日蘭交流関係年表 |
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第1版 2006年6月9日 |
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西暦 |
日本年号 |
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事 項 |
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1581 |
天正 九 |
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ネーデルランド連邦共和国独立を宣言 |
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1585 |
天正十三 |
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オランダ人ディルク・シナ長崎に再度渡来 |
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1600 |
慶長 五 |
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オランダ船デ・リーフデ号豊後に漂着、ウィリアム・アダムズ(三浦安針)ヤン・ヨーステン(耶楊子)ら上陸 |
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関ヶ原の戦 |
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イギリス東インド会社設立 |
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1602 |
慶長 七 |
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連合オランダ東インド会社(VOC)設立 |
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1603 |
慶長 八 |
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徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く |
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1609 |
慶長十四 |
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スペイン・オランダの間にアントワープ十二年休戦条約成立(事実上のオランダ独立) |
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VOC、東インド総督制度を定める |
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平戸にオランダ商館開設、日蘭正式通商始まる。初代商館長スペックス |
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1612 |
慶長十七 |
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二代商館長ブルーワー着任、駿府に参府して国書交換 |
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1613 |
慶長十八 |
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イギリス商館設置(〜1623) |
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1615 |
元和 元 |
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大坂夏の陣、豊臣氏滅亡 |
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1616 |
元和 二 |
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徳川家康死去 |
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幕府、キリシタンを厳禁し、唐船以外の外国船の入港を長崎・平戸に限定 |
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1617 |
元和 三 |
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オランダ商館、貿易地平戸限定の命令を受ける |
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1619 |
元和 五 |
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オランダ、バタビア城を築きここに総督府を移す(*バタビア(Batavia)はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称) |
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1623 |
元和 九 |
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徳川家光三代将軍となる |
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イギリス商館閉鎖 |
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1624 |
寛永 元 |
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スペイン関係断絶 |
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オランダ、タイオワン(台湾)占領 |
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1628 |
寛永 五 |
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浜田弥兵衛、タイオワン(台湾)でオランダと争い、人質を長崎に連行。幕府はオランダ船を抑留しオランダ人を大村に囚禁、オランダ商館を閉鎖(タイオワン事件) |
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1632 |
寛永 九 |
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徳川家光死去 |
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総督スペックスの命によりヌイツ人質として平戸に到着、タイオワン事件解決 |
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1633 |
寛永 十 |
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幕府、奉書船以外の海外渡航を禁ずる(第一次鎖国令) |
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平戸オランダ商館再開 |
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幕府、商館長の江戸参府を定例化する |
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1634 |
寛永十一 |
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長崎出島(でしま)着工 |
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1635 |
寛永十二 |
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幕府、日本人の海外渡航を禁止し、中国人の入港を長崎に限り、五百石積以上の大船建造を禁ずる(第二次鎖国令) |
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1636 |
寛永十三 |
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幕府、ポルトガル人混血児と日本人母親二百八十七人を追放 |
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長崎出島完成し、司令官以下ポルトガル人をここに監禁、ついで追放 |
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1637 |
寛永十四 |
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島原・天草の乱起きる |
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1638 |
寛永十五 |
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商館長クーケバッケル、レイプ号で島原参戦 |
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1639 |
寛永十六 |
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幕府、平戸・長崎のオランダ人・イギリス人混血児と日本人母親の追放を命ずる |
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幕府、ポルトガル人の入国を禁止(鎖国の完成) |
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1641 |
寛永十八 |
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オランダ商館を長崎出島に移す |
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1643 |
寛永二十 |
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ブレスケンス号、陸中南部領山田浦に漂着、船長スハープら十名捕縛され、江戸で参府商館長エルセラックに引渡される |
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1648 |
慶安 元 |
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ウェストファリア条約により三十年戦争(1618〜)終結、ネーデルランド連邦共和国の独立承認 |
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1652 |
承応 元 |
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第一次英蘭戦争(〜1654) |
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1655 |
明暦 元 |
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長崎で糸割符(パンカド)商法を廃し、この年より相対売買(あいたい:自由取引)制とする(*糸割符(いとわっぷ)とは、江戸時代における生糸輸入の方式) |
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1657 |
明暦 三 |
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江戸大火(振袖火事)、商館長ワーヘナール罹災 |
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1659 |
万治 二 |
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伊万里焼の大量輸出始まる |
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1665 |
寛文 五 |
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第二次英蘭戦争(〜1667) |
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1668 |
寛文 八 |
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幕府、丁銀(ちょうぎん)の輸出を禁じ、金貨を貿易決済に用いる |
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1672 |
寛文十二 |
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第三次英蘭戦争(〜1674) |
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1680 |
延宝 八 |
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徳川綱吉、五代将軍となる |
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1682 |
天和 二 |
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綱吉、参府商館長カンシウス謁見のさい、初めて歌舞音曲を命ずる |
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1684 |
貞享 元 |
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幕府、天文方(てんもんかた)を置き、貞享暦を作り、渋川春海(保井算哲)麻布の自宅を天文台とする |
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1685 |
貞享 二 |
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幕府、糸割符(パンカド)法を復活、定高(じょうだか)商売をオランダ・中国に適用し、オランダ船の貿易額を銀三千貫、脇荷四百貫(合わせて金五万両)とする |
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医官クローン、筑前藩医原三信に蘭方医免状を授ける |
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1688 |
元禄 元 |
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ウィレム三世英国王となる |
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1690 |
元禄 三 |
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ドイツ人医官ケンペル、長崎に着任 |
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1697 |
元禄 十 |
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幕府、糸割符会所(かいしょ)その他の事務を統合して長崎会所を設置 |
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1698 |
元禄十一 |
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幕府、銅代物替(しろものがえ)五千貫に俵物による代物替二千貫の追御定高を加える(〜1709) |
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1700 |
元禄十三 |
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幕府、翌年よりオランダ船の隻数を四〜五隻とする |
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1712 |
正コ 二 |
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ケンペル『廻国奇観』(ラテン語、鎖国論を含む)刊 |
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1715 |
正コ 五 |
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長崎貿易の定高貿易法を修正する新例(正コ新例)を定め、翌年施行、オランダは船を二隻とし、定高三千貫を据え置き、銅を百五十万斤とし、銅代物替廃止 |
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1716 |
享保 元 |
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徳川吉宗、第八代将軍襲職、享保改革を始める |
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1720 |
享保 五 |
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吉宗、唐船持渡(もちわたり)漢訳洋書輸入弛禁(しきん)令 |
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幕府、オランダ船輸出銅額を百万斤とする |
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1721 |
享保 六 |
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幕府、江戸小石川に薬園を設ける(翌年養生所設置) |
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1725 |
享保 十 |
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オランダ人ペルシア馬を輸入、献上 |
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1729 |
享保十四 |
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ケンペル『日本誌』(英文)刊 |
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1740 |
元文 五 |
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青木昆陽・野呂元丈、吉宗の内命によりオランダ語学習を始める |
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1742 |
ェ保 二 |
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幕府、翌年よりオランダ人の取引額を半減し、内輸出銅額を五十万斤とする(以後多少の増減あり) |
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1754 |
宝暦 四 |
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山脇東洋、京都郊外で初めて人体解剖を行う |
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1765 |
明和 二 |
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幕府、オランダ人の江戸参府を今後隔年とするが、実施されない |
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ワット、蒸気機関を改良 |
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1771 |
明和 八 |
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前野良沢・杉田玄白・中川淳庵、江戸小塚原(こつかっぱら)の人体解剖を見て『ターヘル・アナトミア』の翻訳を志す |
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1772 |
安永 元 |
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田沼意次、老中となる(〜1786) |
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1774 |
安永 三 |
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前野良沢ら『解体新書』刊 |
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1776 |
安永 五 |
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アメリカ独立宣言 |
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1779 |
安永 八 |
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商館長ティツィング着任 |
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1780 |
安永 九 |
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第四次英蘭戦争(〜1784) |
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1783 |
天明 三 |
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司馬江漢銅版画を始める |
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1786 |
天明 六 |
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大槻玄沢、仙台藩医となり、江戸に蘭学塾芝蘭堂を開く |
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1787 |
天明 七 |
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松平定信、老中となる |
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1788 |
天明 八 |
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大槻玄沢、『蘭学階梯』刊 |
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1789 |
寛政 元 |
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フランス大革命起きる(〜1799) |
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1790 |
寛政 二 |
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幕府、オランダ船の取引額を本年より七百貫と定め、今後の来航船数を一隻に限り、江戸参府を四年目ごとと改める |
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1791 |
寛政 三 |
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幕府、漂着異国船取扱令を下す |
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1792 |
寛政 四 |
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ロシア使節ラックスマン、伊勢漂民光太夫らを護送して根室に至る |
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1796 |
寛政 八 |
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稲村三伯ら『波留麻和解(はるまわげ)』(江戸ハルマ)成り、刊行始まる |
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1798 |
寛政 十 |
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出島大火、カピタン部屋以下十三棟焼失 |
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幕府、向う五カ年オランダ船来航数を二隻とし、取引額を三百貫増額する |
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1799 |
寛政十一 |
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オランダ東インド会社解散、国営となる |
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1801 |
享和 元 |
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志筑忠雄(しつきただお)のケンペル『鎖国論』訳成る |
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1802 |
享和 二 |
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商館長ワルデナール参府 |
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1803 |
享和 三 |
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ドゥーフ商館長となる |
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1804 |
文化 元 |
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ロシア使節レザノフ長崎に来航、通商を要求する |
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1806 |
文化 三 |
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幕府、古来の薪水供給令維持を明示 |
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オランダ王国成立(〜1810) |
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1808 |
文化 五 |
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間宮林蔵ら、樺太探検、間宮海峡発見 |
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イギリス船フェートン号、長崎港侵入、奉行松平康英切腹 |
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天文方高橋景保、長崎通詞馬場貞由・本木正栄を招き世界地図作成に着手(*通詞:通訳。特に、江戸時代、外国貿易のために平戸・長崎に置かれた通訳兼商務官。唐通事・オランダ通詞があった) |
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1809 |
文化 六 |
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出島カピタン部屋再建成る |
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1810 |
文化 七 |
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オランダ仏領となる |
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1811 |
文化 八 |
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幕府、天文方に番所和解(ばんしょわげ)御用を置き、ショメール辞書の訳述を始める |
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1812 |
文化 九 |
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ドゥーフ、オランダ通詞らと『道訳(ドゥーフ)ハルマ』の編集に着手 |
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1814 |
文化十一 |
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ウィレム一世即位し、オランダ独立回復 |
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1815 |
文化十二 |
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ウィーン会議、ベルギーを含むネーデルランド王国を承認 |
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杉田玄白『蘭学事始』成る |
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1817 |
文化十四 |
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オランダ定期船復活、商館長コック・ブロムホフ着任、オランダ独立回復を伝える |
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1821 |
文政 四 |
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オランダ船駱駝を舶載、江戸で興行 |
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伊能忠敬『大日本沿海実測地図』完成、献上される |
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1823 |
文政 六 |
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商館長ステュルレル、医官シーボルトと共に着任 |
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1824 |
文政 七 |
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シーボルト、長崎郊外に鳴滝塾を開く |
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1825 |
文政 八 |
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幕府、異国船無二念打払令を出す |
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1826 |
文政 九 |
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シーボルト、商館長ステュルレルと共に江戸参府。桂川甫賢・高橋景保と会う |
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1828 |
文政十一 |
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シーボルト離任直前、禁制品持出し発覚、高橋景保禁固(翌年牢死)(シーボルト事件) |
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1829 |
文政十二 |
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シーボルト国外追放、離日 |
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1832 |
天保 三 |
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シーボルト『日本』刊行始まる |
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1833 |
天保 四 |
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『道訳ハルマ』完成、献上 |
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この年天保の飢餓始まる(〜1837) |
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シーボルト『日本動物誌』刊行始まる |
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メイラン『日本貿易史』刊 |
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ドゥーフ『回想記』刊 |
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フィッセル『日本国誌』刊 |
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1834 |
天保 五 |
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シーボルト『日本植物誌』刊行始まる |
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1837 |
天保 八 |
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アメリカ船モリソン号、漂民護送のため浦賀・鹿児島に来り撃退される |
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1838 |
天保 九 |
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緒方洪庵、大坂に適々斎塾(適塾)を開く |
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1839 |
天保 十 |
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渡辺崋山・高野長英投獄される(蛮社の獄) |
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1840 |
天保十一 |
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イギリス艦隊、舟山、ついで広東を攻撃(アヘン戦争) |
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1841 |
天保十二 |
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水野忠邦、老中首座となり天保の改革に着手 |
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長崎町年寄高島秋帆、徳丸が原で洋式銃隊訓練を行う |
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天保方で兵書の翻訳始まる |
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1842 |
天保十三 |
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幕府、異国船打払令を撤去して薪水供給令に復す |
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幕府、蘭書翻訳の出版を町奉行の許可制とする |
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1843 |
天保十四 |
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佐藤泰然、佐倉に順天堂を開く |
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1844 |
弘化 元 |
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オランダ国王ウィレム二世開国勧告の遣日使節コープス、長崎着、長崎奉行応接し勧告を拒絶 |
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1846 |
弘化 三 |
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アメリカ軍艦コロンブス号、浦賀に入港、通商を求め、幕府拒絶 |
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フランス軍艦クレオパートル号、長崎に来航 |
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1849 |
嘉永 二 |
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医官モーニッケ、牛痘接種に成功 |
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1850 |
嘉永 三 |
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商館長レフィスゾーン参府(最後の江戸参府) |
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1852 |
嘉永 五 |
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シーボルト、ウィレム三世に日本開国交渉を進言 |
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商館長兼遣日外交代表ドンケル・クルティウス着任、ペリー来航を風説書で予告(*風説書(ふうせつがき)は、長崎の出島へオランダ船が入津するごとに、一年任期で就任する商館長が長崎奉行に海外情報を取りまとめて提出し、それを日本通詞に翻訳させ、江戸の徳川幕府に送付したもの。この風説書による海外情報の提供は、幕府がオランダ商館長に義務付けていたものであり、これを始めた寛永年間はイスパニアやポルトガルの世界発展の情報を収集するため、主にヨーロッパ、インド、中国の3地域の出来事を記述させていた) |
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1853 |
嘉永 六 |
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ペリー艦隊、浦賀に来航、久里浜で国書を手交 |
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ロシア使節プチャーチン長崎に来航 |
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幕府、大船建造の禁を解き、海防大号令を発す |
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1854 |
安政 元 |
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ペリー艦隊再来、日米和親条約(神奈川条約)締結、下田・箱館開港 |
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オランダ軍艦スームビング号(観光丸)長崎に来航、船長ファビウス、地役人らに海軍伝習 |
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イギリス使節スターリング長崎に来航、日英和親条約締結 |
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オランダにも下田・箱館開港、通商は長崎で従来通り |
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1855 |
安政 二 |
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プチャーチン、下田で日露和親条約締結(1855年2月、露暦同1月、安政元年12月) |
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スームビング号再来、将軍に献上され、ペルス・ライケンによる海軍伝習開始 |
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1856 |
安政 三 |
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日蘭和親条約締結(1856年1月30日、安政2年12月22日) |
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幕府、洋学所を改め蕃所調所(しらべしょ)設置 |
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幕府、江戸に講武所を開き、高島秋帆、砲術指南役となる |
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アメリカ総領事ハリス、通訳ヒュースケン、下田に着任 |
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カントンにアロー号事件、第二次アヘン戦争起きる(〜1860) |
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1857 |
安政 四 |
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講武所内に軍艦教授所を置く(1864年軍艦操練所と改称) |
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幕府、長崎飽の浦に鎔鉄所(のち製鉄所)着工 |
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幕府発注のヤパン号(咸臨丸)長崎着、カッテンディーケ第二次海軍伝習 |
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日蘭追加条約(通商)、ついで日露追加条約締結(長崎・箱館通商) |
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ポンペ、医学講義を始める |
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1858 |
安政 五 |
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長崎奉行、絵踏を中止(1858年2月、安政4年12月) |
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日米修好通商条約締結 |
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日蘭修好通商条約締結・日露修好通商条約締結 |
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日英修好通商条約締結、ついで日仏修好通商条約締結 |
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福澤諭吉、築地鉄砲洲に蘭学塾を開く |
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1859 |
安政 六 |
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幕府、長崎海軍伝習所を閉鎖 |
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オランダ領事兼オランダ貿易会社日本代表アルベルト・ボードワン着任 |
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出島オランダ商館閉鎖、領事館となる |
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五カ国通商条約発効、神奈川成仏寺、ついで長延寺、オランダ横浜領事館となり、江戸長応寺、オランダ使臣館となる |
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シーボルト、子アレキサンデルと再来 |
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安政大獄、橋本佐内、吉田松陰ら刑死 |
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オランダ生まれのアメリカ宣教師フルベッキ来日 |
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1860 |
万延 元 |
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日米通商条約批准書交換のため、遣米使節出発、咸臨丸護衛のため随行 |
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井伊大老桜田門外で暗殺される |
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オランダ総領事ド・ウィット着任 |
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アメリカ公使館通訳ヒュースケン、麻布で殺害(1861年1月、万延元年12月) |
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1861 |
文久 元 |
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シーボルト、幕府の外事顧問となる |
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ポンペ、長崎に西洋式病院養生所(1865年遠セ館と改称)を開設 |
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長崎鎔鉄所竣工 |
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幕府、種痘所を西洋医学所(のち医学所)と改称、医学教育を始める |
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新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市延期交渉のため遣欧使節竹内保コ出発(1862年1月、文久元年12月) |
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1862 |
文久 二 |
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シーボルト、東インド総督の命により日本を去る |
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軍医アントニウス・ボードワン(アルベルトの兄)長崎に着任。ポンペと交代する |
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内田恒次郎・榎本武揚(たけあき)、西周(あまね)、津田真道(まみち)ら二十五名、オランダ留学生として出発 |
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1863 |
文久 三 |
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長州藩、外国船砲撃(下関事件) |
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鹿児島湾で薩英戦争 |
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鎖港交渉のため遣欧使節池田長発(ながおき)出発(翌年パリ協定のみで帰国) |
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1864 |
元治 元 |
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幕府、神戸に海軍操練所を設け、勝海舟頭取となる(〜1865) |
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幕府、パリ約定廃棄 |
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四国連合艦隊、下関砲撃、長州藩と講和 |
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1865 |
慶応 元 |
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イギリス公使パークスら四国艦隊攝海進出、兵庫開港を迫る |
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条約勅許、但し兵庫開港は許さず |
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西周・津田真道らオランダより帰国(1866年2月、慶応元年12月) |
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1866 |
慶応 二 |
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軍医ハラタマ来日、長崎医学所の分析窮理所主任となる |
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幕府、学術修行・貿易のための海外渡航を許す |
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英・米・仏・蘭四国と改税約書調印 |
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幕府、軍艦操練所を海軍所と改称 |
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幕府、講武所を陸軍所と改称 |
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福澤諭吉『西洋事情』刊 |
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1867 |
慶応 三 |
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パリ万博参加のため遣仏使節徳川昭武出発 |
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慶喜、大坂城で四国公使と個々に謁見、条約履行、兵庫開港を約す |
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榎本武揚らオランダ製軍艦開陽丸で帰国 |
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慶喜、大政奉還 |
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1868 |
明治 元 |
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王政復古(1868年1月3日、慶応3年12月9日) |
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明治天皇紫宸殿で五箇条の誓文を神明に捧げる |
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江戸を東京と改称 |
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榎本武揚ら五稜郭にて抵抗、開陽丸江差で沈没 |
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1869 |
明治 二 |
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版籍奉還 |
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太政官制を布き、外務省・開拓使を置く |
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1870 |
明治 三 |
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横浜でゲーテ座開設 |
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1871 |
明治 四 |
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廃藩置県 |
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条約改正準備交渉のため岩倉具視ら遣米欧使節出発 |
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1872 |
明治 五 |
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土木技師、ファン・ドールン来日 |
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太陽暦採用(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする) |
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1873 |
明治 六 |
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遣米欧使節、オランダ訪問を経て帰朝 |
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土木技師ヨハネス・デレーケ、エッセル来日 |
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1878 |
明治十一 |
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遣米欧使節の報告書『米欧回覧実記』刊行 |
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1880 |
明治十三 |
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三国港改修工事完成 |
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1882 |
明治十五 |
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猪苗代、安積(あさか)疎水完成 |
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1900 |
明治三三 |
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木曾川治水、三川分流改修工事完成 |
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参考文献 |
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・「近世日本とオランダ」金井圓著 |
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・「日蘭交流の歴史を歩く」KLMオランダ航空編 |
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