阿倍比羅夫北征記事の地名比定



第1章 地名比定について

第1節 地名比定

 地名比定とは、日本列島の地形が過去2000年程度の間、それほど大きく変わっていない事実に基づき、過去に使用されていた地名が現在のどの地域を 指示していたのかを推理する行為であるといえよう。
 言葉を換えていえば、過去の地名を現代の地名で説明する行為と言えるかも知れない。
 それゆえ、古代の地名と現代の地名の橋渡し役として中世や近世の地名を利用することも可能となる。
 そもそも、地名は、一回限りの歴史的事実というよりは、世代を越えて共有される知識と考えた方がよかろう。
 従って、史料の中に見える地名も、史実として取り扱うよりは、史料製作者が認識していた地理的な知識として捉えた方がよいと思われる。
 このような知識は、史料製作者がそのように認識していたという点では、恒に真であり、この認識と地形が一致しない場合は、史料製作者が不正確な知識 を信じていたという事実を示すこととなる。(『魏志倭人伝』の邪馬台国の場合などは、この典型であろう。)
 もちろん、地理的知識と地形が一致すれば、その知識は事実によって裏付けられたことにもなる。
 ところで、地名は、古代から現代に至るまで使用され続けることも珍しいことではない。実際に“壱岐”や“対馬”など多くの地名が時代を越えて使用されて おり、他 の地名を推理する際の重要な手懸かりとなっている。
 問題は、現在残っていない過去の地名である。
 地名比定の主な目的も、この現代に伝わらない地名を現在の地名で説明するところにある。

第2節 判断の基準

 今回の地名比定で判断の基準となるのは、次の各号である。
1.名称同士の一致、若しくは近似による同定。
 名称同士の表記や発音または意味が一致(または近似)するというのは、同定の基本である。ただし、よく似た地名が複数あ るとい うことも少なくないので、他の基 準も組み合わせて総合的に判断する必要がある。
2.名称と地形の合致による同定。
 名称の意味が地形と合致するというのも、同定の基本である。そして、よく似た地形があることも文字や発音の場合と同様である。
3.対象を変えた名称の残存による同定。
 名称が対象を変えて残ることも、よくあることで、例えば山や川の名称が近傍の寺社の名称となっているといったことなどが、しばしば見受けられる。
4.説明のついた地名との位置関係による限定。
 すでに位置が特定されている地名からの方向や距離などが分かれば、おおよその位置を推定することが可能となる。
5.交通手段による限定。
 例えば、交通手段が船であれば、海岸線などの水辺を含む地域に限定することが可能になる。
 (本稿の場合、ほとんどの地名がこの基準に該当することになろ う。)
6.自然環境による限定。
 地名に関連して気候の寒暖や動植物などの自然環境が記述されていれば、それも重要な判断材料となる。

 これらの基準は、単独で適用するというよりは、複数の基準を組み合わせて絞り込みを行い現在の該当する地名を特定するということになるであろう。



第2章 北征記事の地名比定

第1節 北征記事

 『日本書紀』斉明天皇4年(658年)から6年(660年)にかけての阿倍比羅夫北征記 事を抜き出すと次のようになる。
【4年】
 夏四月に、阿陪臣、名を闕せり。船師一百八十艘を率て蝦夷を伐つ。齶田・渟代、二郡の望り怖ぢて降はむと乞ふ。是に、軍 を勒へて、船を齶田浦に陳ぬ。齶田の蝦夷恩荷、進みて誓ひて曰さく、「官軍の爲の故に弓矢を持たらず。但し奴等、性肉を食ふが故に持ちたり。若し官軍の爲 にとして弓矢を儲けたらば、顎田浦の~知りなむ。清き白なる心を將ちて、朝に仕官らむ」とまうす。仍りて恩荷に授くるに、小乙上を以てして、渟代・津輕、 二郡の郡領に定む。遂に有間濱に、渡嶋の蝦夷等を召し聚へて、大きに饗たまひて歸す。
【4年】
 是歳、越國守阿倍引田臣比羅夫、肅愼を討ちて、生羆二つ・羆皮七十枚獻る。
【5年】
 (3月)是の月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師一百八十艘を率て、蝦夷國を討つ。阿倍 臣、飽田・渟代、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一所に簡び集めて、大きに饗たまひ 祿賜う。膽振鉏、此をば伊浮梨娑陛と云ふ。即ち船一隻と五色の綵帛とを以て、彼の地の~を祭る。肉入籠に至る。時に、問菟 の蝦夷膽鹿嶋・菟穂名、二人進みて曰く、「後方羊蹄を以て、政所とすべし」といふ。肉入籠、此をば之之梨姑と云ふ。問菟、此をば塗宇 と云ふ。菟穂名、此をば宇保那と云ふ。後方羊蹄、此をば斯梨蔽之と云ふ。政所は蓋し蝦夷の郡か。膽鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領を置きて 歸る。道奥と越との國司に位二階、郡領と主政とに各一階授く。或本に云はく、阿倍引田臣比羅夫、肅愼と戦ひて歸れり。虜四十九人獻るとい ふ。
【6年】
 三月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師二百艘を率て、肅愼國を伐たしむ。阿倍臣、陸奥の蝦 夷を以て己が船に乘せて、大河の側に到る。是に、渡嶋の蝦夷一千餘、海の畔に屯聚みて、河に向かひて營す。營の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「肅愼 の船師多に來りて、我等を殺さむとするが故に、願ふ、河を濟りて仕官へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚し至らしめて、賊の隱 所と船數とを問う。両箇の蝦夷、便ち隱所を指して曰はく、「船二十餘艘なり」といふ。即ち使を遣して喚す。而るを來肯へず。阿倍臣、乃ち綵帛・兵・鐵等を 海の畔に積みて、貪め嗜ましむ。肅愼、乃ち船師を陳ねて、羽を木に繋けて、擧げて旗とせり。棹を齊めて近つき來て、淺き處に停りぬ。一船の裏より、二の老 翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち單衫に換へ着て、各布一端を提げて、船に乘りて還去りぬ。俄ありて老翁更來て、換衫を脱 き置き、并て提げたる布を置きて、船に乘りて退りぬ。阿倍臣、數船を遣して喚さしむ。來肯へずして、弊賂辨嶋に復りぬ。食頃ありて和はむと乞す。遂に聽し 肯へず。弊賂辨は、渡嶋の別なり。己が柵に據りて戰ふ。時に能登臣馬身龍、敵の爲に殺されぬ。猶戰ひて倦まざる間に、賊破 れて己が妻子を殺す。
 (日本古典文学大系『日本書紀』による。なお、以下で取り上げるその他の史料については、諸論文等か らの孫引きである。漢字については、MS−IMEの文字セットの制約があり、同一の字形を表示できなかったものもある。)

第2節 渡嶋

 まず北征記事の中に見える「渡嶋」という地名について考えてみることにしよう。
 現在の“渡島”(おしま)という地名が“北海道”などと同じく明治になって付与されたものであることは説明するまでもな いが、そうすると古代の「渡嶋」 (わたりのしま)は、現在のどこに当たるのであろうか。
 この点については、研究者の間でも多くの論文が発表され、見解が分かれているところである。
 ただ候補地は、おおよそ絞られており、大きく分けると北海道 説と本州説の 二つにまとめることができるであろう。
 (誰がどのような説を主張しているのかについては、北構保夫『古代蝦夷の研究』、関口明『蝦夷と古代国家』などが比較的詳しく述べている よ うに思われる。筆者の手元にある論考については、最後にまとめて掲げておいた。これ以外の論考は未読であるので、重要な指摘を見落としている可能性 もあるが、ご宥恕願いたい。)
 さて、北海道説と本州説、それぞれの論拠をまとめてみると、下記のようになるであろう。
1.北海道説
 北海道説を見ると、その主な論拠は、「渡嶋」という名称の意味が津軽海峡を渡った北海道の自然地形と合致するという点と、阿倍比羅夫が生きた羆を連れ 帰って いる(羆の生息する地域は北海道以北に限定される)という点の2点に集約されるように思われる。もちろん、多くの人が様々 に論じているので、その他、津軽の近隣地域と考えられることなど、いくつかの論拠が挙げられている。
2.本州説
 本州説は、北征記事の文章や語句をそのように解釈できるという主張であり、その根底にあるのは、「渡嶋」が北海道では遠すぎるという感覚であろう。渟足 柵・ 磐舟柵(新潟市・村上市)よりも北の地域が「蝦夷国」であった時代に、海路とはいえ、それほど奥地へは進出できまいという 推測が働いているように見える。

 両者を比較してみると、北海道説が、名称と地形の合致、および自然環境による限定という二つの基準を組み合わせた順当な推理であるのに対して、本州説 は、そのように解釈できるとい う可能性の提示であり、やや説得力に欠けると思われる。
 現状では、どちらかと言えば、北海道説の方が有利であるというべきであろう。ここでは、「渡嶋」は北海道であると考えて置きたい。

第3節 弊賂辨嶋

 次に「弊賂辨嶋」(へろべのしま)という地名について考えてみよう。
 北征記事6年条の分注には、「弊賂辨は、渡嶋の別なり」という一文がある。
 渡嶋が北海道であるとすると、「弊賂辨嶋」は北海道の“別”(わかれ)ということになる。
 そもそも“別”という語義からすると、そこは、北海道の近辺で、しかも北海道から分離した地域であると考えるのが自然である。
 従って候補地は、かなり限定されてくるのであるが、この“別”という表現の類似で気になるのが、前陸奥守源頼俊申文(応徳三年、1086 年)の中の「衣 曾別嶋荒 夷并閇伊 七村山徒」という一文である。
 平安時代も後半になると、北海道を“えぞが島”、あるいは“えぞが千島”などと呼称するようになるのであるが、上記の「衣曾別嶋」も“えぞのわかれのし ま” と 読ん だ可能性 が充分考えられる。
 こうしてみると、渡嶋の“別”である「弊賂辨嶋」と「衣曾別嶋」は、“別”という説明と名称の意味が合致することからして、同一の地域を指示しているよ うに考え られる。
 しかも、源頼俊申文の中で「衣曾別嶋」と「閇伊」が並称されていることからすると、この両者は、近接した地域であると推定される。
 「閇伊」については、言うまでもなく岩手県の三陸地方を指示する地名であり、現在も“閉伊郡”などの地名が残っている。
 以上を総合すると、「弊賂辨嶋」は、北海道から分離して、しかも三陸地方の近傍ということになる。
 従って、その候補地は、おのずと下北半島の辺に絞られてくる。
 下北半島を“島”というのは、一見奇異に感じられるが、中世から近世にかけて秋田県の男鹿半島が“小鹿島”(おがしま)と 呼ばれていた例などからすると、決して不自 然 なことではない。
 やや意外かも知れないが、ここでは、「弊賂辨嶋」を下北半島に比定して置きたい。
 (このように想定すると、下北半島内に「弊賂辨嶋」の遺称地がないのかどうか気になるところである。現状では、これといった地名が見当ら ないのであるが、敢えて一つ候補を挙げてみると、東通 村の母衣 部(ほろべ)という地名が気になるところである。ヘロベ→ホロベと いう音韻の変化については、確信が持てないが、近似した名称であることは確かであろう。)
 推理の流れとしては、渡嶋=北海道という前提のもとで、「弊賂辨嶋」を後の「衣曾別嶋」と同一地域と考え、名称と地形の合致(わ かれの島)、および説明のついた地名との位置関係による限定(「閇伊」の近辺)という二つの基準を適用し て、下北半島が導出されたのである。

第4節 推理の補強(1)

 上記の推理を、さらに補強するために中世の「宇曽利鸖子別」という地名を取り上げてみたい。
 『諏訪大明神絵詞』(延文元年、1356年)には、「蝦夷千嶋ヘ ル ハ我国東北大海中 央ニアリ、日ノモト唐子渡党、此三類各三百三十三群 居セリ、今一嶋渡党、 其内宇曽利鸖子別萬堂宇満伊ナトイフ小嶋ト モアリ、此種類奥州津軽外往 来交易」という有名な一文 があ る。
 (この『諏訪大明神絵詞』には、「権祝本」や「梵舜本」など何種類かの写本があり、校訂も確定していない。上記の一文も筆者が選んだ、 最も意味の通りやすいと思われる文章である。)

 地名について言えば、要するに「蝦夷千嶋」という大地名の中に 「宇曽利鸖子別」 や 「萬堂宇満伊」という小地名があるということになるのであろう。
 このうち、「萬堂宇満伊」が“松前”(まつまえであることは、衆目のほぼ一致するとこ ろであるが、一方の「宇曽利鸖子別」については議論のあるところである。
 多くの人は、「宇曽利鸖子別」の鸖を鶏の誤りと考えてウソリケシ=ウスケシ(函館の古名)としているようであるが、鸖を 鶏としなければ、“ケ”とは読め ず、難点のあることは確かである。
 そこで「宇曽利・鸖子別」と分けて読み、「宇曽利」を下北半島に当てる人もいる。(清水潤三「文献に現われた蝦夷の分類的称呼につい て」や佐々木利和「中世の「蝦夷」史料」など。)
 このように、「宇曽利鸖子別」については、これを一つのまとまった地名と考える説と「宇曽利」と「鸖子別」の二つに分けて考える説が存在しているのであ る。
 文章を見る限り、「宇曽利鸖子別萬堂宇満伊」と表記され、“宇曽利と鸖子別”とは書かれていないことからして、一つに まとめて読む方が自然な よ う に思 われる。
 とはいえ、現実に「宇曽利」という地名が存在した以上、これを無視することも難しいところである。
 ただ、ここでの目的は、弊賂辨嶋が下北半島であるという推理を補強するところにあるので、どちらか一方を選ぶのではなく、双方の可能性を考えて、そ れぞれの 場合にどのように考えられるかを導出し、上記補強材料として使用することとしよう。
1.「宇曽利鸖子別」をひとまとまりの地名と考えた場合
 この場合、「宇曽利鸖子別」の読みについては一旦保留して、注目すべきは安藤師季願書(応仁二年、1468年)の「奥州 下國弓矢仁達本意、如本津輕外濱宇楚里鶴子遍地悉安堵仕候者、重而寄進可申處實也」という一文である。
 この中の「宇楚里鶴子遍地」が『諏訪大明神絵詞』の「宇曽利鸖子別」と 同一 地名であることは間違いあるまい。
 この願書は、熊野那智山に「津輕外濱宇楚里鶴子遍地」の所領回復を祈願しており、「宇楚里鶴子遍地」が所領として認識されている。
 ところが、もう一つ安藤宗季譲状(正中二年、1325年)を見ると、「ゆつりわたすつかるはなわのこほりけんかしましり ひきのかうかたのへんのかうならひにゑそのさたぬかのふうそりのかうなかはまのみまきみなといけのちとう御たいくわんしきの事」とあり、(漢 字に直すと“譲 り渡す津軽鼻和郡絹家嶋、尻引郷、片野辺郷、並びに蝦夷の沙汰、糠部宇曽利郷、中浜御牧、湊以下地頭御代官職の事”となるようである。)こ の譲り状では、 蝦夷については、“蝦夷の沙汰”という交易権のみが相続の対象とされており、その土地には何 の言及も なされていない。
 北海道は、近世の松前氏が無高の大名(一万石格)であったことからも知られるように農耕地としては把握されていなかった よ うで、中世においても、当然 農耕地とは認識されていなかったと想定される。
 この点、「宇楚里鶴子遍地」が所領として認識されていたとすると、その理由は、そこが農耕地であったからに違いないと思われる。
 このように「宇曽利鸖子別」=「宇楚里鶴子遍地」の比定地は、当時、非農耕地であった北海道よりも本州内の下北半島を含む地域に求めた方が、より自然で あると考えられる。
2.「宇曽利」と「鸖子別」を分けて読む場合
 「宇曽利」と「鸖子別」に分けた場合、「宇曽利」の比定は確定済みといってよい。「宇曽利」は下北半島全体、若しくは、その一部を示す古名であり、現在 も有名な“恐山”(お そ れ←うそ り)や“宇曽利山湖”といった遺称地が存在する。
 (一方の「鸖子別」については、北構保男『古代蝦夷の研究』の中に「ただし、“鸖子別”・“鶴子遍地”については、陸奥湾岸の“野辺地” に当てる見解もあるがいささか証明不足であり、現在のところ同一地名も近似地名も見当らないという事情にあるので、『安藤師季願書』の地が、津軽半島周辺 の外浜と、下北半島の宇曽利(宇楚里)とともに、陸奥湾付近に位置する可能性のある鸖子別とするか、それとも…」という記述があり、陸奥湾沿岸の野辺地に 比定する 説が存在す るようである。)

 以上、二つの場合を考えてみたのであるが、いずれの場合も「宇曽利鸖子別」は下北半島を含めた地名である可能性がある。
 『諏訪大明神絵詞』では、「宇曽利鸖子別」が「蝦夷千嶋」の中の「小嶋」とされていることからすれば、当時の下北半島 は、本 州内にありながら“蝦夷が千嶋”の一部として捉えられていたことにな る。
 これは、弊賂辨嶋=衣曾別嶋が下北半島であるという推理を補強するものであろう。

第5節 推理の補強(2)

 もう一つ推理の補強材料となるのが、「外が浜」という地名である。
 (「外が浜」の範囲については、必ずしも明確ではないが、津軽半島の竜飛岬の辺から陸奥湾の夏泊半島の辺にかけての沿岸地域一帯を指すと 考えて置けば間違いはないであろう。)
 中世の「外が浜」は、日本の東の境界とされていた地域であり、その言葉から受ける第一印象は、茫洋たる外海が眼前に広がる“地の果て”というところであ ろう。
 ところが、現実の「外が浜」は、陸奥湾の対岸に下北半島があり、津軽海峡の向こうに北海道が見渡せるという地域である。
 つまり、「外が浜」という地名の由来は、“地の果て”ではなく、“蝦夷が千嶋”という異域との境界にあるという点に求めざるを得ないのである。
 特に陸奥湾沿岸部の「外が浜」は、地形としては、湾内の“内が浜”であり、その対岸である下北半島が異域であることを前提にして、はじめて“外”と認識 さ れる地 形で ある。



第3章 前章の比定を前提にした推理

第1節 本章の推理について

 第2章では、渡嶋を北海道とする説を採用し、弊賂辨嶋を下北半島に比定してみたのであるが、本章では、そうした場合、その他の地名を現実の地形の中でど のように説明でき る かを述べてみることにしたい。
 以下の推理は、上記のような比定を前提とした解釈であり、それ自身で確固たる根拠を持った推理とは言い難いものである。
 そもそも、弊賂辨嶋=下北半島と いう比定自 体が、渡嶋=北海道説を前提にしていたのであるが、以下の推理は、さらに弊賂辨嶋=下北半島を前提にした推理であり、言わば仮定に仮定を重ねた推理であ る。
 なぜこのような推理をするかというと、それは、第2章の比定を間接的に補強しようとする意図があるからである。
 つまり、第2章の比定を前提とした場合、その他の地名を現実の地形の中でうまく説明できないとすれば、その前提に無理があったという評価を受ける 恐れが ある。
 逆に、その他の地名をうまく説明することができれば、無理のない前提であるという評価を受けることにもなろう。
 少なくとも、第2章の比定を前提としても不都合が生じなければ、間接的な補強になるであろう。

第2節 大河

 北征記事6年条では、「大河の側(ほとり)」に「渡嶋の蝦夷一千餘、海の畔に屯聚(いは)み て、河に向かひて營(いほり)す」とあるが、渡嶋の蝦夷が屯集する「大河」の畔は、北海道沿岸の何処かに求めるのが自然で あ ろう。
 そして、この地の蝦夷を攻撃していた粛慎が帰った本拠地は、弊賂辨嶋とされている。
 弊賂辨嶋が下北半島とすると、その位置関係からいって、「大河」は、おそらく津軽海峡のことではないかと思われてくる。
 この海峡を“しょっぱい川”と呼ぶようになったのは何時ごろなのか知らないが、古代にも同様の認識があったとして不思議ではあるまい。
 そうすると、阿倍比羅夫は、北海道の津軽海峡沿岸部に上陸した後、下北半島へ向かったことになる。
 それは、「大河」の畔にいた蝦夷の救援要請による偶発的な出来 事のように書かれているが、これに先立って、「阿倍臣、陸奥の蝦 夷を以て己が船に乘せて」という記述があり、「陸奥の蝦夷」を水先案内人にしたらしいことからすると、はじめから下北半島方面に向かう予定であったのかも 知れない。 (「陸奥の蝦夷」は、東北地方太平洋側の住人であると考えられる。この当時、東北地方日本海側の地域は、渡嶋を含めて“越”の管轄であった。)
 もし、そうだとすると、その目的は、“越の蝦夷”と“陸奥の蝦夷”の境界地帯の地理を確認することにあったのではないかとも想像できるが、これ は、すでに地名比定の範囲を越えた余計な空想というべきであろう。
 ところで、「大河」というのは、固有名詞というよりは、普通名詞のように感じられる。
 この点は、先に触れた渡嶋にしても、その後の蝦夷が千嶋にしても同様であ る。
 その理由は不明と言うほかないが、当時、農耕地ではなかった北海道に対して固有名詞を付けるという気運がなかったのかも知れない。

第3節 後方羊蹄

 江戸時代後半の旅行家、菅江真澄の日記「すみかの山」(『菅江真澄遊覧記、3』などに所収。)を見ると、現在の青森市 内、松 森という集落の近傍に小祠と森があり、そこが 「あらはばきの杜」とも「しりべつの林」とも呼ばれていたという記述がある。
 このとおり「後方羊蹄」(しりへし)の遺称地が青森市内にあったとすると、そこが最も魅力的な候補地である。
 北征記事5年条には、「問菟 の蝦夷膽鹿嶋」等が「後方羊蹄を以て、政所とすべし」と進言したことが記されている。
 この「政所」は、『日本書紀』の編者も訝るように郡ではなく、あえて「政 所」としているところからすると、やや特殊な機能を備えた官衙であった とも考えられ、例 えば、『続日本紀』養老四年(720年)春正月丙子条の「渡嶋津軽津司」の役所に相当するようなものであった可能性が考え られる。
 北征記事5年条では、続けて「膽鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領を置きて 歸る。」と記されているが、その意味するところは、「膽鹿嶋等」の言うとおりに「政所」を設置して、そこに「郡領」を配置したというところであろう。
 新たに建郡して郡領を任命したとは書かれていないので、そこに配置されたのは、津軽郡の郡領のうちの一人ではないかとも想像される。
 (これに類似した 事例としては、秋田城に出羽介を配置して、それが、や が て秋田城介と呼ばれるようになったことが思い起こされるであろう。)
 それはともかく、本州と北海道を結ぶ航路の拠点が青森市の辺に置かれていたとすれば、いかにも魅力的である。
 さらにもう一点、北征記事6年条で渡嶋の蝦夷が阿倍比羅夫に救援を依頼したときの言葉に「河を濟(わた)りて仕官(つ か)へ まつらむ」とあるが、「河」=大河を津軽海峡とする立場からすると、青森 市の辺に官衙が存在したというのは、極めて都合が良い。
 半ば願望を込めて、「後方羊蹄」は、青森市の辺と考えて置きたい。

第4節 問菟と肉入籠

 先ほどの「政所」設置の記事からすると、「問菟」(とひう) の蝦夷は、後方羊蹄やその周辺の事情によく通じていたと推測され、「問菟」という場所自体も、後方羊蹄から、さほど遠くない場所に求められるのではないか と考 えられる。
 遺称地としては、、小泊村の土漂(とひょう)とする説が良いと思われる。山 田秀三「津軽半島の記録」(同著『アイヌ語地名の研究、3』所収。)に“「問菟」は土漂であるとの説を何かで読んだようなうろ覚えがする。”とあ る。)
 また、阿倍比羅夫の船団が「至」った「肉入籠」(ししりこ)についても、「問菟」の近辺の停泊適地ではないかと思われる が、遺称地は 不明である。
 いずれにしても、この両者は、津軽郡内の小地名ではないかと推測される。

第5節 膽振鉏

 北征記事5年条に見える「膽振鉏」(いふりさへ)については、飽田・渟代(秋田・能代)の 2郡、および津軽郡と並んで記載されており、広さの面では、これらの郡に相当する広域地 名であったと考えるのが自然である。
 しかも、飽田、渟代、津軽、膽振鉏の順に書かれていることからすると、津軽よりも遠方の地域である可能性も考えられる。
 もし、そう考えた上で、渡嶋を北海道とし、弊賂辨嶋を下北半島とすると、「膽振鉏」の比定が難しくなってくる。
 北征記事6年条の陸奥の蝦夷と関係がある とすれ ば、太平洋側の何処かという可能性もあるが、特に遺称地と思われる地名も見当らず、現在のところ不明と言うほかない。
 このように「膽振鉏」については、若干説明が難しくなるが、一方で北海道や下北半島などに説得力のある比定地があるわけでもないので、第2章の比定に影 響を 及 ぼすようなことはなさそうである。
 (そもそも、広域地名かどうか、地名の記載順が地理的位置と対応しているかどうかは、可能性の問題であって、絶対にそうだというわけでは ない。適当な比定地が見付からない場合は、別の可能性を考えた方が良いのかも知れない。ただ「膽振鉏」の場合は、別の可能 性を考えても、これといった比定地は、見当らないであろう。

第6節 有間濱

 北征記事4年条に見える「有間濱」(ありまのはま)については、「齶田浦」(あぎたのうら=秋田の浦)の 中の一部とする説や津軽の十三湊(中世以降、江流末郡=えるま郡と呼ばれた地域内にある。)とする説などがある。
 いずれの説も決め手に欠けるのであるが、ここでは、わざわ ざ「齶田浦」とは別に地名を掲げてい ること や、そこで渡嶋=北海道の蝦夷を“大饗”していることからして、地理的に近い十三湊と考える説を支持して置きたい。



後記

 本稿は、あくまでも地名比定という枠 内で推理 を展開しているので、物足りない議論になったことは自覚しているつもりである。
 ただ、『日本書紀』の詳細な記述にまで踏み込んで分析をするとなると、どのような基準を設定して史実を析出するのかという難問が発生するし、現在それを 解決 するだけの用意もできてい ない。
 そこで、一つの工夫として、地名を史料製作者の地理的認識と して捉え、その認識を現在の地名で説明してみたわけである。
 いくつかの根拠を提示して、うまく説明できれば、その地名比定が正解となるのであるが、そのような努力をしても、結局は検証不能の仮説を一つ増やしただ け に過ぎないという評価があるかも知れない。
 しかし、複数の仮説があっったとしても、第1章第2節で述べた判断基準に照らして比較検討をすれば、自ずと優劣が定まってくるように思われる。
 地名比定の場合、現実の地形が厳然としてあるので、あ らかじめ判断基準を設定して置けば、仮説は一つに収束していくのではないかというのが現在の見通しである。



参考文献(順不 同。)

関係史料・史料集

 日本古典文学大系『日本書紀、下』(岩波書店、1965年)

 新訂増補国史大系『続日本紀、前篇』(吉川弘文館、昭和54年、普及版)
 海保嶺夫編『中世蝦夷史料』(三一書房、1983年)

渡嶋について言及している論考

 津田左右吉「粛慎考」(同著『日本古典の研究、下』、岩波書店、昭和47年、改版、所収)
 坂本太郎「日本書紀と蝦夷」(同著『日本古代史の基礎的研究、上』、東京大学出版会、1964年、所収)
 丸山二郎「斉明紀における阿倍臣の北進について」(同著『日本の古典籍と古代史』、吉川弘文館、昭和59年、所収)

 熊谷公男「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」(高橋富雄編『東北古代史の研究』、吉川弘文館、昭和61年、所収)
 熊田亮介「蝦夷と蝦狄―古代の北方問題についての覚書―」(高橋富雄編 『東北古代史の研究』、吉川弘文館、昭和61年、所収)
 北構保夫『古代蝦夷の研究』(雄山閣、平成3年)
 関口明『蝦夷と古代国家』(吉川弘文館、平成4年)
 海保嶺夫『中世の蝦夷地』(吉川弘文館、昭和62年)
 直木孝次郎『日本の歴史、2、古代国家の成立』(中公文庫、昭和48年)
 井上光貞『日本の歴史、3、飛鳥の朝廷』(小学館、1974年)
 高橋富『蝦 夷』(吉川弘文館、昭和38年)
 高橋富『古 代蝦夷を考える』(吉川弘文館、平成3年)
 新版県史シリーズ『北海道の歴史』(山川出版、2000年)
 新版県史シリーズ『青森県の歴史』(山川出版、2000年)


その他関係する論考

 菅江真澄著、内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記、3』(平凡社ライブラリー、2000年)
 山田秀三『アイヌ語地名の研究、3』(草風館、平成7年、新装版)
 清水潤三「文献に現われた蝦夷の分類的称呼について―異文化共存に関する一試論―」、『史学』33巻1号、昭和35年
 海保嶺夫『エゾの歴史 北の人びとと「日本」』(講談社、1996年)
 佐々木利和「中世の「蝦夷」史料」、『どるめん』11、1976年
 谷川健一『白鳥伝説、下』(集英社文庫、1988年)

めんめ じ ろう 平成17年9月25日公開)


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