仏さまの教え
 


生きる為の教え

この世は「苦」だとの教えは、お釈迦さまの教えです。

私たちは生きるために多くの苦しみを抱えて日々生活しているのが現実です。その悩みの中には我々の愛情、努力、協力などで解決できるものが有りますが、そうした努力でどうすることも出来ない問題が多く有ることも事実です。そこに登場してくるのが仏さまの教えであり、救いです。このペ−ジは皆さんと一緒に考えてみましょう。
まず仏教ではこの世界や人生をどのように考えているかと言うと、次の「三法印(さんほういん)」三つの基本原理があります。
諸行無常−すべてのものは変化しつづけており常なるものは存在しない。
諸法無我−すべてのものは因縁により生じたもので、実体はなく、永遠に変わらないものはない。
涅槃寂静−煩悩を滅した涅槃(悟りの境地)は安らかである。

 つまり仏教とは、すべてのものは変化し、実体がないのに、何時までも変わらないとして、執着するから苦悩が生まれる。苦悩は無知や欲望が原因であることに気づき、その無知や欲望を断ち切る教えが基本的な教えとなっています。

お釈迦さまが教えを説かれた教説は四諦, 12因縁の説です。
四諦(したい)とは4つの真理という意味で、苦諦、集諦、滅諦、道諦です。

苦諦-仏教の基本の教えは、生きることは「苦」であるという事から入ります。その基本は4苦です。四苦とは「生、老、病、死」の4つです。

生−人間は生まれて来ること自体が苦です。苦だと決められたこの世に生まれたのですからそれ自体が苦と言うことになります。
老−私たちは生きている以上1日1日老いに向かい歩み続けます。老いが進むと体が弱くなり、すべてに元気がなくなります。それは苦です。
病−生きているとどうしても病気にかかります。病気はいやなもので苦しみを伴います。病苦と言います。
死−我々は生まれてきた以上いずれ死にます。死と言うことは苦しにを伴いますし、我々は死ぬために生まれてきたといえるでしょう。
もう4つの苦しみがあります。これは人間の心が受ける苦しみです。

愛別離苦(あいべつりく)−愛する者と別かれる苦しみがあります。生き別れも死別も有ります。 
怨憎会苦(おんぞうえく)−嫌な人、憎たらしい人と否応なしに会わなければならない苦しみです。
求不得苦(ぐふとつく)−ほしいものが手に入らない苦しみです。
五蘊盛苦(ごうんせいく)-我々の肉体感情があるばかりに、あらゆる感情に悩まされます。肉体のかもしだすものを五蘊、五陰(ごおん)といいます。

先の4苦とこの4つを加えて「四苦八苦」といいます。我々の持ってる悩み苦しみは、すべてこの世に生まれてきた我々の四苦八苦から生まれてきます。

集諦-苦しみの原因は欲望です。集とは原因という意味です。欲望には欲愛、有愛、無有愛の3つに分けられます。
欲愛とは人間の心の中に燃える激しい欲望。
有愛とは我々が燃える愛欲や権力欲を持たずとも、死は苦しみです。死を苦しみとさせるような存在したいという思う欲望、存在に執着する欲望です。
無有愛とは存在したくない欲望、非存在に執着する欲望です。

滅諦−苦悩の原因が欲望に有るとすれば、それを滅ぼさなくてはならない。これが滅諦です。
 つまり苦諦、集諦は病気の診断ですが滅諦、道諦は病気の治療なのです。
 人生とは苦悩であり、苦悩の原因が欲望で有るとすれば、欲望を滅ぼせばその結果苦悩もなくなる。ここで欲望が苦悩の原因で有るという因果律と、欲望の滅が苦の滅であるという2つの因果律が有ります。この因果律が複雑化して12因縁となります。要するに無明、すなわち欲望に曇らされた心が苦悩の原因です。
 無明は無知と別です。無知は唯知らないのです。無明は知っていてもどうにもならない事もある心の暗さを言います。知っていても、地獄に入っていかざるえないほど愛欲にまみれた心の闇は暗いのです。

道諦−深い欲望を滅ぼすには正しい方法が必要です。この方法を教えるのが道諦です。
 八正道(はっしょうどう)−八つの正しい欲望の滅ぼし方が有ります。正見(正しい見解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正行(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思慮)、正定(正しい瞑想)はじめの3つが知恵で、次の三つが戒律で、後の二つが瞑そうに当たります。
 この三つを戒定恵(かいじょうえ)といって、仏教生活の三つの基本条件とするのです。要するに知恵を磨き、行いを慎み、心を清めることにより欲望を滅ぼすのです。
縁起の理法

 いかなるものも独立して存在しているものはない。常に他のものと関係しあっている。そして条件次第で変わり続けていく。こうした考えを「縁起」とよぶのです。縁起とは「縁(よ)っつて起こる(依存して現象する」と言う意味です。「これがあるとき、それがある。これが生じる時、それが生じる。これがないとき、それがない。これが滅するとき、それが滅する」という意味です。
 原因を「因」条件を「縁」といい、あらゆる物事は、因と縁によって結果として成立しているのです。人生が苦である事の原因を縁起により考えると、結局無明(無知 迷い)と言うことになります。人は無知であるが故に迷い、迷うから物事に対して愛憎の念をもち、物事に対して執着する。執着するが故に苦しむのです。
 縁起の理法とは、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼり、苦しみの根源を無明とし、それを滅する事で人生の苦しみの解消を目指すのです。


死後の世界(六道輪廻の世界) 


死出の旅路

死後の世界 古代インドでは、人間の体の中には64の(マルマン)があり、その1つが何かの拍子に切断されると激しい痛みがおこり、人間は死ぬと思われていた。このマルマンの音写が「末魔」です。そこから人間の死に際を「断末魔」と言うようになりました。 
さてその「断末魔」の後に、私達は現世に別れを告げて、別の世界に入っていくわけですが、この別の世界とは、又来世への行き先を決める世界です。私達はこの現世で悪いことをしると地獄に堕ちて、善いことをすれば天界に生まれることが出来ます。これが仏教の基本原理であり、このことを「因果応報」と呼びます。 
したがって私達は死後に6つの世界のどの世界に転生するかを、この「因果応報」の基本原理によって決定しなければなりません。現代風に言えば死後に裁判が必要となりなす。 
この裁判を受ける世界を中陰の世界といいます。現世と来世の中間だから中であり、現世の陽に対して死後の世界は幽冥なので、陰というわけです。 
その裁判に必要な期間が49日法事でおなじみの日数で、その間のことを「冥途の旅」と言い表しています。ちなみに冥途とは「冥土」とも書きますが要するにこの冥界は死者が住み着く場所でなく、ただそこを通過するだけの土地であるため「冥途」という書き方がふさわしいと思います。 
ともあれこの冥途の旅は山路から始まります。山路とは、大きな山裾の路です。この山は死者の出発点となる山ですから「死での山」と名付けられていいます。 
この「死での山」は長さが800里(3200km)高さは不明。峻険な山脈であり、これを7日間にたって、星の光だけを頼りに死者はとぼとぼと一人で歩いて行く事になります。 
さて、死者はこの冥途の旅の間、すなわち中陰の期間はどのような姿をしているのかというと、きわめて微細な体をしており、我々には見えなく、そして香を食物としております。そこから「食香」と呼ばれ、死者の為に線香を絶やしてはならないと言われる根拠になっておるのです。 
死者はこうして死での旅をスタ−トし、山路をとぼとぼ歩いていくうちに、7日間が過ぎます。そして来世の行き先を裁く裁判が始まります。 
仏教では、誰もが守らなくてはならない五戒があります。
それは1−不殺生戒(みだりに生物の命を奪わない) 2−不偸盗戒(盗んではならない) 3−不邪淫戒(男女間にみだらであってはならない)4−不妄語戒(嘘をつかない) 5−不飲酒戒(酒を飲まない)の5つです。冥途の法廷では、これらのことに対して調べられます。 
この裁判は、計7回、したがって裁判官も7人となります。
その裁判官、又それぞれ死者を教え導き、守護して下さる、仏様とは
1. 初七日−秦広王(しんこうおう) 不動明王  
2. 二七日−初江王(しょうこうおう) 釈迦如来
3. 三七日−宋帝王(そうていおう) 文殊菩薩
4. 四七日−五官王(ごかんおう) 普賢菩薩
5. 五七日−閻魔王(えんまおう) 地蔵菩薩
6. 六七日−変成王(へんじょうおう) 弥勒菩薩
7. 七七日−泰山王(たいさんおう) 薬師如来   の7人です

初七日−秦広王(しんこうおう)
山道を歩いていると7日目お迎えました。ここで死者は最初の審判秦広王の法廷に立つことになります。秦広王が死者に問うのは、「おまえは生前、殺生をしていないか」ということです。我々はどんな虫であれ、殺生していることを認め、他に良いことをしていることを弁明すれば、「あと7日の猶予をやろう。7日後に初江王のところへいけ」ということになります。

「三途の川」
死者は秦広王の法廷を過ぎると、あの有名な三途の川にさしかかります。小さい川ではなく、冥界をとうとうと横切って流れる大河です。そして冥途の旅をする者は、誰でもこの「三途の川」を渡らなければならないのです。
「三途の川」の名の由来は「この川の向こう岸に渡るのに、三通りの途(みち)が有った」と言うところからきています。そして渡るところに三つ有る。一つには橋が架かっている。しかしこの橋を渡れるのは善人だけです。それ以外の悪人達は、川のなかに入らなくてはならないのです。しかもその悪人には二段階があって、比較的罪の軽い人は浅瀬、重罪の人は濁流を渡らなくてはならないのです。つまりここにも「因果応報」という仏教の基本原理が貫かれているわけです。
さてこの「三途の川」の渡し賃が6文  死者を荼毘に付す時に、お棺の中に1文銭を6枚入れてやる習慣がうまれたのはこのためです。「地獄の沙汰も金次第」とはおそらくこんなところから生まれた諺でしょう。

「賽の河原」
「三途の川」のほとりに河原が有ります。それが「賽の河原」です。そしてそこでは大勢の子供達が一生懸命河原の小石を積んで塔を作っています。幼くしてなくなった子供たちは、生前功徳を積む時間が無く、仏教の教えを聞く前に冥界に来てしまったので、慚愧(ざんぎ)の念にさいなまれて、塔を作って功徳を積んでいるのです。
幼い子が塔を作り上げたとたんに、鬼が現れ鉄棒で壊してしまいます。恐ろしさのあまり逃げ惑う子供たちに向かい、鬼が「何を泣くのだ。これはみなお前たちが犯した罪ではないか。自分を恨め、お前のために何もしてくれない父母を恨め」というのです。
仏教の教理から言えば、子供たちの罪は重いのです。親に先立つ死とは、罪なのです。親に悲しみの涙を流させるために三途の川を渡らしてもらえないのです。

「衣領樹」
「三途の川」を渡たりきると、その岸に「衣領樹(えりょうじゅ)」という木が1本有ります。その木の下で2人の爺婆が死者を待ち受けています。懸衣嫗(けんぬう)は又俗に「脱衣婆」と呼ばれ、冥土の旅人から衣類を剥ぎ取ることが役目です。そして、脱がされた衣服は、懸衣翁(けんぬおう)に渡さ衣領樹の枝にかけられます。この樹は衣の持ち主が生前に犯した罪の軽重により、しなる度合いが変わる特殊な樹なのです。そのデ−タがその後の裁判の証拠になるわけです。

二七日−初江王(しょうこうおう)
この法廷は「三途の川」渡ったところにあり、すでに初江王の元には秦広王からの報告や衣領樹の枝のしなり具合のデ−タが届いていますから、それを参考にして裁判を行います。
この法廷では、主に死者の殺生の行為が裁かれます。仏教では無益に生き物の命を奪う事が最大の罪悪とされているからです。

三七日−宋帝王(そうていおう)
この法廷では、宋帝王が、ネコとヘビを使って死者の邪淫の罪を裁きます。この件に対しては、何故か、互いに返事を濁らせてしまいます。そうして、あれこれと返答を濁らせていると、ネコとヘビにより嘘が露見するという仕組みになっておるのです。 .

四七日−五官王(ごかんおう)
ここには死者の生前の言動における悪を一瞬にして、はかる魔法の秤が置かれています。
死者はこの秤にいやおうなく乗せられ、来世の行き先が即座に表示される仕掛けになっています。そして地獄行きを宣告された多くの死者は、ひたすら五官王に懇願してあと7日の猶予をこうのです。今で言う、死刑因の再審請求と言ったところです。 .

五七日−閻魔王(えんまおう)
かの有名な閻魔王が死者を裁くところです。この閻閻魔王魔庁には、高性能な浄波璃(じょうはり)という水晶で出来た鏡があり、死者の生前の悪行がすべて映し出される仕組みになっています。なんせ閻魔王が相手ですから、嘘をつくと舌を抜かれます。ところが閻魔王は意外と優しいのです。「あなたは地獄に堕ちても仕方ないが、あなたのために遺族が追善供養をしてくれるかもしれないから、もう少し待ってあげよう。」と優しく語りかけてくることが意外に多いのです。 .

六七日−変成王(へんじょうおう)
ここでは、秤を使って裁きを行った、五官王と鏡を使って裁いた閻魔王の報告にもとずき、審査が行われるのです。念には念を入れるということです。

七七日−泰山王(たいさんおう)
いよいよ最後の四十九日目です。ここでついに泰山王による最終決定が下されます。
もっとも最終判決といっても、七人の裁判官のうち誰一人として、死者に極刑を科したくないと思っているからです。裁判官といえ彼らは仏の世界の幹部なのです。当然人一倍慈悲深いのです。それで、七人が七人とて、死者の哀願に便乗して、順送りしてきたのです。
泰山王にしても、その点では同様です。やはり最後の決を出したくなく、次のような決着をつけることにしました。
まず死者に六つの鳥居を示します。それぞれの鳥居の向こうには六つの世界(六道輪廻の世界)が広がっています。ただどの鳥居どの世界に通じているかは、明らかにされていません。死者に選択させようというわけです。
死者は迷いながら、仕方なく、どれかを選びます。冥途は最終の地ではなく、通過の地にすぎないからです。そして選んだ先がその人の輪廻先となります。
こういうやり方はおかしいと思う方もおるでしょうが、これには、きわめて仏法にかなった合理性があるのです。
6つの鳥居のうちどれを選ぶかは、その選択眼こそその人が生前に培った業の結果に他ならないのです。
「業とは生前の行為には必ずその報いがくる。そしてそこからは誰も逃げられない。」という仏教の大原理です。その業の論理が、死者がどの鳥居をくぐるかという一点にまで貫徹されています。
こういうふうにして死者の行き先(輪廻先)は決まります。ここまでが中陰の世界です。
そしてその後は「来世」となります。
来世の世界

私達が亡くなると、来世の世界は六道輪廻(ろくどうりんね)の世界です。六道とは、苦しみの多い順にあげると、地獄 餓鬼 畜生 阿修羅 人間 天の世界です。
たとえ地獄に堕ちた者でも、それが永遠のすみかにならず、いつかは釈放されます。いつぽう、天界に生まれても、やはり永遠の快楽が約束されているわけではありません。天人とはいえ、いつかは死に中陰を過ぎれば六道のいずれかに生まれ変わります。そのときどこに生まれるかは、生前の行為によります。「因果応報」の論理に貫かれているのです。
中陰を満たした死者は、新たな世界に生まれ変わります。つまり霊魂が転生するのです。しかし、そこでも又生き終え、死者となって、そして又生まれ変わる、という流れを繰り返していきます。まるで車の輪のように、ぐるぐると回り無限に再生していくことから、「輪廻」といい、転生と合わせて「輪廻転生」と言います。
人間は、前世の行為に必ずその報いがくる、そこからは誰もがのがれられないという業を持って生まれそして生きています。「自業自得」「業果の必然性」が鉄則なのです。
自らの行為の果報は、必ず自分に現れ、今世でなければ来世、あるいはその後の生に現れます。善因善果 .悪因悪果の因果応報と言うことです。そして、その結果によって次の世で、六道のどれかに生まれ変わるのです。

地獄道  
六道のうち、もっとも苦しい世界が、地獄道です。 
地獄は私達が住む大陸の地下にあります。(地下5万キロメ−トル)そして入り口から順に等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄と8つの地獄が重なっています。総称して八大熱地獄と言いますが、黒縄地獄の苦しみは、等活地獄の10倍、衆合地獄は黒縄地獄の10倍というように、10倍ずつ増していき、最後の阿鼻地獄地獄だけは大焦熱地獄の1000倍になります。 
これらはそれぞれ特徴がありますが、共通しているのは、非常に蒸し暑く、地獄の業火が燃え盛っていることです。獄卒(ごくそつ)といわれる鬼たちが棲んでいて、罪人を責め、苦しめ続けます。 
ちなみに等活地獄の1日は私たちの時間で9百万年にあたります。黒縄地獄の1日は3600万年と長さはそれぞれ4倍ずつ増え、更に刑期は8倍ずつ増えていきます。等活地獄の罪人の刑期は500年ですからこちらの時間に換算すると1兆6200億年です。想像も出来ない時間です。 
八大地獄には1つの地獄に16の副地獄があり、地獄全体では128の地獄があるということになります。

餓鬼道
地獄に次いで苦しみの多い世界は、餓鬼道です。餓鬼道とは、簡単にいえば、ほしいものが手に入らない、という苦痛にさいなまれ続ける世界です。人間にとって一番ほしいものは、命を繋ぐための食物です。その食物を思うように手に入れることができないところから、絶えず飢餓に苦しめられる責め苦を負うわけです。
この餓鬼道は、人を妬んだり物惜しみしたり、むさぼり食ったりしたものが行くところで、常に飢えと渇きに苦しめられます。
餓鬼道は、閻魔王の支配下にあるとはいえ、地獄道でないだけに、その苦しみはまだましです。何より刑期が短くてすみます。餓鬼の世界の1日は、人間世界の1ケ月であり、餓鬼の寿命は500歳と言いますから、1500年という数字になります。地獄と比べると1億分の1以下ですみます。
餓鬼はけして地下だけにいるのではなく、人道 天界に棲むものもいます。
餓鬼はある仏典によると三つに分類されています。
無財餓鬼 小財餓鬼 多財餓鬼です。特に多財餓鬼は人間界 天界にも棲み、満足ということを知らず、欲求不満を抱え続け、苦しい続けます。

畜生道
「人間以外の生物」を意味する仏教用語です。畜生といえば普通は牛、馬などの哺乳動物を想像しますが、仏典によると34種類の畜生がいるとされます。大別すると、鳥類 獣類 虫類の3つになるのですが」、竜のような空想の生物も含まれています。
この畜生の世界は、餓鬼の世界が貧の世界に対して、癡(おろか)の世界です。
畜生の世界はおろかで、暗く、そして不安の世界です。強弱たがいに危害を加え、昼夜、恐怖心に悩まされ続ける世界です。陰気なうめきの世界です。
仏教は、キリスト教等とは違い動物の中にも人間と同じ苦しみを見ます。

阿修羅  
阿修羅とは、もともとインドの鬼神の一種で、「アスラ」という神の名を、音写したものです。 
阿修羅の世界は陽気な争いの世界です。 
阿修羅には1人の娘がいました。彼はその娘を帝釈天に嫁がせようとします。しかし帝釈天は力ずくで阿修羅の娘を奪ってしまいます。好意が無視され、誇りを傷つけられ、娘を奪われた阿修羅は帝釈天を相手に戦います。しかし相手は世界の王。戦いは何時も阿修羅に不利ですが、絶望的な反抗を繰り返すのです。
阿修羅の中には傷つけられた、誇りがあります。その誇りという点において、それは地獄 餓鬼 畜生の三悪道三途の世界より上です。 

人間
人間には三つの相で考えます。不浄の相、苦の相、無常の相です。
不浄の相-人間の体というものはきたない。死を迎えると朽ち果て見る影も無い。
苦の相-原始仏教以来、仏教の人間観の中心です。我々は何時も目の前で見て、自覚しているから、ことさら説くこともないでしょう。
無常の相-人の生命は山から落ちる水よりも早くてとどまらない。今日生きているといって、どうして明日を約束できるでしょうか。生命ははかなく無常です。


天の世界は感覚的な喜びが満たされた世界です。
しかし天人の五衰といって、やがてこの快楽の国から別れなければなりません。このとき、かつて味わった快楽が強すぎれば強すぎるほど、苦しみは大きいのです。喜びの量だけ苦しみは多いのです。

六道すなわち、我々の住むこの6つの世界は、全体として否定の世界、結局苦の世界であり、不浄の世界です。地獄もどこか遠いところにあるわけでなく、我々の住んでいる土地の下に実在している訳です。
我々の住む世界は、永遠に苦の世界であり、苦の世界を観照し、この苦の世界からの脱却することが、さとりに至る道なのです。
だから早くこの苦しい、きたない世界
を逃れ、楽な世界を願おうとするのです。
仏の浄土

仏様の浄土とは、それぞれの仏様が、自分の仏国土、浄土を持つています。
阿弥陀如来は西方「極楽浄土」 薬師如来の東方「浄瑠璃世界(じょうるりせかい)」 観音菩薩「ふだらく浄土」  弥勒菩薩 「兜卒浄土(とそつ)」 大日如来「密厳国土」などです。
浄土とは、感覚的な喜びと精神的な楽しさに満ちた世界であり、苦悩の無い世界です。   

参考資料  ひろさちや著 {仏教「死後の世界」入門}{現代人の為の仏教の知識百貨}      
梅原 猛著  {地獄の思想}  玄侑宗久箸 {死んだらどうなるの?} 
望月 佐和 梅原著 {仏像 -心とかたち-}養老孟司箸 {死の壁}等

六波羅蜜とは



菩薩とは
大乗の主役である菩薩とは
 1−覚れる有情(釈尊を指す)
 2−覚りを求める有情(一切衆生は悉く仏性を有し、本来仏である)  私達はすべて成仏の可能性を具えている仏陀の候補者。従って菩薩の修行道としての六波羅蜜を行じていけば当然成仏は約束さえている。ただひたすら成仏を確信して、上は菩提(覚り)を求め、下は衆生を化益することに精進している現在の私達を含みます。
 3−覚りを他に与え、又覚らしめる有情 (利他誓願の菩薩を意味する)菩薩の中には、仏の前身としての菩薩もあれば、逆に仏が化他の為に姿を変えられた菩薩もあります。仏、菩薩はそれぞれ衆生救済のため、数々の願を立て、ありのままにこれを行じているのです菩薩とは徹頭徹尾利他を優先するものです。

六波羅蜜とは
仏さまのみ教えを守って覚りの境地に到達し、平安な人生を生きるために日々修行することを六波羅蜜又は六度といいます。 波羅蜜の由来  paraは迷いのこの岸に対して反対の岸で、涅槃の理想郷であり最勝究境の地、最高絶対の世界を指します。paramita(彼岸に往つた)  param(彼岸に)+ ita(往った) 「彼岸に到達した状態」と理解して宜しいでしょう。菩薩という言葉が現れたのは紀元前1世紀前半ころとされています。菩薩を中心に大乗の教えが急速に発展していきます。大乗の特徴は利他に徹する事により衆生を救済という事を主に偉大な宗教に拡大していきます。大乗菩薩の修行道として、実践徳目が求められるようになり、般若系教典の成立により六波羅蜜が定着するようになりました。此岸から彼岸へ、すなわち悟りの世界へ到るための、仏としての行ないの形をと言いますがそれは    
 1、布 施(ふせ)茶.水 財施(財を施すこと)・法施(真理を教えること)・                                   無畏施(恐怖を取り除き安心を与えること)の三種  
 2、持 戒(じかい) 塗香    戒律を守ること。  
 3、忍 辱(にんにく)花    苦しさに耐えること。 
 4、精 進(しょうじん)線香  常に仏道を修するための努力をすること。  
 5、禅 定(ぜんじょう)仏飯  こころを安定させること。  
 6、智 慧(ちえ)灯明     真理を見抜く力を身につけること。

 ★布 施− 自らが喜んで人に施しをすること。布施とは相手を助けるための行為ではなく、自分の心の為にやるのです。道徳と違い結果がなくても良いのです。
 無財の七施 1−(優しい眼差しの施し)2−(和やかな顔と微笑みの施し)3−(あたたかい言葉の施し)4−身施(自分の力の施し)5−心施(慈愛のこもった心の施し)6−(自分の座席を他人に譲る施し)7−(掃除した住居を多くの人に開放する施し)

★持 戒−戒律を守れない自分の弱さを知ること。自分の弱さを知ることで、同時に他人の弱さを知るわけです。
★忍 辱−お互いの迷惑を堪え忍び、許す心を持つこと。自分は人に迷惑をかけている弱い人間だ、私の弱さを許してもらっている、だから人の弱さも許す。その心の有りようが「忍辱」というのです。
★精 進−想うがままにならない努力はしないということに気付くこと。世間では精進とは努力する(頑張る)ことですが、それは執着することです。世間の物差しに振り回される努力をするなということです。
★禅 定−ゆったりとした気持ちで精神の解放を味わうこと。インドでは禅定のことをヨ−ガといいます。暑い中でしゃかりきになるとよけい暑くなりますから、ボケ−とする技術が発達したのです。無念無想つまり何も考えないことです。
★智 慧−物事をあるがままに見る、という心を持つこと。普段の智慧は損得の智慧です。仏様の智慧とは誰でもが持っているのですが普段眠っている智慧で、物事をあるがままに見る、という心を持つことです。
六種供養
 六波羅蜜の徳を表しているのが、仏前に日々供養を捧げる、六種供養です。
 仏様に供養する六種はそのまま仏様の6つの徳を表しています。それはそのまま私達の人格を完成するために必要な6つの徳ということです。すなわち、仏前に6つの供物をお供えしますと、その供物をとおして仏様は私達に6つの徳を説法されるということです。
 花は四季折々の花を供え、寒さ暑さに耐えて美しい花を咲かせるところから、苦しいことに堪え忍ぶ事を教えて下さるのです。ですから花の表(美しい面)を前向きに供えるのもそのためです。
 お灯明をお供えすることは、仏様の智慧の徳を得ることであり、私達は無限に絶えない欲心を持っておりそれ故間違った行動をしてしまいます。闇夜を歩くとき足下を照らす明かりが必要なように、私達にも人生を歩むために仏様の導きの光が必要です。ですから灯明は仏様の智慧の徳を明かるさで表し「智慧の灯明」というのです。
 お茶や水を供えることは布施の徳。塗香を供えて仏様の身体を清めて頂くのが持戒の徳。線香を供えるのは仏道に精進する徳。仏飯を供えるのは禅定の徳。仏様に供養する六種はそのまま仏様の六つの徳を表しています。それは私達が人格を完成するための必要な六つの徳ということです。


仏教の中の密教
仏教のおこり
原始仏教教団から部派仏教へ


仏陀入滅直後ラ−ジャガハ(王舎城)に五百人の違弟が集まり、仏陀の残した教法と律(教団内の罰則規定)についてそれぞれの記憶を確かめ合いました。これを「第一結集」といいます。次いで仏陀滅後百年頃に七百人の比丘がブエ−サ−リ−に集まり「第2結集」行いました。この時戒律の緩和と、厳守を主張する比丘との間に対立が生じ、進歩的な大衆部と保守的な上座部の二部に分裂します。そして両部とも更に枝分裂を起こしおよそ2〜3世紀の間に18〜20部に及ぶ部派が結成されました。タイ、ビルマ、スリランカなど南方に伝わった仏教は上座部系統の仏教とされます。

大乗仏教のおこり



部派仏教と並んで、紀元前の頃に新たにおこったのが大乗仏教です。出家者を中心とする部派仏教は、煩悩を絶って自己の解脱を得ることを修行の目的とする自利的、学問的僧院仏教でした。これに対して、他を救うことにより自ら救われる利他行を強調し、慈悲の精神を説く大乗仏教は、もともと在家の信徒を中心としておこった仏塔信仰に起因します。この信仰供養を中心とする仏教は、出家者という限られた人々だけでなく、大衆の救いを目的とする宗教でもありました。 その後新たな聖典文学を生み出しました。これが大乗教典です。代表的初期の教典には「般若経」「法華経」「華厳経」「浄土教典」などがあります。

密教のおこり


密教すなわち秘密仏教は、6世紀頃よりインド仏教史の最後に登場します。大乗仏教思想発展の必然的帰結として生まれてきました。インド密教はその後も8世紀中期に東インドに出現したパ−ラ王朝の保護の元に、4世紀以上に亘り存続しました。12世紀末パ−ラ王朝はイスラム教徒の侵入により滅亡します。
「大日経」「金剛頂経」といった本格的な密教教典が成立するのは7世紀に入ってからですが、それ以前に大乗教典のなかに密教的な事象が説かれるようになります。大乗教典なかに混在する密教を、我が国では雑密(雑部密教)と称し、「大日経」「金剛頂経」に代表される密教を純密(純粋密教)と呼んでこれを区別します。
密教の時代を6世紀〜11世紀といいますが、およそ6〜8世紀の密教が中国に反映し、その後日本密教として開花します。又9〜11世紀ぐらいの密教がチベット密教に反映します。同じ密教でもその様相は大きく違います。善無畏は「大日経」を持参して716年、一方金剛智は「金剛頂経」を持参して719年海路より長安に入ります。両師は教典の翻訳事業に奔走します。この2つの流れは恵果に伝わり、そして空海に伝わり日本に伝わります。

顕教とは

「あきらか」「あらわ」の教えです。宇宙の真理をお釈迦さまという人格をと通して、私達に分かるように教えて下さるのです。 密教は私達には、その教えが明らかにされていない。あらわになっていないからです。秘密には
「如来秘密」−大日如来の悟りの世界が、なにも介さずダイレクトに表現されるので、私達には分からない、秘密に見えるのです。
「衆生秘密」−私達は仏の悟りを自分に秘めて持っています。ただそれに気づいていないのです。その為に宇宙仏の教えが「秘密に」に感じられるのです。