On Fairy-Stories


トールキンのエッセイです。

トールキンのファンタジーの世界、すなわち現実の世界とは違う、わたしたちの心に広がる無限の可能性を秘めた第二の世界に対する考え方が綴られています。
講演のために書かれたものに加筆した論文です。
イギリスでは「ニグルの木の葉」と合わせて出版されました。日本では、「ニグルの木の葉」はトールキン小品集にも収められていますが、評論社刊ではこの「妖精物語について」にも入っています。

妖精物語とは一体何なのか。トールキンの言う sub-creator による Secondary World 、その素晴らしい例がシルマリルであり、ホビットであり、指輪なのです。
このエッセイは、トールキンの作品群、トールキンの世界、トールキンの文学観をより理解し、より感じ取るのに必読です。

トールキンワールドのみならず、世の文学、神話、お話と呼ばれるものの意義というものを教えてくれます。
そんなに長いものではないけれど、この本の中には無限とも言える智慧が詰まっています。
空がカラリと晴れるように、そして日の光で全てが鮮やかに輝いて見えるように、人間というものの感動する力、創造する力、心躍らせ喜びを感じる力を再認識出来るのです。
溢れる情報と物質的豊かさの中で、ともすればマヒしてしまいがちな我々の心を生き生きと蘇らせてくれます。
さらっと読める本ではありません。少しずつじっくり読んで、よく噛んで、よく消化して自分の力に出来るといいな・・・と思います。

ファンタジー文学というものが確立されていなかった当時、評論家の間でホビットや指輪の物語は文学界の中ではどう位置づけられるべきか、どう認めるべきかが定まっていなかった中で、トールキンが淡々と自らの考え方を語っています。
ファンタジーには逃避という面もあるということをトールキンは言っていますが、その逃避とは、マイナスのイメージで語っているのではありません。世の中、逃避=よくないこと、という図式が成り立っているけれど、トールキンはファンタジーを逃避文学として非難する人々に、この言葉の誤用を説いています。

トールキンの遺してくれたこのエッセイは、何度も丁寧に読むほどに心に残ります。


現在日本語訳は猪熊葉子さんのものと杉山洋子さんのが出ています。
猪熊訳は以前福音館から出ていて絶版になってましたが、評論社から復刊されました。
 
このエッセイの和訳が2種類あるというのは素晴らしい。両方買って読み比べると面白いよ。訳者によって全然違うからね。
cover


妖精物語の国へ

ちくま文庫
杉山洋子 訳
¥950


妖精物語について
ファンタジーの世界


評論社
猪熊葉子 訳
¥1,800
訳が上手く、読みやすいです。意味がわからなくて戻って読むということがありません。すらすら読めます。
文庫は持ち歩きに便利だからいいけど、もう少し立派な装丁で出して欲しかった気もするな。


内容は、
妖精物語について
・神話を創る
・ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還
以前の福音館の本と同じ大きさで、ちゃんとハードカヴァーなのが嬉しい。字も読みやすくなりました。
変わったのは、前はですます調だったのが、評論社刊では、だ、である調になったこと。これでガラッと雰囲気が変わりました。以前はとても柔らかでしたが、今度はストレートな語り口になっています。
やや冗長な感があった部分は訳し直されてわかりやすくなりました。

内容は、
妖精物語とは何か
・ニグルの木の葉
・神話の創造
太字にした妖精物語について妖精物語とは何かが、同じ内容。ややこしいな・・・
で、他の作品がついてるのがそれぞれ違う、ってことです。ニグルの木の葉はいいですよ〜 小品だけど、トールキンを語るには外せないお話です。
他のは全部、詩です。トールキンファンは必読。

じゃ、ちょっと比べてみよう。
杉山訳 原文 猪熊訳
この頃、妖精物語はふつう子どものために、書かれたり、再話されたりしている。子どものための音楽、詩、小説、歴史や科学の本も作られている。これは必要なことかもしれないが、危険な成りゆきだ。だが芸術や科学は子ども部屋用に作りかえたりしないから、全体として害を免れている。芸術や科学はおとなのものだから、おとなが勝手に(まるで見当違いのことが多いけれども)子ども向きだと判断したものだけを、子ども部屋とか教室でちょっと味わったり見たりさせてくれるのだ。
 〜中略〜
妖精物語も子ども用に格下げされたままおとなのゆたかな芸術から切り離されたままにしておくと、しまいにだめになってしまう。ほんとうに、ほったらかされていた分だけもう衰えてしまっているのである。
It is true that in recent times fairy-stories have usually been written or "adapted" for children. But so may music be, or verse, or novels, or history, or scientific manuals. It is a dangerous process, even when it is necessary. It is indeed only saved from desaster by the fact that the arts and sciences are not as a whole relegated to the nursery; the nursery and schoolroom are merely given such tastes and glimpses of the adult thing as seem fit for them in adult opinion (often much mistaken).
 〜中略〜
Fairy-stories banished in this way, cut off from a full adult art, would in the end be ruined; indeed in so far as they have been so banished, they have been ruined.
近代では妖精物語が、ふつうは子どものために書かれ、あるいは「再話」されてきた、というのは本当だ。しかし、同じようなことは、音楽、詩、小説、歴史、科学の手引書に至るまで、可能である。それは必要な場合であってさえも、危険なことである。そのようなやり方でもめちゃめちゃにならないでいられるのは、芸術や科学が、丸ごと子ども部屋に格下げされていないからである。子ども部屋だの、教室だのは、大人の所有物のなかから(しばしばひどく間違っているのだが)子どもに適していると大人の意見で考えられるものを、味わわせてもらったり、のぞき見させてもらっているに過ぎない。
 〜中略〜
妖精物語はこのようにして追放され、大人の成熟した芸術から切りはなされてしまった。そしてしまいには、滅びてしまうだろう。全くのところ、そうやって、これまでに追放されてしまったものは滅びてしまったのである。
もう一度緑を見るのだ。青と黄色と赤を見て(目が眩んでは困るが)はっと驚くのだ。ケンタウロスや竜に会うのだ。すると、突然、羊や犬や馬、それに狼も、かつて古代の羊飼いたちの目が見たままの姿に見えるであろう。年古りた妖精物語は、これとおなじような回復をわたしたちに与えてくれるのである。 We should look at green again, and be startled anew (but not blinded) by blue and yellow and red. We should meet the centaur and the dragon, and then perhaps suddenly behold, like the ancient shepherds, sheep, and dogs, and horses── and wolves. This recovery fairy-stories help us to make. 我々は再び緑を見るべきである。そして、新たに青と黄と赤とに目をみはるべきなのだ(しかし、それによって目をくらまされるのではない)。我々はケンタウロスや竜に出会うべきなのである。そうすればおそらく、突如として、昔の羊飼いたちのように、羊や犬や馬などに──そしてオオカミに目が開かれることだろう。我々を助けて、このような回復を可能にするのが、妖精物語なのである。

こうして見ると、杉山訳の方が分かりやすいです。猪熊訳は誤訳ではないところも、文の流れがおかしくなっていたりする・・・かな。上の例の1も前後続けて読むと主語が行方不明に感じるところもある。(そのようなやり方でも〜の文)  でも、何にしても、猪熊さんが初めてこのエッセイを日本に紹介したという業績は大きいです。

杉山訳はクリアで気持ちのよい大胆さが持ち味って感じ。猪熊訳はそのまま地道に、って感じ。

上の例文について言うと、1は全くその通り!ほんとにさぁ、子どものための何とか、って、子どもにとってつまんないのが多い。グワは子どもの頃、そういうのが面白くなかった。今でもそう。 こどものための何とか、ってやつね。普通のがいいのに、おこちゃま向けにしなくていいのに、そういう類のものは多い。ああいうのは上段に構えた大人の勝手のように感じる。大人が面白くないものが子どもに面白いわけがない。 
知り合いの子が、親と子のわくわくコンサートなるものに行った話をしてくれて、曰く、「普通のオーケストラのコンサートだと思って楽しみにしてたのに、お姉さんが出てきて思いっきり幼稚園向けみたいな喋り方で司会をして、なんか全然つまんなかった」とのこと。気持ち、わかる。
妖精物語だって、おこちゃま向けとして子どもを格下に見て書いたものは大したことないに決まっている。

2の部分を読むと、普段いかに何かを感じるのに麻痺しているかがわかります・・・・・ 世界が鮮やかに見えなくなってるのかもしれません。 反省。
雨音に聞き入ってその美しさに浸ったり、飛んでいく渡り鳥を見上げて自分の足で歩くにはあまりに広い世界を感じたり、そんなアラゴルンたち野伏の日常を当たり前に取り巻いていたはずのことに、我々はマヒしてしまってはいないだろうか・・・・・ 
お花屋さんに行くと色とりどりの花が溢れていて、デパートやレストランにもたくさん飾ってある。何だかそういうことに慣れてしまっているかもしれない。シャイアやイシリアンに咲いているような、ちょっとした小さな花々に歓声を上げる気持ちを我々はいつも持っているだろうか。

現代のミドルアースも充分に鮮やかで美しいはずなのに。


さ、この本読んで、少し回復してみませんか?




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