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極私的インドとロック パート6 〜偉大なるインド人ロッカー、フレディ・マーキュリー〜


 グラミー賞シンガーであるノラ・ジョーンズが、かのラビィ・シャンカールの娘であることは案外と知られていないらしい。
 ご本人のオフィシャル・サイトにもそうしたことにはいっさい触れられていないが、私はどうしたはずみからかデビュー当時からそうした事実を知っていて、「ラビィ・シャンカールの娘が、またずいぶんとモダーンで心地よい音楽を創っているものだなあ」という一種感慨深い想いで、彼女のことを見ていた時期がある。

 じつは、もっとスゴい隠れインド人ロッカーがいる。
 ブリティッシュ・ロック史上に燦然と輝くクイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーである。

 1973年、私も発売直後に即買ったクイーンの1stアルバム『戦慄の女王』のライナーノートには「フレディ・マーキュリーは英領ザンジバル(アフリカだ)生まれ」とはあったものの、「インド人である」とは、当然ながらまったく書かれていない(余談だが、デビュー当時、ベースのジョン・ディーコンはアルバムのジャケットや宣伝資料等、すべて「ディーコン・ジョン」と表記されていた)。
 その後、少なくともフレディ・マーキュリーの生前は、いっさいインド人である旨は公表されなかったはず。

 不幸な彼の死後、まず出てきたのは「ペルシャ系」ではないかという話だった。
 それが、次第に「インド系らしい」とか、「ペルシャ系インド人のようだ」みたいな形で、より明確に変化していった。
 こうした「噂」の広がりが、ワールド・ミュージックの世界的興隆、あるいはヌスラット、タルヴィン・シン、ニティン・ソーニーなどインド亜大陸系ミュージシャンの活躍という時代背景と一致するのは偶然ではあるまい。

 そして21世紀に入り、ついに活字や電波で彼の生い立ちを語るとき、「パールスィー、つまりはゾロアスター教徒(古代ペルシャをルーツとする世界最古の宗教のひとつ。別名「拝火教」。という具合に、世界史で習ったはず)の家系から出たアフリカ生まれのインド人であり、生後少し経ってから、両親ともどもインドに戻り、ムンバイから程近い風光明媚な丘陵の地Panchgani(ロンリープラネットにはちゃんとこの地が紹介されている。南インドでいえばウーティのような、高原の避暑地みたいなところらしい)で幼少時代をすごした」というフレーズがなくてはならないものとなったのである。

 少し前、WOWOWで「フレディ・マーキュリー・ストーリー」みたいな内容の番組がオンエアされた。ごらんになった方もいることだろう。全体としても、さすがイギリス制作と唸らせる中味の濃いプログラムだったが、このとき、英人スタッフがしっかりインドまで行って、フレディが通っていた小学校までキッチリと取材していたのには、けっこう感激した憶えがある。

 クイーンが登場した1973年頃は、時代的にも、まだ「インド人」とは名のれなかったのだろう(ベンガル人の奥さんがいたロバート・プラント。ちょっと違うが、ニカラグア人のビアンカと結婚したミック・ジャガー、黒人であるグロリア・ジョーンズと結婚したマーク・ボランなど、お相手が非西洋人だと、カッコいいノリで語られた。しかし、本人が欧米人ではないとなると、プレスや世間がともにまだ冷ややかな反応だったのは想像に難くない)。

 それが、エイズであることの公表、そしてその翌日の死からはじまり、次第に彼の素顔が明らかになった。その到達点のひとつが、インド出身であるということだ。

 じつはアフリカ生まれのインド系若者がスウィンギング・ロンドンのキングス・ロードを牛耳って、世界に進出していく。痛快な話である。
 一方、エキセントリックで装飾過剰な音楽性と生き方が、いいふるされたフレーズだが「混沌のインド」から派生しているとすれば、妙に納得できる話でもある。

 本名、Farrokh Bulsara(「ファーロク・ブルサラ」と読むのか?)。
 英文バイオを読むと、好きな食べ物のひとつに「インド料理」とあるのが、ちょっと泣かせる。

【クイーンの英文公式サイトはこちら
【代表的なファンサイトはこちら
 

ミュージックライフ誌にも掲載されたクイーン初期のポートレート。
左端がフレディ。インド人くさい顔にインドくさいコスチュームだ。



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