、もう既にあれは厳密には瀬田訳ではない。それくらい、たくさんたくさん書き換えられている。

瀬田訳ホビットは、読者が多い。あれは誤訳が多いよな、っていうのは、知ってる人は知っている。でもあまり声を大にしては言わない。みんな慎ましい。
それを、声を大にして言ったのが別宮先生だった。裏表がなさすぎて、オブラートに包むこともなく、ガーーッッと。

そして瀬田ファンを敵に回したわけだ。たいへんだ。(^^;;)

でもねぇ、言ってもらって、よかったんだと思うよ。

だから、瀬田ファンの皆さん、あぁここは違うんだね、教えてもらってよかったね、くらいの気持ちで、あまり別宮先生を目の敵にしないようにしてあげてください。

「子供向きのととのった文章で書かれているのは有難い」って書いてくれてるんだしね。それは本当のことだもんね。

トールキンの書いたものとは、テイストは違うものにはなっているのだけれど、これだけ慕う人たちが多い瀬田貞二という人の訳書は、それだけ魅力があるのだ。それはすごいことだと思う。ひとつの大きな才能だ。

グワイヒアだって、これからも瀬田訳ホビットを時々読み返すだろう。瀬田さんのホビットは、優しい世界だから。



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