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極私的インドとロック パート3 〜もっともインドを感じさせるレッド・ツェッペリン〜

 ロックとインドの濃い関係といったら、古くはビートルズ、とくにラビ・シャンカールとの交流を含めたジョージ・ハリスンの生き方やジョン・レノンの傾倒ぶり、あるいはサイケデリック・ロックの波、新しくはクーラ・シェイカーあたりの名前を思い浮かべるのがふつうだろう。

 ところが私の場合、インドっぽいロックといえば、レッド・ツェッペリンが今も昔もナンバーワンの存在である。

 ブルース、ロックン・ロール、トラッド、インド音楽、ファンク、レゲエ、マグレブ音楽など、世界中の音を縦横無尽にミックスし、オリジナリティあふれるロック的フォーマットに解釈し昇華し切る。これを唯一無二のスタイルで完遂したのがレッド・ツェッペリンの音楽性だ。

 ツェッペリンの音楽、そしてグループとしての存在感にはある種の混沌ぶりがつきまとう。この混沌ぶりは不思議な底なしの多様性であり、「得体の知れなさ」でもある。

 この「得体の知れなさ」こそが、多様性の国インドに共通するレッド・ツェッペリンのインドっぽい魅力の源泉である。

 たとえばリズム。
 ジョン・ボーナムのドラムは、スタックスやモータウンのソウル、あるいはニューオリンズのセカンド・ライン・ファンクなどに影響を受けたといわれるが、私には南インドのカルナティック音楽のムリダンガムやガタムによる超絶的なサウンドがオーバーラップしてならない。
 時間を自在に伸縮しつつ、ときにタイミングを完全にはぐらかしたかのようにも聞こえる「おかず」の入れ方など、その典型である(とくに『聖なる館』から『プレゼンス』あたりに顕著。ついでにいえば、Red Hot Chili PeppersのChad Smithはもっともボンゾ先生の遺志を現代に継いだドラマーであり、レッチリの音楽にもツェッペリンに似た混沌ぶりが感じられる)。

 バンド全体のリズム処理もユニークだ。たとえば4枚目アルバムの1曲目 「ブラック・ドッグ」。ふつうのロックでは絶対にあんなリズムのミックスは考えないし、本来不自然なビートの複合をあれだけ自然に実践することもまた稀有の技。5、6、7、9拍子などが頻発されるインド古典音楽に通ずる数学的ビートを意識させるに十分だ。

 リーダーであるジミー・ペイジは顔つきが東洋っぽいだけでなく、やることもアジア的だった。
 ファースト・アルバムの「ブラック・マウンテン・サイド」、さらにさかのぼってヤードバーズ時代の「ホワイト・サマー」(最近日本でも出た『リトル・ゲームズ』CD等に収録)をあたり聞けば、彼のインド〜中近東〜北アフリカのサウンド志向はとりあえずすぐにわかるはず。
 これらの曲で使われるDADGADチューニングはアイリッシュ・トラッドからとったものだが、トルコやアラブで使われるサズという楽器の響きに似るとともに、シタールやヴィーナ的なインド音楽のニオイもプンプンしている。
 彼はジョージ・ハリスンやブランアン・ジョーンズとは違って正面切ってシタールを使わなかった。あくまでギターに固執しつつ、巧みにインドやアラブ、マグレブっぽさを出しているところが、したたかなクセ者である。

 そうやって考えると3枚目の「since i’ve been loving you」や『プレゼンス』の「tea for one」における、わざとらしい泣きのマイナー・フレーズからもアジア的な美学が漂ってくるというものだ。

 ロバート・プラントはツェッペリン結成前からインド人のガール・フレンドとつきあっていて(離婚したが後の夫人である)、フィルムソングから古典までインド音楽全般を聞きまくっていたという。プライベートからして、きわめてインドに接近していたのである。そう思うと、彼のシャウトや節回しがヌスラットのように聞こえることもある。

 ベースとキーボードのジョン・ポール・ジョーンズは一見地味な存在ながら、じつは深遠な機能をバンド内で担っていた。
「communication breakdown」のスーパースピードなベースラインがコピーしづらいのでわかる通り、プレイヤーとしての卓越ぶりはもちろんだが、より重要なのは、彼がキーボードにまわったときの編成であった。
 このときツェッペリンは、奇しくもドアーズとおなじラインアップになるのである。
 ペイジやプラントは「ラブ」や「モビーグレープ」といったマニアックなアメリカ西海岸のバンドへの傾倒はよく語っていたが、ドアーズやジャニス・ジョプリンへの憧憬を面と向かって口にしなかった。
 とはいえ、ドアーズとジャニスが、ひとつの音楽的理想として彼らの頭の中にとりついていたのは間違いないだろう。
 ドアーズのサウンドはフェイクなインド的東洋ノリを随所で醸し出していたし、ジム・モリスンやジャニスのステージ衣装はサイケなインド系の典型であった。
 もともとアメリカ西海岸のサイケ好きだったツェッペリンが、音楽的にも、また時代的にも影響を受けないわけはなかったのである(ついでにいえばロバート・プラントは絶対にジャニスのファンだったはず)。

 全体とすれば、一見あるいは一聴してモロにインドという要素からレッド・ツェッペリンは程遠いところにあった。「カシミール」という曲はあっても、中味は中近東的だったわけだし。

 私にいわせれば、そこも含めて、あるいはそれでもなおツェッペリンは何ともインド的である。
 とりわけ、一筋縄にいかないところが何ともインドっぽいのだ。

 インド美人と結婚していたロバート・プラント。ミュージック・ライフ誌の「he said she said」では守銭奴の黒魔術好きキャラとして有名だったジミー・ペイジ(わかる人はベテランのロックファンだ)。とにかくけたはずれだったジョン・ボーナム。ツェッペリン以前にもドノバンやストーンズのアレンジを手がけ、幅広い音楽的素養を持ったジョン・ポール・ジョーンズ。
 ビートルズやストーンズとは異なる意味でキャラの際立った4人であった。

 日本で人気沸騰した70年代前半、彼らはディープ・パープル、フー、ブラック・サバス、ユーライヤ・ヒープといったグループとともに「ブリティッシュ・ハード・ロック」の重鎮とされていた。クイーンやエアロスミス、キッスがデビューする前の話であり、アメリカではグランド・ファンクがツェッペリンの対抗馬と見なされていた。

 中学生だった私はそうした扱いに大きな違和感を感じていた。
 まず「パープルなどとツェッペリンはぜんぜん違う」と思ったし、それ以上に「ツェッペリンてハード・ロックじゃないよな」というか、何ともひとことではいえない屈折した存在感、いうなれば彼らの前後に登場したロックバンドとは断絶した孤高のオリジナリティを感じていた(「天国への階段」の歌詞の意味は未だに謎だ)。

 そうした奇妙な存在感は払拭されず、年々腰からズリさがっていくジミー・ペイジのレスポールとともに、「ツェッペリンて、ジョージ・ハリスンとは違う意味で何となくインドっぽいな」という感覚が強まっていった。

 実際インドに関わるようになってからも「ツェッペリンはインドっぽい」という印象は不変だ。

 ボリウッド映画の派手派手しさ、カルカッタの混沌、ゴアの砂浜、デリーのモスク、カシミールの寒さ。何でもありでわけのわからぬドロドロした魅力がインドとツェッペリンの共通項だ。
 カルナテイック音楽を聞き込んでから、ボンゾ先生のドラミングに耳を傾ければ、とりあえずは万全であろう。



ぜんぜんレッド・ツェッペリンに関係なさそうな、不勉強で名前を知らないミャンマー人歌手のカセット(曲によって男女の歌手が歌い分けたり、デュエットしている)。ところがドッコイ、B面最後に「天国への階段」ミャンマー語バージョンが収録されているのだ。ギターソロをはじめとしたバックのサウンドも含め、意外にいい雰囲気なので二重の驚き。新大久保で購入。


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