法話
 

葬儀について 仏教が取り組む葬儀の意味と意義

現代の日本には数多くの宗教が有るなかで、葬儀となれば約80%を超える人々が仏教で葬儀を執り行っている現状は、いかなる訳でしょうか。人の死 それをどう考え、どう対処してきたか、その役割を大きく担ってきた仏教、葬儀のあり方とその意味と意義について考えてみたいと思います。葬儀はきわめて多層的な構造を持った儀礼です。仏式といっても、すべての儀式や作法、道具が仏教に由来するものではありません。むしろ仏教式といったものはごく一部で、多くのものは民族信仰や神道、儒教、道教等他の要素に拘わっています。

古代より人間には肉体と霊魂というものがあり、死によって肉体が滅びるが、霊魂は滅びないのではないかと考えられました。古代の日本人は死を「ケガレ」と考えました。ケガレとは「不潔」と結びつけて考えますが、そうではなく「ハレとケ」でケは「気」で、元気とか陰気の気です。私達が年を取ると気が滅入り、弱まって来ます。それで「気が枯れ」ケガレです。それが段々と転化してケガレが不浄を表すようになりました。死が穢れと言う場合は不浄の概念も含むようになったのです。

昔の人は死者の持っている穢れは肉親や周囲の人に伝染すると考えていました。そこで死の穢れの期間を明確に規定したのです。それが四十九日です。この期間を「忌」といいます。「忌中」とは社会的に四十九日行動を慎む、他の人とは接触してはいけないと強制されました。一方「喪」とは自発的に故人のために自分の行動を慎む事を言います。喪は忌と違い社会から行動を規制されているわけではないのです。

この意味で日本人はお葬式において肉体の処理と魂の処理の両方を行ってきました。人間が共同体を営んだ時、つまり文化が生まれたとき葬儀は生まれたのです。世界中のどんな民族でも営むといえます。これが人間以外の動物にはありえません。だから人間固有の習俗、儀式といえましょう。

現代葬儀は大半が仏教で執り行っております。そこで葬儀と仏教の繋がりを考えてみましょう。

本来仏教は葬儀と関係していません。お釈迦さまが亡くなられる前にもお弟子さんに自分の葬儀は在家の人間にまかせて、弟子達は修行に専念せよといわれ、葬儀は在家の人々が執り行いました。

日本でも昔から僧侶は葬儀をやっていません。鎌倉 室町時代に個別的に葬儀を行った形跡はありますが、一般的には儀式化されてはいませんでした。

僧侶が本格的に葬儀をはじめた時期と理由は、江戸時代で檀家制度です。江戸幕府はキリシタン取り締まりのために、日本人全員をお寺に登録させました。その登録は「宗門人別帳」といい、それによって当寺の檀家であると証明しました。それが檀家制度です。キリシタン式の葬儀を取り締まるために、葬儀は僧侶によって執り行うように命じたのです。それまでは誰が葬儀をやっていたかというと、村の長老でした。大家族制の本家の主が葬儀の執行人になっていました。村の長老は神主でもあったのです。

葬儀を執り行うようになった僧侶は、今までやっていた出家者(お坊さんの仲間)の葬儀をまねて一般の人の葬儀をするようになりました。そこで人が死んだらどうするかといえば、死者を出家させお坊さんにして葬儀をする形式が取られたのです。

出家するときは師について戒律を授かります。これを「受戒」といいます。これを約束して弟子になりこの時、師から付けてもらうのが「戒名」です。浄土真宗「法名」といいます。又日蓮宗では「法号」と呼びます。仏法の心髄に導き、煩悩の苦しみから救う「引導」を授け、成仏へ導くのです。

仏教には各宗派があり成仏の方法論も違ってきます。そのため読まれるお経が異なるだけでなく、導師の所作も異なり、使われる仏具も違ってきます。同じように読経しているようですが、法要に込められたものは皆違います。ここからは各宗派によっての考え方を簡単に示してみましょう 

真言宗−真言宗の葬儀の特長は密教によるということでしょう。他宗でも一部密教的要素はありますが、純粋な密教教義、儀礼をもつのは真言宗だけです。真言宗の儀礼は、他宗では引導は故人の霊に向かい法を説き悟り(浄土)へ導くと言うものですが、真言宗の密教引導法は、導師と故人と仏が一体となる壮大な儀礼です。真言宗の儀礼が宇宙的なのは、その教義に由来します。仏教の経典は、釈迦が説いた事とされますが、密教教典だけは大日如来の教えと説きます。この大日如来という仏は、仏法の真理の具現化であると同時に、宇宙そのものなのです。引導法の中に灌頂(かんじょう)(水を頭に注ぎ、仏の位を継承させる密教の儀式)が入ります。真言宗の一番の特徴は、灌頂(かんじょう)の作法があることです。この灌頂(かんじょう)によって仏の弟子になる、仏たちの仲間入りをする、そのまま仏菩薩と同導師が真言の作法に従って道場を清め、迎え入れた仏の徳を称え、「表白(ひょうびゃく)」で法要の趣旨を述べ、亡者仏の弟子にする。ですからそこで授戒作法が行われる。それで顕教の場合には、浄土に送る引導作法になるけれど、真言の場合即身成仏だから、灌頂(かんじょう)を施すことにより血脈(けちみゃく)(師から弟子へと正法を相続するもの。親子の血脈にたとえたもの)を授与する。このことにより仏の弟子になるというより、仏の位に入る。仲間入りをするということです。これが即身成仏の基本となります。浄土世界に住する資格を得るという、他の宗派とは意味をことにするところです。したがって葬儀も浄土系のもののように、故人の霊を浄土へ送り出すものではなく、全ての本源である大日如来へ戻っていく為の儀礼なのです。だだし阿弥陀如来も大日如来の一部とするので、浄土信仰も肯定します。

浄土宗−浄土宗や浄土真宗の根幹を支えているのは、「無量寿経」に説かれる第十八願(念仏往生願)です。これは、修行時代の阿弥陀仏が悟りを開く条件として自ら課した四十八の誓い(四十八願)の十八条目で、極楽往生を心から願って我が名を唱えたものは必ず浄土に迎え入れようというものです。これこそ念仏者に往生を約束する阿弥陀仏の誓約なのです。この約束が果たされるのが念仏者の臨終の時であり、阿弥陀仏は菩薩たちを引き連れて迎えに現れる、つまり浄土信仰者にとって臨終は待ちかねた約束の時といえます。だが法然と親鸞には異なる部分が少なからずあります。たとえば浄土真宗は阿弥陀仏への信仰を純粋化するために、自力行的要素や民族的要素を排除しますが、浄土宗はそうしたものも信心に役立つのならば容認する立場を取ります。又念仏に対しても浄土真宗では阿弥陀仏の慈悲に対して絶対受身になることにより信仰を純粋性を保ちますが、浄土宗では念仏を唱えている自己、往生を願う自己への反省は保たれます。浄土宗の葬儀は臨終儀礼に重きを置いています。禅宗や真言宗などの枕経と違い「臨終を迎える方の枕元であげるお経であり、これは亡くなって行く人を仏弟子にして往生してもらうお経」と明記しています。現実には死後儀礼になっていても、禅宗のように没後作僧(もつごさそう)ではなく臨終得度として行われていると考えるからです。導師が釈迦に成り代わり阿弥陀の迎える浄土へおくりだすのです。没後作僧(もつごさそう)は他人が追善のために行うことだが、臨終得度は主体的に行われることです。つまり、「往生を願う自己」が意識されているといえます。浄土宗の葬儀の形式は禅宗の葬儀儀礼を取り入れています。その理由は貴族階級まで信者を広げていく中で、身分に応じた葬儀式が必要となり、本来の葬儀に禅宗等の儀礼を取り入れていったと考えられます。

浄土真宗−浄土真宗の葬儀は仏式葬儀としては例外的といえます。最大の違いは死者を供養しないということです。その理由は二つあります。一つは、浄土真宗の門徒として阿弥陀仏を信じ念仏を唱えた者であれば、死と共に阿弥陀仏によって極楽浄土に迎え入れられているので、僧や遺族がお経を唱えて成仏を祈る必要がない理由。もう一つは浄土真宗では礼拝の対象はあくまでも阿弥陀仏あって、死者ではないという理由。こうした態度を取るのは、他力本願という宗旨に忠実であろうとするためです。一切衆生は阿弥陀仏のご誓願によって極楽浄土への往生が決まっているので、我々に出来ることは阿弥陀仏の名を唱える念仏によって感謝することことだけだとされます。
読経念仏により往生させようとか、死者に引導を与えようとすることは、自力行なるので、避けられます。
又民俗信仰的な行為も排されます。それでは何の為に葬儀をするかといえば、故人の立場からいえば往生出来たことに感謝を表すためであり、葬儀を主導する導師は、故人に代わって報謝の読経をするとされ、遺族や会葬者の立場からいえば、死は誰にも避けられない世の無常さに思いを致し、阿弥陀仏の救いの有り難さを再認識することだとされてます

禅宗−現代葬儀の原型を作ったのは、禅宗の果たした役割が大きいと言えます。鎌倉、室町時代に禅宗の葬儀にて遺影や位牌が用いられるようになりました。他の宗派でも禅宗の葬儀の形を取り入れているものが多くあります。禅宗の教えの根本は、日常の「行住坐臥」行く、止まる、座る、寝る、全てが修行であり、その中に悟りがあると説きます。葬儀も例外でなく、「清規(しんぎ)」と呼ばれる修行規定の中に、次第作法が定められています。禅宗の葬儀の特長は、授戒と引導にあります。禅宗の葬儀では教理と儀礼が緊密に結びついています。僧の葬儀法を在家の人に応用するために没後作僧(死者に対して出家の儀礼を行うこと)の中で核となるのが受戒です。死者はこの儀礼を受けることにより戒律を授かり、正式の仏弟子(出家者)になります。その証として戒名と血脈が与えられます。血脈とは教えが師から弟子へ脈々と伝わる事を血の流れにたとえたものです。「引導」は本来人々を仏教の教えに導いて、煩悩による苦しみから救う事を表す言葉です。これが葬儀の中心儀礼になっています。没後作僧に於いて戒を授け僧にはしたが、それでは足りない。仏法の心髄を悟ってこそ「仏になる」ことが出来るとし、受戒と引導、言い換えると行と教え、この二面のコンビネ−ショウンで成仏へと導くのが禅宗の葬儀です。

日蓮宗−日蓮宗の葬儀の目的は、死者の霊を霊山浄土に導くこととされます。霊山とは霊鷲山の略で「法華経」に、我々の住む現世は実は浄土であり、その中心にそびえるのが霊鷲山で釈迦は今もそこで説法を続けていると言います。これが霊山浄土です。その浄土におもむいて釈迦に拝謁することを霊山(りょうぜん)往詣(おうけい)といいます。この霊山(りょうぜん)往詣(おうけい)の信仰は浄土信仰と本質的に異なる点があります。極楽は西方十万億土つまり現世とは違った世界である。それ故この生身ではいくことは出来ず、肉体を捨てた後阿弥陀の来迎をえていけることが出来る。これに対して霊山浄土は凡夫には見えないものの、現世に現存しているものであるから、確固たる信心をもてば、今すぐに目にすることができるのです。もちろん死後にも迷いのもととなる肉体を脱ぎ捨てれば、霊山の釈迦に直参できる。法華信者は間違いなく霊山浄土に赴けるというのが、日蓮宗の葬儀なのです。日蓮宗の葬儀のポイントは、お題目を唱え、法華経を読誦し、その功徳を生者 死者に分け与えることにあります。お題目が「妙戒」(すぐれた、不可思議な戒)で、それを信じ、保つことが基本であり、そこから葬儀式では唱題がそのまま戒を保ち、戒徳を回向することになります

葬儀を巡る変化と環境
葬送の世界でも戦後だけでも大きく二回変化しています。第一回は1960年代以降の高度経済成長期であり、二回目は現在進行中の変化です。葬送の前に変化していたものがあります。その変化とは「死を拒否すること」から「死を認めること」への変化です。人間の死亡率は100%なのに、高度経済成長期以降日本社会は生を謳歌するあまり死を忌避しそれを文化からはじき出してきた傾向があります。しかし近年マスコミでも死を堂々と取り上げ死と向き合う傾向が出てきました。

葬儀は高度成長期には大型化して会葬者を多く集めるイベントのようになりました。ある調査では、死者本人を知らない人が会葬者の70%を占めて平均会葬者が200〜300人を集めていました。しかし近年葬儀は小型化の傾向が出てきています。葬儀を地域社会や企業が支援して行う形が段々と崩れ、個人化が進行しています。会葬者数で見ると、91年全国平均280人であったのが、05年には132人と半数に減りました。

○バブル景気の崩壊「大きいことは良いことだ」と言う感覚の薄れ。○超高齢化社会になり、80才以上の葬儀が50%を超え、家族の葬儀に対する緊張感の薄れ。○地域社会、家、核家族、家族分散により、地域コミニテイ、家意識が弱くなり、親戚関係も希薄になってきている。○医療は著しく進歩し、それまで死は暮らしの中にありましたが、ほとんどが病院の中へ取り込まれ,身近な家族の死の体験がない等々その要因は多々あり超高齢化社会、少子化は葬儀のあり方、死後の考え方を著しく変化させています。

葬儀の宗教儀礼の面で見ると、仏教での葬儀はこれまで95%前後で推移してきましたが、07年には89.5%と変化してきました。しかし都会では、仏式葬儀を選んだうちの30〜50%は特定の寺の檀家ではなく、葬儀の時葬儀社の紹介にて選んだ「とりあえず仏教」です。ある調査で自分の菩提寺の宗派名を知っているのは47.8%と半数に満たない。宗派の崇拝対象である本尊を知っているのはわずか13.7% 宗派の開祖を知っているのは9.8%に下がります。又僧侶に対して期待するものはとの問に対して「何も望まない」が37.2%にのぼり、お寺に対して「これからのお寺は何をすればよいか」の問に、「葬式、法事を熱心にする」が50.3%と答えられました。葬儀は仏式でするが、宗派への帰属意識が薄いところに現代の仏教の特長があるといえます

近年は「家族葬」の人気が定着し主流かする勢いです。又「直葬(じきそう)」(物理的な遺体処理である火葬のみを行う葬式おいいます。社会儀礼、宗教儀礼だけでなく、儀礼一切が省かれる葬儀です。)が都会では20%を超えました。

60年代以降は「人並み」の葬儀を求めて同じような葬儀に進みましたが、現在の変革期に進んでいる葬儀は個人化、多様化の方向に向かっています。

葬儀の機能、目的には、死者の慰霊、死体処理だけでなく、遺族のカウンセリング、日常生活の回復、遺族や地域社会からの死の穢れの除去、故人の後継者としての喪主のお披露目といった面もあるのです。

すなわち、葬儀を行うということは、様々な役割、機能を同時に果たしているということです。葬儀の変化を考える前に葬儀を構成する複雑な要素のどれが必要か又不必要か確認することからはじめるべきではないでしょうか。

今回のテ−マで仏教が人の死とどう関わってきたか検証しました。仏教での葬儀は、それぞれの歴史的背景の中で、我が国の取り巻く色々な習俗 宗教と融和させながら、死者を弔うだけでなく、まさに死者を仏教者として蘇らせ,仏道に向かわせるという、人の死という人生最大な問題を死者本人はもとより家族、地域社会のすべてを納得安心させ、且つ命のあり方を説き示す役割をはたしてきたことは事実です。それは唯仏教が葬儀を専有してきたと言うことだけでなく、我が国の風土に根ざした仏教思想を基調として葬儀宗教を形作ったと言っても過言ではないと思います。

今後団塊世代以降の世代は宗教意識が希薄で、この世代が高齢者中心世代になる15年後は葬儀も大きく変化していくと予想されます。今時代の大きな変革の中で葬儀のあり方を僧俗共々考えみる必要があるのではないでしょうか。それが今生きている私達の命を見つめることだと思います。


参考資料  葬儀を考える  藤井正雄  筑摩書房

お葬式をどうするか ひろさちや PHP新書 

      六大宗派でこんなに違うお葬式のしきたり 渋谷申博 新書Y 

     「お葬式」はなぜするのか?  碑文谷 創  講談社

      お葬式   荒谷尚紀 吉川弘文館

     「お葬式」の日本史  荒谷尚紀  青春出版社

   平成23年7月15日 在家仏教協会 札幌会場定期講演会  丸山寺住職 高畑俊孝