さった峠からの眺望
また、さった峠からの富士を見たくなり由比駅を下りた。今日は清水までぶらり独り旅である。寺尾、倉沢とひなびた家並みが続く。平日なので土地の住人以外は見当たらない。二キロばかり歩き、峠の入口にある望嶽亭藤屋についた。
秋里籬島の東海道名所図会や廣重の隷書東海道で知られた茶屋である。また、官軍に追われた山岡鉄舟をかくまい地下から逃した故事があることでも有名である。
望嶽亭のご当主松永宝蔵さんは「東海道は日本晴」の著者であり、今日お目にかかることができれば挨拶をしたい。
亭の中に入り声をかけたが返事がない。「ただ今開放中」の張り紙があったので、無用心だと思いつつ座敷に上がらせてもらった。
東海道の案内書などには盛業中とあったが茶屋は開いていない様子である。二部屋に亘って、「東海道は日本晴」の原画などが展示されていた。
一通り拝見した後、玄関を出たら外に小柄な老婦人がおられた。老婦人は急いで中に入り「どうぞお入り下さい」と私を案内する。どうやら奥さんらしい。
すでに拝見させていただいたことを告げると、奥に山岡鉄舟をかくまった部屋があるので案内するとおっしゃる。
板の間の廊下を通り奥座敷に入った。壁が相当分厚く頑丈な造りの部屋である。蔵座敷と呼ぶそうだ。
原の白隠禅師の書、寛政の歌人大伴大江丸や雪中庵完来の柱かけ、山梨稲川、蜀山人など、往時、定宿としていた旅の文人、墨客などのゆかりのものが展示されている。
中央のテーブルには鉄舟が残していった当時最新式のフランス製十連発のピストルなどもある。
部屋の隅にある蓋を開けると地下へ下りる隠し階段があった。この階段から鉄舟が逃れたのだ。下りようと思ったが遠慮した。
展示物の見学をしていると、お茶を出してくださり茶飲み話が始まった。座したまま外を見ると正面に伊豆半島が見える。上方が半円の窓は三連で、高さにも気を配った配置である。
上品であるが、気さくな奥さんはいろいろな話題で見知らぬ私の応対をしてくださるので時間が経つのが早い。
ご当主宝蔵さんの話になった。
私が東海道五十三次を歩いていた数年前、道中の下見として由比の町を訪れたときに宝蔵さんの著書「東海道は日本晴」を発見し買い求めた。
廣重の保永堂五十三次を模した背景に膝栗毛の二人が旅をする洒脱な絵に文を入れた道中記である。その作者が望嶽亭のご当主であることを店員から聞いていたので、一度ご挨拶したいと思っていたのである。
「ご主人は今日も由比のお店にお出かけですか?」
奥さんは、怪訝な顔をして私を見つめ、「主人は亡くなりましたが・・」と話された。平成十二年十月十五日に突如心筋梗塞が襲ったらしい。もう一年半も経つ。私は唖然とし、それを知らなかったことを詫びた。
私がご主人に会ったことがなかったことを話すと、奥さんはしばらくご主人に関する話をしてくださった。
ご主人が亡くなって以来、奥さんと娘さんが来客の応対をしていらっしゃるそうだ。望嶽亭藤屋は二十三代続いており、途絶えさせることはしない。との強い意志を持っておられる。
利用する我々旅人も少なからず支援をしなければならないと感じた。
一時間半も話が弾んだ。長居をしたことの非礼を詫びて、望嶽亭を辞することにした。亭を出るとき奥さんから、「今から峠を越えるのだから」と、みかんとお茶をいただいた。お茶は宝蔵さんデザインのボトル缶である。記念の土産となった。
望嶽亭の前から急坂となる。しばらく坂を上って振り返るとまだ奥さんが見送って下さっていた。軽く会釈しながら歩を進めた。快い涼風が私を包んだ。
今日はすばらしい出会いがあった。今度は奥さんに会いに来よう。
平成十四年四月五日(金)
北山 雅治
さった峠
さった峠の「さつ」は薩摩の「薩」、「た」は土偏に「垂」をあてる。「た」の漢字はJISにないため「さった峠」とした。さった峠の名は、「中古地蔵さったの像、此浜より漁夫の網にかゝりて上りしよりさった山といふ」(図会)よりついた。この地蔵は今も上道の地蔵堂に安置してあり、ご開帳は四年に一度。
さった峠越えの道は、江戸時代には上道、中道、下道と3つあった。江戸時代以前は潮が引いたときに波打ち際を駆け抜けるしか方法がなく、これを「親知らず子知らず」といった。「中道は明暦元年(1655)朝鮮人来朝の時、開きたる道也。上道は天和2年(1682)に又朝鮮人来朝の節開かれ、今の往来する道なり」(ちさとの友)。そして親知らず子知らずと合わせて上道、中道、下道と呼んだ。
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望嶽亭の由来
江戸時代に入り、西倉沢は由比宿、興津宿との間の宿として有名になり、茶亭藤屋の離れ座敷から富士山の眺望が絶景であったので、望嶽亭と名がつけられたと伝えられている。
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山岡鉄舟
慶応四年(一八六八年)三月七日、幕臣精鋭隊長山岡鉄太郎(鉄舟、三十二歳)は、さった峠で官軍に追われ引返し、この座敷で漁師に変装、隠し階段から脱出し清水の山本長五郎の家に逃れた。
三月九日、海軍総裁勝海舟(四十五歳)の紹介状を持ち、官軍参謀西郷吉之助(隆盛、四十一歳)と駿府(現静岡市)上伝馬松崎屋にて会談、江戸城無血開城となった。
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東海道は日本晴
「夢出あい旅 サイバー五十三次」に掲載されています。
東海道は日本晴れ 五拾三次道中記
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