長崎街道こぼれ話◆   河島悦子

阿蘭陀人参府の道

 長崎奉行西役所、現在の長崎県庁前を基点に佐賀市街地をぬけ、鳥栖で終わる国道三十四号線を北上、基山町で三号線を北上、筑紫野市で二百号線に入り、黒崎で終点、再び三号線で東上、八幡東区で県道二九六号線で小倉北区に至る主要道の裏通りになっている細い道が、いにしえの長崎街道で、生活道路として今も大部分が残っている。
 時代と共に変化した道筋もあるが、徳川三百年の文化、文明を育み支えた道だった。
 オランダ使節が貿易許可御礼のため、将軍や幕府要人への献上品と共に毎年江戸へ参府するのが恒例となるのは、寛永十年(一六三三)という。長崎出島に移るのは同十八年(一六四一)だから平戸蘭館時代から始まっている。但し大阪まで海路だった。(国史大辞典)
 大名の参勤交代も、初期は海路が多い。いつ頃から阿蘭陀陸行が始まっているかと調べる。『万治二己亥年(一六五九)筑前鐘崎(福岡県宗像郡玄海町)海上にて難風に逢い、陸路より帰る。これまで往復ともに毎年平戸を廻り、筑前海上乗船せし処、その翌年より上下小倉まで陸路にて、下関より(長崎仕立ての大型和船に)大阪まで乗船するのが例となる。』(長崎実録大成)鐘崎で上陸すれば、福間町、古賀市を通って帰ったはずだが、三百四十年前の伝承を聞いたことがない。

大名の道中 日に四十キロも

 単なる茶葉でも将軍献上となれば、お茶壺行列といって人々は道をよけ、ひれ伏して敬意を表したように、日頃は紅夷、毛唐と訳もなく蔑まれている蘭人達も、将軍拝謁の道中のみは大名格だった。
 旧正月前後に拝謁していたのが、一月出立、三月江戸着と改まるのは寛文元年(一六六一)、それまで雪の箱根峠を越えての参府だった。
この後、春の訪れとともにやってくる阿蘭陀人を俳人は季語にしたという。
 長崎街道は五十七里、商館員達は五泊六日で歩く。終始変わることはなかった。長崎奉行や目付など、幕府要人も初めは五泊六日だったが、幕末頃には八泊もしくは九泊が慣例になった。
 各地で藩主の接待を受けつつ、文字通り大名旅行。それに引き替え本当の大名は宿泊費節約のために、四ツ亥の着き(午後十時)、七ツ寅立ち(午前四時)と宿屋の使用人に嫌われながら、三泊四日で着いている。(甘木市史資料近世編)東海道が江戸より京まで百二十六里、川止め、船待ちを除いて十二泊十三日、山坂道を平均一日十里(四十キロ)も歩いていた。
 元禄四年(一六九一)ケンペルは西坂、浦上を経て時津港より海路大村湾を縦断、彼杵で街道に上がった。このコースは慶長の二十六聖人が長崎に向かって往き、寛永十八年より長崎港警備についた筑前黒田侯が御見廻り時によく使われた。時津港には藩のお茶屋もあり、一日二便の定期船があった。今でもたまにチャーター船が走っている。ケンペルは翌年の参府には本道を諫早まで辿り、有明海を竹崎まで漕ぎ出し満潮を利用し一気に柳川(沖の端川)に入った。長崎荷を上方に運ぶ商人も同様にして、筑後川河口に船を着ける。天候さえ良ければ水運に勝る運送法はない。
 川舟に積み替え久留米あたりまで遡れば、筑前の我々がいう薩摩街道や、秋月街道に合流でき、人馬継ぎに不自由はない。ちなみに道の名称は土地によって違う。肥後の人は薩摩街道を豊前街道、熊本以南を薩摩街道という。筑後の人は北上を筑前街道といい、南下を坊の津街道とよぶ。
 鹿児島城下のはるか彼方、九州の南端に位置する町に行ってみた。坊の津町立民俗資料館入口の説明板に「諸外国貿易船が入津、殷賑を極めたが、享保年間、藩よりの禁止命令により、衰微の一途を辿った…。又漂流船も多く湾内で破船することもあった」と大書されていた。海流の関係と思うが、この地は隣の枕崎市とともに、かの戦艦大和が撃沈されたあと、多数の乗組員の遺体が毎日、毎日吸い寄せられるように漂着した町で、東シナ海の海流が突き当たる入り江である。
 琉球を属国にしている薩摩藩だから密貿易にも当たらない。但し商品は長崎において取引することという幕府の通達があって、長崎会所を通せば運上銀がかかり、品物の制限もある。”坊の津街道”ものを思わせる名である。
 ケンペルが通った元禄五年、筑後松崎宿(小郡市)は収公されていたが、今、筑前筑後国境石が並んで立っている処を過ぎ、石櫃(夜須町)の日田往還に出て少し北上すれば、山家宿(筑紫野市)構口前で薩摩・長崎両街道に合流していた、現存する構口の石垣の一部に江戸期石工の非凡の技が遺っている。

  年寄の冷水峠を越へてみん
    登り降りに息や切るると
          太田南畝 蜀山人

 長崎支配勘定を終え江戸に帰る道すがら詠んだ坂道は、一部を除き国道や冷水バイパスにとりこまれてしまった。残った一部、峠の御笠・穂波郡境標柱のあたり、戦後まもない頃アメリカ占領軍が、大根地山頂に通信塔を立てることになり、街道の石畳に生コンを流し込み、自動車道を作った。現在も大根地神社参拝道として使われているが、長い年月の間に生コンが劣化して所々に石畳が露出、古道マニア達をひそかに喜ばせていたが、平成十二年また補修されてしまった。峠の北側の石畳は無事で、文政七年銘の石橋も現役である。

鶴が舞い象が歩く道

 一キロ近い冷水峠を降りると筑豊、と、いわんでつかぁさい、と地元の人に叱られた。まぎれもなく筑前内野である。たしかに北九州の北端で初めて豊前の土を踏む。峠の首無し地蔵堂脇の湧水は、遠賀川源流の一つであり”川筋気質”の始まりだが、谷川のせせらぎは妙にやさしく懐かしい。
 飯塚宿。敗戦前後、嘉穂郡で暮らした頃、鞠つき歌で、 飴屋のおなかちゃんケンペルと、ケンペルと…女の子がそこで鞠を落としたので、それから先は聞いていない。ケンペルが何者なのか、歌が何を意味しているのかも、幼い私は知ることはなかった。
 「古往還は大名行列や、オランダが通りよったと祖父さんのいいよらした」とはよく聞いた。飯塚宿では貴人の接待には若い娘を使う。”殿様にお茶を出した”は嫁入り前の女の格が上がるというのだが、”蘭人にお茶を出したことはいうなよ”という話がいい伝えられている。
 幸袋町。大正天皇の従妹に当たる歌人柳原白蓮を後妻に迎えた炭砿主、伊藤伝右衛門本邸を過ぎると街道は遠賀川堤防の上を行く。
 穂波郡から鞍手郡に入る。「昔、ここいらは鶴がいっぱい来よってなぁ、阿蘭陀人が立ち止まって望遠鏡で見よったち、祖父さんがいいよった。鶴ば捕ったら死罪やったち、炭坑が川の水ば汚したけん来んごとなったと」、老人の話にたあいなく喜ぶ私は八歳だった。今にして思えば二百年前の話を聞いていたというのに…。
 古道は南良津村(鞍手郡小竹町)で対岸に渡り、赤地を過ぎて彦山川を渡り境村(直方市下境)の右岸を行く。岩見重太郎が狒々退治をして、狒々の血で土地が赤くなったから赤地というようになったげな、境は豊前国との境やけんよ…と怪しげな伝承がある道を通っていた。享保の象はこの道を行き、七十五日かけて江戸に着いた。
 象が歩いた境村の川岸は、今でも旧正月頃は玄界灘の北風が川面を伝って吹きつけ、一番寒い季節にあたる。使節が寒い思いをしない年が一年だけあった。享保十八年(一七三三)、『毎年早春に長崎在留の阿蘭陀人、必ず江戸に赴く事なれど、九州筋、飢饉に付てハ、通行處に飢人多く、取乱したる體を外夷に見するもいかがなれバ四月中旬(旧暦)に長崎を出べき旨、仰出されし趣、松平伊豆守(老中)當家留守居を呼びて申し聞せられける』(黒田家譜・継高記)四月中旬に出立すれば、帰路は旧六月か七月の真夏、街道はほぼ松並木(昭和三十年代初めまで存在)で草道だからいま程でないとしても暑かったことだろう。
 この頃、対岸の直方は元和三年(一六二三)より支藩東蓮寺(改め直方)藩が置かれ、享保五年(一七二〇)に閉じられ、家臣は本藩福岡に引き揚げて、残された商人達はさびれた町で苦しい日々をおくっていた。
 二十六年後の延享三年(一七四六)幕府の許可が出て直方市中に街道がつけ替わった。いまでいえば町おこしで街道を誘致した。船渡し場は大名達が否応なく礼金を支払い、飯塚、木屋瀬間の脇宿として繁昌した。
 寛政二年(一七九〇)百五十七年間、毎年続けられた参府が五年毎に一回と改まり、奢侈禁止令、輸出入制限も幕府は再々命じ、阿蘭陀貿易も振るわなくなった。
 寛政十年(一七九八)二月一日、木屋瀬泊りの蘭人(商館長ケイスベルト・ヘンミイ)が石坂銀杏茶屋前を朝早く通って行った。(清水家文書)江戸に着くか着かないかの三月六日、出島蘭館が失火で焼けた。しかし、その報告もすぐには届かない。『三月十五日、入貢の蘭人御覧あり、略、二十一日蘭人、暇下される』(徳川実記・文恭院殿御実記)入貢の蘭人とは恐れ入る。

道中で没し、仏教の戒名遺す人も

 ヘンミイは江戸を発ち帰途につく、出島焼失、薩摩藩との密貿易発覚のダブルパンチの報せはどこで受け取ったやら、大井川を渡った所の「金谷宿で発病、となりの日坂宿より戸板で運ばれ掛川に来た。城下でないと良医がいないから」。(掛川史談会員談)この土地ではそう伝わっております、と掛川で発病したのではないことをなぜか強調された。三月末だったが一進一退の後、旧四月二十四日(新暦六月八日)没、同地の浄土宗天然寺に葬られた。法名、通達法善居士、歴代商館長の中でただ一人戒名を貰った人だった。自殺説も噂されたが、随行者の日記で胃病と知れた。その後、参府途次の商館員が墓地管理料を支払っていたが、幕末にそれも止み、墓は荒れ放題になってしまった。
 大正末、貞明皇后が当地に行啓された折、担当者が伝承として申し上げ、皇后は調査を命じられた。
 外務省よりオランダ本国に問い合わせ、事実と判明、御下賜金で整備され今では観光名所になっている。天然寺の境内にも、日蘭二ヶ国の文字で、ほぼ同様の記念碑が刻まれている。
 不幸なことは重なるもので、長崎でも事件が起こっている。『寛政十年十月十七日、長崎入津の阿蘭陀船、商売を畢えて帰帆の命を受け、例年の如く高鉾島の辺に繋ぎて風を待ちしに』(黒田家譜・斉清記)港外で沈没した。
 御当番の領主、もしくは名代の最終見廻りの日に合わせて『奉行所より、何日に帰帆すべしの命令が申渡されると、どんなに逆風が強くても、暴風が吹き荒れていようとも、絶対に遵守されねばならず、容赦なしに高鉾島のふもとまで出港する』。(江戸参府随行記・ツンベルク)このような定めは見廻りの殿様が「島蔭に白帆見え隠れ、見届けたのち御帰駕遊ばさる」ためである。
 地形を見ると、市内や奉行所から高鉾島は、西泊や神崎の蔭に隠れ見えない位置にある。
 殿様は長崎には一日しかいない、幕府報告書に「帰帆を見届けた」と書き込むために港で船を見送り飛脚を江戸まで走らせて「重き御用」は終わる。
 風待ちの蘭船(実はアメリカよりの傭船、イライザ号)が烈風を受け浅瀬で船底を損傷、対岸の木鉢で積荷を降ろす途中沈没した。乗組員は全員蘭館に収容されたが、船の引き揚げに苦労した。周防国村井喜右衛門なる人の知恵で浮かび、翌十一年五月補修を加え出港した。
 出港二日後、天草郡富岡沖で帆柱を損傷して漂流していると、松平主殿守忠憑(島原藩主)より注進がきた。奉行所役人が出向くと、『イライザ号の船長は長崎蘭館を乞うので望みに随い…』(黒田家譜)と長崎に曳船し、修理を加え再び出港したが南方海域で又々暴風に遭遇、マニラに避難した。散々だったがこの間の費用はすべて長崎蘭館が立て替えたという。この年、一七九九年オランダ東インド会社は解散した。当時オランダ本国はフランス軍に占領され、植民地でバダビヤ共和国を設立、蘭・印政庁が日本商館をその債務とともに引き継ぎ国営商館になる。VOCマークはその後も使われたが、職員は公務員身分になる。(長崎オランダ商館日記・日蘭学会編)
 最後の阿蘭陀参府は安政五年(一八五八)、ドンケル・クュルシウス、もうカピタンではなく、領事官もしくは理事官と呼ばれている。(参府阿蘭陀人付添一件留・長崎純心大学編)
 飯塚中ノ茶屋畑間小四郎宅が蘭人宿で、付添人達は分宿する。長崎着を数日後にひかえ長旅の開放感もあったのか、ややけしからぬ言い伝えを残した。安政五年から八十五、六年しか経っていない昭和二十年頃に”親、祖父母から聞いた”という老人は大勢いた。
 その昔は天道町まで舟荷を運んだという川は、黒い水が流れ川原に牛が放牧され、白鷺が牛の蝿をついばんでいた。今、遠賀川の水は澄みはじめ、牛はもういない。豊かに流れていた水は減り、広い河川敷に駐車場が設けられている。大雨が降り川が増水しはじめると、どこからか人々が湧き出し一斉に土手を駈け降り、川原の車が蜘蛛の子を散らしたように走り去る。
 この情景もいつの日か、遠い昔の物語となり忘れ去られてゆくのだろうか。

 かわしま えつこ・歴史街道を歩く会代表


・西日本文化397号(2003-12)P,14〜を転載。
・河島悦子様から掲載の許可を頂いています。
・背景は河島悦子著「伊能図で甦る古の道 長崎街道」表紙写真

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