四国八十八カ所
 


四国八十八ケ所は815年、弘法大師42才の時開創されたと伝えられています。

大師入定後、高弟子真済がその遺跡を遍歴したのが始まりとされ、あるいわ衛門三郎が自己の非を悟つて四国の霊場を廻ったのが遍路の始まりとされています。
いずれも大師入定後、大師に対する信仰が間もなくおこり、平安時代の末頃には大師ゆかりの地を巡拝することがおこなわれたのでしょう。
八十八ケ所が一般庶民も参加巡礼されるようになったのは室町末期から江戸初期にかけてとされています。

八十八という数字は、八十八の煩悩に由来するとか、「米」の字を分解したことによるとか、あるいは男42才、女33才、子供13才の厄年を合わせたとも言われています。

江戸時代に入り四国遍路は盛んになり一般化し、四国には接待と言う、独特な援助があり、乞食、病人、社会的弱者なども加わり、あらゆる層の巡拝を容易にしました。
その道程は約1.440km、歩いて40日〜60日、車でも10日程かかる旅になります。巡拝するごとに、発心(徳島県) 修行(高知県) 菩提(愛媛県) 涅槃(香川県)と一国ずつ名称がつけられ、信心の度合いがはかられるようなっています。

遍路となり、四国を廻るもは理屈抜きの、ただ大師を慕っての素朴な信仰です。そして遍路道をたどる中で大師のおかげをうけ、心身の毒素が浄化されていく、いわば四国は大自然の病院といって過言ではないのです。そして人と人とのあたたかい心の触れ合い、まさに「同行二人」大師に導かれての二人づれなのです。

大師は一本の金剛杖によって常に遍路を見守り、ある時はとがめ、またある時は救いの手を差し伸べ八十八ケ所の終願へと導いて下さるのです。大師はいつの時代にも遍路の心の中に生きていられます。





丸山寺四国巡拝団


丸山霊場の203段の石段
当寺丸山新四国八十八ケ所霊場は本四国霊場のご利益をいただくため、遠隔の地故巡拝できぬ信者の方々の為に本四国のお砂をいただき、丸山を四国にみたて同じ様な形状の霊場を形取り、お大師さまにお越しを頂き、明治40年に開基されました。

当寺丸山新四国八十八ケ所霊場は本四国霊場のご利益をいただくため、遠隔の地故巡拝できぬ信者の方々の為に本四国のお砂をいただき、丸山を四国にみたて同じ様な形状の霊場を形取り、お大師さまにお越しを頂き、明治40年に開基されました。




四国八十八ケ所霊場の信仰
四国八十八ケ所霊場の歴史(成り立ち)

 都から海を渡って、四国の「」を踏む行者がいたのは、色々な説があるが、一つの考え方として、大化の改新の後、律令国家が出来て南海道のが開通した702年ころだという説がある。
 奈良から平安時代のころ全国を5畿7道に行政が分けられていた。現在の三重県から和歌山県、淡路四国の地域は合わせて南海道と呼ばれていた。やがて南海道駅路が開かれる。その前後には熊野が数々の神話をもつ「神秘の国」として、都人によって踏まれるようになる。熊野と四国は同じ行政区域に入って、都から紀ノ川沿いに進む南海道の駅路は紀伊半島を大きく左に回り熊野の辺地に繋がっていた。そしてそうした行者の中には海を経て淡路島に渡り、他の行者に踏まれていない、清浄な道を求めて、四国に渡った。
 『「邊地」という言葉には、苦行とユートピアという意味が共存している。行者は苦行をおこないながら「常世の国」(不老不死)に近い神々の住む豊かの国を目指したのである。50日100日という歳月を送らなくてはいけない行者にとっては、温暖で食料が豊富であることは必要条件であり、その点で言えば四国は行者の心と身体を癒してくれる所でもあった。』
 役行者、行基とその弟子たち、又四国伊予の石鎚山に篭もり「浄行の菩薩」と言われた寂仙、石鎚山に熊野権現を勧請した芳元などであり、さらに弘法大師(空海)も又その一人である。
 縄文依頼の日本人の信仰、とくに邊地信仰を最も色濃く残しているのが、である。役行者は修験道の祖とあおがれ、大自然の中に神を見出す日本古来の信仰に仏教や道教の信仰を加えて一つの世界を作った。
 四国八十八ケ所の中には役行者が創建とされる霊場が4ケ寺あり、その伝承も多く残されている。
 やがて聖徳太子の国家的仏教信仰と、役行者による縄文依頼の土着の色濃い信仰が一つとなり菩薩(668〜749)のような先達が生まれる。行基は仏の教えを説くかたわら、道を作り、橋を架け、池を築いた。又恵まれない人のために布施宿を作った。邊地修行者になった行基は四国霊場を次々と開基し、その寺院数は30ケ所にのぼると伝えている。
 弘法大師(空海) 日本古来の土着の信仰にもとづく修行を実践して、そこから学び、最も深いところで成就、小悟し、その上で中国に渡り密教を学び大悟された人である。日本の自然宗教(原始宗教)を文明宗教に導き、現在の四国霊場はその思想体系を根底となし、強く息づいている。
 空海は讃岐(香川県)善通寺(75番)にお生まれになられた。18歳で都の大学に入学され、その後退学されて文明を否定し、原始に帰る修行、木食草衣の修行の日々を約9年送る。空海の修行の日々をご自身の著書「」によると、阿波の焼山寺 鶴林寺 大龍寺 土佐の室戸岬、不動岩 愛媛の岩屋寺 石鎚山 讃岐の志度寺など、空海をはじめとする当時の行者が修行した行場は今のお四国にはそのまま残っている。
 四国の邊地はやがて空海の「お誕生」「御修行」「成道」の聖地として光を当てられる。四国は聖なる島、この道は聖なる路であり、ただの四国ではなく「お四国」と呼ばれるようになる。
 お四国を誕生地として、四国の邊地の先達とされた平安から鎌倉までに活躍した高僧に円珍(智証大師・814〜891) (理源大師.832〜909)重源(1121〜1206) 一遍(1239〜1289)そして戦国時代の(木食上人.1536〜1608)などが挙げられる。
 それまで僧侶や修験行者の苦行の道であった山岳修行や邊地修行はやがて平安末期から鎌倉時代になると「蟻の熊野詣」と称され、他の霊場に先駆けて熊野三山が貴族 武士 農民 商人の一般庶民が見られるようになる。
 室町に入ると、銅銭の流通、交通 旅宿の改善により一般庶民が西国三十三観音霊場や四国八十八ケ所霊場におまいりできるようになる。「お四国」は最も厳しい修行の道であると共に、仏教徒にとって見ると後生往生のために一生一度は踏みたい霊場となり、又庶民の救い、最後の砦と言われるようになる。
 又江戸時代に入ると「四国遍路」の形が出来上がり、大衆化の道が開かれる。その中興の祖といわれるのが高野聖 真念 高野山の学僧 寂本(1631〜1701)は「四国遍路霊場記」を出版する。江戸の元禄時代になると、真念などにより案内記や霊験記等が出版されて、遍路への共感と同情、同行二人の信仰により、直接参拝出来ない人も、お接待、道教え、善根宿、代参という形で遍路に参加するようになる。更に新四国として全国の寺院や裏山にお砂踏み巡道が開創される。やがて四国遍路の信仰は、その裾野を全国に拡大していくことになる。 
 明治を生き抜き、お四国を280回もお詣し、遍路道の人々から「生き仏」と慕われた先達は、四国遍路は日本仏教徒の道であり、その信仰は南無大師遍照金剛 南無阿弥陀仏 南無大悲観世音菩薩の三本柱との説を説いた。 
 昭和28年に巡拝バスが走るようになる。このことは今までの巡拝を覆す画期的なこととなった。これにより多くの老若男女、一般庶民が本四国を遍路する時代が訪れたのである。
 四国遍路は本来、僧院で師僧について修行するというものではなく、神仏を区別することなく、宗旨や宗教さえ問うこともない。そして弘法大師信仰さえ強制されない。四国遍路は、古来山河が道場である。のような先達(聖)をこの山河自ら生み出し続けたのである。

四国「八十八ケ所」の諸説



 八十八の数は何に基づいた数であるのか。これには古来からさまざまな説がある。
 (1) 日本人の主食である「米」を分解したかたち。
 (2) 厄年 男 42 女 33 子供 13を足した数。
 (3) 「三十五仏名礼懺文」の35仏と「観薬王薬上二菩薩経」の52仏合わせた数。
 (4) 西国三十三ケ所 熊野九十九王子 日本廻国六十六部等と共に、四国も日本古来整数である八を重ねて八十八にした。
 (5) お釈迦様入滅後、8ケ国に仏骨を分け仏塔がたてられた。空海が入唐の折、インドの般若三蔵よりこの8霊場の土をもらいうけ「この八塔の数を10倍し、元の数8を加え」八十八霊場にこの土を敷かれた。
 (6) お釈迦様初転法輪の折「見惑八十八使」が説かれた。これを礼しのぐことにより、八十八の見惑の煩悩を断滅するにより、この数を取り八十八と定める。

遍路法具



◎金剛杖(こんごうづえ)
金剛杖はお大師さまそのものである。お杖の上には地.水.火.風.空の五輪形即ち大日如来の代表的シンボルであり、そこに大師の御霊がこもっている。金剛杖が使われ始めたのは遍路が盛んになり始めたころ江戸初期とされている。又金剛杖は修行者が死んだとき供養塔婆となる。杖に地.水.火.風.空の五輪が刻まれているから五輪墓となる。

◎菅笠(すげがさ)=網代笠(あじろがさ)
菅笠の正面を東方とし、四方に迷故三界城(迷うが故に三界の城あ東北  悟故十方空(悟るが故に十方は空なり)東南  本来無東西(本来東西なく)南西  何処有南北(いづくにか南北あらん)西北 と書く。真言宗や禅宗では葬儀時によく用いられる4句である。したがって菅笠も再生の旅路として、死装束になる。修行者が行き倒れになると、この菅笠は棺の変りとなり、死者に覆われた。なおこの4句の内容は、世間の一切にとらわれない大自在の心境を意味している。つまり覚者(仏)の心境である。つまりこの四句は死者ばかりに該当するのではなく、修行者の精神を高める糧となる。特に死に挑むと言うより、心境の本来のあり方として理解できる。

◎法衣 笈慴(おいずる、おいずり)
笈慴白衣の背中に南無大師遍照金剛と墨書する。又その横に同行二人と書く。笈慴は襦袢(じゅばん)のような白衣であるが、用い方が違う。笈慴は修行の上の浄衣である。したがって下着を着けてから笈慴を着る。笈慴の由来は修験者の笈のためすれて破れるため、肩に当てる布切れの名 称であったが、後には巡礼者が着物の上に着る袖なしの白衣をいうようになった。又一説には西国霊場巡拝としては、観世音を背負い、俗身に笈が触れないようにと白衣を着たのが始まりという。

◎ 白衣(白装束)
袖なしの笈慴の下に白衣を着るのが、より伝統的巡拝装束となる。しかし当節は袖のあるものも、共に笈慴という。尚下半身も白であればまさに白ずくめである。さて白浄の衣体は死に装束といわれる。二度と家に戻れぬかもしれぬ旅路のように、それなりの決心をもった修行であり、身も心も清浄潔白となるための装束である。即ち俗世の人間の心をその白装束をもってただすのである。その姿によって人本来の白浄の仏心に目覚めさせることが出来る。諸仏は修行者の過去世から現世に積集した心の罪垢をさらに清めてくれる。よって人本来に宿る清浄心、善心はおのずから増長する。やがて白浄の信心は因となり果となって多くの人々に仏性の花を咲かせる。まさに白装束の遍路は再生の旅路である。

◎ 納札(おさめふだ)
納札は元木製であった。後に紙せいになる。紙製のほうが長い道中軽くて便利だ らである。札所では納札に年月日 住所 氏名 願い事などを記し、本堂 大師堂の2カ所に納める。八十八ケ所の遍路では「札を納める」こと即ち「札を打つ」ことが、その行所の本尊、大師、鎮守、神々等に対する修行者の最も基本的な礼儀である。即ちかって修行者が巡礼所に木札(あるいは金属札)を打ち付けたところから、寺院を札所といい、納札を納める事を「札を打つ」という。さて現代の納札は、白色のものが多く使われておるが、そのほかに青、赤、銀、金、錦札がある。この札の色は四国巡拝の回数によって使用できる。現在では白札―4回まで 青札―7回まで 赤―24回まで 銀―25回以上 金札―50回以上 錦札―100回以上 とされている。

◎ 納経帳
納経帳とは近年の呼弥である。江戸時代の物には「奉納四国霊場記」「四国八十八ケ所」等となっており、明治末の一本には「奉納経」となっている。遍路の帳面に墨書と朱印を頂戴するところから、昔の廻国行者の慣習から、即ち納経受け取り状である。

◎ 御影(みえい)
寺院側から出されるもので、ご本尊の絵姿を納経した方に渡される。こうした形が一般化したのは大正3年の八十八ケ所開創1100年紀年から札所がそろって出したと思われる。

◎ 三衣袋(さんねぶくろ・さんやぶくろ)
般的には頭陀袋(ずだぶくろ)の名で知られている。頭陀袋とは修行者が首に掛けて物を入れる袋であり、一般的には白色の物であり、袈裟、念珠、線香、蝋燭など巡拝に関するものを入れる。

利益と功徳

 「利益」とは「りやく」と読み、梵語では「アルタ」あるいは「ヒタ」といい、仏や菩薩の慈悲によってもたらされる、あるいは修行の結果として得られる福利のことをいう。つまり何らかの形、又は事象を伴った「宗教的な利得」とでもいいだろう。
 利益には現世で得られる「現世利益」と来世で得られる「後世利益」の二つがある。通常「神仏のご利益」と言った場合は前者をいう。一方「功徳」という言葉がある。梵語で「グナ」(回向)又は「ぷんや」(福徳)の訳語と言われ、善行を修めることによって具わる徳性をいう。つまり「宗教的不思議な力」とでもいおうか。
 功徳にも二通りある。一つは「仏や菩薩が具えている功徳」もう一つは「衆生が積む功徳」である。前者は、仏菩薩が持つ御利益をもたらす力、言い換えれば「慈悲」のことである。一方後者は「修行」と言ってよい。
 死者の供養の為の仏事や、善行を修めるといった何らかの宗教的活動はすべて、御利益を得るために衆生の側から形成、蓄積する貯金みたいなものといえる。死者の成仏というのも、生者の宗教的活動の結果としてもたらされる仏菩薩の御利益である。
 御利益はあくまでも仏 菩薩の慈悲、つまり功徳の発露であり、それを望む衆生の側にも、功徳を受けるにふさわしい精進、すなわち功徳を積む必要がある。仏菩薩と衆生それぞれの功徳が相互に関係し合い、はじめて利益がもたらされるものである。