法話
 




生きる為の宗教
「新四国霊場開基に見る」

         
 北海道のお寺は、一部を除いて殆どが、明治の8年〜32年にかけて北海道開拓のため入植した屯田兵、又その方々を頼って入植した人達が、この大地に腰を据えた時、葬儀法事を司る僧侶と、その僧坊寺院の存在が必要となりそれぞれの出身地より伝により僧侶を呼び寄せた経過が有る。(東本願寺のように開拓団と共に入植した場合もあるが)僧侶を呼び寄せる為には、居着いてもらう為にある程度の住居が必要であるし、又信仰の場所としても、寺院は集落の中心でなくてはならないため市街地の中心部に立っている。本州寺院のように山に又山裾にあることは少ない。

 又本州寺院に有る、一集落が殆ど同じ宗派で檀家というかたちは皆無で、それぞれの府県からの入植である為、浄土真宗隣は真言宗と言うように一つの町内にてもバラバラである。(唯今の都市部はそうした形であるけれども。)こうした形で北海道のお寺は形作られ、整備され現代に引き継がれている。

 こうした中北海道の寺院は檀家寺ばかりとも限らない。 私の生まれ育った丸山寺は北海道としては珍しい、葬式、法事という、主に供養の為に作られたお寺とは違い、人々が生きる為にその拠り所として作られた数少ないお寺の一つである。

 丸山寺は、深川市一已(イチヤン)地区にあり、その地には屯田兵が明治28、29年に全国各地から約400戸が入植した。宗派的にいえば浄土真宗信者が多いのだが四国香川県からも多く入植した。その中で明治40年に新四国八十八ケ所霊場として開基を見る。それも市街地では無く平地の外れにある丸山という標高114m のお椀を伏せたような山を故郷のお四国に見たてて、 信仰の聖地を開基したのである。

 今では文献等でしか知るよしも無いが、開拓に従事した日々の生活は想像を絶するものが有った。屯田兵に応募し未知の大地に夢をはせて赴任した地は、昼尚暗い原生林であり、夏は薮蚊、ヒグマ等に悩まされ、手動で進められる開拓は遅々と進まなかった。又冬は住宅事情も含め今なら生きていたことが不思議なくらいの状況で、それも半年雪の中での生活である。正にそれは生死の戦いのドラマであった。

 そうした生活の中で、丸山新四国八十八ケ所霊は、開拓の鍬が入ってからわずか12年後に開基を見た。屯田史記に「原生林を切り開いていと、そこに丸山を発見する」と記されているように原野の開拓の中で、それも発起人の一人は約三ケ月かけて新霊場の魂とする為本四国八十八ケ所お砂を頂く為に歩き遍路で巡拝している。丸山を一周して山頂まで続く約2キロの参道には四国札所のご本尊の石仏が一体づつ信者の寄進によって祭られた。(後に他の新四国には見られない、それぞれのご本尊と共に大師像がセツトで祭られる。ちなみにこれは四国霊場では、本堂に付随して大師堂が設けられている為。強烈な大師信仰の現れでる。)  

 こうした開基に対してのエネルギ-は想像を絶するものがある。その当時この霊場に従事した延べ人数、日数がどれほどだったか資料は残ってはいないが、又半年雪の中となると当然開拓農作業の合間ということになる。四国出身者だけでは到底なし得なかったと思われる。正に地域を上げての大プロジェクトであったろう。先にも記したが開拓に従事した方々の出身地は全国各地であり弘法大師に縁の深い地区とは限らない。こうした人たちが力を一つにして、霊場作りに奔走した背景を考えると、一宗一派を超えた大師信仰の全国的浸透が伺えるし、何よりも自分達が生きていく為の熱い願いと弘法大師に求めた現世利益の現れであろう。

 この丸山新四国八十八ケ所は開基から想像を絶する発展を見る。丸山寺もこの霊場を守る為に誕生する。大正昭和にかけて、霊場は整備され、多くの信者を北海道全土から集めた。

 私はこの霊場の歴史を見る度、人々が生きていく為に宗教の重要性がいかに大切かを知らされる。丸山寺では霊場開基百年を記念して、本堂を丸山中腹に建てた。便利さを求める現代社会においては時代に逆行するが、この霊場を生きる糧として先人達の思いと信仰の大切さ、開拓時を忘れた現代人に継承する為にも。
                   (平成15年9月 在家仏教協会 依頼原稿から)