新聞の読み方を手掛かりとして古事記・日本書紀の取り扱い方法を考える
第1節
古事記・日本書紀は、編纂物である。
この古代の編纂物を取り扱う上で参考になるのは、現代の編纂物であろう。
その代表として新聞を考えてみる。
ある事実と新聞の関係を確認すると次のようになろう。
1.新聞記事は、事実そのものではない。
2.それを言葉で描写したものである。
従って、その描写の信頼性が問題となる。
このことを考えるために、ある事実が生起してから新聞記事になるまでの経過を考えてみる。
最も単純なケースとして、目撃者、記者、編集者による製作の過程を想定する。
第1段階 目撃者は、ある事実を目撃して記憶する。
第2段階 記者は、目撃者に取材をして証言を得る。
証言は、記憶の一部であり、目撃者による取捨選択が行われる。
この時、故意や過失による虚偽が付加される可能性がある。
第3段階 記者は、目撃者の証言をもとに原稿を作成する。
原稿は、証言そのままではなく、記者による取捨選択が行われる。
この時、故意や過失による虚偽が付加される可能性がある。
第4段階 編集者は、記者の原稿をもとに記事を完成させる。
記事は、原稿そのままではなく、編集者による取捨選択が行われる。
この時、故意や過失による虚偽が付加される可能性がある。
現実には、もっと複雑な経過を辿るはずであるが、単純化すれば、このようなものであろう。
ここで改めて気付かされるのは、各段階で取捨選択が行われ、虚偽混入の可能性があるということである。
書かれた記事をそのまま信じることは危険なのである。
とはいえ、虚偽の可能性を強調して、すべての記事を利用しないのも極端に過ぎる。
理想としては、自分自身で「取材」をして裏付けを取るのが一番であろう。
しかし、普通の人が実際に「取材」をして歩くのは困難である。
そこで残された方法は、比較である。
よく言われるように、できるだけ多くの新聞を読み比べて、記事内容の一致を確かめるというのが現実的な対処方法であろう。
ただ、そのとき、一言一句に至るまで同じというのも注意が必要である。
引用や盗用である可能性が大きい。
あくまでも独自に取材した複数の記事が一致していることが肝要である。
このようなことから、新聞各紙の記事については、文言は違っていても内容が一致しているというのが、比較的安心できる状態であると思われる。
さて、比較できる場合は上記のとおりとして、比較できない単独記事の場合は、どのように対処すべきであろうか。
他と比較できない以上は、その内部で考えるほか方法はあるまい。
そのための手掛かりとして、複数の記事が一致している場合を再度考えてみる。
例えば、A新聞とB新聞に書かれた別個の文章が同じ事実を述べていることは、どのようにして認識できるのであろうか。
それは、その記事の概要が一致していることに求められるであろう。
時間、場所、人物、行為などの主な要素が一致していれば、細部の表現や用字用語が異なっていても同一の事実を述べていると認識できる。
逆に主要な部分が違っていれば、表現や用語が似ていても別の事実と認識されるのである。
(ただし、数文字程度の違いは、誤字脱字として処理される場合もあろう。)
このように記事の概要は、細部に比べて「ゆれ」が少なく、製作者が違っていても同じ内容になると思われる。
また、情報の取捨選択が行われる場合を想像しても、主要な部分ほど採用される可能性が大きいと推測されるし、過失で虚偽が混入する場面を想定しても、主
要な部分ほど間違いに気付き易いはずである。
こうしてみると、単独記事の場合は、その概要が細部よりも信頼できるように推定される。
もちろん、「単独記事の内部で」という限定が付くので、その信頼度は、比較可能な記事よりも随分小さくなるのであるが、他に有効な方法はないと思われ
る。
もしも、この方法を採用しない場合は、判断を保留するか、無条件で信頼するかの二者択一になるであろう。
(蛇足ながら、判断保留は否定ではない。否定するには、否定するための根拠が必要である。とはいえ、判断を保留した記事を利用しなけれ
ば、結果として否定したのと変わらないことになる。)
以上を要するに、我々の新聞記事の読み方としては、他と比較できる場合は、その一致する部分を信頼し、比較できない場合は、記事の概要を信頼するという
ことになる。
第2節
上記のような新聞の読み方は、古事記・日本書紀に対しても適用できると思われる。
手始めに古事記の序文を参考にして製作の過程を考えてみる。
ごく単純化して、目撃記録、帝紀(旧辞)、古事記という経過を想定する。
第1段階 目撃者は、ある事実を目撃して記憶する。
第2段階 目撃者は、記憶にもとづいて目撃記録を作成する。
目撃記録は、記憶の一部であり、目撃者による取捨選択が行われる。
この時、故意や過失による虚偽が付加される可能性がある。
第3段階 帝紀(旧辞)の編者は、目撃記録をもとに帝紀(旧辞)を作成する。
帝紀(旧辞)は、目撃記録そのままではなく、編者による取捨選択が行われる。
この時、故意や過失による虚偽が付加される可能性がある。
第4段階 太安万侶は、帝紀(旧辞)をもとに古事記を完成させる。
古事記は、帝紀(旧辞)そのままではなく、太安万侶による取捨選択が行われる。
この時、故意や過失による虚偽が付加される可能性がある。
実際には、天武天皇や稗田阿礼など多くの人が関与しているであろうし、日本書紀の場合は、さらに複雑な経緯があると推定される。
ただ、各段階で取捨選択が行われ、虚偽混入の可能性があるということは、新聞の場合と同様である。
従って、書かれた記事をそのまま信じるのは危険であるが、すべてを利用しないのも極端に過ぎるという状況も、新聞と変わるところがない。
当然、自ら「取材」することも不可能である。
そこで、我々が行うべきことは、やはり比較である。
金石文や外国史料等と比較できる場合は、その一致する部分を信頼するのが妥当であろう。
ただし、古事記の記事と日本書紀の記事との一致については、別途考えた方が良さそうである。
各々の原史料となった帝紀(旧辞)が共通している可能性があり、独自に作成されたものとは断定し難いためである。
一致はしていても、単独記事として取り扱うのが無難であろう。
次にその単独記事についてであるが、これも新聞の例に倣って、概要を信頼するという方法が適用できると思われる。
というよりは、他に方法がないと言うべきである。
細部よりも概要の方が信頼できるという考え方からすれば、古事記や日本書紀全体を一連の記事と捉えて、その概要を抽出するのが最善の方法であろう。
ただし、この場合、注意しなければならないのは、「神話」の取り扱いである。
当時の人が「神話」として認識しているものを事実とするわけにはいかない。
古事記・日本書紀が「神代」と「人代」を区別している(日本書紀の場合は、神代上下巻が立てられている
し、古事記の場合も
「神
話」は、上巻にまとめられている。)ことを尊重して、「神代」には、この方法を適用しないのが妥当である。
第3節
単独記事については、信頼度に難点があり、これを無理に利用すべきではないという考え方もあるであろう。
比較可能な記事だけで歴史を物語ることができれば、その考え方が妥当であると思われる。
問題は、比較可能な記事が僅少で、物語が成立しない場合である。
日本古代史は、まさにこれである。
このとき、物語を諦めるというのは、潔い態度である。
しかし、信頼度の低下を自覚した上で、敢えて物語るのも、一つの立場であろう。
どちらを選択するかは、その人の物語に対する欲求と信頼度に対する欲求との兼ね合いによって決まるのだろうが、敢えて物語ろうとすれば、単独記事を利用
せざるを得ないというのが私見である。
ところで、敢えて物語る際によく見られるのが、ある「事実」(正確には事実と思われる命題。)を仮説として提示するとい
う方法である。
日本古代史の場合、このような方法は妥当であろうか。
一般に仮説は自由に設定できる。
ただし、検証できることが不可欠である。
幾つかの仮説があっても、検証することによって、一つの真実へと収束して行くのである。
この点、検証不能であれば、仮説は増え続けるだけで収束することがない。
仮説が増え続けるということは、結果として虚構を際限なく生み出すことになってしまう。
言わば、歴史と歴史小説の差がなくなってしまうのである。
従って、問題は、仮説が検証可能か否かという点にかかってくるのだが、事実そのものについて観察も実験もできない状況の中では、否定的にならざるを得な
い。
もちろん、新史料の発見があれば、新たな展開もあろう。
しかし、検証に都合のよい史料がそう簡単に出現するものであろうか。
今後、多少の技術の進展があったとしても、その可能性はゼロに近いと思われる。
現状では、残念ながら検証不能と言うほかあるまい。
それゆえ、ある「事実」を仮説として提示する方法は、古代史には不向きであると判断されるのである。
「事実」は、史料の中から一定の方法に従って抽出するのが妥当であろう。
古代史の場合は、新聞の読み方が参考になると思われる。
我々は、その方法の是非を問題にすべきなのである。
比較可能な記事の一致する部分を信頼するという方法については、これを是とする人が多いに違いない。
ならば、単独記事の概要を信頼するという方法については、どうであろうか。
もし非とするならば、他に方法があるのか。その方法によって得られる「事実」の量は(歴史を物語るのに)十分なのか。自
分は、その信頼度に満足できるのか。
こういったことが問題にされるべきだと思われる。
また、物語るときも、採用した方法を明示すれば、歴史小説とは一線を画したものになるはずである。
これまで、編纂物について考えてきたわけであるが、最後に、考古資料についても、一言触れて置きたい。
例えば、古墳を取り上げてみると、その形、大きさ、副葬品の有無等は、すべて事実である。
しかし、そこから先の推理は、年代観を含めて、すべて仮説である。
さて、その仮説は検証できるのだろうか。
一般に考古資料は、信頼できるというイメージがあると思われる。
資料そのものは、その通りであろう。
ただ、そこから取り出される仮説は、別物である。
注意を要するところであろう。