一八二六年の江戸参府紀行(一)

原題 陸路および海上旅行。一八二六年の参府旅行


第一章 通常行われている江戸参府旅行の概要、参府の使節役を務める日本駐在のオランダ商館長のための手引きとして、批判的に記された

概観。オランダ公使と随員の日本派遣と、以前には毎年、現在は〔中三年おいて〕四年に一度行われる参府旅行--職務上の準備--旅行のルート今昔--人員・従者・駕籠および荷物の運搬--旅行の費用--将軍その他高官への献上品とその返礼品--旅行の方法--行列の順序--出島出発--長崎から小倉に至る旅行の要点--使節の待遇--小倉から下関への渡海--同地の友人たちのオランダ人に対する歓迎ぶり--下関から室に至る海上旅行--航路とそれについての日本人同伴者との不必要な意見の相違--旅行中のいくらかの特恵と、より多くの自由の獲得についての提案--室から陸路兵庫・大坂・京都に至る旅--大坂・京都における制限--急ぎの出発--京都から江戸に至る大街道の旅--使節の江戸入り、職務上の用件--われわれの住居--献上品の配達--江戸城および重臣宅での拝礼--学者・友人・身分の高い庇護者の来訪--日本におけるオランダ書籍の、博物学・医学および他の学問に与えた影響--公的業務促進のための時機--告別の拝謁--献上品に対する返礼--至上命令の伝達--江戸出発--京・大坂の滞在、下関に向け兵庫で乗船--小倉から長崎に至る帰りの旅--出島帰着。


 一六〇九〔慶長十四〕年、最初のオランダ使節団が日本国の世俗的元首である将軍のもとに赴いた時に、新しい将軍家の創立者たる源家康は、相続の安泰を願って、すでに将軍職を息子に譲り、秀忠は江戸に居を定め、そこに城を築いた(一六〇五-六年)。したがってヤコブス・スペックス、ピーテル・セーヘルツゾーンの両使節は、家康の居城地府中〔今日の静岡〕からさらに東方の首都に赴き、彼の息子で後継者でもある源秀忠を表敬訪問した。

 連合オランダ東インド会社の名のもとに将軍家光を訪れた次の施設たちは、そのつど江戸で拝謁を賜った。フランソア・カロン、ヘンドリック・ハーヘナールは一六三四〔寛永十一〕年と一六三六年に、そしてアンドレアス・フリシウスは、アントネイ・ファン・ブロンクホルストともに、一六五〇〔慶安三〕年に出かけた。立派な行列をつくり高価な献上品を携えて、ヨーロッパの最もすぐれたこの航海民族は将軍の居城地に赴き、同時に将軍の愛顧を得ようとつとめたのである。豪華とか贅沢ということを考えに入れても、恐らくフリシウス使節とその一行は、連合オランダ東インド会社が実施させたうちでは、最も立派なものと思ってよい。貿易の利益が日本側の制限によって縮小されたのと同じ程度に、会社もはでな気前のよいやり方を控えたが、のちの使節団ではツァハリアス・ワーヘナールを公使とする一行(一六五七〔明暦三〕年)およびヘンドリック・インディクの一行(一六六一〔寛文元〕年)がなお際立っている。数十年後--エンゲルベルト・ケンペルが随行したオランダ使節ヘンドリック・ボインテンヘイムは、国事犯のようにきびしい監視をうけ、あまり名誉を重んじないような仕方で江戸に向かって旅を続けた(一六九一〔元禄四〕年)のを、われわれは知っている。

 それ以後毎年出島のオランダ商館長*1は、職員のうち二、三人を連れて江戸に赴き、将軍およびその他の高官に献上品を渡した。日本との貿易が半分に減少した一七九〇〔寛政元〕年までは、参府旅行は毎年行なわれていたがその年から四年目ごとと定められた。しかしその間の三年間は、委任を受けた通詞がわれわれの献上品を指定された場所に運んだ。日本人の財政上の配慮はこの対策に役立つものであった。近年(一八一八〔文政元〕年)勲爵士ヤン・コック・ブロムホフが商館のためにふたたび商況をもっと有利にすることに成功したが、その時以前のようにまた毎年、あるいはせめて二年目ごとにオランダ人の参府を許してほしいと請願したのを、日本政府は否決した。たとえ人びとがその理由を言いつくろうことができても、それは金銭上の利害関係以外には求められない。商館長本人が参府するのは、現行の四年目ごとと決められ変ることはなかった。

 出発の時期が近づいてくると、商館長は慣例となっていた事務進行の手順をふんで、出発のことを覚え書にして長崎奉行の注意を促すと、奉行はそれを受けて江戸幕府の許可を願うが恐らくオランダの代表の到着と使節ならびに随員の氏名を報告するだけだ、という。後で奉行はとくに呼出しをかけて、商館の幹部に対して紹介の認可を通告し、同時に彼に対し、商館長が不在のあいだ商館の秩序維持のために配慮するよう、とくに勧告する*2。

 オランダの商館がまだ平戸にあった初期の時代、さらに商館が出島に移ってから一六五七〔明暦三〕年までは、使節の一行は九州の北西海岸に沿って下関の港にゆき、そこから日本〔シーボルトは本州のことを日本と呼んでいる〕と四国の間の内海を海路大阪に向かった。のちにヘンドリック・インディクの一行は(一六六一〔寛文元〕年)長崎から陸路を時津へ、そして大村湾を舟で彼杵(そのぎ)に渡り、それから肥前と筑前の国々を通って小倉に着き、舟で下関に渡りそこから大阪まで船に乗って行った。一七七六〔安永五〕年以来、大村湾の渡航は禁止され、行列は献上品を携えて長崎から小倉まですべて陸路を進んだ。ただ荷物の一部だけは海上を下関まで運んだ。ケンペル(1)は第二回目の参府の時〔一六九二(元禄五)年〕、諫早から〔実際は肥前の竹崎を経由して〕有馬湾を渡り筑後国の柳川にゆき、そしてそこから久留米を経て山家(やまえ)Jamaijeに、山家からは通例の街道〔長崎街道〕を進んだ。使節の一行は下関で船に乗り、室(むろ)に入港し、それから陸路兵庫を経て大坂への旅を続ける。一八一八〔文政元〕年、J・コック・ブロムホフは病気を口実にして、室で上陸しそのさきの旅行を陸路でする許可をやっと得た。なぜなら以前には航海は二、三日行程の--摂津国の兵庫までだったからである。大坂からは普通江戸まで大街道の行進が続く。もっとも淀川とか、のちには桑名の木曽川河口から宮に渡る短い距離の舟行などは、例外と言ってよい。

 使節団の随員は初期の時代にはかなり多数であった。A・フリシウスやA・ブロンクホルストの一行は、二十名のオランダ人から成っていたが、ケンペルの時には遂に四人、ツンベリーの場合は三人で旅行した。一七九〇〔寛政二〕年、使節団の人員は日本政府の決議で三名という数に決められた。現在通常の参府旅行をする三人は、商館長・書記および医師であるが、彼らが本当にその地位にあろうと、あるいはただ名目だけのものであろうと、それは問題ではない。ただ前もって彼らの氏名を奉行に届け出ておかなければならない。日本人の側では従者は総計三十五名にのぼり、彼らは奉行から正式に任命されている。すなわちひとりの給人 Kuinin あるいは御番上使(2) Gobansjosi で、彼の身分や職務はわれわれの国の上級警察官に相当するのかもしれない。彼は部下として次のような三人の下級警察官を連れてゆく。そのうちの一人は舟番 Funaban という肩書きで、オランダ人の間ではオンデルバンヨースト Onderbanjoost 〔当時の訳では「下検使」「御足軽」とある〕、他の二人は町使 Tjosi でわれわれの間ではバンヨーステン Banjoosten と呼ばれている。これらの人びととはこの旅行の第二章でもっと親しく知合いになるであろう。だからここではこれ以上くどくどと述べることはしないで、身分と優秀さを多少とも自負している残りの人びとのことを続けて述べさせていただきたい。

 それは次のような人びとである。ひとりの大通詞(おおつうじ)とひとりの小通詞(こつうじ)、四人の筆者、上下ひとりずつの宰領 Saisjo と荷運び人足の監督ひとり。二人の従者と五人の従僕およびオランダ人の食事をつくるコック二人、日本人のためのコックひとりが任命されたり、雇われたりしている。そのうえさらに三十二人の従僕がこれに加わる。そのうち六名は探索者〔同心か〕の名のもとにオランダ人の用を足すが、残りの人たちは日本人の世話をする。そして各人に対しその身分や地位によって配属されている。人びとは上述の探索者のことをスパイだと思っているが、そういう考えが正しいかどうかは疑わしい。ついでに言っておくが、使節は自分で費用を負担するつもりなら、便宜上もうひとりの通詞と日本人の医者と数人の日本人従僕を連れてゆくことができる。また使節の旅行仲間二人にも、なお数人の日本人を従僕として雇うことは禁じられていないので、その人たちを自分のことに自由に使ってもよいことになっている。ただあらかじめ一切を奉行に報告しておかなければならない。それで一八二六〔文政九〕年には自然科学上の調査の目的で、もうひとりの医者と画家とそのほか六人の長崎出身の人たちを連れて行った。こういうわけで、日本人随行者のうち比較的身分の高い人たちの荷物は、ときには決められた数量を半分ほど上回ることがある。われわれが旅行の経過中に述べるように、それはこういう身分の高い人たちがいろいろな仕事のために、自分たちだけの用をたす人手を必要とするからである。身分の高い旅行者のひとりひとりにつく駕籠かきの人数は前もってきめられていて、しかも庶民がひとりの人間の身分の上下を、その重さ〔駕籠かきの人数〕で計ることができるようになっている。

 荷物の数量は、輸送の費用を長崎の会計役所〔会所〕に負担させるかぎり、各旅行者の身分によって決められている。そしてオランダ人が荷物をふやすことは、自分で費用を持てば自由である。商館長には長持という長い形をした運搬用のトランク二個(『日本』Ⅱ第一図(d)の3)・両掛というもっと小さく長い形のカバン二組(同図の4)・駄荷すなわち長い四角形の行李四個(同図の6)が、書記と医師には二人で長持三個・両掛二組と駄荷四個が割り当てられている。そのほか合羽・提灯・菅笠などを入れるたくさんの籠(合羽籠 Kappokago と呼ばれる。『日本』Ⅱ第二図(d)の4参照)を持ってゆく。

 献上品は旅行の全行程中つねに使節団のところにおくが、非常に大きな荷物だけは長崎から海路下関に運ばれるので、九州を通ってゆく陸上旅行は楽になる。これに反して大坂から江戸までの旅行では、身分の高い人にはひとりひとりに数人の駕籠かきがつき、供揃いの人数がふえ、とくに輜重が非常に多くなるので、東海道をゆく行列の総数は、真中にいる三人のオランダ人を含めると二百人にもなる。こういう状況の下では、旅行の費用もかなりかさむに違いないということは推測できる。しかしわれわれは、この点を多少とも詳しく説明するには、莫大な費用をかけて実施した以前の参府旅行のことはともかくとして、後年行われたこの種の旅行からこれに関係のあることを挙げてみたい。

 オランダの代表者が参府する場合には、会計役所、いわゆる会所 Kwai sjo は、出費の返済のために商館から一万三五三三本方両(Compagnie-Tail)すなわち一万八〇四四オランダ・グルデンを品物で受け取り、それらの品物をいっしょに見積り非常に高価で供給するので、会所は平均して一二六と二分の一パーセントの利益をあげる。会所はこの合計金額のうちから商館の幹部に、旅行中に二二〇七脇荷両*3(Kambang-Tail)(三、五三二グルデン)を現金で支払い、会社は一三二六本方両(一七六八グルデン)を翌年のために貸方に記入する。ただ通詞が献上品を江戸へ持ってゆく場合には、返済は合計して七八六六両すなわち一万四八三グルデンとなる。

 したがって上述の利益を加算すると、オランダ人自身が行う旅行費用の支出には合計三万五五六九グルデンが、全権を委任された日本人が献上品を持参する場合には二万三七三八グルデンが会所に残る。この金額で会所は次の項目の費用を支払うのである。

 一、上述した日本の役人の旅費
 二、陸上輸送・住居〔旅舎のこと〕・宿泊料・食費など。
 三、海上ならびにいくつかの河川を渡る輸送。
 四、一行が長く滞在する小倉・下関・大坂・京都および江戸などの宿舎の主人に対する謝礼。

 日本の役人の旅費は、彼らが贅沢する割りに少ない。それゆえ彼らは手当を受け取るわけだが、これは商館が五百ピコルの蘇芳〔インド産の染料植物〕で会所に支払う習慣になっている--この品目は、会社には直接不利益にはならず、会所には大きな利益をもたらす。しかし全体を要約すると、オランダ人自身が旅行に参加する場合には、結果として会所はこの旅行費用の支出で多額の損害をこうむることになる。いわゆる参府旅行を毎年繰り返すように請願しても、それが二度と承認されなかったのは、こういうことが恐らくおもな理由だったろう。

 オランダ商館の役人は、旅行の準備のためにはほんのわずかの手当を受けるだけである。商館長は千グルデン、彼が連れてゆく二人は各々二百グルデンである。それゆえ同行者二人は、まったく不適当ではあるが、余儀なく不可欠の経費を、若干の商業投機をやってつぐなわねばならない。商館長もまたこうした財源を利用しなかったわけではない。ただ公使としての立場からいちだんと深い注意を払って、こういう仕事を召使を通じてやらせた点だけが違うのである。

 商品による実際の商売は、この旅行中少なくともわれわれの側では行われることはあるまい。もしわれわれがただ貴金属宝石類とか小ぎれいな品物とか、あるいはオランダ語で書いてある有益な書物などを用意していたら、そういうものはわれわれの身分といっそうぴったりすることだろう。しかしわれわれは、何か好意を示されるとき、それに対して謝意を表わすための贈物として都合のよい品とか、人を迎えたり訪ねたりするときなどに受け取る、この国では慣例になっているみやげに対して返礼するのに適した物を持っているのにすぎない。こういった小さな記念品は、異国からのものということでたいへん珍重されるので、そのため贈与した者は好意を寄せられることが多い。こういう方法で新しい物品とかほとんど知られていない商品でも、日本の国内で宣伝されるかもしれないし、またそれによって新商品の売行きを誘発すれば、こういう目的で使節団に与えた手当にかなりの金額をかけても、ふたたび十分につぐなわれることであろう。

 将軍やその他の高官への献上品は、一八二六年には一万三八六二本方両(一万八四八二グルデン)に達した。献上品を渡す人物は、a、江戸では将軍とその世子。五人の御老中 Goro tsiu ・寺社御奉行 Zisja go bugio ・二人の江戸町奉行 Matsi go bugio とひとりの御勘定奉行 Gokansio bugio. b、京都では京都(みやこ)における将軍の代理所司代 Sjo si dai と二人の町奉行。 c、大坂では二人の町奉行である。上に述べた高官のうち一つの役職がたまたま欠員になっている時には、すくなくとも江戸では、その人に贈ることになっていた物は宿の主人のものになる。これらの献上品を日本の政府は当然の行為、一種の課税 Fassak *4 とみなし、その種類や数量はそのつど前もって決められる。通常、献上品は毛織物・毛および絹布・更紗その他色さまざまの絹布・金糸銀糸で織った布地などである。

 人びとは念のために、毛織物やその他の品物を必要とする数量よりも多く予備として持ってゆくが、傷物が出なくても予備の品は売却され、〔江戸で売却〕という項目で決済されるからよいのである。一八二六年にはその額は二五六四本方両すなわち四一〇二グルデンに達した。通詞がその業務を処理する。彼らは中の三年間は自分たちだけで旅行するが、残った物は母指の幅の端切れでもいっしょに持ち帰ってくる。--これは彼らが正直であることを証明するためである。

 特別な機会には将軍と世子に特殊な献上品を贈ることがある。概して贅沢品とか自然の珍しい産物とか人工の珍奇な品物である。--最初、商館長ヘンドリック・ヅーフ(3)の建議で採用され、仕来りとなったものである。この国の習慣で、献上品に対しては返礼の品が贈られる。将軍からは絹の衣服三十着、世子からは二十着、上述の高官たちからは百四十七着である。あとの方のものは昔からの慣例で商館長の所有となるが、はじめの品はバタヴィアの蘭印政庁に送られる。ときには銀貨が特別な贈物として、仰々しいセレモニーをやって商館長に渡されることもある。一八二二年にはこの銀貨、すなわち板銭 Itakane は百二十三枚であった。一八二六年にはわずか八十枚に過ぎなかった。一個三グルデン三〇セントの価値がある*5。

 オランダ人は、日本の身分の高い人と同じように駕籠で旅行するが、それは運搬できる小さい家の形をしたもので、乗物 Norimono と呼ばれる(『日本』Ⅱ第一図(d)1と2)。商館長は、参府旅行の時にはこの国の高貴な人びとのように特別な標識を付ける。つまり立派な飾りのある書棚兼用机にV・N・O・Cという組み合わせた文字が書いてある。すなわち連合オランダ東インド会社のことである。その机にはまた札がつけてあって、パイリー・オランダ人(4)と書いてあり、「表敬訪問をするオランダ人」という意味である。これで至るところ自由に通過し、出島に戻る時でも調べを受けずに済む。その他の日本人の旅行同伴者は、給人と大通詞を除いて棒と竹を編んで作った担架、すなわち駕籠または権門駕籠〔本書の一八一頁参照〕というものに乗ってかつがれてゆく。近ごろ従者だけは馬に乗ってゆくか、あるいは宿駕籠に乗って、行列の前を進むか後からついてくるかである。

 われわれの行列はだいたい大名行列に似ている。そしてわれわれの使節は大名と同じ身分の表示と特権を享けるのであるが、これは外国の使節だからというのではなくて、彼がやがて将軍に拝謁する栄誉をになっているからである。しかしこういうことはただ大名だけにふさわしいことである。それでも日本ではオランダ人という名称に対して人びとが寄せている好意と信頼とが、大いに役立っていることも否定できない。それゆえ陸上旅行の全行程中、大名行列と同様の順序が守られる。まっ先に献上品とその他の荷物、それからずっと距離をおいて二人の町使が行列の前駆となる。それから小通詞・医師・書記さらに使節の順で、そのあと大通詞・船番そして給人〔付添検使〕と続き、これで行列が終る。各々の乗物や駕籠のあとには、乗っている人の従者と主人の身分をあらわす標識が続き、そして身分の高い人のひとりひとりは、〔従者たちとともに〕それだけで完全な一隊を形成している。身分の低い人たちは、いつも高い人より先を進み、そして左側が貴人の場所である--これはわれわれとはまったく反対の習慣の一つである。

 出発は日本の一月中旬ときめられている。けれども江戸城で事件などがおこると、出発が数カ月延期されることもありうる。現在では普通出発は一月の七日または九日であるが、一方、間の年〔オランダ人が参府しない間の三年間〕の通詞の旅立ちは十五日となっている。

 献上品その他旅行に必要なものを荷造りして、もっと頑丈な荷物の一部を海路下関に送り出してしまい、出発の前日には上席番上使〔付添検使〕が出島に姿をみせ、いっしょに旅行する町使が三人のオランダ人の私物の荷物に--ほんの形ばかりに目を通し、そして封印をする。翌朝、日本人の旅行者全員が集まり、オランダ人を献上品や荷物ともども出迎える。ケンペルの時代には二人の長崎奉行がみずから使節を送別訪問したが、今は退屈な祝詞だけで終るのである。オランダ商館員は、三人の同国人について出島の門を出ると、いわゆる江戸町に沿って数百歩先の大波戸の広場までゆき、それから旅立つ人たちは長崎の町を通りぬけ天神社の近くで止る。彼らはここで商館の残りの日本人役人と酒を汲みかわして別れを告げ、桜馬場から長崎峠までの道をたどってゆくが、峠では町のいろいろな役所の人たちが使節の一行を待っていて挨拶する。今ではこの日は長崎の祭日になっている。長崎の住民は、好奇心や愛着心から群をなして路傍に集まり、旅立ってゆく人びとに路上でパン菓子やその他のちょっとした旅行の必需品などを贈る。こういう習慣をみやげといい、国中で、そしてあらゆる階層の間でみられ、帰ってくれば返礼するのである。

 長崎から小倉までの旅行はすでに古い慣例があって、七日間と定められている。出発前に使節にみてもらうために旅行のルートを記したものが提出されるが、ほとんど変更されないのが普通である。ただ宿泊や昼食の場所とか、毎日の出発の時間は、それもはっきりした理由がある時にかぎって、いくらか変更されることがある。

 さて小倉までの旅行は機械的で単調な経過をたどるのであるが、話好きのガイドである通詞のひとりが毎晩旅行の経過を真剣に討議して--その結果はあらかじめわかっているわけであるが、裁可をえるためにそれを使節に提案する。

 彼が冷静な観察者としてこの旅行の経過を注視しているのは、まことにまれなことであるが、その場合各々の行動とか使節一行に関係するひとつひとつの事柄は古くからの慣行に基づくものであって、その慣行も、その起源をさぐれば国の仕来りとか法律にあり、あるいはまたわれわれの側がそれを乱用したことにもかかわりがあった。ある習慣が一度でも採用されると、それはもう廃止されることの許されない正当さをもち、やがて公式に慣例という名をもつに至る。

 私が旧来の仕来り、すなわち七日間にわたる進行中に、しばしば使節団の負担になる慣行のことを述べるに先立って、行列そのものの整然とした秩序、われわれは大名の領地内をしかも彼らの費用で旅行するが、そういう大名の側からの待遇、またわれわれが泊ることになっている宿舎での手厚いもてなしや供応、日本人従僕の良心的な勤めぶり、とくに住民との親しみのこもった出会い、これらに対して私は心から賛辞を送らずにはいられない。国境や郡界では、いつも領主が派遣した数名の使者が姿をみせて使節団を歓迎する。彼らは何人かの兵士を伴い乗物のかたわらをゆうゆうと歩いて、反対側の国境まで送ってくれる。昼食をとったり泊ったりする宿の主人は、礼服を着用して外国の客人を出迎え、低く頭を下げこの国の習慣に従って歓迎の言葉を述べる。宿舎の中でもわれわれは愛想よく迎えられ、この国の大名と同じようなもてなしをうける。ただ違っている点といえば、簡素なたいへんきれいに飾り立てた部屋の中にヨーロッパ式に用意された食卓があって、われわれをびっくりさせることである。そのため二つの食卓を必要な道具といっしょに携行し、そのうちの一つはいつも料理人や従僕といっしょにほかの人びとより先にゆくのである。また旅行者自身の寝具やなくてはならない家具や食器類もいっしょに持ってゆくので、ヨーロッパから千里も離れ、外国の品々に取り囲まれているが、毎日がわが家にいるようなものである。住民そのものについては、一度も不作法な様子を見聞きしたことはなく、ただ好奇心とか大げさな礼儀が外国人にはときにはやっかいになることがある。

 使節が二人の旅行仲間といっしょに泊るところは、大名や長崎奉行やその他の高官が旅行の時に泊るのと同じである。これらの宿舎は、こういう高貴な客の身分や客の快適さを考えて整備され、主賓が一番広い部屋をとるのはもちろんであるが、従者たちは小さい部屋とか前屋に泊るところを探す。宿舎の玄関には、われわれが到着する時にはいつもオランダ国旗の色の布に、連合オランダ東インド会社の頭文字〔V・N・O・C〕をつけた、いわゆる幔幕(まんまく)が張りめぐらしてあるが、これは日本の慣習である。

 私はここで長崎から小倉に至る一般の旅行ルートを、宿駅相互間の距離といっしょに次に示そう。

長崎-三里-矢上-四里-諫早-三里-大村-六里-彼杵-三里-嬉野-三里-塩田-二里-成瀬-二里-小田-二里-牛津-二里-佐賀-一里半-境原-一里半-神崎-二里-中原-一里半-轟木-一里-田代-二里-原田-一里四分の一-山家-三里-内野-三里-飯塚-五里-木屋瀬-三里-黒崎-三里-小倉-三里-下関。

 行列が普通昼食をとり、また夜一泊する宿場。

        昼食   夜泊
   一日目  矢上   諫早
   二日目  大村   彼杵
   三日目  嬉野   塚崎
   四日目  牛津   神埼
   五日目  轟木   山家
   六日目  飯塚   木屋瀬
   七日目  小倉   同所

 日本人の同行者は古い慣習に従って、外国人にすべて一見に値する(珍しい)ものを見せたり、それから時間や状況が許せば、それで楽しんでもらうことに心を配っている。こういう好意には、自分の趣味や意志に反してでも驚いたり楽しんでくれるにちがいないという不都合な感じがないでもない。このような種類のもののうちで非常に珍しかったのは次のようなものである。われわれは真珠採りで有名な大村という村で焼いた真珠貝を食べ、ニノ瀬付近では空洞のあるクスの大樹を見物し、嬉野では温泉を訪れたこと、温泉の中でゆでた卵とその地方でみごとにつくられた各種の茶を出してもてなしてくれたこと、それから晩には塚崎〔武雄〕で肥前藩侯の温泉場で入湯したことなどである。ここでは何度も何度も頼んだすえ、使節の許しを得てとうとう藩侯の浴槽にはいった。それから古い木の幹に不細工に刻み込んだ馬頭観音、奇蹄の動物の姿をした守護仏の像を見てびっくりする。やがて肥前の首都佐賀を通り過ぎ、苔野(こけの)ではソバ粉から作ったソバキリ Sobakiri というものを味わい、それで元気を出して山家への旅を続ける。山家では、素人の愛好家が集めた鉱物のコレクションを見る。冷水峠の山頂にある一軒の茶屋で、山登りの苦労を忘れようというわけで、日本人のうち一番身分の高い同伴者〔上検使〕と日本式の酒盛をし、この機会を利用して互いに挨拶をかわし歓迎の意を表わす。同じような宴会がこの山の麓でくり返されるが、下山の疲れをいやすためで、キジやカモや卵を贈られる。さてわれわれは木屋瀬の平坦な土地を過ぎ、茶ノ原付近の丘に登ると、快晴のもとで海と待望の日本〔本州のことをしばしば「日本」と呼んでいる〕とが見える。石坂では美しい少女をみて感心する。清水村近くに筑前と豊前の国境を示す標柱があり、やっと小倉の郭外(かくがい)の町にたどりつく。普通だとここでは宿舎の主人が家族を連れて、また下関から大坂への旅で使う船の持ち主や船頭たちが使節の一行を表敬訪問する。晩になると使節は藩主の使者(一八二六年の時は城の門番)の訪問をうけたが、この人は使節の一行に主人の名において挨拶し、つぼにはいっている飴を贈ってくれる。宿舎は豊前の首都にあるがよくない。翌朝、町の一地区を見物するが--あまり城に近づくことは許されない。それから出島にいる同国人宛てに手紙をしたため、彼らに飴を送る。人足たちはここで少しばかりの物をもらうが、日誌ではそれを〔荷物運搬人の〕組合費と言っている。

 われわれは小倉から下関に渡航するが、ハリモト Farimoto 川〔紫川のことか〕の河口から直接渡るか、海岸沿いに大裡〔今日では大里と書く〕までゆき、そこにある藩侯の別荘でしばし楽しい時を過ごし、そこから渡るかのいずれかである。大裡からの渡航は、距離がいっそう短くて渡りやすいので、とくに荒天の時にはこの方を選ぶ。われわれの乗物はここに残る。海を渡ってこれを持ってゆくのは、たいへん面倒なことだろう。だからわれわれがふたたび陸上旅行を始める室では、別な乗物が待っている。

 われわれは下関の二人の市長〔町年寄のことで、ここでは伊藤・佐甲両家の主人〕のうち、どちらか一方の家でたいへん手厚いもてなしを受ける。以前(ケンペル・一六九一年)、一行はここに到着すると、室または兵庫への旅を続けるために、すぐ船に乗り込んだ。いまは状況に応じて上述の人びとの広い住いで、三日あるいはもっと多くの日を過ごすのであるが、この両家の主人は参府旅行のつど交替してオランダ人をもてなすのを、何よりの楽しみにしている。

 九州を旅する間、私がすでに述べたように、必要な人夫費や馬匹代金はもちろん、行列全部の毎日の食事に至るまで、その大部分は行列が領地内を通る大名の側で支払う。本州の長門国や播磨国でもこれは同様である。けれども大名の財布には手をつけないようなやり方で行われる。大名の家臣は人夫や馬や食料品などを調達し、勘定方は宿場役人に命じてオランダ人の名で交付させるが、その小額の補償から考えて恐らく本来の協力者にはほんの少ししか渡らないだろう。下関では、われわれは藩主の費用でしかも三日間も暮らしたが、その三日間が過ぎると、家の人は自分でその他の雑費を請求しなければならない。滞在が少し長くなると、じきにすっきりしない顔をするようになる事情があるのである。もし人びとがこういう場合に、もっと目的にかなった補償のやり方を工夫しておけば、オランダ人の名声をずっと高め、この快適な町での今日まで受けた手厚いもてなしをもっと高く評価したことだろう。そういうことは、しばしば船旅の快適さを考えての使節の気苦労に過ぎず、それで一週間もそれ以上も足を留めるようなことになったのである。われわれが使う船はいずれにしても非常に小さいので、ただ一艘ではオランダ人や日本人の全員に、みんなが望んでいる快適すを味わってもらうことはできない。身分の高い日本人のために、われわれがいつも伴ってゆく第二の船の中に居心地のよい場所を探してやることができたら解消されるのに、どうしてもうまくゆかないというのが相変わらずの欠点なのである。
 下関での滞在はほんとうに楽しい。人びとはこの土地の名所を外国人に紹介してくれるし、同時にできるかぎりの方法で彼らをもてなすことにつとめた。オランダ人は阿弥陀寺〔今日の赤間神宮〕を訪ねたり、この町や郊外の竹崎の通りを散策したりする。また二人の町年寄の宅では、交互に会合が催される。近くにある長府藩の家来が訪ねてくるが、その中にはこの藩の身分の高い人たちもいられる。

 そうこうするうちに献上品や荷物が船に運びこまれ、身分の高い客人のためにすっかり準備が整うと、すぐに出帆する。もともと船は非常に広いというのではないから、この船中の快適さについて一言すると、そういう場合でも日本流の礼儀作法にのっとって、相当な身分の人たちのことだけが考慮されるのである。これら上に立つ者が、もし部下の人びとのことを少しでも考えてやる気があるなら、もっと都合のよい設備をさせることができたろうに、そういう様子はまったくみられない。

 下関からわれわれは普通上関への針路をとり、そしてそこで停泊する。状況がどんなによくても、一晩中船上に留っていることなど、われわれの同伴者なはまったく予測さえできない。夕方には船頭はいつも港とか安全な泊地を探し求め、彼は風がおちてそこまで進めないと思うと、櫓や曳船を使って避難する。

 われわれが下関から大坂まで、普通に航行する時の最も主要な場所と、その相互間の距離を挙げると、下関-十八里-向岬〔向島か〕-十七里-上関-十二里-津和〔津和地島か〕-八里-カミガリ島〔上蒲刈島か〕-十里-忠海-十里-鞆-十里-下津井-十里-牛窓-十里-室-十三里-明石-五里-兵庫-十里-大坂。したがって百三十三里の海路である。

 日本人の同伴者は、毎日朝と晩に向かうべき針路について使節と相談をするが、討論の結果はいつもきまっていて、経験をつんだ船長は命がけで外人客の安全には責任をもち、自分が一番よいと思うように船を進める、ということに落ちつく。

 船が上関に錨を下ろすと、船乗りの守護仏である同地の寺、阿伏兎観音の僧侶たちが軽い食べものを持参して、一行を寺に招くが、寺にはご馳走とこの国ぶりの娯楽とが彼らを待っている。ところで港は山の下にあるのだが、その山の背に沿って散歩したり、この土地や対岸にある室津の村の寺や茶屋を訪れることは許されているので、上関での滞在は楽しみである。ここで数日間は楽しんで過ごせるかもしれないが、しかしわがツンベリー(5)が偶然体験したように、滞在が数週間ともなればそれもむずかしいかもしれない。

 天気はよくないが、われわれは上関の上手の海峡を通り過ぎて、屋代島の南東沿岸を進む。この島の地家室(ジノカムロ)の入江の中と、向かいの沖家室(オキノカムロ)にはよい投錨地がある。われわれはここで水を積み込む。沖家室の村には何とか滞在できるところがあるのかもしれない。われわれの先輩は少なくともこの島の茶屋で楽しい数日を過ごしたのである。

 しかし参府旅行の船がよく通り過ぎてしまう御手洗の港は評判が悪い。船はオカムロ瀬戸〔御手洗の向かいに岡村島がある。あるいは岡村瀬戸か〕を通過し、安芸の海岸に一段と近づいてゆくが、夕方干潮になるとたくさんの岩礁や小島の間の航行が危険となるので、そのころには三原湾に錨を下ろすためなのである。ここからわれわれは、弓削島と田島の間を讃岐国の箱崎に向かって針路をとり、琴平山から三里ばかり離れたところを通り過ぎて、夕方には鞆に近づく--備後国の半島にある小さい港町である。そこで前の晩に御手洗に錨をおろし、興味のないこともないこの土地のことを詳しく知ることができたらよかったと思う。われわれ自身としては、もっとこのすばらしい多島海の注目すべき場所や港を知る機会をねらっておいて、そのことを給人や大通詞にせがむべきだったのにせがまずにしまった。しかしこの島の多い迷路を進む航海のことは、一切船頭に任せることなのだろう。人びとが終始急がせないと、海上旅行は遅くなり過ぎると妄想してはいけない。旅行が早く終れば、それだけわれわれの同伴者の利得も無論大きくなるので、そのことが恐らく非常に強力な曳舟となるのである。われわれが出島で、いわゆる参府旅行の日誌を読んでみると、針路や港や曳舟についての絶え間ない論争が行われたのには、まったく驚かざるをえない。日本人の不機嫌とか私利ではなく、ただわれわれ使節の側に、この複雑な群島の地理的知識の不足や誤解があり、われわれはこの点にこういう面白くない口論の真の原因を求めねばならない。われわれが注目に値する港などの訪問をひとつひとつ実行しようと思う場合には、同伴者に真剣にそれを申し立てることが本筋であるが、しかし彼らの指図とか万一の場合国の規則にまったく反しない方法で行うことも、同様によくあるのである。彼らはほとんどすべての場合に、旅行中のわれわれの安全に対する自分たちの責任をたてにとるが、もちろんわれわれの側にも同じ懸念があって、それが盛んに請願をする根拠として利用されるのであろう。使節が体の具合が悪いことを口実として要求を出す場合には、それが同伴者の権限を越えないものであれば、事実であろうがなかろうが日本人にはどっちでもいいことで、そういう要求はかなえられないことはない。われわれの国でもそうであるが、口実もことと次第ではまったく問題にならない。きびしい規則にふれず、そして当然のこととなってしまった慣例の枠から出るためには、人びとは口実が欲しいのである。なぜなら各日本人は、以前の同役の旅行日誌を手引きとして携帯していて、ことあるごとに日誌におのれの弁明を書き込むからである。

 鞆は立派な港である。われわれが訪れるのはたいてい帰途についてからである。なぜなら同伴者たちはこの旅行を重要な商取引きに利用して、ここで備後国のいくつかの産物を仕入れるからである。

 白石という小さい島、下津井の岬または数里先の児島にある日比などは、ゆく手にある土地で、そこに立ち寄るのが普通であるが--あとの二つにはもっと海岸近くを航行する時に寄航する。われわれは鞆にはゆかず、箱崎すなわち讃岐の海岸に向けて針路をとった場合には、塩飽諸島の七つの島を左舷にみて、だいたい日比の沖合まで船を進め、それから夕方になると針路を北にとり、備中の海岸に船を停める。われわれは日比と向日比という二つの小さい村や近くにある製塩所を訪れることができ、ここで水と軽い食べ物を積み込む。

 かなり大きい小豆島は、室の港へ向かうそれから先の航海にとって水先案内人のような役目を果す。小豆島の西端に達すると、大多府岬〔実際は岬ではなくて、大多府島〕と赤穂を見ながら帆走し、なお二、三里離れた室の港に着く。さて海上旅行はこれで終り、付添人の一部と荷物だけが船で兵庫を経て大坂に向かう。

 室の住居は非常に快適である。われわれはここに一日ないし二日滞在し、町やまったく独特な設備をもった売春宿を見物し、供給量を誇る皮革産業を見せてもらったり、買物をしたり注文したりなどする。

 私がすでに記したように、当時の長崎奉行は、この重大な変更を事前に幕府の意向をたださずに承認したのであって、このことから右の役所がわれわれに関する諸事項についていかに多くの権限を持っているかがわかる。出島ならびに参府の途上におけるかなり多くのきびしい慣行に対して、それを変更することが厳然とした国法にふれたり、またたびたび述べた会所という役所がすべてわれわれに関係する業務の音頭をとっているので、この役所の利害と直接かかわりあいがないかぎり、こういう方法で変更することができるだろう。

 さて参府旅行を全般に関していうと、旅行そのもののために若干の簡易化をはかり、学問的研究のためにもっと自由な活動の場を獲得するために、決定的な処置を講ずべき時ではないかと思う。このことに関して、主として同意をえなければならぬ諸点は次の通りである。

 一、旅行を四人〔オランダ人の人数のこと〕で行うこと。その際四人目の者は、ケンペルの時代のように、医師の助手という肩書で許可されねばならないと思う。
 二、九州旅行の一日行程の短縮、小倉および下関で数日間滞在すること。
 三、海上旅行中、注目すべき港湾の訪問。
 四、参府旅行の帰路に京都および大坂でさらに長期間滞在すること。
 五、大街道ではもう少し急がず、状況により随意に注目すべき地方や町を訪れること。
 七〔六の誤り〕、京都へもどる時には別の街道、すなわち木曾路をとること。

 こういう改革は、ひと目みても実行できないように思われるし、奉行を頂点とする日本のすべての役人は、それを不可能と宣告するだろうことを、私は否定するものではない。けれども請合ってもよいが、われわれがただ正当な手段だけをとるなら、それらすべてをやり遂げ、そして経済上の問題点で一政府とではなくて、多数の上・下役人とかかわり合いがあることも忘れてはならない。これらの諸役人は独占権としての対外貿易を手中に握っていて、そのことが彼らの出費を大きくするという理由と、またそういう事情があるかぎり、彼らは一切のまわり道を避けようとするだろう*6。 したがって四人目の人物に対する、また行列が主要街道あるいは大きな町や港でいつもより長く逗留する場合の日数に対する会所への弁済や、また二人の長崎奉行にとっては日本人同伴者および特別な献上品にかかわる手当や--とくにわれわれの側の、もっと気前のよい態度などがはっきりしてくれば、それらの障害をとりのぞくための力が足りないということはないだろう。J・コック・ブロムホフ氏が日本人から得ることのできた数倍もの特恵は、すべてこのような方法で達せられたのである。七年間の滞在中、私が自身で獲得したものについては申し上げないことにする。

 室から兵庫への陸路は、本州のうちで最も注目すべき、同時に一番快適な区間の一つを通っている。一日の旅程は次の通りである。

        昼       夜
   第一日  シソ(7) Siso  姫路
   第二日  曾根      加古川
   第三日  明石      兵庫

 室からきつい山を登って、豊饒な谷に下る。正条の親切な宿屋で昼食を済ませてから、われわれは乗物で浅い宍栗川(しそうがわ)〔当時の地図によると「室」寄りに「宍栗川」、遠い方に「正条川」がある。今日の揖保川か〕を渡ったが、川岸の景色はたいへんすばらしい。そして夕方近く姫路につく。美しい立派な町である。二日目の道筋には新しい名所が続く。昼食後、われわれは巡礼をして曾根・石の蔵 Isinokura 〔第二版では「石の宝殿」となっている〕および高砂などの有名な神社仏閣に向かうが、そういうところの神官や僧侶は愛想よく手厚くもてなしてくれたので、好感をいだく。ようやく印南野 Inamino の平野に下り、駕籠に乗って夜の宿泊地加古川につく。

 三日目、われわれは西谷とフジ山 Fudisijama 〔土山の誤り〕の村を過ぎたが、土山の舞子の浜〔明石の手前に「舞子の浜」があるのは、著者の思い違い〕にある飲食店で海を望むすばらしい景色をみて楽しむ。それから明石で昼食をとってから淡路島に面した海岸沿いに旅を続け、名物のうどんが有名で、たくさんの旅人が訪れる一の谷というところでひと休みして元気をとりもどし、とうとう夜更けて兵庫にたどり着く。すでに船は予定通りに着いていた。船頭は宿舎に入ってくる時に深く頭を下げ、使節に到着したことを正式に伝える。大坂への旅はたいてい翌日に始まる。献上品は別であるが、荷物と従僕たちの一部の者は海路をゆき、われわれの方は陸路を進む。われわれは第一日目には住吉で少し休んでから、この街道を通ってまだ早いうちに西宮につく。この日みた名所には英雄楠正成 Kutsunoki Masasige の墓や生田明神の社がある。ここを発つと、まもなく大坂湾を望むハッとするような景色が眼前にひらけてくる。わが同国人は、この一日の短い旅を終えてから、自分たちに残されている余暇を利用するが、それは大坂での孤独な生活をつぐなうのが目的である。身分の高い旅行者は、できれば午前中に大きな都市に乗り込むのが慣例になっていて、それが大坂近くの西宮に、京都近くの伏見に、さらに江戸から四里半の神奈川に泊る理由なのである。

 大通詞は急いで大坂に向かって先行し、二人の町奉行にわれわれの到着を報告する。われわれは二、三時間おくれて後を追い、松平遠江守の城下町尼ケ崎を通り過ぎ、神崎川とジュウロ川 Sjuro gawa 〔第二版では「十三川」〕を渡り、十三(じゅうそう)で足をとめる。たぶん大坂や伏見の宿の主人がやっかいな客人をここまで迎えにきて、一ぱいの茴香酒(ウイキョウシュ)を出して歓待するためである。いま広々とした平野の東方に大坂の町が見えてくる。まもなく大坂の郊外の町につき、難波橋という大きな橋を渡り、数分後には一軒の宿舎に着くが、その設備の貧弱さは、全行程中どんな宿でもこれ以上悪いものはない。この建物は、当地で対外貿易のため銅の取引業務を行っている長崎会所のもので、年々参府旅行をする者や、また毎年交替する長崎奉行のために、貿易の費用で維持されている。

 使節団が江戸で将軍に拝謁を済ませてしまう前には、一行は大坂や京都で町を歩くことも、奉行を訪問することも許されない。それゆえ往路はこれらの町では本当に監禁されたようにして日を過ごすのである。この住いはみすぼらしく、そのうえ家の中にいなければならないきまりがあるので、この土地に滞在するのは本当に情けない。

 到着するとすぐに、大通詞は使節のところに知らせをもってくる。それによると、もちろん当然のことであるが、二人の奉行への贈物は、われわれがこの人たちを表敬訪問する帰りの時まで、ここに置いておくというのである。

 しかし内々ではあるが、知人やその他好奇心のある二、三の人と対面することは許されていて、ときどきは身分の高い人びともみえるが、日誌には例外なく大代官 Oho dai kwan 〔あるいは御代官か〕と書いておく。来客はほとんどが医師に会うのが目的で、医師は盲人・体の不自由な人や癩病患者に囲まれ、辛抱して医術を施こすことも少なくはない。

 従者たちはその間に船で運んできた荷物を陸上輸送のために整理する。そして大坂を離れるわけだが、こんどは早ければ早いほどいい。

 心地よい谷を通って街道は淀川岸に沿って内陸部の枚方に通じている。同地で昼食をとり、それから有名な淀の城へと旅を続ける。われわれは伏見で泊り、手厚くもてなされたが、しかし夜更けまで装身具を売る女たちが盛んに押しかけてきて、外国人に珍しい品物を押し売りするので、なかなか休むことができない。

 伏見の町はずれから京都の郊外の町が始まるが、それらの町は街道の両側に開けている。行列は稲荷大社、東福寺、大仏院〔方広寺〕の傍らを通り過ぎ、五条の橋を渡って京都に入る。

 ここでもわれわれは大坂と同じクジを引き当てることになるが、住居がいくらか快適な点だけが大坂とは異なっている。たとえわれわれが階下の部屋を割り当てられても、住いであることには変わりないだろう。しかし通詞たちは自分から進んで階下の部屋に住みたがり、それで書記と医師を使節の寝室・居室・謁見室の隣りにある燻製室のような部屋に出発の時まで閉じ込めたままにしておくのが常である。大通詞は町奉行と所司代に外国の客人が到着したことを報告し、所司代のところでは、江戸にゆく通行証を作ってくれるように頼む。それから彼は、本年もまた上述の人びとが受け取る贈物はここに保管しておいてもらうこと、上記の人びととの謁見は帰る時に行われることなどを、使節に伝える。少し経つと、だいたい公式の書類と同様に漢字で認(したた)められた通行証が使節の前におかれ、使節はそれに目を通し--署名して確認する。この通行証は、元来箱根や荒井〔今日では新居と書く〕の関所を通るための許可と、東海道のすべての宿場や大きい河の渡場への命令を含んでいて、旅行を続けるのにたいへん役立つのである。

 京都にはいわゆるオランダ人の友人がたくさんいるが、とりわけ天皇の宮廷の侍医、小森肥後介(8) Komuli Hikonoske は、私が知っている日本人のうちで最も誠実な、最も教養のあるひとのひとりである。こういうような〔ヨーロッパの学問の〕信奉者は、よく自分たちの家族を伴ってやってくるので、われわれは日本人の家庭的な団欒のなかで、本当に楽しい夜を過ごすのである。また、内裏の身分の高い方もお忍びで時折りみえることがある。

 その間にも勘定役は、現実に特別な障害があるわけではないのに、ちょうど大坂を発つ時と同じように、ここを発つように催促する*7。 けれどもわれわれが一週間以上ここに滞在する事態が生じた時には、こうしてせきたてるのは、われわれの部下に対する滞在の延期を知らせる合図なのかもしれない。なぜならわれわれはそういう折りに友人を通じて興味深いメモの類を集めたりするが、まったく学問的な話などわからないひとたちでも、美しいいろいろな工芸品を買い込んだり注文したりするチャンスがあるからである。

 われわれはわずらわしい組合費を払って京都を後にする。旅行の舞台はいまや大きな東海道になるのだが、この街道をわれわれは急いで進み、休みもせずに百二十五里の道を二週間以内で行くのである。当然のことではあるが、かなり多くの宿場では一日またはそれ以上逗留するにはいろいろな困難を伴う。江戸に向かう大名の行列がはち合せしたり、われわれの随行者があまり多いので、われわれ自身もときには泊ることができなくなるかもしれない。しかしいつも、そしてどこでもこういう事態が起こるわけではない。ある川が不意に増水して、行列が数日間も何もないような村に芦留めされることがよくあるのに、なぜわれわれは自分からえらんで、使節団の休養とか便益のために、注目すべきところに一日留まるとか、あるいは一日の旅程をせめてもう少し短くすることはできないのだろうか。われわれの側からの、また日本人の側からのこうした質問に対する返答は、財布の具合ということになる。これまでの商館長もそれ以外には要求しようがなかった。繰り返してはっきり申し上げるが、江戸幕府はわれわれの旅行が早かろうが遅かろうが、またどんな方法で江戸に着こうが、そんなことを気にかけてはいない。ただ長崎奉行や会所や金銭の出納をつかさどる通詞たちが気にしているだけなのである。主要な街道で一日滞在すると、--残りの費用は元のままであるから、宿や飲食物のために、--約百ライヒス・ターラーの出費がふえるので、すべての抗議はうまくゆかない。一八二六年の参府旅行では、われわれは日本人同行者の性急さに苦情を言うほどのこともなかった。しかしわが使節には江戸城で促進しようと考えていた重要な要件があって、そのことが彼をせきたてたし、またもう一つ別の理由があって、なおさら旅行を急ぐことになった。なおわれわれがこの街道を快適な気分で旅行できたのは、旅舎のすばらしい家具調度や客扱いのよさ、そのうえ荷運び人足や渡守のおかげであるといわざるをえない。彼らは日々の訓練で身につけた腕前で、自分の肩に非常に重い荷物を負い、激流を渡りけわしい山地をこえて荷を運んでゆくが、こういう腕前をもっているから、この無理な旅行も、見た目には何事もなく進んでゆく。とにかくわれわれはよく食べ、よく飲み、よく眠り、すっかり安心し切ってくらし、旅行そのものについて心配する必要は少しもない。そしてわれわれは同国人とではなく、日本人の団欒の中で多くの楽しい時を過ごすのである。

 われわれの行列がこの街道で昼食をとり、そして夜泊る場所は、昔と同様にあらかじめきめられていて、緊急の場合だけ変更が許される。われわれは無理に旅を急いだので、一八二六年にはきまりの通り旅行をすることができず、ここでは通常の、すなわち一八二二年プロムホルツ氏が決められた通りに行った旅程をお伝えしよう。

         昼食   宿泊地
   第一日   大津   草津
   第二日   石部   水口
   第三日   土山    関
   第四日   石薬師  桑名
   第五日   佐屋    宮
   第六日   池鯉鮒  岡崎
   第七日   御油   吉田
   第八日   荒井または舞坂  浜松
   第九日   袋井   日坂
   第十日   金谷   島田
   第十一日  岡部   府中
   第十二日  沖津   由井
   第十三日  吉原   江尻〔自筆原稿には「沼津」とある〕
   第十四日  箱根   小田原
   第十五日  大磯   藤沢
   第十六日  神奈川  川崎
   第十七日  品川   江戸

 普通、京都を午後に出発し、山地の街道を琵琶湖に向かって進む。大津にはきれいな茶屋があって、そこから湖水を望む景色は一幅の絵のようである。われわれはそういう茶屋の一軒で休み、ふたたび元気を出して旅を続け膳所の城を過ぎ、瀬田の二つの橋を渡るが、昔ここは三つの重要な関所の一つであった。それから普通だと日暮れになってやっと宿泊地につく。荷物の一部は大津から水路ここに運ばれてくる。梅木(むめのき)出身のもてなし好きの偽医者がわれわれを招待する慣例があるので、彼のところに立ち寄る。歓待して旅行を続けるわれわれを元気づけようというのではなく、われわれが訪ねたことを利用して偽のオランダ風の薬の評判をよくすることがねらいなのである。そこから石部に向かい、横田川 Jokoda gawa を渡り、水口で昼食をとり土山で泊る。非常に美しい山岳地帯を旅行するのであるが、すべての楽しみは無意味な強行軍のために不愉快になり、大急ぎでこの地方を走り過ぎてゆく。早朝から真夜中までわれわれは苦しい道を足を引きずって歩かされ、そして坂ノ下、関、亀山、庄野、石薬師の宿々では、大急ぎで軽食をとるための時間もほとんど与えられない。とうとうわれわれは迫ってくる夜の闇の中を進みつづけ、非常に快適な道であるのに、少しも楽しさが湧いてこない。それでこの日は十一里の道を進んでから、真夜中に四日市につく。提灯のあかりをかざして、まだ夜の明ける前にふたたびこの地を発ち、桑名で昼食をとり、木曾川の幅広い河口を渡って佐屋にゆくか、あるいはもっと近道を宮へ渡るかである。

 好天に恵まれればこの渡航〔七里の渡し〕は非常に快適で、宮にゆく陸路よりずっと好まれる。けれども都合の悪い強風が吹けば、この渡海は危険であり、また渡れないかもしれない。われわれのために船を出してくれる城主は、その時の状況によって最も安全であり、かつ最良と思われる道を番所の上役にえらばせるので、われわれの考えで激しくかつ無用な議論をやめ、心配せずにこの身を日本人にゆだねることもできるのだが、その議論の最中に何度も何度も渡航の準備がなされた。われわれは佐屋に向かったので、そこから陸路を宮にゆくことになる。四日市とか佐屋などとり立てていうこともない土地の代わりに、一日を桑名に、もう一日を宮に泊れたらずっと都合がよく、一段と興味深いことだろう。なぜなら知識の旺盛なひと、とくに博物学の愛好者は、宮にゆけば医師の水谷助六(9)、伊藤圭介(10)、大河内存真(11) Okutsi Sonsin がいて、積極的でかつ学問上の援助がえられるからである--日本の自然科学に尽した彼らの功績は、次代の後継者からも尊敬されるだけのことはある人たちである。買物をしたい人びとには、当地〔宮〕と桑名には良い鉄製品がある。

 街道は宮〔今日の名古屋市熱田区内〕から岡崎に通じ、同地の城と矢矧川(やはぎがわ)〔今日では矢作川とかく〕にかかる大きな橋とは、名所といってもさしつかえあるまい。われわれはいま心地のよい山地を進み、藤川、赤坂、御油(ごゆ)を通り過ぎて吉田〔今日の豊橋市〕までゆき、普通はここに泊る。そこから潮見坂〔汐見坂ともかく〕という急な山道が海岸のすぐ近くを通り、海沿いに荒井〔今日の新居〕の関まで進み、行列は関所を通らねばならない。浜名湖 Famanuko の入江を渡るために、一艘の帆かけ舟を用意してくれた藩主の好意に対して礼を述べるために、使節は当直の武士を表敬訪問する。その時、使節は給人や大通詞を伴ってゆく--使節は二人の同伴者を門前の荷物や従者のところで、自分のもどるまで待たせておかないで、いっしょに出かけたので、この訪問は疑いもなく一段と好感を与えた。しかし日本人からせがまれ、旅行中に何度も繰り返されたこういう処置が、ヨーロッパ人の習慣について日本国民に謝った観念を与えるに相違ないのは、残念なことだ!

 われわれは二本のリキュール酒と数本の陶製パイプを感謝のしるしとして差し出してしまうと、上に述べた舟に乗り込む。この舟は大変優雅にできていて、ほどよい人数が乗るにはゆったりしているが、身分の高い日本人同行者をみんないっしょに乗ってもらうには小さすぎる。それゆえ藩侯が示された好意は、同行者が無理に乗り込んだので重荷となり、そのため本来ならわれわれが非常に楽しいものの一つと思っていた舟旅が、強情な人びとに強いられて楽しみもうすらいでしまう。--人工的に築かれた堤防のおかげで無事に舞坂まで舟を進め、同地に上陸し、ふたたび元気を出して浜松への道をたどる。

 翌日、われわれは天竜川(人びとはここが京都と江戸のまんなかだと思っている)を渡り、見付を過ぎて掛川 Kako gawa に至り、一七九八年この地で死去した商館長ヘンメイ(12)の墓に参る。このあたりでわれわれは、大井川という急流の水位を問い合わせるために先発させた使者に出会う。山岳地帯の雪解けや豪雨のために、ときには川越え人足が歩いて渡ることができないほど、川の水嵩が増すことがあるからである。この川のところに来るには、日坂峠 Nisi taka toge というすばらしい山道を通る。眺めは美しく、客扱いのよい女たちのいる茶屋があり、僧侶や巡礼や乞食がいて祈ったり歌ったりし、また不思議な無間(むけ)の鐘やかつてメドゥサ(13)の力をもっていた一つの石〔夜泣き石〕への追憶などを心に描いたりしていると、この一日の旅は変化に富んだものとなる。

 金谷付近では、東海道の全道中で一番すばらしい景色を満喫しながら、力強く流れる大井川の河床に降り、渡河を始めるわけだが、渡河は実際に渡ることよりも、むしろ準備の仕方をみている方が恐しく感じられる。しかしながら、人や荷物を肩にかついで向う岸に渡す川越え人足の長年にわたる熟練や鍛錬、それに法の厳しさなどが--各人はおのれの首をかけて自分に身を任せた人の無傷を保証するわけであるが--非常にこわがる旅行者を安心させることだろう。このような川では、川越え人足が渡ってもよいという水位がいつもきちんと定められているが、これは当然のことである。流れが一定の水位を越えた場合には、旅行者は近くにある宿場の一つで、水がひくのを待っていなければならず、オランダ人の一行もすでにたびたびこういうことに出合ったし、それがしばしば旅行の遅延に影響する。渡河の料金は水位によって左右されるが、人足一人当り日本の約八十ないし九十八銭〔文と考えてよい〕--一八二六年には九十四銭で渡った--われわれの行列全部の費用はたいてい小判二十八枚、すなわち三三六グルデンになる。水位の低い時には馬は荷を乗せたまま渡るが、高い時には各々別々に渡る。

 この川を渡ってしまうと、まもなく島田の村に着き、普通はここで昼食をとる。藤枝 Futsi eta の手前には瀬戸川というのがあり、さっき大井川を渡ったのと同じ方法で川を越える。藤枝は長く続いている町で、サメやエイやその他の魚皮の細工で知られているが、貧しい所である--ここから街道は宇津ノ山の山地を越えて鞠子(まりこ)〔今日では丸子〕に通じている。それから安倍川を渡り、府中〔今日の静岡〕で泊る。この小さい町(昔は将軍がおられて栄えた城下町であった)は今ではさびれているが、ここでは美しい編物細工や木工品が主な産業部門となっている。これらのものはみな評判通りである。しかし売り手は自分の商品に法外な値段をつけるので、買い手は店ざらしにして品物が悪くならないうちに、それに半分または四分の一の値をつけたりする。ここでは、これまで通って来たすべての町々と同じように、われわれは日本の武士〔役人〕や通詞に伴われて街道沿いの店に出かけてもよいことになっている。

 府中から道は江尻を通って海辺の奥津〔今日では興津と書く〕に通じている。ここで海に注ぐ奥津川が増水して逗留が長引くことはめったになく、蒲原と吉原の間にある富士川の方が長引くことが多い。そういう時には行列は前述の奥津、由井、蒲原などの宿場で逗留しなければならないが、向う岸から渡ってくる人たちは、左岸にある吉原とかその付近にある津田町、本(もと)市場、平垣(へいがき)などの村々で水がひくのを待つわけである。

 この旅行中のすべての大きな川を渡るのと同様に、富士川の渡河が遅延するのは--歴代商館長の日記によると、われわれの同伴者とのたびたびの不和が原因で、当然日本人たちに責任を負わせることはないだろう。なぜならば彼らはここでも下関から室に至る海上旅行の場合と同様に、逗留の延期に何のかかわりもないからである。その支払いをしなければならないのは、もちろん彼らの財布からなのである。急流富士川を渡るには高い舟縁の、非常に軽いしなやかな小舟が使われる。さてわれわれはたえず崇高な姿をみせている富士火山を眺めながら本市場村へ向かう。同地ではその村の人が、われわれの国の氷菓子の要領で富士山の氷を調理し、通過する外国人のために酒を出して小宴の準備をしている。普通は彼のもてなしに対し礼として小判一枚を渡すが、これは彼のかけた費用をほとんど補償するものではない。出された肴に何も手をつけなければ小判半分〔二分〕を支払う。一八二六年のように、われわれが駕籠に乗ったままで扉のすぐ前の美しい景色を眺めようとしている時には、お金は出さず通り過ぎてしまう。

 まったく平坦な街道が富士の裾野に沿って吉原を経て原に通じているが、同村に住むある人(14)の清楚な庭園を訪れる。

 さてわれわれは箱根山地の麓にたどりついたが、目前に迫っているのは最も困難な行程の一つである。しかしそれは道のことではなく、一日のうちにこんなに長い道程を進まねばならないほど極端に急ぐのが問題なのである。この山岳地帯を越えてゆく行進は非常につらい。一八二六年がそうだったが、われわれは沼津に一泊し、朝の四時から晩十時までが道中で、その大部分の行程を自分の足で歩かねばならない。もし一晩を三島で、そしてもう一晩を箱根の村に泊りさえすれば、こうした困難を味わわなくて済んだろう。このことはまったく長崎出発の前に行われた日本人との真剣な打合せによるのだが、そういうことはこんな急ぎの行進を旅行計画から除くのが目的であるのに、欲得づくで立案され、旧い慣例があるのでそれに同意してしまうのである。

 三島から道は次第に苦しくなってゆくが、しかし適当な距離をおいて非常に快適な休息所があり、そこで疲れ果てた人足たちは休んでは元気をつける。箱根の村ではいつも昼食をとり、それから関所を通る。関所は将軍の居住地に備える戦略上の要衝で、そのために小田原城主が守備兵をここに出している。使節団のうち三人を除いては、何びとも駕籠に乗っていることは許されない。そしてわれわれの乗物でさえ、通り過ぎる間、従者が関所役人の方に面した駕籠の扉をあけておく。ただ諸侯とその第一級の家臣・御奉行・御代官 Otaikwan のような幕府の高官および参府のため江戸に留まる者、また重要な任務を帯びて将軍から派遣される者、一般にこういう人びとは、このような特別の扱いをうける。

 この山地の住民がたいそう精巧で美しい漆塗りの寄木細工を作っていることは、かなり知れわたっている。この山岳地帯ではそういう物を作る材料が豊富にとれるからである。下山の時に畑宿や湯本(熱い温泉という意味)の村々の何人かの金持の商人のところで、こういう品物を入れる倉庫をみたり、これらの人びとのロマンチックな美しい庭園をみて感心したり、それから山麓にあるオランダ人愛好者の別荘を訪れ、手厚いもてなしを受けたりした。そこから険しくはないが歩きにくい道を、小田原に向かって旅を続け、夜ふけてそこにたどりつく。

 小田原から街道は海岸沿いに酒匂川を渡って大磯に通じている。そこから平塚に向かい、そこで舟に乗ってかなりの川幅の馬入川または相模川ともいう川を渡り、心地よい松林を通りぬけて、藤沢につく。翌日は戸塚、保土ヶ谷の村々を過ぎ、神奈川で昼食をとり、同地で江戸湾を望む驚くばかりの景色を眺め、夕方川崎につく。ここで江戸からやって来た知人の歓迎を受けることがよくあるが、商売気のある商人に歓待されることが多い。

 とうとうわれわれは夜明けとともに盛装して将軍居城の町に向かう。六郷川を渡り、大森と郭外の町品川で、江戸からここまでやって来る習慣になっている庇護者や知人と短時間談笑し、江戸湾の広々として眺めを楽しみながら、郭外の長く続く町筋を通り抜けると、日本橋 Npponbas に着くが、日本のすべての土地に至る距離はこの橋から測られる。それから、われわれのために準備の整った首都の宿舎に入るのである。

 到着するとすぐに、江戸に在勤中の長崎奉行の代理が姿を見せ、--二人の給人が使節に覚え書を渡すが、それは到着に対する祝意と勧告を兼ねるもので、旧い慣行上それは当然必要なのだから、万事それに従ってふるまうように、というものである。また同じような指示をわれわれの面前で町使や通詞さらに宿の主人たちも受ける。彼らに続いて第二の代理人--いま長崎に在勤している奉行配下の江戸に残留している数人の役人、それから対外貿易を指揮監督している財務長官(御勘定奉行)の代理。それはたいてい土木監督官(御普請役)〔勘定奉行の配下に「御勘定所詰御普請役」が七十一人いる。あるいはこれをいうか〕で身分の高い役ではない。われわれはこれらの人たちをいとも仰々しく出迎え、リキュール酒などを出してもてなす。その間に、奉行や、やがてその名を申し上げるもう一つの役所にわれわれの到着を報告するため行列より先行した大通詞が、歓迎の詞をうけてもどってくる。それに続いて数人の人が来るが、彼らは外国人の監督官〔この原語はケンペルなどの場合には、大目付と作事奉行が兼務する「宗門改」の意味に用いられている〕の名で紹介される。これらの人びとは、日誌では寺社の君という名で書き記されていた人で、元来寺社のことを管轄する役所の代表者である。江戸にいるオランダ人はこの人たちの監督下におかれている。なぜなら外国人に対して禁止したり制限を加えたりするのは、宗教上の問題がその根拠となっているからである。

 オランダ人の門弟〔いわゆる蘭学者のこと〕や知人のうち大部分のものはすでに大森や品川で本当にわれわれを心から歓迎したのだが、彼らはわれわれが到着してから二、三時間のうちにふたたび個人的に訪問し、面会が許されない場合には、われわれの国の文字で書かれ同じ形をした名刺を差し出すが、給人の許可をえて通詞の案内があれば、彼らはわれわれと会うことができる--これらの役人たちのところにかなりの物を持ってゆく慣行がある。なぜなら人びとが彼らに親切にしてもらい、贈物さえすれば、われわれのところに自由に出入りすることができるからである。これはこの国の風習である。われわれもまた知人やその他の日本人が初めて訪ねてくる時には、歓迎してもらうために、貴重な贈物を受けることは珍しくはない。けれども彼らはうれしい返礼を楽しみにして待っている。全行程中でわれわれが知り合いになったり、また新しく交友関係を結ぼうとする時にこういう風習がみられるが、これは自分が好かれたり、多くの目的を達成する最上の手段なのであるから、こういうことがなおさらきちょうめんに行われる。人びとはこういうことを日本人の貪欲のせいにしてはいけない。これはなにか異国の物を持ちたいというまったく無理からぬ性向にすぎない。

 オランダ人が江戸で滞在する家は、数年来われわれの方の費用で家具類を整えかなりよくなっていた。使節は四つの広い部屋に住み、彼の二人の同僚を日本人使用者のすぐ隣りに入れるので、二人は自分たちの荷物といっしょに一つのみすぼらしい部屋に泊るのである。そして彼らは、ヨーロッパの習慣をまったく忘れてしまったわけではないから、彼我の習慣の相違についていくつか考察を加えることができる。出島に駐在していた多くの歴代商館長は、同地に滞在中わがヨーロッパの風習が一段と卓越し高尚であることをすっかり忘れてしまい、彼らが公けの場でふるまう時には、日本の風習に従って行動することが、彼らのなしうる最上の方法であるとしたのは、まことに遺憾の極みである。そしてヨーロッパの公明正大な国家のうちの一代表者として、自分たちの同国人を同一政庁の役人として、彼らにふさわしい尊敬をもって遇せず、日本の儀礼にいっそう似せて、住民の前では大名のような役割を演じようとして、故意に人を近づけない。--われわれの知人、そのなかには将軍家の医師やそのほか学者がいるが、たとえ忍びであっても毎日われわれのところへ訪ねてくる。しかも向学心のある者や好奇心の強い人を何人も連れてくる。われわれに随行してきた人たちも、自分たちがとらわれの身で外出できずにいるのを見てもらうのが彼らの仕事で江戸のような町ではそのための顧客にこと欠かない。

 そうしている間にも筆者の監視のもとに献上品の荷が解かれ、整理して将軍の御殿やその他の高官のもとに運ばれ、そこで江戸在勤の長崎奉行が封印して、拝礼の日まで保管される。こういう指示が出るようになったのは、一八〇六〔文化三〕年に大火があって、献上品の一部が焼けてからのことである。

 拝謁の時に、控えの間から献上品が重ねてある大広間に、われわれを案内する数人の役人が、使節を儀礼的に訪問する。彼らは身分の低い者で、そのうち上役を組頭 Kamikasira 〔自筆原稿には Kumikasira また Kumikasirakak となっている〕、次を組頭格といい、われわれはこれまで彼らを僧侶または司祭長と思いこんでいたが、そういう人たちではまったくない〔同朋組頭または同朋衆のことをいう〕。このような役の人びとは、ここに来た人を含めてただ剃髪はしているが、それはとにかくとして彼らに対してはある程度の秘密を打ち明けることができる地位にあり、それで一八二六年には相当な商取引をしたのである。それゆえ彼らをそれなりに丁重に取り扱うことが大切であるが、その際われわれは、その身分や地位からすれば、彼らはわれわれの宮廷における雇い人に相当するものであることを忘れてはならない。

 使節一行のことは、給人および大通詞を通じて江戸在勤の長崎奉行に届けられ、奉行は幕閣のもとでこれらの案件の処理に当る。給人は取次の役目があるので、自分の部下とともに使節一行の宿舎の、しかも玄関のすぐ近くの部屋にいて、そこで同時に幽閉者たちの監視役も兼ねる。こういうことは普通なのであるが、この町に家があり家族がいても、彼自身この旅舎を離れることは許されないので、それだけ良心的に仕事に当ることができる。もっともその間に家族の者が彼を訪ねてくることはさしつかえない。

 江戸滞在が一ヵ月以上も続くことは珍しくはないが、その全期間中、三人のオランダ人は自分たちの費用で建てた家の中に隔離されていなければならず、拝礼の日まではどんな口実を設けても、家を出ることは許されない。ついにその日が来ると、使節の一行はもう六時には姿をみせ、しかもたいへん華美に装い、金糸を編み込んだビロードの式服を一着におよぶ*8。大勢の駕籠かきは晴着を着て乗物をかつぎ、従者たちは両側に付き従う。そして彼らが旅行中に演じた役割に従って進むさまは、はなはだ奇異である。給人と通詞は、もっと身分の低い旅行仲間のように、このたびは徒歩で付き従っている。このようにして行列は旅行中と同じように整然と町中を進み、約千歩ゆくと、東の城門である常盤橋御門に着く。前城にある手入れの行きとどいた大名屋敷の間の幅広い道を通って、第二の大手御門まで進むと大きな広場があり、行列はここで止まる。われわれは乗物をおり、歩いて頑丈な二重の門〔枡形門のこと〕を通りぬけ、内城の入口のところまで進み、百人番所に入り、みすぼらしい広間で茶の饗応をうける。まもなく長崎奉行が宗門奉行 Sjo mon bugio や大目付 Oho metsuki 〔宗門奉行とは宗門改のことで、作事奉行と大目付がこの役を兼ねる〕といっしょに姿をみせ、使節の一行を歓迎し、まもなく拝謁が許される旨を伝達する。彼らが去り、われわれは頑丈な防備施設のある枡形門を通って山上の御殿に向かった。なお二、三百の階段をのぼり終ると、寺院のような形をした玄関が現れる。玄関の中に入ると、左手の広間には拝謁のために登城したした大名の供をして来た家来たちがこわばった礼服〔上下のこと〕を着て座っているが、われわれはそのかたわらを通り過ぎて控えの間に導かれる。そこで使節の同行者、すなわち書記、医師、給人、通詞および旅舎の主人が腰をおろすと、上述した剃髪の坊主衆が周囲に群がってくるが、そのなかには十二歳ぐらいの若いのが何人もいて、たいへん行儀が悪い。そうこうするうちに大名、その他の高官も姿をみせ、将軍の一族も到着し、なかなか礼儀正しい作法でわれわれを見物し、ときにはわれわれと言葉を交わし、服や時計やその他大切な物のことをたずねたりする。少し時間が経つと、長崎奉行は上述の二人の宗門改を伴ってふたたび姿をみせ、使節に拝礼がまもなく行われることを繰り返し告げる。ここでわれわれはよく何時間も待たされるが、とうとう時間がきて使節は謁見の大広間に連れてゆかれ、現場で必要な作法を教えこまれることになる。拝礼の予行練習をする時には、書記と医師は使節に同行し、大広間の設備や並べてある献上品をよく見ることが許される。

 彼らは使節に--お辞儀をすることが儀式全体の中で重要なことなのであるから、お辞儀をしなければならない場所とかそのやり方をしっかりと教え込むだけで満足せず、小心者の通詞や勤め熱心の同朋衆は、使節にこうした芝居じみた仕種(しぐさ)を自分たちが良いと思うまで無理に何度も繰り返させるが、奉行は二人の宗門改といっしょに立ち合っている。この日、恐らく自分たちの好奇心を満足させるために出席しているたくさんの人びとは、この時見物人の役をつとめるわけである。この一幕が終るとわれわれは控えの間にもどる。

 とうとう坊主衆が奉行の名において、拝礼が行われることを伝え、使節を廊下に沿って拝謁の広間の入口まで案内してゆく。給人と通詞は付き添ってゆくが、書記と医師は控えの間に残る*9。

 謁見の間(大広間 Obiro ma)はいくつかの部屋から成り、拝礼のために伺侯する人物の身分によって差別がある。長崎奉行に案内されて、使節は御下段という名まえの最初の部屋に入り、木の床(ゆか)の廊下でいちばん端にあるキリマ縁 Kirimajen --というところに坐る。左手の特別な場所 Furudamari 〔この語未詳〕には献上品をきちんと台にのせて、よく見えるように並べてある。使節は坐って頭を深く下げ、将軍が世子を伴って大広間の奥の御上段の間に姿をあらわすまで待っている。すると式部官〔自筆原稿には Oosjaban (御奏者番)とある〕が大きな声で「オランダ・カピタン」と叫ぶ。これは「オランダの商館長」ということである。そして使節は、すぐうしろに坐っていた奉行が外套を引張って立ち上る合図をするまで、視線を上げることもできず、同じ姿勢のままでいる。殿上の間 Tensjo no ma という控え室にもどってくると、上述の奉行と二人の宗門改が使節のところにやって来て、最高の栄誉を受けたことに対して祝意を述べる。たくさんの身分の高い人びとがわれわれのまわりに集まり、そして好奇心を満たすのである。

 ここでわれわれは長い間、衆人環視の中におかれるわけであるが、奉行の合図で本丸御殿を離れ、まっすぐに世子の御殿に案内してもらうために、乗物の置いてある場所にもどる。たいていは昼になっているので、われわれは乗物が動き出す前に、わずかの時間を利用してなかに入れて持って来た食物を少し口にいれる。それからしばらくの間乗物で進み、降りてからは歩いて武器や旗指物などが飾ってある番所のかたわらを通り過ぎ、橋を渡って世子の御城〔西の丸〕へゆく。広間の施設と拝礼の儀式は、将軍の御殿と同じでその仕方も変らない。長崎奉行はここでも前に述べた役割を演ずるが、ただ世子は普通不在で、二人の参政官〔老中または若年寄〕が使節の挨拶を受ける。さてそれから老中などの住いを訪問することになるが、われわれはいちばん都合がよい道順で、順次訪問する。われわれが通り過ぎる町筋には、もちろん好奇心を持った人びとがいっぱい集まっている。われわれは屋敷の門のすぐ前まで乗物でゆき、それから前庭を玄関まで歩いてゆくが、玄関ではひとりの家臣が出迎え、普通は武器類を飾った部屋のそばを通り過ぎ広間に案内する。われわれは畳の上に坐らされ、家来が挽茶や煙草盆を持ってくる--すべてが儀式ばって規則正しい調子である。しばらくすると書記役〔これは家老または用心のこと〕が姿をあらわし、主人の不在を詫びる--つまり主人はまだ将軍の御殿にいるのである。使節とわれわれは順々に挨拶し、それから使節は広間の中の台の上に並べてある贈物をオランダ東インド政庁の名において渡す。これに対して主人役のひとはわれわれに、一服してちょうど運び込まれた焼菓子でも食べるようにすすめてくれる。その間に穴をあけた障子のうしろにかくれている美しい女性たちは、異国の客を観察する。用心のひとりがぜひ扇子や紙片に何か格言か好きな言葉を書いてくれと頼む--これは慣例である。二人の用心がもどってくると、われわれはすぐに暇(いとま)を告げ、この場から立ち去るが、一方宿の主人は、日本の作法通りに砂糖菓子をいっしょに包んで持って帰る。

 このよいうにして、われわれは五人の御老中という第一級の参政官を訪問するが、第二級の八人の参政官(彼らは若年寄という役目をもっている)を訪ねるのは、次の日ということにする。こういうことが行われたのは一八二六年がはじめてである。なぜなら日誌をみても、以前にはすべての人を一日で訪問していたが、こういうやり方は苦労が多過ぎたからであった。

 三日目には二人の江戸町奉行を表敬訪問するが、両家とも酒や若干の日本料理を出してもてなす。そしてわれわれのお礼参りも四人のいわゆる寺社の君〔寺社奉行〕を歴訪して終る。

 公式の拝礼が終ってしまうと、われわれは初めて幕府の医師や天文方またはその他の大名の公式の訪問をうける。仰々しい集会が催され、給人や通詞もこれに出席する。参会者は質問するが、その際彼らは自然科学や医学さらには天文学において広範な学識を持っていることがわかる。これらの人びとの多くは、ヨーロッパの学問に対して生気にあふれ、熱心に取り組んでいるが、その熱意のほどは実に称賛に値する。しかも勉学の際に彼らが自由に使える参考文献がまことにお粗末であることが少なくないことを考えると、彼らの進歩ぶりはまことに驚歎すべきものである。日本人は、ヨーロッパの学問に対して感受性をもたない中国人とはまったく異なった才能をもっていることを示している。そしてヨーロッパの文献が、数世紀以来日本の博物学・医学および数学などの諸学にどんな影響を及ぼしたかということが、この機会に初めてはっきりと注意をひく。われわれは、ヨーロッパ文化のこうして勢いよく出た新芽の手入れの方法を、興味深い旅行を共にした人びとに十分熱を入れて説き聞かせることができないし、またそういうことがいつでもできるとは限らないのは、まことに残念なことである。もしケンペル、ツンベリー、ティチングなどのような人物が来て、わが文化を尊敬する日本人の学問を確固たるものにしておかなかったら、多くの人びとの無知とか粗暴な言動が行きつくところまで行ってしまって、ただ書物には書いてあるが、たれの口からも直接言葉で聞かされたことのない学問に寄せる彼らの信頼感は動揺をきたしたことだろう。勲爵士H・ヅーフおよびJ・コック・ブロムホフも、自分たちが惜し気もなく日本の友人たちに提供した、目的にかなった援助の手段によって、祖国の学問をこの国に残しておくようにつとめた。

 商館の貿易業務に関していうと、幕府でそれらの案件を検討してもらうにはいまが最も都合がよい時である。一番重要な事柄はとくに荘重な言葉で述べるのがよい。ただ決して旧い慣行の範囲を強引に踏み越えてはならず、すべて慣行通りのやり方にまかせるのがよい。あまり重要ではなく、したがって一番上の役所に出すほどのことはないような苦情が、ここで握りつぶされることがあっても、そうすれば重要な用件はやがては適当なところで先方に届くだろう。われわれは、江戸在勤の長崎奉行の給人とわれわれに付いて来た給人や通詞からなる会合の折りに頼み込んで、上述の奉行宛てに認(したた)めた文書をこれらの人たちにもったいぶって渡すのが、われわれのなしうるいちばん確実な策だろう。参府旅行に出発する前に、とくに重要な案件は一応長崎奉行の耳に入れておき、それから江戸で繰り返して陳述するのがよい。なぜなら、繰り返していうが、奉行はわれわれの案件については相当に広い権限をもっているので、二人の奉行の注意を一つの問題点に向けさせ、そこからこの件を二人だけで取り決めることができるようにするか、あるいはそのことが非常に緊急かつ重要であることを主張して、なんとしてでも上司に討議してもらうようにするのが肝心である。

 告別の拝謁は事情次第で、そのうえすでに述べた通りのやり方で行われる。老中・若年寄は四之間〔大広間のうちいちばん東側にある〕に序列順に着座していて、こんどはただ使節の拝礼を受け、それからいわゆる将軍の命令を奉行に渡すと、奉行はそれを使節の前で坐ったまま朗読する。通詞はその箇条を口頭で訳すが、日本の政策を百年だけ後退させる一つの点〔キリスト教禁制の問題〕が命令書の中心となっている。とにかくそれは、毎年オランダの船がバダヴィアに向かって出帆する前に、長崎奉行のところで商館長に伝達されるのと同じ命令である*10。

 使節が、それらの点は了解しました。そしてバダヴィアの上司に伝達いたすつもりです。と説明すると、奉行は二人の宗門改といっしょにその答を老中に伝える。そこで使節は大広間を離れ、将軍の返礼の品が運び出されるまで玄関の前で待ち、ふたたび大広間に引き返して前と同じようにお辞儀をする。同じように使節は世子の贈物を受けとると、もう一度大広間にもどり、老中・若年寄の前で別れの挨拶をするが、その時彼らは奉行を通じて使節に、江戸出発の許可を与える。将軍の御殿を出ると、われわれは告別の拝謁をするために西丸に赴くが、世子はまたしても不在で、それから宿舎にもどると、そこにはまた老中・若年寄やその他の交換からの返礼の品--上述した絹の衣服が届いている。われわれはそれを持ってきた使者を心から迎え、リキュール酒をだしてもてなし、菓子や一包みの煙草や陶製のパイプを贈る。公式の重要な行事はいまや終り、それから人びとは、献上品の予備として長崎から携えてきた毛織物や布地を売る仕事にかかる。こういう商取引は、配慮というよりもむしろ暴利をむさぼる心から考え出されたものであって、とくに日本人同伴者や長崎奉行の関心事である。なぜなら彼らがこの取引から得ることのできる利益は、決して少なくないからである。この天国のリンゴのほんの一切れを、階級に従ってわれわれにも届けてくれるのである。

 そうこうするうちに、われわれは出発の用意にかかり、知人の楽しい来訪があったり、また知らない人たちのわずらわしい訪問をうけたり、物を売ったり買ったりし、そしてとうとう江戸の町をあとにするが、これは宿舎の主人にしてみれば、たいへんうれしいことである。狭量な政策をとっているので、われわれはこの江戸については、大ざっぱな輪郭さえ見ることができなかった。友人たちはわれわれを送って郭外の金杉 Kanasuki 芝口 Sibakutsi 高輪 Takanabe さらに品川まで来てくれたし、また品川では身分の高い方々がわれわれを訪ねて下さる光栄に浴すこともある。このようにして一八二六年には品川で尊敬する薩摩の老侯(15)に、大森では中津侯(16)にお会いした。

 往路〔Herreise(帰路)とあるが、Hinreiseの誤りであろう〕と同様に、行列は単調な旅を続けて、ふたたび京都にもどるが、たった一つの相違は、前に一行が昼食をとったところでこんどは泊ることである。またわれわれは、府中とか宮のような二、三の町で珍しい品を買うため、今回は多少長く足を止めてもよいが、しかしそのためにきまっている一日の旅程を変更するようなことは許されない。

 この旅行中、最も興味のあった事柄についてはほかの箇所で述べることにして、われわれ使節の一行が十四日間の旅程を終えて京都の手前の大津に着こうとする時、大通詞は所司代と二人の町奉行にわれわれの到着を報告するため、先行して京都に向かい、また宿舎の主人や数人の友人たちはここでわれわれを出迎える。
 京都では江戸と同じ取扱いをうける。すなわち所司代や二人の奉行に挨拶するまでは、彼らはわれわれを四つの壁の中に閉じ込めて見張りをしている。われわれは仰々しい服装をして普通は午後役所に出かけ、夕方もどってくる。同じその日のうちか翌朝、これらの人びとの使者が返礼の品をもって来ると、以前彼らの同役が江戸で経験したのとまったく同様に出迎えられもてなされ、ふたたび贈物をうけるのである。

 京都での滞在をできるだけ短くすることは、われわれの同伴者のためである。われわれはここを出発する時に、ほんの通りすがりではあるけれど、町を多少詳しく見物する機会に恵まれるが、そのために半日以上使えないのは残念なことである。しかしこの古い町の名所や神社仏閣を見物するには少なくとも一日の時間をかけることが必要で、その件はじきに許可された。そこでわれわれは旧習にのっとって正午ごろ美しい三条橋を渡って知恩院 Tsjonin に向かい、そこから有名な祇園社に行き付近の茶屋でひと休みし、それから清水寺に行った。そこから京都の町とあたりの数知れぬ神社仏閣を望むすばらしい景色を楽しんでから大谷 Odai 〔西大谷すなわち大谷本廟〕へ、さらに大仏の寺〔方広寺のこと〕と将軍太閤秀吉の墓と大きな鐘〔「国家安康」の銘で有名なもの〕を見物し、三万三三三三の仏像のある寺(17)を訪れ、それから伏見まで旅を続け、夕食後、淀川で大坂へゆく舟に乗りこむ。たいへん設備のよい舟の中で夜を過ごし、夜明けには大坂の町に着く。

 大坂滞在は普通一週間である。大坂城代の拝謁は京都におけるのとまったく同様である。ただ違っている点といえば、ここでは日本食がでて手厚いもてなしを受けたことである。また二日間にわたって町の名所を見物することが許されていて、その際、見物するのは拝謁の前でも後でもいいし、どういう道順でゆくかも、使節の自由裁量に任されている。大坂城代などの拝謁が済むと、われわれは普通は銅の精錬所に出向く。そこでは所有者が一行に詳しくすべての処理工程を見せ、それから自分の家でもてなす。以前には使節に対して大判一枚を、同行者には小判を二、三枚贈るのが普通であったが、この仕来りは行われなくなった。翌日は芝居見物である。われわれは普通一日中劇場で過ごすが、長くいることはこの娯楽の感銘を結局かなり弱めてしまうのである。

 その間にわれわれは必要な物品を購入するが、この国第一の商業都市大阪は最上の品質のものを供給するからである。それから尼崎へ行くために淀川で舟に乗り込む。宿舎の主人と数人の友人がわれわれといっしょに来るが、その一行の中には何人かの美しい婦人もいた。彼女たちはその本領を発揮してこの舟行(しゅうこう)を楽しくしてくれる。

 われわれは尼崎で舟をおり、乗物で西宮へゆき、同地で一泊。翌日は兵庫に向かう。われわれの乗る船はすでに停泊していて、人びとは大坂からここまで海上輸送してきた荷物の積込みにいそがしい。いまでは荷物も次第に多くなっているが、それはわれわれの荷物ではなく、むしろ日本人側のものがふえたからである。彼らはこの旅行を非常に重要な商取引に利用し、そしてかなりの購入品を--無料〔自分たちで運賃を支払わないこと〕・無税でもと帰る。

 兵庫滞在の期間は状況次第である。下関までの帰りの海上旅行は、すでに述べた通りの方法で行われるが、その際われわれの同行者は、彼ら自身が商売をしなければならない鞆・御手洗・上関のような港や錨地には必ず立ち寄る。コースや停泊地および曳船に関する論争や意見の相違が、日誌の中に数頁にわたって長々と続いているところがあるが、日本人はいつも用意周到で、よく切れる鋏で切りはなしてしまう〔意見の相違などをうまく解決する〕。

 六日ないし十二日間の航海ののちにわれわれは下関に着き、たいてい一日を誠実な友人〔二人の町年寄〕jのもとで過ごし、小倉に渡って一泊。そして前に通った街道を長崎めざして帰りを急ぐ。非常に重い荷物は船で下関から長崎へ運ぶ。

 九州を通る宿駅については、われわれは往路昼食をとったところに今度は一泊する、ということ以外に述べることはない。普通は矢上であるが、最後の宿場で町使がわれわれの荷物を調べ封印をするが、こうするのは出島の門を通るためである。日本の友人のうち何人かは大村まで出迎えるが、たいていは長崎峠の山頂の茶屋でわれわれを待ち、オランダ商館の職員は同国人を郊外の路上で出迎える。天神社〔威福寺と同じ〕でふたたび無事の帰還を祝って盃をかわし、にぎやかに出島入りして、この旅行を終える。

 一行のうちの有力者は商館幹部の家の中に集まり、無事を祝し好意に対し互いに挨拶をかわす。そして旅行中、出島で監督の任に当っていた者が、商館長に公文書保管所の鍵と日誌を渡すが、この日誌には天候の観測などたくさん書いてあり、また町やその周辺で行われた催し物のことなども記されていて興味深いものである。


*1 オランダ商館長 彼の職務上の官職名は「日本におけるオランダ貿易の長」 Opperhoofd van den Nederlandschen Handel in Japan といい、旅行中は「主席公使」 Opperhoofd Gezant という肩書きである。

*2 商館長は出発の数日前に表敬訪問し、商館における代行者を〔長崎〕奉行に紹介する。

*3 『日本』Ⅳ、「日本の度量衡と貨幣」〔本書第四巻第七編〕と比較参照せよ。オランダ商館の計算には本方両〔商社の両〕と脇荷両〔看板の両〕とがある。長崎では商取引は蘭印政庁(以前は連合オランダ東インド会社)が独占的に売り込み、そして輸送する商品を扱う取引と、その売りさばきが出島の役人と船長に許されている商品を扱うものとから成っている。それゆえ前者は本方商売、後者は脇荷商売と呼ばれている。本方両は一・三三と二分の一グルデン、脇荷両は一・六〇グルデンに相当する。そのうえ日本の両は純銀または金であらわされ、(十匁)で、その価値は二グルデンにきめられている。

*4 八朔 中国語の Pa so すなわち八月の第一日〔朔日〕である。長崎の役人はこの日に給金にかかる税を納付する。

*5 この贈物は、金・銀の輸出が厳禁されているが、中身が貨幣なのでただ貨幣が包んであった空(から)の小さい包紙だけからなるもので、貸借の形式にして贈物用の薄い板の台の上にきちんと並べて、使節の家に届けられる。ドゥ・スチュルレル氏は一八二六年に、次のような言葉を述べてこういう贈物を受け取るのを断った。彼の貸方に記入される貨幣の価値は、使節としての彼にとっては将軍自身からの贈物の代わりではありえないと。--法律の字句が非常に良心的に守られるので、参府旅行の時、最初の宿駅に着く以前には、わずかの現金もわれわれの手に渡されず、そして帰路でも同じ場所で万が一にも剰余金があるかを、われわれに問いただす。こういうことは長崎奉行の役人および通詞がするのであって、彼らは最近、抜け荷の商品を数千枚の小判で支払った。日本の金貨は、アムステルダムの取引所ではよく知られている。

*6 ケンペルとツンベリーはすでにこのことを非常によく見抜いていた。ツンベリーは彼の旅行記第三巻六二頁で述べている。「第一級の通詞は、かなりの年配の人であったが、道中の勘定及び心付をする役を担当していた。その賢明なやり方及びその倹約振りは全く賞讃する価値がある。その実は、この方がこの人の得にもなるのである」〔「 」は山田珠樹氏の訳による〕。

*7 京都から急いで退去するのは、ある異常な動機のためである。所司代と町奉行は、われわれの退去によっていろいろな心配ごとに対する強い懸念の一つから解放されるはずであるが、そういう心配ごとというのは、主として女性とのあまりに親しい交際が原因であって、そのことが天皇の宮廷に知れるかもしれないからである。宮廷ではどこかの身分の低い女性との関係を非常に気遣っている。--なぜなら天皇家は神の系統であるからである。

*8 われわれの使節団員が、江戸城とかその他の祝典の時に着用して出かける式服に対して、適当な名称を見つけることはむずかしく、非常に経験をつんだ流行の専門家を困らせるかもしれない。出島の役人が持っているすべての衣裳のうちで参府旅行の服装について、また若干の日本人の骨董収集品の中でみる機会があった衣服について意見を述べると、それらの中には数世紀におよぶ流行や趣味が一つになっていて、全体としてはこっけいなものであった、と言ってよい。このような道化芝居の必要性を、日本では旧習を廃止することが困難であるという理由で、人びとは説明しようとした。けれどもわれわれは、多くのくだらない服装をやめたことについて、ドゥ・スチュルレル大佐に謝意を表わさねばならない。彼はこの点でもそういう可能性を示したのである。けれども一八二六年におけるわれわれの服装は、教養あるヨーロッパ人の眼にはまた相当おどけたものに見えたかもしれない。

*9 こうした慣習は、ツンベリーの時代になって、はじめて行われるようになった。以前には使節は書記と医師を伴って〔将軍の前まで〕行った。

*10 われわれはここで、日本の通詞が使節に渡すこの部分のオランダ語の訳文をお伝えする〔以下古い記録にある文体を真似て訳す〕。

 一、阿蘭陀人は旧来毎年長崎に着岸し、同地で商売を行う自由を得て以来、以前に仰せ出だされた如く奥南蛮(ポルトガル)人とは係り合いになってはならぬ。もし入魂(じっこん)の由をいずれの国からか聞き及んだ節には、其方共に対し、日本渡海の停止を申付けるべき事、其方共も奥南蛮人を船に乗せて渡来しては相ならぬ事。

 一、若し相変らず日本と商売致したければ、奥南蛮人が日本に対し万一抱きおる意図または計画につき、聞き及んだ一切を其方共の船を通じて申上げるべき事、われわれはまた奥南蛮人がいずれかの土地または国を占拠し、吉利支丹に改宗させるや否やを、其方共から聞及ぶことを期待する。聞及んだ一切を、其方どもは長崎奉行まで申上げるべき事。

 一、其方共は唐人が奥南蛮人と合意し、また奥南蛮人をその船で運ぶことを聞及んだ節には、それにつき逐一長崎奉行まで申上げるべき事。

 一、日本に渡海する唐船を奪取しては相ならぬ事。

 一、其方共が船で往来する国々のうち奥南蛮人と出合った国があった節は、これと係り合ってはならず、もし出合った国があった場合には、その国または場所を毎年日本に着岸するかぴたんを通じ、文書を以て長崎奉行に差出すべき事。

 一、琉球国は日本に臣属するものであるから、大小となく船を奪取しては相成らぬ事。


(1) エンゲルベルト・ケンペル Engelbert Kaempfer (1651-1716) ドイツの博物学者兼医者。ダンチヒ、クラカウ、ウプサラの各大学に学び博物学・医学・薬学を修め、スウェーデンのペルシア派遣使節に従い、ロシア経由でペルシアに赴いた。この間各地の植物などを研究。のちにオランダ東インド会社にはいり、船医として一六八九年バダヴィアに着く。翌年出島の医師として来日、一六九二年まで滞在、その間二回の江戸旅行に参加。帰国後に結婚したが、二人の生活は幸せではなかった。主著に『廻国奇観』と『日本誌』がある。後者は彼の死後一七二七年に英訳本として刊行され、一七二九年には蘭・仏訳も出版された。ドイツ語本はおくれ、一七七七ー七九年にかけてようやく刊行された。この『日本誌』はヨーロッパ人の日本研究書としては特筆すべきものであり、シーボルトの著作に与えた影響も決して少なくない。

(2) シーボルトの自筆原稿『江戸参府旅行の概要』(原名”Skizze der Reise der Niederlandischen Gesandtschaft nach dem Hofe des Kubo zu Jedo・・・”はこの初版第一章の記述の基礎となったもので、その中で彼は"Goban go Sjoosi. d. i. Keiserl wacht keis (カ) oberste, si Bothe" とあり「御番(御)上使」であることがわかった。「付添検使」ともいう。なお当時の単語帳には「御検使」「御給人」などの訳語がある。なおケンペルは「与力のうちから一人をえらび旅行の奉行とする」と述べている。

(3) ヘンドリック・ヅーフ Hendrik Doeff (1777-1835)。 一七九八年書記として来日、ナポレオン一世の戦乱の影響で本国との交通がとだえ、長年出島の商館長をつとめ、その間三度江戸に参府した。イギリスの総督ラッフルズは出島をその手に収めようとしたが、彼はこれを拒んだ。またいわゆる「フェートン号事件」に対して敏腕をふるい、出島のオランダ国旗をおろすことがなかった。一方ハルマの『蘭仏辞典』によって通詞らとともに蘭日辞典を編纂したが、これは「通詞家をして其家学に進」ませるためであった。世にこれを『ヅーフ・ハルマ』、『長崎ハルマ』などと呼び、その写本は幕末の蘭学者にとっては宝書であった。

(4) パイリー・オランダ人--自筆草稿『江戸参府旅行の概要』六十枚目表には"Hairei-Hollanda-Zin" すなわち「拝礼オランダ人」と書いてある。恐らくこれを郭成章が中国読みに改めたものであろう。

(5) 本書第一巻、第一編第一章二五頁の訳注(6)を参照。

(6) 本書第一巻、第一編第一章三〇頁の訳注(31)を参照。

(7) シソ Siso 第二版では同じ場所を Sosjo としている。あるいは正条か。ただし郡名には北部に「宍粟(しそう)」、古い川の名に「宍粟川」というのがある。

(8) 小森肥後介 号桃塢(とうう)、字は玄良(一七八二-一八四三)。蘭方医。美濃の人、旧姓大橋氏で医家小森義晴のあとをつぐ。はじめ大垣の江馬蘭斎に学び、十八歳のとき京都に出て、一八〇五(文化二)年海上(うなかみ)隋歐(稲村三伯)が京都に門を開くとただちに入門。隋歐門下ではオランダ語学の分野で名をなした親友藤林泰助(普山)とともに逸材といわれた。

(9) 水谷助六(一七七九-一八三三)。 名は豊文。号は鉤致堂。父は覚夢。名古屋の蘭方医野村立栄(りゅうえい)について学び、のち小野蘭山の門に入る。尾張藩薬園の監守をつとめた。研究範囲は植物・動物・鉱物にわたっていた。一八一〇(文化七)年以降木曾美濃の各地で植物を採集し、オランダ語訳でリンネの分類法をわが国の植物に対して試みたので、日本近世植物学の元祖ともいってよい。

(10) 伊藤圭介(一八〇三-一九〇一)。 号を錦窠。名古屋の人で西山玄道の子。はじめ西山左仲といったが、兄存真が大河内家をついだため、養子であった父の実家伊藤氏を名のる。幼時から植物を好み、父や兄から医学を学び、のちに水谷豊文について植物学を修めた。一八二一(文政四)年京都の蘭学者藤林普山について学び、一八二七(文政十)年には長崎に遊び、約半年間シーボルトから教えを受けた。一八五九(安政六)年尾張侯の医師となり、また洋学翻訳教授となった。一八七七(明治十)年、東京大学員外教授、一八八一年教授となった。ときに七十九歳。わが国理学博士第一号をうけ、学問に対する功によって男爵を授けられた。

(11) 大河内存真(一七九六-一八八三)。 名は重郭、号は恒庵または東郭といった。西山玄道の長男で、伊藤圭介の兄。藩医大河内周碩の養子となり、一八一九(文政一)年家督を相続し、尾張藩医となる。医術は浅井氏を師とし本草は水谷豊文について学んだ。

(12) ヘイスベルト・ヘンメイ Gijsbert Hemmy (1747-1798) 出島商館長。存任中二回江戸参府。フランス革命の影響で対日貿易が困難となったが、輸出銅の量や輸出商品額をふやすことに成功し、また館長の毎年交替制を五ヵ年在勤に改めた。しかし他方では館員俸給の着服、島津氏との蜜取引、さらには一七九八年参府不在中、出島商館の焼失などがあり、収拾しがたい状況にあった江戸からの帰途、遠州掛川で病死し、同地の天然寺に葬られた。

(13) メドゥサ Medusa ギリシャ神話のなかの蛇髪の三人姉妹のひとりで、彼女の一瞥によって人は恐怖のあまり石になったという。

(14) ある人-庄屋植松与右衛門季英(一七七四-一八三一)。 庭園は約八百坪。一部は京都の高尾を写し、一部は金閣寺の庭園を模したという。現当主によれば、戦前までは昔のおもかげをとどめていたが、戦中・戦後にかけて変り、今日では庭園および建物も旧態をとどめていない、という。

(15) 薩摩老侯 島津重豪(しげひで)(一七四七-一八三三)。 別家島津久德の子として鹿児島で出生。本藩二十四代重年の後嗣となり一七五五(宝暦五)年家督をついだ。一七八七(天明七)年家督を子の斉宣にゆずって隠居したが、その後も藩政に関与し、将軍徳川家斉・老中松平越中守の岳父として威望が高かった。藩校をおこして家臣に文武の道を学ばせ、ガラス製造所を建て産業にも力を注いだ。藩主だった若いころから蘭学に感心をよせ、各方面にこの新しい学問をとり入れた。

(16) 中津侯 奥平昌高(一七八一-一八五五)。 薩摩城主島津重豪の第二子で、一七八九(天明六)年、奥平昌男の養子となり家督をつぐ。一八二五(文政八)年致仕し、家督を子の昌暢にゆずった。父に似て豪放、奢侈を好み、みずから蘭学を修め、オランダ渡りの器具は惜しみなく集めた。また和蘭辞書を神谷源内に編纂させた。すなわち『蘭語訳撰』である。進歩的な開国論者で、ヅーフのつけた蘭名はフレデリック・ヘンドリックといった。

(17) 三万三三三三の仏像 この数字はケンペル以来の誤りで、三万三〇三三でなければならない。一〇〇一体の観音が三十三身を示顕する、と法華経にあるところに由来する。その仏像のある寺は三十三間




出典

シーボルト『日本』 第二巻

フィリップ・フランツ・シーボルト著 中井晶夫・斎藤信訳  雄松堂書店発行