ガラドリエルがテストにパスしたのは、エアレンディルが空にいたことも関係あったのかもしれない。トールキンはそのつもりだったのかもしれない。

メネルマカールもヴァラキアカも、ちらっと話に織り込まれているだけで、何度も何度も出てこない。
エアレンディルも何度も何度も登場しない。

安っぽい小説なら、エアレンディルさんは、しょっちゅう出てくるだろう。
たとえば、

辛い気持ちでフロドが空を見上げると、そこにはエアレンディルの光があった。
メリーは、エアレンディルを見ながら、遠いモルドールにいるはずのフロドとサムのことを思った。
馬を進めていたアラゴルンは、西の空にエアレンディルを見、ゴンドールへの想いを新たにした。

もう、いくらでも使える。でもトールキンはそんなに大安売りはしない。

トールキンは必要なところに必要なものしか書かない。
何度も書き直しをするうちに、要らないものはカットされ、会話は整理され、必要なものは追加され、流れが整えられる。

このロリアンのシーンには、エアレンディルが必要だったのだ。なくてもよければ、いちいち書かなかったはずだ。

水鏡で不確定な未来を垣間見、不安にかられるホビット2人。ネンヤの持ち主が明らかになる。指輪関係のことが徐々に明らかになる。フロドはガラドリエルにサウロンの指輪を渡すと言い出す。

ここは、ノロリムノロリムアスファロスの追っかけっこシーンより危険だったかもしれない。あの時もナズグルが迫っていて、アスファロスがいなければ指輪物語は文字通り一巻の終わりだった。一巻で終わり。日本の文庫なら二巻で終わり。裂け谷に着く直前までで「完」になってしまう。

ロリアンまで辿り着き、ガラさまが「あら、ありがと」って指輪を取って、恐ろしき女王になってしまったら、ええと、日本の文庫だと四巻の終わり。いや、終わらないかな。恐ろしきガラ女王の話にシフトすることになる。こわいこわい。

その昔、ひとつの指輪や3つの指輪が出来た頃のことをガラドリエルは知っている。指輪の事情をよく知っている。ひとつの指輪に手を出してはいけないことを誰よりもよく知っている。
当時のことを覚えているのはエルロンドも同じだけれど、エルロンドは離れたところにいたから、現場近くで過ごしていたガラドリエルとはまた違う。
フロドの時代、第2紀の指輪事情を一番よく知っているのは、ガラさまなのだ。

ガンダルフはフロドに指輪を差し出されても頭から拒否した。ガラさまとはちょっと態度が違う。ガンダルフは、サウロンの指輪が出来た頃はまだミドルアースに来ていない。サウロンの指輪を持っちゃいけませんというのはわかっていても、ガラさまの理解の仕方とはちょっと違う。

ガラドリエルは知識としてではなく、肌で知っているのだ。サウロンの指輪の怖ろしさを。そして指輪の魅力を。
第2紀、エルフたちは騙され、多くの者が殺され、3つの指輪は隠された。

ここら辺の事情を知らない人は、シルマリル本と終わらざりし物語を読めばいいのですが、手っ取り早くちょっとだけ覗いて取りあえず済ませるには、こちらのアウレさん以降をざざっと読んでください。少しでもわかると、ガラさまがフロドの持つ指輪を前にした時、どれほどの衝撃だったか、しみじみ、ふかぶか、しんしんと感じられます。

第3紀末の指輪戦争は、最終的な決着ということで重大で、そして多大な損害もあったのだけれど、昔のあの頃の長い戦いと比べたら、それほど大変でもない。すぐ終わっちゃうしね。まぁ、長年の諸々のことの決着がやっとついた、という戦争だったから、一番重要ではある。

そしてガラドリエルは、指輪にはやっぱり手は出さない。あの時の、サウロンの指輪が目の前にある。これは、ガラドリエルにとって、感慨深いどころの騒ぎではなかったはずなのだ。
ずーっとずーっと大昔の、五千年近くも前の、あの頃のこと。その成り行きの中心ともなった小さい物体が、フロドの手にある。

そして、空にはエアレンディルがいて、シルマリルの光がガラドリエルを照らす。
シルマリルは、サウロンの指輪なんかより、もっともっと古い。
遥か海の彼方のヴァリノールで、ノルドールのひとりだったフェアノールが作ったシルマリル。
サウロンが台頭するよりずっと昔、サウロンとはケタ違いに大きな敵だったモルゴスの冠についてたこともあるシルマリル。
指輪をオロドルインに投げ込む大変さの100倍も、1000倍も、いやもっと大変だったいろんな成り行きと悲しみと長い長い戦いの末、やっと取り戻した中で、ただひとつ残された、貴重なシルマリル。

あの第1紀の大戦争のゴタゴタの中、地上で生きるのではなく空を航行することを選んだエアレンディルは、第2紀も、第3紀も空にいて、ミドルアースをシルマリルで照らし続ける。

エアレンディルは、サウロンが指輪を作ったのも、エレギオンの荒廃も、ガラドリエルがネンヤを預かったのも、サウロンの指輪が回り回ってフロドに行き着いたのも、みんな空から見てたんだろう。

ロリアンで、ちびのホビットが指輪をガラドリエルに差し出す。エアレンディルさんは、そうなりそなのをわかってて、ホビットとエルフの女王を照らしていたのかもしれない。ヴァリノールの、もう今は枯れてしまった二本の木の光が入っているシルマリルで。

二本の木は、シルマリルだけじゃなくて、太陽にも月にも生きている。太陽はラウレリンの実、月はテルペリオンの花だから。

太陽、月、そして金星。 二本の木は、今も世の中を照らしている。二本の木に照らされながら地上の命は続いてゆく。

二本の木の力、それはこの上もなく純粋な、高貴な、喜びに満ちたもので、この世の全ての生き物に大きな力を与えるものだ。

正しく続きますように。おかしな方向に行きませんように。

それが20世紀の、21世紀の空にもあって、我々を照らしているのだよ、ということがトールキンワールドの神話の核となっている。


だから、エアレンディルがあのシーンに描かれただけで、あの場の空間が変わる。ヴァリノールの力が与えられる。

ガラさまは影が地に落ちるほどに、はっきりと照らされた。ネンヤもキラキラした。その状況で、ちゃちなサウロンの指輪が出てきても、そっちになびくわけがないのだ。

ガラドリエルは指輪を前にして、光り輝き、大きくなったかのように見え、耐え難いほどに美しく、うわわわわ!って感じにはなったけれど、ガラさま本人は、ちょっとそうなってみたかっただけなんだろう。試しに「こんな感じ♪」ってやってみたけど、恐ろしい女王になる気はさらさらなく、それが証拠にケラケラっと笑う。ケラケラじゃないか。ホホホかな。ウフフ、かな。ガハハではないだろな。

笑って、I pass the test.って言いつつも、ガラさまは悲しそうだった。あの「sad」の文字には、いろんな気持ちが入っているのだろうな。指輪を取れないのが悲しいんじゃなくて、物凄い女王になれないのが悲しいんじゃなくて、長い時代を知っている者の、言葉に出来ない気持ちがあったんだろう。

映画じゃあ、エアレンディルカットで、清浄な光で辺りが満たされることはなく、だからガラさまはあんなに、わけもなく、メラメラゴゴゴと、おっかなくなってしまったのだな。何とか指輪に手は出さずに済んだけど、どうも原作とは意味合いが変わってしまった。おっかないのが収まったときも、ぜいぜいはぁはぁで、原作のガラさまの器の大きさとはちょっと違った。

エアレンディルの光が届かないところでもその加護があるように、フロドは瓶を貰う。二本の木の光が入った瓶。映画のシーロブちゃんはそれを蹴っ飛ばしたのだ!!なんちゅーことを!! それでまた、その蹴っ飛ばす音が安っぽかった。映画はどうもそういう根源的なところがいい加減だったよなぁ。

ということで、エアレンディルさんは、ガラドリエルのシーンをよりカッコよくするために駆り出されて、かつ、親戚の円滑なる関係のために高く昇ったわけではなく (それもあるでしょうが)、ヴァリノールの光で辺りを照らし、ホビットとエルフの女王を包み、さりげなく彼らの力となるように見守っていたのかもしれない・・・というお話でした。

というのを押さえた上で、ガラドリエルの鏡の章、もう一度読み返してみてね。

ガラさまの指輪はネンヤ。そしてこのシーンは2月で、2月はネーニメという。
どちらもnenというのが入ってて、どちらも「水」を表す。

トールキンは、書きながらこのことも頭にあったのかもしれない。

そして、フロドが覗くのは水鏡。

水鏡のシーン、原作は、素晴らしく美しい。


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