坂之御尾と黄泉比良坂
緒言
古事記の神話においては、大国主神を主人公とした一連の物語がある。
その中で、大国主神は、稲羽素兎と出会ってその窮状を救い、八十神(庶兄弟)に迫害されて「根堅州国」へ往き、須佐之男命が課す試練に耐えた後、「葦原中国」へと戻ってくる。
その「根堅州国」から逃げ出す場面、「黄泉比良坂」まで追い掛けてきた須佐之男命は、大国主神へ向って、次のように呼びかけている。(訳文は、日本古典文学大系本による。また、括弧書きはルビ。ただし、音注なども含めて、適宜、省略してある。以下同じ。)
其の汝が持てる生大刀・生弓矢を以ちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、亦河の瀨い追ひ撥(はら)ひて、意禮(おれ)大國主神と爲り、亦宇都志國玉神と爲りて、其の我が女須世理毘賣を嫡妻と爲て、宇迦能(うかの)山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理(ふとしり)、高天の原に氷椽(ひぎ)多迦斯理(たかしり)て居れ。是の奴。
この言葉を受けて、大国主神は、「葦原中国」の国主(支配者)となる。
古事記においては、ごく簡単に、
其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追ひ避(さ)くる時に、坂の御尾毎に追ひ伏せ、河の瀨毎に追ひ撥ひて、始めて國を作りたまひき。
と記すのみであるが、その後、天孫に「国譲り」をすることからして、国主となったことは確かであろう。
それはともかく、この場面に出てくる「坂之御尾」とは、どのような場所であったのか。
例えば、本居宣長『古事記伝』十之巻では、
○坂之御尾は、山の坂路の前の、長く延(ヒキ)はへたる處を云なるべし、御(ミ)は眞(マ)に同じ、
○河之瀨、坂に御尾といひ、河に瀨と云るは、たゞ詞の文(アヤ)にて、實はたゞ坂と河なり、さてその坂も河も、又詞の文にて、實はたゞ道の行手に、【山といはで坂といひ、又河にも瀨と云は、みな道路に就て云なり、瀨は渡瀨なり、】此處(ココ)にても、彼處(カシコ)にても、と云ことなるを、如此(カク)言なせるは、古文の麗美(ウルハシ)きさまなり、又坂に伏と云、河に撥と云も、言をかへて文をなせるものぞ、
と解している。
この時点では、「坂之御尾」について、坂の裾をイメージしていたようである。
ところが、四十二之巻になると、雄略記(葛城山/一言主神)の「其の向へる山の尾より、山の上に登る人有りき。」に註して、
○山尾、凡て山に袁(ヲ)と云るに二ツあり、一ツには高き處を云、上巻に、谿八谷、峽八尾【これ谷に對へて云へれば、峽(ヲ)は高處なることを知べし、古書に、高處を云袁に多く峽字を用ひたり、山間を云意には非ず、尾は借字なり、さて此峽八尾の袁を書紀には、丘と書れたり、此字も、袁と云に多く用ひたり、】高山尾上、坂之御尾【此尾の事、傳十巻に云るは違へり、中巻水垣宮段に、坂之御尾神とあるは、必ず坂の上に坐神と聞えたればなり、】萬葉に、向峯(ムカツヲ)八峯(ヤツヲ)、峯之上(ヲノウヘ)【峯字を書るは、高處なるを以てなり、然れども、袁は必しも峯には限らず、袁能閇(ヲノヘ)といへば峯のことと思ふは、くはしからず、】など、
又岡の袁、【袁加は、高處を袁と云に、加を添たる名にて、加は、すみか、ありかなどの加と同く、處と云意なり、坂の加も同じ、されば丘字など、袁にも袁加にも通ハシ用ひたり、萬葉七に、向岡(ムカツヲ)とも書り、】これら皆高き處を指て云るなり、【尾と書るは、みな借字なり、】さて今一ツは尾頭(ヲカシラ)の尾にて、鳥獸などの尾も同く、山の裔(スソ)の引延(ヒキハヘ)たる處を云り、【山には腹とも足とも常に云、記中に御富登(ミホト)などもある類にて、尾とも云なり、】此(ココ)は其なり、山上に對へて云るにて知べし、中巻白檮原宮段に、畝火山之北方白檮尾上、また古今集【春上】歌に、山櫻わが見に來れば春霞峯にも尾にも立かくしつゝ、これらは尾なり、【然るにかの高處を云袁にも多く尾字を借て書るから、右の二ツまぎらはしくして詳(サダカ)ならざるが如し、よく/\辨ふべし、】
と述べている。
ここでは、「傳十巻に云るは違へり」とあるように、坂の裾の意と解したのは間違いで、坂の上と解すべきであるとしている。
本居宣長は、このように考え直したのであるが、果たして、いかがであろうか。
日本古典文学大系『古事記』などの諸書を見る限り、元の“坂の裾”とする説の方が一般的なようである。
そもそも、「尾」とは、どのような場所を指しているのか。
この点から考え始めてみることにしたい。
第一節 尾と山尾
記紀の中から、「尾」に言及のある文章を抜き出してみると、次のようになるであろう。(但し、古事記上巻の「坂之御尾」については、既出のため省略した。)
○古事記 上巻/須佐之男命の大蛇退治(八俣遠呂智の形状)
彼の目は赤加賀智(あかかがち)の如くして、身一つに八頭八尾有り。亦其の身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ、其の長(たけ)は谿(たに)八谷(やたに)峽(を)八尾(やを)に度(わた)りて、其の腹を見れば、悉に常に血爛(ただ)れつ。
○日本書紀 神代上/第八段本文(八岐大蛇の形状)
頭尾各八岐(また)有り。眼は赤酸醤(あかかがち)の如し。松柏、背上(そびら)に生ひて、八丘(やを)八谷の間に蔓延(はひわた)れり。
○古事記 上巻/大国主神(稲羽の素兎)
是に氣多の前(さき)に到りし時、裸の菟(うさぎ)伏せりき。爾に八十神、其の菟に謂ひしく、「汝爲(せ)むは、此の海鹽を浴(あ)み、風の吹くに當りて、高山の尾の上に伏せれ。」といひき。
○日本書紀 神代下/第九段一書第一(天稚彦の葬儀)
時に、味耜高彦根神、光儀華艶(よそひうるは)しくして、二丘(を)二谷の間に映(てりわた)る。・・・或いは云はく、味耜高彦根神の妹下照媛、衆人をして丘谷に映(てりかかや)く者は、是味耜高彦根神なりといふことを知らしめむと欲(おも)ふ。
○日本書紀 神代下/第九段本文(天孫降臨)
既にして皇孫の遊行す状は、槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋より、浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空(むな)國を、頓丘(ひたを)から國覓(ま)ぎ行去(とほ)りて、頓丘、此をば毘陀烏と云ふ。・・・吾田の長屋の笠狹碕(かささのみさき)に到ります。
○日本書紀 神代下/第九段一書第四(天孫降臨)
時に、大伴連の遠祖天忍日命、來目部の遠祖天槵津大來目を帥(ひき)ゐて、・・・天孫の前に立ちて、遊行き降來りて、日向の襲の高千穗の槵日の二上峯の天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たして、膂宍の空國を、頓丘(ひたを)から國覓ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狹の御碕に到ります。
○古事記 神武天皇段(御陵)
凡そ此の神倭伊波禮毘古天皇の御年、壹佰參拾漆歲。御陵は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上に在り。
○古事記 崇神天皇段(神々の祭祀)
又宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、又大坂神に黑色の楯矛を祭り、又坂の御尾の神及(また)河の瀨の神に、悉に遺(のこ)し忘るること無く幣帛を奉りたまひき。
○古事記 允恭天皇段(軽太子と衣通王)
(歌謡・原文)
許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮
(歌謡・訳文)
隱り國の 泊瀨の山の 大峽には 幡張り立て さ小峡には 幡張り立て 大峽にし なかさだめる 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ
○古事記 雄略天皇段(葛城山)
(歌謡・原文)
夜須美斯志 和賀意富岐美能 阿蘇婆志斯 志斯能夜美斯志能 宇多岐加斯古美 和賀爾宜能煩理斯 阿理袁能 波理能紀能延陀
(歌謡・訳文)
やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の病猪の 唸き畏み 我が逃げ登りし 在丘の 榛の木の枝
○日本書紀 雄略天皇五年二月条(葛城山)
(歌謡・原文)
野須瀰斯志、倭我飫裒枳瀰能、阿蘇麼斯志、斯斯能、宇拕枳舸斯固瀰、倭我尼■能裒利志、阿理嗚能宇倍能、婆利我曳陀、阿西嗚。
■=旦+寸
(歌謡・訳文)
やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 怒聲畏み 我が逃げ縁りし 在丘の上の 榛が枝 あせを
○古事記 雄略天皇段(葛城山/一言主神)
又一時、天皇葛城山に登り幸でましし時、百官の人等、悉に紅き紐著けし青摺の衣服を給はりき。彼(そ)の時其の向へる山の尾より、山の上に登る人有りき。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、亦其の裝束の狀、及(また)人衆(ひとかず)、相似て傾(かたよ)らざりき。
○古事記 清寧天皇段(二王子発見)
物部の、我が夫子(せこ)の、取り佩ける、大刀の手上(たがみ)に、丹畫き著け、其の緖は、赤幡を載(かざ)り、立てし赤幡、見れば五十隱(いかく)る、山の三尾の、竹を訶岐(かき)苅り、末押し縻(なび)かす魚簀(なす)、八絃(やつを)の琴を調(ととの)ふる如(ごと)、天の下治め賜ひし、伊邪本和氣の、天皇の御子、市邊の、押齒王の、奴末(やつこすゑ)。
なお、下記用例の後半にある「大津渟中倉之長峽」の「長峽」については、地形のようでもあり、地名のようでもある。
○日本書紀 神功皇后摂政元年二月条(神の託宣)
亦稚日女尊、誨(をし)へまつりて曰(のたま)はく、「吾は活田長峽國(いくたのながをのくに)に居(を)らむとす」とのたまふ。・・・亦表筒男・中筒男・底筒男、三(みはしら)の神、誨へまつりて曰はく、「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峽に居(ま)さしむべし。便ち因りて往來(ゆきかよ)ふ船を看(みそなは)さむ」とのたまふ。
さらに、前半の「活田長峽國」となると、地名の一部であるように思われ、類例としては、懿徳紀二年正月(五日)条の「曲峽宮(まがりをのみや)」、景行紀十二年九月(五日)条の「長峽県(ながをのあがた)」、神功摂政前紀(仲哀九年)三月(十七日)条の「松峽宮(まつをのみや)」などがある。
これらの地名についても、その淵源を尋ねると、土地の形状に行き着くようにも思われるが、用字を変えて、「尾」や「丘」などの付く地名を探し始めると切りがないので、これ以上は、追及しないでおく。→補注1
また、歌謡の場合は、原文で「袁」または「嗚」の文字が使用されているが、訳文では、歌意を推考して、「峽」や「丘」の字が当てられている。
この「峽」や「丘」は、八岐大蛇の例などを見ても、谷と対比される地形であり、広く、山や丘などの高地一般を「ヲ」と言う場合があったようである。
ちなみに、風土記にも、
○常陸風土記(総説)
・・・郡郷の境界、山河(やまかは)の峯谷(をたに)に相續けば、・・・
○播磨風土記(宍禾郡)
伊和の大神、國作り堅め了(を)へましし以後(のち)、山川谷尾(やまかはたにを)を堺ひに、巡り行(い)でましし時、・・・
といった用例が見られる。(風土記の場合は、特に、境界線が引かれる場所として山や河が意識され、それと同じ意味合いで、尾・谷を重ねているように見える。)
※ 万葉集にも、「ヲ」に、「峯」・「岳」・「丘」等の字が当てられている例があることは、『古事記伝』四十二之巻の言うとおりである。
※
「峽」については、一般に、山と山の間の地形という意味で使われているが、記紀では、谷を挟む両側の山、さらには、広く、山や丘などを指しているようであ
る。(日本古典文学大系『古事記』允恭天皇段の頭注に、「ヲ(峽)は水を挟んだ山の意であるが、丘、峯をも意味する。」とある。)
その一方で、「山尾」などと言っている場合は、「山」の中の一部の地形を表現していることになろう。(「坂之御尾」の場合も「坂」の一部であろう。)
この“狭義”の「尾」について考えてみると、今の言葉で言えば、「尾根筋」が近い言葉であるように思わる。
ごく概念的に、円錐形の山の斜面を想定して、風雨により侵食を受けた場合を考えてみよう。
山頂から山裾にかけて、斜面が侵食されると、そこに谷筋が形成されるはずである。
その谷筋と谷筋に挟まれて、比較的高くなった地形が尾根筋ということになろう。
視点を変えて言えば、尾根筋と尾根筋に挟まれて存在するのが谷筋ということにもなる。
つまるところ、尾根筋とは、山頂付近から山裾に至るまで、どこにでもあって、筋状に高くなった地形であり、その両脇には、大概、谷筋が存在することとなる。
上記用例の中でも、「尾」をこのような尾根筋のこととして考えると、説明のしやすくなるものがあると思われる。
例えば、雄略記(葛城山/一言主神)の記事の場合は、谷筋を挟んで向きあう二つの尾根筋のうち、一方の尾根筋を雄略天皇が登り、もう一方の尾根筋を葛城一言主神が登っていたのだとすれば、その状況を容易に理解することができるであろう。
※ 雄略紀(四年二月条)にも、「天皇、葛城山に射獵したまふ。忽に長(たけたか)き人を見る。來りて丹谷(たにかひ)に望(あひのぞ)めり。面貌容儀(かほすがた)天皇に相似(たうば)れり。」とあって、やはり、両者が谷筋を挟んで向かい合ったように解される表現となっている。
このように、「ヲ」には、広狭二義があったものと考えておきたい。
第二節 御尾
ところで、「山三尾」や「坂之御尾」の場合は、「尾」に「ミ」という接頭語が付けられている。
この場合の「ミ」は、単に語調を整えるためのものであったかも知れないが、それ以上に、何かしらの意味が込められていた可能性も大きい。
先ほどの『古事記伝』十之巻では、その意味について、「御(ミ)は眞(マ)に同じ」と説いていた。
これは、すでに、三之巻においてなされていた、
○天之御中主神、御中は眞中と云むが如し、凡て眞と御は本通ふ辭なるを、やゝ後には分けて、御は尊む方、・・・眞は美稱(ホム)ると、甚しく云と、全きこととに用ふ、・・・
という説明を受けたものである。
しかし、昨今では、もう少し違った解釈もなされているようで、小学館『日本国語大辞典』などでは、
み【御・
美・深】〔接頭〕・・・[語誌](1)本来は霊威あるものに対する畏敬を表わした。霊物に属するものだけでなく、霊物そのものにも冠する。「みかみ(御
神)」「みほとけ(御仏)」など。「みき(神酒)」「みち(道)」「みや(宮)」などの「み」も本来はこれである。・・・
という解説がなされている。
このような辞書類の説明に従うと、「御尾」は、霊威を感じさせる、畏敬すべき「尾」ということになろう。
その場所としては、「尾」が山であれば、山頂が思い浮かぶところであり、尾根筋の中では、山頂と山頂とを結ぶ稜線などがその候補となるであろうか。
古代人の山頂に対する感覚を窺わせるものとしては、景行記(小碓命の東伐)に、
・・・伊服岐能(いぶきの)山の神を取りに幸行(い)でましき。是に詔りたまひしく、「茲の山の神は、徒手(むなで)に直に取りてむ。」とのりたまひて、其の山に騰(のぼ)りましし時、白猪山の邊に逢へり。其の大きさ牛の如くなりき。爾に言擧爲(ことあげし)て詔りたまひしく、「是の白猪に化れるは、其の神の使者ぞ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。」とのりたまひて騰り坐しき。
という記事がある。
この文章などは、山裾に現われるのは神の使者であり、神自身は山頂に居るのだという通念があったことを言外に伝えているように思われる。
やはり、山頂は、特別な場所であった。
坂道の場合も、同様に、標高の高い場所、坂の上・峠などが「御尾」ということになろう。
例えば、崇神紀十年九月(二十七日)条には、
復(また)大彦と和珥臣の遠祖彦國葺とを遣して、山背に向(ゆ)きて、埴安彦を擊たしむ。爰に忌瓮(いはひべ)を以て、和珥の武■坂(たけすきのさか)の上に鎭坐(す)う。則ち精兵を率て、進みて那羅山に登りて軍(いくさだち)す。
■=金+喿
とあって、坂の上が祭祀を行うべき霊域となっていたことを窺わせる記事となっている。
もともと、坂道は、尾根筋の中でも歩きやすいところを選んで開かれた場合が多かったと思われる。(逆に、谷筋の場合は、沢や滝などがあって、歩きづらかったはずである。)
その際、坂道と尾根筋は、ほぼ重なり合っていたのであり、峠を越えるということは、多くの場合、稜線を越えるということにもなった。
坂道を登りきった時の達成感、あるいは、視界が開けた時の爽快感など、峠の近辺が人々の感情を揺さぶる場所であったことは間違いあるまい。
その特別な場所に「ミ」という接頭語を付けて呼ぶことは、ごく自然の成り行きであったように感じられる。
当面の結論として、「坂之御尾」とは、坂の上・峠と、ほぼ、同じ意味合いの言葉であったと考えておくことにしたい。→補注2
※ なお、以上のように考えた場合、記紀の「尾」に山裾・麓の意味は見出せないという帰結にもなってしまいそうであるが、この点については、断定を控えておきたいと思う。
※
話のついでに、「山之美富登」という地形についても、一言、触れておきたいと思う。例えば、安寧記には、「天皇の御年、肆玖歳。御陵は畝火山の美富登に在
り。」という一文がある。この「山之美富登」というのは、おそらく、山の尾根筋が二股に分岐するところを言った言葉ではないだろうか。そこは、また、新た
な谷筋が始まるところでもあり、その形状を陰部に例えたものと思われる。
第三節 大国主神の仕業
ところで、大国主神は、「生大刀・生弓矢を以ちて」、八十神(庶兄弟)を「坂の御尾に追ひ伏せ、亦河の瀨に追ひ撥(はら)ひて」、「葦原中国」の国主となったわけであるが、その「坂の御尾に追ひ伏せ」という行為は、いかなる行為であったのか。
その対句として使われている「河の瀨に追ひ撥ひて」とも合わせて考えてみることにしたい。
この「追ひ伏せ、追ひ撥ひ」という語句に対しては、おおむね、追い詰めて屈服させ、追い払った。と理解するのが一般的な解釈であるように思われる。
ただ、山の向こうや河の対岸というのは、そこも、まだ「葦原中国」のうちであり、そこへ八十神を追放しただけでは、「葦原中国」全体の支配権を掌握したことにならないのではないだろうか。
確かに、「追ひ伏せ」の「伏」という字には、服従するという意味もあるが、「追ひ撥ひ」の「撥」の方には、そのような意味を見出せない。
そもそも、八十神は、大国主神を二度までも殺害しているわけであるから、そう簡単に服従したとも思えないのである。(蛇足ながら、大国主神は、「御祖命(母神)」の尽力により、二度とも蘇生している。)
しからば、大国主神は、「生大刀・生弓矢」を使って何をしたのか。
ここで、手掛かりとしたいのは、「河の瀨に追ひ撥ひて」という句である。
その言うところからして思い起こされるのは、祝詞(六月晦大祓)の次のような唱詞であろう。
・・・かく聞しめしては皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方の國には、罪といふ罪はあらじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧・夕べの御霧を朝風・夕風の吹き掃(はら)ふ
事の如く、大津邊に居る大船を、舳解き放ち・艫解き放ちて、大海の原に押し放つ事の如く、彼方の繁木がもとを、燒鎌の敏鎌もちて、うち掃ふ事の如く、遺る
罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を、高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀨に坐す瀨織つひめといふ神、大海の原に持ち出でなむ。かく持
ち出で往(い)なば、荒鹽の鹽の八百道の、八鹽道の鹽の八百會に坐す速開つひめといふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、氣吹戸(いぶきど)に坐す氣吹戸主といふ神、根の國・底の國に氣吹き放ちてむ。かく氣吹き放ちては、根の國・底の國に坐す速すさらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ。
かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官(つかさづかさ)の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、高天の原に耳振り立てて聞く物と馬牽き立てて、今年の六月の晦の日の、夕日の降(くだ)ちの大祓に、祓へたまひ清めたまふ事を、諸(もろもろ)聞しめせ」と宣る。
文中「速川の瀨に坐す瀨織つひめといふ神、大海の原に持ち出でなむ。」とあるが、これは、罪・穢れを川に流すと、海へ運ばれることを神の仕業として述べたものと解される。
その後、罪・穢れは、潮流に呑み込まれ、ついには、「根國・底之國」に放逐され、消え去ることとなっている。
この発想を適用すると、「河の瀨に追ひ撥ひて」というのも、河の瀬に流し去ることを言っているように思われてくる。(辞書類を見ると、漢字の「撥」には、捨てるという意味もある。)
流された八十神は、やがて海へ下り、最終的には「根国」へ往き着くこととなる。
その間、八十神が流されるままだったとすれば、それは、おそらく、殺害されたイメージであろう。
大国主神は、「生大刀・生弓矢」を以って、「八十神」を殺害したのではないだろうか。
先にも触れたように、八十神は、大国主神を二度も殺害していたわけであるから、その報復を受けたとして、何ら不思議のない場面である。
「河之瀨」は、これまで「浅瀬・渡瀬」と解されてきたわけであるが、上記想定の場合には、「早瀬」であって、水量の豊かな場所であろうことが想像されてくるのである。
さて、以上のように考えて良ければ、「坂の御尾に追ひ伏せ」の場合も、坂の上で、八十神を殺害したことになろう。
「伏」という字には、隠すという意味もあるわけであるから、殺害という意味にも繋がらないわけではない。
あるいは、「ふせ」には、当初「仆」の字が当てらてれいたものの、その原義が忘れられ、いつしか「伏」の字に変えられてしまったのかも知れない。
いずれにせよ、「河の瀨に追ひ撥ひて」という句の中に、殺害の意を読み取ることができるのであれば、「坂の御尾に追ひ伏せ」の方にも、同様の意味合いを推定することができるのである。
なお、大国主神の神話の冒頭は、
故、此の大國主神の兄弟、八十神坐しき。然れども皆國は大國主神に避(さ)りき。避りし所以は、・・・
という文言で始まっている。
この「避」という文字は、譲るというほどの意味に解されるところではあるが、伊邪那岐神話において、
故、伊邪那美神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避(かむさ)り坐しき。
という場合の「避」でもあり、死を匂わせるものでもあった。
そうしたところで、「避りし所以」の結末に当る、
其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追ひ避(さ)くる時に、坂の御尾毎に・・・
という文章に戻ってみると、「避」は、単なる排斥ではなく、殺害を含意しているように見えてくるのである。→補注3
してみると、「坂之御尾」で殺害された八十神は、その後、どうなったのか。
河に捨てられた八十神が「根国」へ行き着いたのだとすれば、坂の上で仆された八十神も、やはり、「根国」へ往くこととなったのではないだろうか。
その際、「河之瀨」には、水流があって、八十神を押し流してくれたわけであるが、「坂之御尾」においては、どうだったのか。
祝詞(六月晦大祓)の唱詞では、「高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀨」とあって、山頂から急流が流れ落ちているイメージである。
とはいえ、坂の上に、水の流れを想定し、しかも、遺体を押し流すほどの水量を思い浮かべるというのは、さすがに無理があるのではないだろうか。
山には、山なりの経路があって、然るべきところであろう。
そう考えた時に、注目してみたいのは、「黄泉比良坂」についてである。
第四節 黄泉比良坂
ここで、「黄泉比良坂」を持ち出すというのは、やや唐突な感があるかも知れない。
とはいえ、「坂」であるという一点において「坂之御尾」とも繋がっており、関連を疑わせる存在であることは確かであろう。
それよりも何よりも、須佐之男命が大国主神へ向って「坂の御尾に追ひ伏せ、亦河の瀨に追ひ撥ひて・・・」と呼びかけた場所が「黄泉比良坂」であった。
この場面において、「黄泉比良坂」は、「葦原中国」と「根堅州国」との境界として描かれており、
故爾に黄泉比良坂に追ひ至りて、遙(はろばろ)に望(みさ)けて、大穴牟遲神を呼ばひて謂ひしく、
とあるように、眺望の良い場所でもあった。
また、古事記 上巻(伊邪那岐神話/黄泉国から逃走の場面)では、
爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各對(むか)ひ立ちて、事戸(ことど)を度(わた)す時、・・・亦其の黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反之(ちがへしの)大神と號け、亦塞り坐す黄泉戸大神とも謂ふ。
とあり、日本書紀では、
○神代上/第五段一書第六(黄泉国から逃走の場面)
是の時に、伊弉諾尊、已に泉津平坂に到ります。・・・故便ち千人所引の磐石を以て、其の坂路に塞(ふさ)ひて、伊弉冉尊と相向きて立ちて、遂に絶妻之誓(ことど)建(わた)す。
・・・因りて曰はく、「此よりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其の杖を投げたまふ。是を岐神(ふなとのかみ)と謂(まう)す。・・・其の泉津平坂にして、・・・所塞(ふさ)がる磐石といふは、是泉門に塞ります大神を謂ふ。亦の名は道返大神といふ。
○神代上/第五段一書第九(黄泉国から逃走の場面)
時に伊弉諾尊、乃ち其の杖を投(なげう)てて曰はく、「此(ここ)より以還(このかた)、雷敢來(えこ)じ」とのたまふ。是を岐神と謂す。此、本の號は來名戸(くなと)の祖神(さへのかみ)と曰(まう)す。
とも語られている。
すなわち、「黄泉比良坂」には、大石があって、道を塞いでいたり、杖が立てられているようにも想定されていたようである。
そのような「黄泉比良坂」の形状を考える上で注目されるのは、古事記上巻(伊邪那岐神話/黄泉国から逃走の場面)の、
故、其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲國の伊賦夜坂と謂ふ。
という一文であろう。
現在、その正確な比定地は、不明とされているが、松前健「諾冉二尊の冥界譚の陰惨化」は、
また諾尊の逃げて来られたヨモツヒラサカと同一視せられた出雲の伊賦夜坂も、これが冥府への入口と考えられたのは、遠方に見える伯耆国の夜見島に到る出発点と考えられたからであるらしい。
という推測を述べている。
※ 蛇足ながら、「夜見島」は、現在、陸続きとなって、「弓ヶ浜」と呼ばれている。
この文章では、「伊賦夜坂」の具体的な場所を明示していないが、益田勝美『古典を読む10 古事記』(113頁)に、
イザナキがヨモツクニを遁走しつづけ、この世への出
口に達したのが、伊賦夜。『出雲国風土記』意宇郡条の伊布夜の社、『延喜式』の方では揖夜神社という社のあるあたりである。現在の八束郡東出雲町の揖屋に
接し、揖屋と東方の意東の間にある意東鼻という山地が、中海の方へ突き出している。その揖屋の地をかぎる山地の坂が、「伊賦夜坂」と考えられている。
とあり、阿部真司「黄泉比良坂考」に、
揖夜神社は中海を見下ろすことができる「揖夜神社台地」といわれる小高い台地状の地に鎮座している。この小高い台地が伊賦夜坂と見なせる。
とあることなどを参考にすると、これらと同様に揖夜神社の辺りが想定されているのかも知れない。
とにかく、「伊賦夜坂」から「夜見島」が望見できたものとして、そこが「夜見島に到る出発点と考えられた」のだとすれば、そこには、両者を結び付ける何かしらの存在が想定されていた可能性が考えられる。
例えば、「伊賦夜坂」から「夜見島」へ至る、常人には見えない、一筋の坂道が想定されていたのではないだろうか。
その目に見えない坂道は、通常、「千引の石」によって塞がれているものの、死者の魂は、その関門(黄泉戸)をすり抜けて、「夜見島」へ往くものと観想されていたのだとすれば、万事、説明がつくように思われる。
この点、神代紀の方では、「泉津平坂」に、「杖」=「岐神(ふなとのかみ)」が居るようにも語られている。
この神は「岐」という漢字の字義どおり、分岐の神であって、通常の坂道から分岐して「黄泉」へと向う、もう一本の坂道が想定されていたようにも解し得る。
その坂道の形状としては、「夜見島」を望見する視線と同じような、空中を真っすぐに伸びる坂道が思い浮かぶところではないだろうか。
それは、坂というよりは、橋のようなものであったのかも知れない。
もし、そうだとすれば、空中に架かるがゆえに、眺望も抜群であったことになる。
類似の発想を窺わせるものとしては、崇神紀十年九月是後条に、
倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻と爲る。然れども其の神常に晝は見えずして、夜のみ來(みた)す。倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に晝は見えたまはねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲(おも)ふ」といふ。大神對へて曰はく、「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏に密に異(あやし)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂(まこと)に美麗しき小蛇有り。其の長さ大(ふと)さ衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。時に大神恥ぢて、忽に人の形と化(な)りたまふ。其の妻に謂(かた)りて曰はく、「汝、忍びずして吾に羞(はぢみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。
仍りて大虚(おほぞら)を踐みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居(つきう)。則ち箸に陰を撞きて薨(かむさ)りましぬ。
という記事がある。
大物主神は、鳥のように空を飛ぶわけでもなく、「天磐船」のような乗り物に乗るわけでもなく、虚空を踏んで三輪山へ登っている。
この場合、常人には、虚空を踏んでいるように見えたわけであるが、そこには、一本の道があって、大物主神は、その坂道を歩いて登ったのだという解釈も可能となろう。
※ さらには、天孫降臨の際、猨田毘古神が出迎えた場所とされる「天之八衢(あめのやちまた)」にも、同様の着想を垣間見ることができよう。
このような、虚空に架かる常人には見えない坂道が「黄泉比良坂」であったと考えておきたい。
また、この「黄泉比良坂」は、一箇所に限らず、「坂之御尾」や山の峰にも架かっていて、そこから「根国」へ行くことも出来たのではなかろうか。
例えば、日本書紀 神代上/第八段一書第五には、
然して後に、素戔鳴尊、熊成峰(くまなりのたけ)に居(ま)しまして、遂に根國に入りましき。
という記述がある。
この場合は、「熊成峰」という山から「根国」へ行ったことになる。(他の場所を経由したとは書かれていないことからして、「熊成峰」から直接「根国」へ行ったことになろう。)
特に、海を見たことがない人々にとっては、坂の上や山の峰といった高所は、異世界へ続く場所として、理解しやすい場所であったに違いない。
昭和二十一年に初版が刊行されている柳田国男『先祖の話』によると、
春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終わりに
はまた田から上って、山に還って山の神となるという言い伝え、これはそれ一つとしては何でもない雑説のようであるが、日本全国北から南の端々まで、そうい
う伝えの無いところの方が少ないと言ってもよいほど、弘く行われている・・・(三〇「田の神と山の神」)
ということである。
同書では、その「山の神」を「我々の先祖の霊」と解しており、
無難に一生を経過した人々の行き処は、・・・この世
の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、大よそ望み見られるような場所でなければならぬ。少なくともかつてはそのように期待せられていた
形跡はなお存する。村の周囲にある秀でた峰の頂から、盆には盆路を苅り払い、または山川の流れの岸に魂を迎え、または川上の山から盆花を採って来るなどの
風習が、弘く各地の山村に今も行われているなどもその一つである。霊山の崇拝は、日本では仏教の渡来よりも古い。(六六「帰る山」)
とも述べている。
おそらくは、その峰の先に「黄泉比良坂」があって、「根国」へと通じていたのであろう。
余談
ところで、「黄泉比良坂」という言葉の中の「比良」は、その坂道の形状を表現するために付加された言葉であろうと推測される。
神代紀では、「泉津平坂」とあって、「平」という文字が当てられている。
※ ついでに言えば、祝詞(鎮火祭)には、「与美津枚坂」とあって、「枚」が当てられている。
また、「平坂」という言葉としては、「黄泉比良坂」以外にも、崇神紀十年九月(二十七日)条に「山背平坂」があり、同じ場所を崇神記(建波邇安王の反逆)では「山代之幣羅坂」と表記している。
そのような中で、「黄泉比良坂」が虚空に架かる一筋の坂道であったとすると、その坂は、平らな坂として認識されていたことになるであろうか。
とにかく、空中に障害物はないわけであるから、その坂道は、目的地を最短で結ぶ、一直線の道として認識されていた可能性が大きい。
従って、起伏もなければ曲折もない、平らな坂道という帰結になる。
その点、「幣羅(へら)坂」という言葉も、道具の箆を意識した言葉ではないかと考えられてくる。
細かく見れば、様々な種類があるにせよ、箆という道具は、おおむね、細長くて平らなものである。
この形状こそ、「比良坂」の形状そのものではないだろうか。
もちろん、細長いということは、言外に、直線的であることをも含意していよう。
要するに、平らで直線的な坂道、おそらく、傾斜も緩やかな坂道を「平坂」と言ったものと考えておきたい。
そもそも、古事記は、大国主神が「根堅州国」から逃げ出す際の様子を、
其の妻須世理毘賣を負ひて、即ち其の大神の生大刀と生弓矢と、及(また)其の天の詔琴を取り持ちて逃げ出でます時、・・・
と語っている。
このように、須世理毘賣を背負い、生大刀・生弓矢・天詔琴を持った状態で逃げ出したというのであるから、両手は、当然、塞がっていたはずである。
しかも、追ってくる須佐之男命を振り切るためには、走ることも必須であったに違いない。
いくら神とはいえ、このような状態で、崖のような急坂を駆け上ることは困難であっただろう。
それよりは、平坦な坂道が想定されて然るべき場面である。
この点、『古事記伝』六之巻は、
此は黄泉と顯國との堺なり、平坂と云は、平易(ナダラカ)なる意なり、【山背にも平坂といふ所、書紀崇神巻に見ゆ、】
と述べていたが、この解釈が正鵠に最も近いのではないだろうか。
※
「黄泉比良坂」の地形をめぐっては、「黄泉国」の位置(世界観)とも係わって、数多くの論考が積み重ねられていることは周知のとおりである。具体的には、
「黄泉国」が現世よりも上方にあるのか、下方にあるのかによって、「黄泉比良坂」の傾き方が変わってくる。筆者の想定としては、「黄泉国」が下、現世(山
頂)が上ということになるが、その坂道の傾斜は、かなり緩やかなものであったことになる。
※ ちなみに、「ヒラ」という言葉は、もともと平面を意味していて、傾斜の角度にかかわらず、垂直であっても崖(ひら)であり、水平であっても平(ひら)であったのではないだろうか。起伏の少ない、一様な面が「ヒラ」であったと思われるのである。
後記
山頂を意味する言葉の一つに峰(みね)がある。
この言葉の語根は「ネ」にあり、これに接頭語の「ミ」が付加されて、「ミネ」となったように思われる。
例えば、万葉集(巻第三)には、
(318番歌)
たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにそ ふじのたかねに ゆきはふりける
田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
という有名な反歌があり、常陸風土記(筑波郡)には、
(原文)
都久波尼爾 阿波牟等 伊比志古波 多賀己等岐氣波 加彌尼 阿須波氣牟也。
(訳文)
筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰が言聞けば 神嶺 あすばけむ。
(原文)
都久波尼爾 伊保利弖 都麻奈志爾 和我尼牟欲呂波 波夜母 阿氣奴賀母也。
(訳文)
筑波嶺に 盧りて 妻なしに 我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも。
という歌が収録されている。
古代人が山頂を「ネ」と言っていたことは間違いのないところであろう。
そうしたところで、山頂から「黄泉比良坂」を辿り「根国」へ至る通路が想定されていたのだとすれば、峰の「ネ」と「根国」の「ネ」が、全くの無関係であったとも思えないのである。
古事記の「根堅州国」なども、本来は、峰(ね)の方(かた)つ国といった程度の意味であったのかも知れない。→補注4
しかしながら、今見る「根堅州国」という表記には、「底津石根」(地下)の堅固な国といったイメージが付きまとう。
時間の経過と意味の変化は、誰もが思い浮かべるところであろう。
原初的な「根国」は、山の彼方であり、海の彼方でもある、とにかく遠いところに存在していたのではないだろうか。
※ 神代紀(第五段一書第二)には、「極遠之根國(極めて遠き根國)」という表現もある。
そのような国であるからこそ、「坂の御尾」からも、「河の瀨」からも、往き着くことが出来たのだと考えておきたい。
もちろん、このことを強く主張するつもりはない。
単なる思いつきである。
なお、今さらながら、記紀における「根国」と「根堅州国」とは、同じ国と見て良かろうと思う。
しからば、「黄泉国」とは、どうであったのか。
大国主神が「根堅州国」へ逃げ込み、「黄泉比良坂」を通って「葦原中国」へ戻ってきたことを考えると、やはり、同じ国であった可能性が大きいように感じられる。
少なくとも、古事記の段階では、そう考えられていたのではないだろうか。
ただ、時間の経過と意味の変化は、この場合においても考え得るのであって、原初的な「黄泉国」が別の国であった可能性も否定できない。
これらの点については、よく分からないというのが正直なところである。
補注1 畝尾
記紀に見える「畝尾(畝丘)」も、また、地名のようでもあり、地形のようにも思える言葉である。
古事記上巻(火神被殺)には、
乃ち御枕方に匍匐(はらば)ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐して、泣澤女神と名づく。
とあって、日本古典文学大系本の頭注には、
香山は大和国十市郡の天の香山。畝尾も木の本も共に地名。書紀には「畝丘樹下」とある。
という説明がなされている。
その日本書紀 神代上(第五段一書第六)には、
則ち頭邊に匍匐ひ、脚邊に匍匐ひて、哭き泣(いさ)ち流涕(かなし)びたまふ。其の涙堕ちて神と爲る。是即ち畝丘の樹下に所居(ま)す神なり。啼澤女命と號す。
とあって、日本古典文学大系本の頭注によると、
(畝尾)
畝の広さの丘。または単に高地をいう。ウネは、田の間の区切りに、土を高く盛った所。ヲは、小高い所。山などにもいう。これを次の樹下(コノモト)と共に、地名と見る説もある。
(樹下)
今も、橿原市木之本町に、泣沢神社がある。
ということである。
確かに、地名・地形のいずれと考えても、意味は通じるのであり、見解の分かれるところであろう。
この点、『古事記伝』五之巻では、
○畝尾・・・師云、此山の畝尾は、西へも引、ことに東へは長く曳渡りけむ。今はその畝尾の形いさゝか殘れり、
○木本、神名式に、十市郡畝尾坐健土安神社、畝尾都多本神社、書紀にも、此を香山といはで、たゞに畝尾樹下所居之神とあると、右の神名式とを合て思へば、畝尾も木本も、地名に爲れるなり、
と述べて、本来、地形であったものが地名へ変化したことを想定しているように見える。
日本思想大系『古事記』の頭注にも、
香山は後の大和国十市郡の天の香山・・・畝尾は小高い所、木本は木の下の意。畝尾(橿原市畝傍町)・木本(同市木之本町)は後にともに地名になっている。
とあって、同様のことを述べている。
一方で、日本古典全書『古事記』の頭注では、
(畝尾)
山すそにウネをなしてゐる地形で、その高いところ。
(木の本)
地名。香具山の西麓にあたる香具山村木之本に畝尾都多本神社があり、泣澤女命をまつつてゐる。
として、畝尾を地形、木本を地名としている。
ここで、私見を述べておくと、延喜式神名帳(大和国十市郡)に、地名を負った神社(畝尾坐健土安神社・畝尾都多本神社)が存在するからには、地名である可能性の方が大きいようにも思われるが、なお、定かではない。
補注2 尾と口
本文の中では、「御尾」という言葉が山頂や峠を意味していたのではないかという推理を述べてみた。
ただ、その場合、「御」という接頭語が必須だったのかと言えば、そうでもなく、単に「尾」だけであっても、山頂・峠を意味する場合があったのではないだろうか。
以下のことは、「山口」という言葉の意味とも考え合わせてみた時の思いつきである。
その「山口」の用例としては、雄略記の葛城一言主神の説話の中に、
故、天皇の還り幸でます時、其の大神、滿(み)山の末より長谷の山口に送り奉りき。
という一文がある。(文中、「滿山の末」については、その原文である「滿山末」をどう読むかで諸説がある。→補足)
この場合の「山口」は、山の入口・登り口であり、山裾の辺りを指していることは間違いあるまい。
この「口」に対比される言葉が「尾」であった可能性を考えてみたいのである。
一般に、動物の口と尾は、反対方向に付いており、これで山裾と山頂という対立する概念を表す場合があったのではないだろうか。
具体的なイメージとしては、名古屋城の金の鯱などを思い浮かべてみると、口を下にして尾を跳ね上げており、分かりやすいと思われる。
なお、「口」に対する反対語としては、「尾」よりも先に「尻」を思い浮かべる人の方が多いかも知れない。
具体的には、「道の口」と「道の尻」である。
古事記においては、孝霊天皇段に、
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱相副(たぐ)ひて、針間の氷河の前(さき)に、忌瓮(いはひべ)を居(す)ゑて、針間を道の口と爲て吉備國を言向け和(やは)したまひき。
とあり、応神天皇段(髪長比売)には、
(原文)
美知能斯理 古波陀袁登賣袁 迦微能碁登 岐許延斯迦杼母 阿比麻久良麻久
(訳文)
道の後 古波陀嬢子を 雷の如 聞えしかども 相枕枕く
(原文)
美知能斯理 古波陀袁登賣波 阿良蘇波受 泥斯久袁斯叙母 宇流波志美意母布
(訳文)
道の後 古波陀嬢子は 爭はず 寢しくをしぞも 愛しみ思ふ
といった用例が見える。
さらには、令制国の「前・後」が「みちのくち・みちのしり」と訓まれていることは、多言を要さないところであろう。
国名の前・後は、都からの遠近を表しているようでもある。
『古事記伝』二十之巻では、道奥について、
奧は口に對ヘ云フ稱にて、道口道後の後に同じ、京より行に、初の地を道口と云、終を後とも奧とも云り、
と述べている。
ただ、「道の口」に入口の意味があったとすれば、対する「道の尻」にも出口の意味があって然るべきところではないだろうか。
動物の口と尻の関係からすれば、あり得ない話ではあるまい。
そう考えたところで、尾に戻ってみると、口から入って、尻から出た後の、さらに先にあるのが尾ということになるであろうか。
尻よりも、さらに奥まった感覚の言葉として「尾」があったのかも知れない。
補足 満山末
さて、葛城一言主神が天皇を長谷の山口まで送るという内容の一節であるが、原文では、
故、天皇之還幸時、其大神滿山末、於長谷山口送奉。
と書かれている。
ここで問題となるのが「滿山末」の読みである。
日本古典文学大系本の頭注では、
記伝に、満は誤字だとしている。今姑くみ山の意とする。ミは接頭語。山の峰から。
と述べて、上記のとおり、「満山の末より」と読んでいたのであった。
また、この頭注が言及している『古事記伝』四十二之巻では、
滿は降、・・・末は來の誤にやあらむ、・・・姑ク山を降り來坐てと訓つ、
という推論が述べられている。
その他、日本古典全書本を見てみると、
其の大神、山に滿ちて、末は長谷の山口まで送り奉(まつ)りき。
と読み、頭注で、
山に一杯になるほどのありさまで。盛大な歓送の様子をいふのであらう。
と説明しており、新潮日本古典集成本では、
其の大神、山の末を満(み)てて、長谷の山の口に送りまつりき。
と読み、その頭注で、
一言主大神一行が峰続きにいっぱいに、の意で、天皇を心からお送り申し上げる描写である。
と解釈している。
これを受けたものか、日本思想大系本でも、
其ノ大神山ノ末を満てて、長谷ノ山口於(に)送り奉(まつ)りき。
と読み、その頭注で、
国つ神である一言主大神の一行が峰々にいっぱいになって。奈良盆地から見て、西・南・東と連なる山々の稜線を神が渡ってゆくのである。
と解説している。(ただし、「山々の稜線を神が渡ってゆく」という部分は、倉野憲司『古事記全註釈 第七巻』が「滿(み)山の末を、長谷の山口に送り奉りき。」と読み、[「満山末」は「全山の稜線を(通つて)」と解してみたが如何であらうか。]としたのを受けているようにも見える。)
さらには、新編日本古典文学全集本も「山の末を満てて」を採用し、その頭注で、
原文は「満山末」とあり、葛城山の峰を大神の行列でいっぱいにしての意ととるのが一案であるが、なお落ち着かない。あるいは「満」は「渡」の誤写か。「山の末を渡りて」ならば、山の峰から峰を渡っての意となり、文意が通る。
と述べるに至っている。
日本古典全書本以下の注釈については、その内容が微妙に連鎖しながら転変しているように見える。
このような解釈の連鎖の中で、「渡」の誤写説に続けて推測を加えてみると、文字の形としては、「渡」よりも「渉」の方が「満」に近いような気もするが、いかがであろうか。
なお、ちなみに、「山末」という言葉に対置されるのは「山本」である。
その「山本」の用例としては、緒言で引用した須佐之男命の言葉の中にも、
宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て居れ。
とあったし、大国主神が八十神に迫害される場面でも、
故爾に八十神怒りて、大穴牟遲神を殺さむと共に議(はか)りて、伯伎國の手間の山本に至りて云ひしく、・・・
とあった。
すなわち、本末で対立しており、「山本」は麓、「山末」は頂ということになる。
補注3 追避
大国主神が八十神を「追ひ避くる」時の表現であるが、古事記においては、
其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追ひ避(さ)くる時に、坂の御尾毎に追ひ伏せ、河の瀨毎に追ひ撥ひて、始めて國を作りたまひき。
とあって、「追避」という文字を使用していた。
これに対して、出雲風土記(大原郡来次郷)の場合は、
天の下造らしし大神の命、詔りたまひしく、「八十神は青垣山の裏(うち)に置かじ」と詔りたまひて、追ひ廢(はら)ひたまふ時に、此處に迨次(きす)きましき。故、來次(きすき)といふ。
とあって、「追廃」を使っている。
しかも、「青垣山の裏(うち)に置かじ」という表現からすると、青垣山の外へ追い出すイメージであって、かなり狭い範囲での出来事を想定しているようにも感じられる。
このような、山々に囲まれた平地だけの確保であれば、殺害せずとも、追い払うだけで十分であったのかも知れない。
ところが、同じ出雲風土記(大原郡)の中でも、「城名樋山」の記事においては、
天の下造らしし大神、大穴持命、八十神を伐たむとして城を造りましき。故、城名樋(きなび)といふ。
とあって城を築いたことになっている。
その後の話の展開は不明であるが、軍同士の戦闘があったとしても、何ら不思議のない書き方である。
こちらの神話では、大規模な争乱が語られていたのかも知れない。
大国主神の神話にも、さまざまな異伝が発生していたということであろう。
補注4 根堅州国
岩波『古語辞典』を見てみると、「ねのかたすくに」に対して、
ネはナ(大地)の転。カタスクニは方ツ国の転か。大地の方角にある国の意で、現世の地上の国に対して、地下の国。「州」は古く片仮名のツの字源となった文字なので、このまま、カタツクニと訓むべきか。
という解説がなされている。
その「ネはナ(大地)の転。」という部分は、ともかく、「カタスクニは方ツ国の転か。」という部分は、大いに参考にさせていただいたところである。
「方ツ国」といった程度の、ぼんやりとした意味であれば、峰(ね)と合わせて、「峰の彼方の国」という解釈も可能となるであろう。
ただ、「根国」も「峰国」と解して良いのかと問われると、途端に歯切れは悪くなる。
これは、原初の「黄泉国」を山中他界とする説とも係わってくるのだが、「根国」を「峰国」とすれば、こちらも同様の山中他界に繋がりかねず、「峰の彼方の国」とは、一線を画するものとなってしまう。
本文でも言及したとおり、「峰の方ツ国」は、思いつきの域を出るものではないのであって、いつでも、取り下げる用意は出来ている。
なお、ここで、山中他界説を簡単に紹介しておくと、例えば、佐藤正英「黄泉国の在りか」は、
神話は、イザナミの命が「出雲の国と伯伎の国の堺の
比婆の山」に葬られたと語っている。黄泉国は、比婆の山に比定されているのではなかろうか。・・・ヨモ(yömö)、ヨミ
(yomï)の原義はなにか。・・・ヨモ、ヨミを「山」(yama)の母音交替による語とする井出氏の説(井出至「所謂遠称の指示語ヲチ、ヲト
の性格」)に従うべきであろう。原義からしても、黄泉国は山を意味しているのである。
と述べており、西條勉「黄泉/ヨモ(ヨミ)」は、
ヨモ(ヨミ)は原義的に山を意味した。・・・和語のヨモ(ヨミ)が漢語の「黄泉」で捉えられたとき、死者の世界は、もともとの山中から地下の方に移し換えられたのだ。
という具合に、意味の変遷を想定している。
ヤマからヨモ(ヨミ)への変化が本当にあったのか否か、筆者には、俄かに判断できないが、修験の山岳霊場へ繋がるような観想が古くからあったとしても、さほど不思議ではないような気もしている。
その場合、山そのものが他界となっていたのか、あるいは、あくまでも他界への入口であったのか、人によって見解が分かれるところではあろう。
もっとも、正解が一つだけとは限らないのであって、複数の観念が並立していた可能性も否定できないように思われる。
現代にあっても、仏教の極楽、キリスト教の天国など、他界観は、決して一様ではない。
同様のことは、古代においても言い得るのではないだろうか。
参考文献
日本古典文学大系『古事記・祝詞』(岩波書店、1958年)
『本居宣長全集 第九巻~第十二巻、古事記伝 一~四』(筑摩書房、昭和43~49年)
日本古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店、1965年)
日本古典文学大系『風土記』(岩波書店、1958年)
松前健「諾冉二尊の冥界譚の陰惨化」(同著『日本神話の新研究』、桜楓社、昭和35年、昭和46年再版、第3章第3節。)
益田勝美『古典を読む10 古事記』(岩波書店、1984年)
阿部真司「黄泉比良坂考─『古事記』のサカを中心にして─」(『高知医科大学一般教育紀要』1号、1986年、Web版)
柳田国男『先祖の話』(角川ソフィア文庫、平成25年)
佐竹昭広 木下正俊 小島憲之『萬葉集 本文編』(塙書房、昭和38年)
新訂増補國史大系『交替式・弘仁式・延喜式 前篇』(吉川弘文館、昭和56年、普及版)
日本古典全書『古事記 上・下』(朝日新聞社、昭和37年)
新潮日本古典集成『古事記』(新潮社、昭和54年)
倉野憲司『古事記全註釈 第七巻』(三省堂、昭和55年)
日本思想大系『古事記』(岩波書店、1982年)
新編日本古典文学全集『古事記』(小学館、1997年)
佐藤正英「黄泉国の在りか : 『古事記』の神話をめぐって」(『現代思想』10巻12号、1982年)
西條勉「黄泉/ヨモ(ヨミ)─漢語に隠される和語の世界─」(『東アジアの古代文化』91号、1997年)